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あなたを想うことも、春の雨と一緒に流れて
あなたを想うことも、春の雨と一緒に流れて
Author: 小雨

第1話

Author: 小雨
「病院でそんな格好……兄さんを困らせる気?」

婦人科の診察室で、春坂朝菜(はるさか あさな)はお腹をそっと撫でながら座っていた。

スマホからは、夫と義妹の声がはっきりと聞こえてくる――

結婚して三年。なかなか授からなかった命。

やっと、やっと宿った愛しい我が子のことを、早く春坂征史(はるさか まさふみ)に伝えたくて――

でも、耳に飛び込んできたのは、現実を疑いたくなるような、淫らな音声だった。

女の子の声が続く。わざとらしく、ベルトのバックルをカチリと鳴らして。

「でも兄さん、姉さんは今、階下で妊娠検査中なんでしょ?今こんなことして、バレたらどうするの?」

男のくぐもった笑い声が応えた。

「俺はここの主治医だ。それにお前は心臓病持ちだろ。朝菜が見たって、まさか疑うはずないさ。

さ、手で助けてくれ」

ふたりの荒い呼吸音が、耳元で生々しく響いた。

朝菜の全身から血の気が引いていく。

本当に……征史なの?

しかも相手は、彼の義妹、神崎句美子(かんざき くみこ)?

ガクガクと震える指先。

現実を否定したくても、携帯から聞こえる声は、さらに朝菜を突き落とす。

「兄さんなんてウソつき、口では姉さんが好きって言いながら、身体は私を離してくれないくせに」

征史は手を止めることもなく、気だるげに答えた。

「ベッドの上の腕前なら、朝菜よりお前のほうが上だよ」

「だったら、彼女と離婚して、私と結婚してよ」

句美子が甘えるように囁く。

「姉さんは体が弱くて、もしかしたら子どもが産めないかもしれないけど……私は若いし、元々は兄さんの許婚だったんだよ?」

その瞬間、征史の声色が一変した。

低く、重く、真剣に。

「句美子、くだらないことを考えるな。俺が一生守りたいのは、朝菜だけだ。子供がいようがいまいが、あいつだけは裏切らない」

「今回だけは、朝菜に赤ちゃんができたから……俺も流石に、傷つけたくないんだ。

だから朝菜が無事に出産したら、お前は国外に行け。そしたらまた、俺は朝菜のもとに戻る」

「でも、私は兄さんの妹なんだよ?そんなの……」

句美子の不安げな声を、征史は気怠げに遮った。

「妹?血なんて繋がってないだろ」

「むしろ……スリルがあって、いいと思わないか?」

彼の声は甘く、水のように柔らかかった。

「余計なこと考えるな。朝菜が検査を終えるまで、もう一回……違う姿勢で楽しもう」

朝菜はふらふらと、まるで魂が抜けたみたいに診療所を出た。

誰かが、首をぎゅっと絞めているような息苦しさ。

――征史は、二十三年も自分を愛してくれたはずだった。

七歳の時、流れ星に誓ってくれた。

「絶対に、一生守る」って。

十七歳の時、借金取りに追われた自分を、身を挺して庇ってくれた。

ナイフで刺され、重症で運ばれた彼の姿。

父親の作った莫大な借金を返すため、まだ治りきらない体で、裏社会の賭博場に命を懸けて飛び込んだ。

九死に一生を得た、あの日。

二十二歳、珍しい病気にかかった自分を救うため、医学博士に挑み、寝食を忘れて研究に没頭してくれた。

二十七歳、世界中に生中継された、誰もが羨む最高の結婚式。

征史の愛は、いつだって堂々としていた。

なのに――

どうして、どうしてこんなふうに変わってしまったの……?

携帯が、また震えた。

朝菜はぼんやりと受話ボタンを押す。

「朝菜、今ちょっと急な用事ができちゃってさ。

3号駐車場の5番スペースで待っててくれないか?」

征史の優しい声。

けれど、朝菜は答えなかった。

返事どころか、止めようのない涙が、次から次へと頬を伝い落ちた。

朝菜は必死に顔をぬぐった。

けれど、拭っても拭っても、涙はあとからあとからあふれてきた。

征史は、彼女が黙ったままでいるのに焦ったようだ。

「朝菜、泣いてるのか?何があったんだ……?」

その声を、朝菜は無言で遮った。

無慈悲に、通話を切った。

ぼんやりと、どれくらい歩いたのか分からない。

世界がぐらぐらと揺れて、ついには意識が飛びそうになる。

「朝菜!」

誰かの叫び声。

そして、ふわりと支えられた。

見上げた先にいたのは――征史だった。

彼は背後にある長い階段を見て、顔面蒼白になっていた。

「……今、ほんの少しでも転んでたら、大変なことになってた。朝菜、無事でよかった。本当によかった……」

震える手で、征史は彼女の涙を拭った。

その目には、確かに愛情があった。

なのに。

――どうして、その心を他の誰かにも分けてしまえるの?

朝菜の胸が、痛くてたまらなかった。

征史は優しく彼女を抱き上げ、車に乗せた。

そして、そっと髪をかき上げながら、スープジャーを取り出した。

「道中お腹が空くといけないから……俺が作った、スペアリブスープだ。まだ温かいよ」

言葉通り、彼は丁寧にスプーンで少しずつすくい、朝菜に食べさせた。

時々、くだらないジョークを挟んで笑わせようとするその目には、惜しみない愛情が宿っていた。

耐えきれず、朝菜はそっと尋ねた。

「征史……何か、私に言いたいことはないの?」

征史は微笑み、彼女の鼻先をくすぐった。

「朝菜が、ずっと平和で、幸せでいられますように」

そう言って、彼は朝菜の指先にそっと口づけた。

そして耳を寄せて、お腹の中の命の気配に耳をすました。

「……ねえ、どっちが先に言うと思う?『パパ』って?それとも『ママ』?」

ぴんぽん。

征史のスマホが鳴った。

彼はチラリと画面を覗き見ると、表情をわずかに曇らせた。

黒曜石のような瞳の奥に、見えない欲望が渦巻く。

朝菜には分かった。

――きっと句美子からだ。

征史は何かを短く打ち込み、すぐに画面を消した。

そして、少しかすれた声で言った。

「朝菜、ごめん。急患が運ばれてきた。俺、病院に戻らないと」

朝菜は、黙って彼を見つめた。

心のどこかで、たった一言でもいい、何か説明してほしかった。

けれど、征史はただ彼女をそっと抱きしめただけだった。

「人の命がかかってる……朝菜には寂しい思いをさせてごめん。帰ったら、ちゃんと埋め合わせするから……君と、子どもにも」

彼は運転手を手配したことを伝え、急ぐようにその場を後にした。

征史が去ったその直後。

朝菜のスマホにも、メッセージが届いた。

【兄さん、水に何か入れた?すごく熱くて、もう我慢できない……】

添付されていた写真に、朝菜の指先が震えた。

そこには、ピンクの超ミニセーラー服をまとった句美子の姿。

白く柔らかな肌が露わになり、潤んだ瞳でこちらを見上げている。

【さっきあんなにたっぷりもらったばかりなのに、また欲しくなっちゃった。待っててね、兄さん楽にしてあげる】

画面を閉じても、冷たい絶望感が胸に突き刺さる。

朝菜は静かに目を閉じた。

長い間、心の中で何度も問い直してきた。

それでも――

もう分かった。

彼は、自分たちの誓いを裏切った。

ならば、自分がこの場所にとどまる理由も、もうない。

朝菜はタクシーに乗り、「擬似死亡サービスセンター」へ向かった。

スタッフはにこやかに対応した。

「春坂さん、間もなく身分情報は抹消されます。擬似死亡サービス規約に基づき、七日後、あなたは『交通事故による死亡』という形で処理されます。何か異議はございますか?」

朝菜は首を横に振った。

「異議なしです」

「かしこまりました。それでは、こちらの署名欄にお名前をお願いします」

彼女は一切の迷いも見せず、スラスラと自分の名前を書き記した。

あと七日――

それだけで、すべてに別れを告げられる。
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