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あの子の春も、私たちの八年目も来なかった
あの子の春も、私たちの八年目も来なかった
Author: 小安わか

第1話

Author: 小安わか
赤ちゃんは助からなかった。

医師にそう告げられたとき、私のベッドの脇には、直哉が立っていた。

スーツにはまだ焦げたにおいが染みつき、右手の甲にはガーゼが巻かれている。

昨夜、あの手は倉橋玲奈(くらはし れな)をしっかりと抱いていた。

医師は検査結果の用紙をめくり、声を落とした。

「奥様のけがは軽くありません。今後、妊娠できる可能性は……極めて低いでしょう」

直哉の喉がかすかに動いた。

「極めて低いというのは、どのくらいなんですか?」

医師は答えなかった。

病室が静まり返る。

私は天井を見つめた。昨夜の炎が、また目の前によみがえった。

休憩室に煙が流れ込んできたとき、直哉はドアを蹴り開けて飛び込んできた。

玲奈は壁際に座り込み、足首が赤く腫れていた。

私はテーブルの縁につかまり、もう片方の手で必死にお腹を守っていた。

「直哉……」

玲奈が声を上げるなり、彼は駆け寄って彼女を抱き上げた。

ドアに近いのは、私のほうだった。

あと数歩で廊下に出られる。

直哉は私を一度だけ見た。

「紗和、先に非常口へ向かってくれ。

玲奈は足をけがしてる。外に連れていったら、すぐ迎えに戻るから」

私が妊娠していることを、彼は知っていた。

1週間前には、妊婦健診にも付き添ってくれたばかりだ。

医師は、赤ちゃんはぶどうの実くらいの大きさだと言った。

帰り道、直哉はぶどうを箱で買い、「ぶどうちゃんにも、たくさん食べさせてやらないとな」と笑った。

だから私は、「すぐ戻る」という言葉を信じた。

けれど2歩進んだところで、頭上にすさまじい音が響いた。

天井が崩れ落ち、私はその下敷きになった。

濃い煙の中、床に倒れたまま、何度も彼の名を呼んだ。

次に目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。

直哉がベッドの端に座り、私の手を握った。

「ごめん」

一睡もしていないのか、目が真っ赤だった。

「一人で出られると思ったんだ。

玲奈を医師に任せて、すぐ引き返した。でも消防隊員に止められて、中に入れなかった」

私は小さな声で尋ねた。

「もう一度同じことが起きたら?」

私の手を握る指に、急に力がこもった。

長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。

「二度と、あんなことは起こさせない」

答えにはなっていなかった。

それでも、もう分かってしまった。

直哉の携帯電話が鳴った。

彼は画面に出た名前を見て、出なかった。

2度目の着信があると、そのまま電源を切った。

「どこにも行かない。ここにいるから」

かつては、その言葉を何よりも聞きたかった。

結婚する前、母が手術を受けることになり、私は一人、会計窓口の前にしゃがみ込んで泣いていた。

直哉は私の代わりに740万円を払い、一晩中そばにいてくれた。

夜が明けると、ホットミルクを手渡してくれた。

「俺がいる。何があっても大丈夫だ」

あの頃の私にとって、彼は何があっても頼れる人だった。

けれど本当にすべてが崩れ落ちたとき。

彼が真っ先に守ったのは、私ではなかった。

突然、病室のドアが開いた。

直哉の母、久世雅子(くぜ まさこ)が険しい顔で入ってきた。

「直哉、玲奈さんがずっと泣いているの。

あの子、もともと火が怖いのよ。昔の交通事故だって、まだ心の傷になっているのに。一人にしておくなんて」

直哉は眉を寄せた。

「紗和は手術を受けたばかりだ」

「ここには看護師も医師もいるでしょう。何の心配があるの?」

雅子はちらりと私を見た。

「玲奈さんは違うわ。あなたを助けようと帰国しなければ、こんな火事に遭うこともなかったのに」

直哉はしばらく黙ったあと、立ち上がった。

そっと私の布団を掛け直す。

「少し様子を見てくる。すぐ戻るから」

私はうなずいた。

「うん」

彼はほっとした様子で、アシスタントの相原(あいはら)アキの名を口にした。

「食べたいものがあったら、アキに買ってこさせるから」

ドアが閉まってから、私はあのときの医療費の領収書を思い出した。

740万円。

黄ばんだ領収書は今も家の金庫にしまってある。そこに記された金額は、はっきりと心に刻まれていた。

弁護士の大庭(おおば)ミズキに電話をかけた。

「これまで直哉から受け取った不動産と株、それに宝石を、全部でいくらになるか調べていただけますか」

ミズキは少し戸惑ったようだった。

「奥様、資産の整理をお考えですか?」

私はもう赤ちゃんのいないお腹に触れた。

「ええ。ずいぶん長いこと借りたままでしたから。そろそろ返さないと」

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