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あの子の春も、私たちの八年目も来なかった

あの子の春も、私たちの八年目も来なかった

By:  小安わかCompleted
Language: Japanese
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京和市の名家の御曹司、久世直哉(くぜ なおや)は、忘れられない昔の恋人とけんか別れした夜、高級会員制クラブで酒を運んでいた私に、気まぐれに声をかけた。 彼は私、森川紗和(もりかわ さわ)に、豪邸も宝石も、利用限度額のないブラックカードも与えてくれた。 母の治療費さえ払えなかった貧しい娘が、誰もがうらやむ久世夫人になったのだ。 彼が私と結婚したのは、目元が少しだけ昔の恋人に似ていたからだと、誰もが言った。 初めは私も、ただ恩を返せればそれでいいと思っていた。 けれど7年の間に、人付き合いも家を切り盛りすることも覚え、彼が経営の実権を握るまでの苦しい日々を支えるうち、いつしか心まで預けていた。 やがて昔の恋人が帰国した。それでも彼は私と離婚しなかった。 彼女は久世グループで彼の片腕となり、私は久世家に残って、妻として暮らし続けた。 彼女のために結婚記念日の予定を後回しにする一方で、私が理不尽な扱いを受ければ、彼は自ら駆けつけてかばってくれた。 だから信じていた。夫婦として過ごした7年は、若い頃の恋に勝るのだと。 7度目の結婚記念日の夜、ホテルが火に包まれるまでは。 直哉は軽いけがをしただけの彼女を抱き上げ、身ごもっていた私を煙の中に残していった。 目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。 医師には、再び妊娠できる可能性は極めて低いと告げられた。 今さら目を赤くしている彼を見て、この7年がひどくばかばかしく思えた。 どん底にいた私を救ってくれた人が、今度は自分の手で私を炎の中に置き去りにした。 子どもは、もういない。恩だって、十分に返した。 私は結婚指輪を外し、離婚協議書に署名して、誰にも告げず京和市を去った。 直哉の妻は、あの火事で死んだのだ。 生き残った私は、もう彼とは関係ない。

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Chapter 1

第1話

赤ちゃんは助からなかった。

医師にそう告げられたとき、私のベッドの脇には、直哉が立っていた。

スーツにはまだ焦げたにおいが染みつき、右手の甲にはガーゼが巻かれている。

昨夜、あの手は倉橋玲奈(くらはし れな)をしっかりと抱いていた。

医師は検査結果の用紙をめくり、声を落とした。

「奥様のけがは軽くありません。今後、妊娠できる可能性は……極めて低いでしょう」

直哉の喉がかすかに動いた。

「極めて低いというのは、どのくらいなんですか?」

医師は答えなかった。

病室が静まり返る。

私は天井を見つめた。昨夜の炎が、また目の前によみがえった。

休憩室に煙が流れ込んできたとき、直哉はドアを蹴り開けて飛び込んできた。

玲奈は壁際に座り込み、足首が赤く腫れていた。

私はテーブルの縁につかまり、もう片方の手で必死にお腹を守っていた。

「直哉……」

玲奈が声を上げるなり、彼は駆け寄って彼女を抱き上げた。

ドアに近いのは、私のほうだった。

あと数歩で廊下に出られる。

直哉は私を一度だけ見た。

「紗和、先に非常口へ向かってくれ。

玲奈は足をけがしてる。外に連れていったら、すぐ迎えに戻るから」

私が妊娠していることを、彼は知っていた。

1週間前には、妊婦健診にも付き添ってくれたばかりだ。

医師は、赤ちゃんはぶどうの実くらいの大きさだと言った。

帰り道、直哉はぶどうを箱で買い、「ぶどうちゃんにも、たくさん食べさせてやらないとな」と笑った。

だから私は、「すぐ戻る」という言葉を信じた。

けれど2歩進んだところで、頭上にすさまじい音が響いた。

天井が崩れ落ち、私はその下敷きになった。

濃い煙の中、床に倒れたまま、何度も彼の名を呼んだ。

次に目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。

直哉がベッドの端に座り、私の手を握った。

「ごめん」

一睡もしていないのか、目が真っ赤だった。

「一人で出られると思ったんだ。

玲奈を医師に任せて、すぐ引き返した。でも消防隊員に止められて、中に入れなかった」

私は小さな声で尋ねた。

「もう一度同じことが起きたら?」

私の手を握る指に、急に力がこもった。

長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。

「二度と、あんなことは起こさせない」

答えにはなっていなかった。

それでも、もう分かってしまった。

直哉の携帯電話が鳴った。

彼は画面に出た名前を見て、出なかった。

2度目の着信があると、そのまま電源を切った。

「どこにも行かない。ここにいるから」

かつては、その言葉を何よりも聞きたかった。

結婚する前、母が手術を受けることになり、私は一人、会計窓口の前にしゃがみ込んで泣いていた。

直哉は私の代わりに740万円を払い、一晩中そばにいてくれた。

夜が明けると、ホットミルクを手渡してくれた。

「俺がいる。何があっても大丈夫だ」

あの頃の私にとって、彼は何があっても頼れる人だった。

けれど本当にすべてが崩れ落ちたとき。

彼が真っ先に守ったのは、私ではなかった。

突然、病室のドアが開いた。

直哉の母、久世雅子(くぜ まさこ)が険しい顔で入ってきた。

「直哉、玲奈さんがずっと泣いているの。

あの子、もともと火が怖いのよ。昔の交通事故だって、まだ心の傷になっているのに。一人にしておくなんて」

直哉は眉を寄せた。

「紗和は手術を受けたばかりだ」

「ここには看護師も医師もいるでしょう。何の心配があるの?」

雅子はちらりと私を見た。

「玲奈さんは違うわ。あなたを助けようと帰国しなければ、こんな火事に遭うこともなかったのに」

直哉はしばらく黙ったあと、立ち上がった。

そっと私の布団を掛け直す。

「少し様子を見てくる。すぐ戻るから」

私はうなずいた。

「うん」

彼はほっとした様子で、アシスタントの相原(あいはら)アキの名を口にした。

「食べたいものがあったら、アキに買ってこさせるから」

ドアが閉まってから、私はあのときの医療費の領収書を思い出した。

740万円。

黄ばんだ領収書は今も家の金庫にしまってある。そこに記された金額は、はっきりと心に刻まれていた。

弁護士の大庭(おおば)ミズキに電話をかけた。

「これまで直哉から受け取った不動産と株、それに宝石を、全部でいくらになるか調べていただけますか」

ミズキは少し戸惑ったようだった。

「奥様、資産の整理をお考えですか?」

私はもう赤ちゃんのいないお腹に触れた。

「ええ。ずいぶん長いこと借りたままでしたから。そろそろ返さないと」

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第1話
赤ちゃんは助からなかった。医師にそう告げられたとき、私のベッドの脇には、直哉が立っていた。スーツにはまだ焦げたにおいが染みつき、右手の甲にはガーゼが巻かれている。昨夜、あの手は倉橋玲奈(くらはし れな)をしっかりと抱いていた。医師は検査結果の用紙をめくり、声を落とした。「奥様のけがは軽くありません。今後、妊娠できる可能性は……極めて低いでしょう」直哉の喉がかすかに動いた。「極めて低いというのは、どのくらいなんですか?」医師は答えなかった。病室が静まり返る。私は天井を見つめた。昨夜の炎が、また目の前によみがえった。休憩室に煙が流れ込んできたとき、直哉はドアを蹴り開けて飛び込んできた。玲奈は壁際に座り込み、足首が赤く腫れていた。私はテーブルの縁につかまり、もう片方の手で必死にお腹を守っていた。「直哉……」玲奈が声を上げるなり、彼は駆け寄って彼女を抱き上げた。ドアに近いのは、私のほうだった。あと数歩で廊下に出られる。直哉は私を一度だけ見た。「紗和、先に非常口へ向かってくれ。玲奈は足をけがしてる。外に連れていったら、すぐ迎えに戻るから」私が妊娠していることを、彼は知っていた。1週間前には、妊婦健診にも付き添ってくれたばかりだ。医師は、赤ちゃんはぶどうの実くらいの大きさだと言った。帰り道、直哉はぶどうを箱で買い、「ぶどうちゃんにも、たくさん食べさせてやらないとな」と笑った。だから私は、「すぐ戻る」という言葉を信じた。けれど2歩進んだところで、頭上にすさまじい音が響いた。天井が崩れ落ち、私はその下敷きになった。濃い煙の中、床に倒れたまま、何度も彼の名を呼んだ。次に目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。直哉がベッドの端に座り、私の手を握った。「ごめん」一睡もしていないのか、目が真っ赤だった。「一人で出られると思ったんだ。玲奈を医師に任せて、すぐ引き返した。でも消防隊員に止められて、中に入れなかった」私は小さな声で尋ねた。「もう一度同じことが起きたら?」私の手を握る指に、急に力がこもった。長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。「二度と、あんなことは起こさせない」答えにはなっていなかった。それでも、もう分かってしま
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第2話
退院の日、直哉が迎えに来た。私に上着を羽織らせ、かがんで靴まで履かせてくれた。7年前、初めて久世家に来た私は、ブランド物の靴さえ履き慣れていなかった。彼は玄関にしゃがんでストラップを留めながら、笑って言った。「紗和ができなくても、俺ができればいいだろ。夫なんだから」あの頃、久世家では誰も私を認めていなかった。使用人たちは陰で私を「酒場上がりの女」と呼び、雅子は結婚式にさえ来なかった。そんな私の手を取って広間へ連れていき、皆の前で言ってくれたのは直哉だった。「名家の生まれではなくても、俺が選んだ人だ」その後、彼が久世グループの実権を握ろうと争っていた頃には、私も接待の席に付き合い、夜を徹して膨大な資料を整理した。胃から出血して入院した彼に、三日三晩付き添ったのも私だ。彼の地位がようやく固まってから、雅子も私を一人の人間として認めるようになった。7年もあれば、私も久世家の一員になれる。そう思っていた。けれど邸宅に戻ると、赤ちゃんの部屋にあったものが、すべてリビングに積み上げられていた。雅子はソファに座り、冷たく言い放った。「もういないのだから、片づけなさい。見ていると気が滅入るわ」私はいちばん上にあった小さな木馬を手に取った。直哉が自分で組み立てたものだ。ねじが一本余ってしまい、どこにつけるのかと明け方まで悩んでいた。私が手伝おうとしても、断られた。「いつかこの子に聞かれたら、パパが作ったんだって言うんだ」その木馬は今、脚が一本取れたまま、無造作に段ボール箱へ押し込まれていた。雅子の隣には玲奈が座っていた。まだ目が赤い。私を見ると、すぐに立ち上がった。「紗和さん、ごめんなさい。こんなことになると分かっていたら、直哉に先に助けてもらったりしなかったのに」直哉が彼女を支えた。「足が治ってないんだから、座ってろ」それからようやく、私のほうを向いた。「子どものものなら、また買えばいい」また。また妊娠できる可能性は極めて低いと、医師は彼にも告げたはずなのに。思い出すのが怖いのか。それとも、口にしなければなかったことにできると思っているのか。雅子が一枚の声明文をテーブルに差し出した。「直哉が妊娠中の妻を置き去りにして昔の恋人を助けたって、玲奈さんが世間
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第3話
声明文が出ると、誰もが直哉の判断の速さを褒めた。私のことまで、さすが久世夫人、よく物事をわきまえていると持ち上げる人もいた。雅子はうわさを収めるため、親族を集めた食事会を開いた。わざわざ私に念を押すことも忘れなかった。「今夜は親戚の年配の方々もいらっしゃるの。不機嫌な顔をしないでちょうだい。玲奈さんは怖い思いをしたばかりよ。多少おかしなことを言っても、大目に見てあげなさい」私はうなずいた。「分かりました」直哉は私のために、ゆったりしたロングドレスを選んだ。「まだ体が回復していないんだから、顔を出したら先に帰っていいからな」そう言って宝石箱から真珠のブローチを取り出し、胸元に留めてくれた。結婚して最初の年、誕生日にもらったものだった。あの頃、久世グループは資金繰りに行き詰まり、彼は自分の車まで売っていた。何もいらないと、私は言った。それでも彼は、腕時計を売ったお金でこのブローチを買ってきた。「ほかの人が持っているものを、俺の妻だけが持っていないなんて嫌なんだ」私は真珠に触れた。ブローチは今も、ここにある。けれど私をいちばんに考えてくれた人は、もうどこかへ行ってしまったようだった。久世家の屋敷に着くと、玲奈が直哉の祖母、久世静江(くぜ しずえ)の話し相手をしていた。その手首には、久世家に伝わる翡翠のバングルがあった。私が嫁いできた年、静江は、久世家の長男の嫁に譲るものだと言っていた。私は7年も結婚指輪をはめていたのに、そのバングルには触れたことさえなかった。雅子が笑って説明した。「玲奈さんの今日の装いによく合うから、ちょっと貸してあげたのよ」玲奈が手を上げた。「紗和さん、気にしてないよね?」私は首を振った。「気にしてない」彼女の笑みが、いっそう柔らかくなった。「そうだよね。今まで一度もつけたことがないもの。好みじゃないんでしょうね」直哉は少し眉を寄せたが、口にしたのは一言だけだった。「食事にしよう」食事の席で、静江が市西部の事業について尋ねた。彼がいちばん苦しかった頃、私も半年間支え続けて、ようやく手に入れた仕事だった。ある古参の取締役を説得するため、雪の中で4時間待ち、帰宅してから高熱を出したこともある。直哉は私を抱き締め、何
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第4話
翌朝、直哉が病室に来た。一晩眠っていないのか、目が充血していた。座ると、まず点滴の袋を見上げた。「昨夜、また出血したのか?」「うん」「どうして言わなかった?」私は彼を見た。昨夜、電話はかけた。呼び出し音が2度鳴っただけで、切られてしまった。そのあとアキに言われた。玲奈が傷を縫ってもらう間ずっと泣いていて、直哉はそばにいるから電話には出られない、と。「邪魔になると思って」直哉は少し黙った。あの電話を思い出したのだろう。手を伸ばし、私を抱き寄せた。「玲奈は割れた翡翠で手を切って、2針縫ったんだ。小さい頃から痛いのが苦手で、ほかにそばにいる人もいない。放っておけなかった」私は小さく返事をした。「そう」「バングルの件で、納得していないのは分かってる」彼は言葉を切り、声を落とした。「昔、意地を張ってけんかをしたのは、俺のほうだった。そのあと玲奈は海外へ行った。この7年、俺はこうして幸せに暮らしてきた。でもあいつは、ずっと帰ってこなかった。紗和、俺は玲奈にちゃんと向き合わなきゃいけないんだ」彼の胸に寄りかかると、規則正しい鼓動が聞こえた。玲奈に負い目があることを、彼はずっと忘れずにいたのだ。だから帰国した彼女に役職を与え、世間の非難から守り、火事の中でも真っ先に抱き上げた。私にも、彼への負い目はあった。母が重い病気を患っていた頃、私は会計窓口の前に膝をつき、医師にもう一日だけ待ってほしいと頼んだ。直哉は私を立たせ、カードを差し出してくれた。その後、彼が久世家の中で冷遇されていたときには、狭い事務所で一緒にカップ麺を食べ、明け方まで資料をまとめた。接待の席で彼が無理に飲まされそうになると、私が代わりに引き受け、胃から出血するまで飲んでも断らなかった。いつも思っていた。彼にはたくさんもらったのに、私はまだ十分に返せていない、と。子どもを炎に奪われて初めて、ようやく認めることができた。この7年、私はただ与えられるだけの妻ではなかった。もう、返し終えている。ぼんやりしていた私の頬に、直哉が手を添えた。「体がよくなったら、しばらく南のほうで暮らそう。ずっと海を見たいと言っていただろ?」すぐ近くにある彼の顔を見つめると、不意に目の奥が熱くなった。
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第5話
飛行機が着陸してからも、私はすぐには携帯電話の電源を入れなかった。窓の外は雨だった。見知らぬ街の明かりが、雨ににじんでつながって見えた。昔、初めて直哉と久世家へ行った夜も、こんな雨が降っていた。あのときは、彼が傘を差しかけ、上着を肩に掛けてくれた。今は古いスーツケースを引き、一人で雨の中へ歩き出した。携帯電話の電源を入れると、何十件もの不在着信が表示された。履歴は開かなかった。タクシーの運転手に行き先を聞かれた。私は、海辺にある小さな町の名を告げた。母が残してくれた古い家がある町だ。子どもの頃、母はよく言っていた。病気が治ったら、一緒に帰って海を見よう、と。けれど、その日は来なかった。タクシーが空港を出ると、私は再び携帯電話の電源を切り、窓にもたれたまま眠りに落ちた。深い眠りだった。目が覚める頃には、空が明るくなっていた。半分開いた窓から、ほのかに潮の香りを含んだ風が入ってくる。運転手が前を指した。「着きましたよ」古い家は、記憶にあるより小さかった。塀にはつたが絡み、木の扉の塗装は半分ほど剝げていた。近所に住む浜田佳代(はまだ かよ)は、しばらく私の顔を見つめてから、目を潤ませ、私の手を取って家の中へ引き入れてくれた。「お母さんが亡くなってから、ずっと空き家だったのよ。どうして、こんなに長いこと帰ってこなかったの?」私は少し笑った。「ずっと、時間がないと思っていたんです」本当は、時間がなかったわけではない。胃の弱い直哉のために、毎朝早く起きて雑炊を炊いた。久世グループがようやく落ち着いた頃には、接待で遅くなる彼を、夜更けまで待っていた。いつの間にか誰もが私を久世夫人として扱うようになり、季節の行事や年末年始には、断れない会食がいくつも入った。彼に付き添って歩いているうち、自分にも行きたい場所があることを、少しずつ忘れていった。佳代が一部屋を掃除してくれた。夜になって、初めて波の音を聞いた。直哉の足音も、翌日の献立を尋ねる使用人の控えめな声も聞こえない。古いベッドに横になると、胸の中が空っぽになったように痛んだ。けれど痛みが過ぎたあとには、久しく感じていなかった軽やかさが残った。……紗和が京和市を離れたあの夜、直哉が急いで
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第6話
半月かけて、母の残した家を直した。庭には、枯れたミカンの木が一本あった。佳代には、切ってしまったほうがいいと言われた。それでも私は、何日か水をやり続けた。やがて庭師に言われた。根が腐っていて、このままでは虫がつくだけだ、と。私は木の下に立ち、長い間見上げていた。「では、切ってください」枯れてしまったものは、水を与え続けたところで生き返らない。切った木が運び出されると、庭の一角がぽっかりと空いた。私はそこへ、白いアジサイを植えた。そして自分の貯金で海辺の店を借り、パンとケーキの店を始める準備をした。直哉と結婚する前、クラブで酒を運ぶ一方で、ケーキ屋で見習いをしていたことがある。母が入院していた頃には、売れ残ったパンをよく持っていった。母はいつも、私の作るものはおいしいと言ってくれた。久世家には料理人がいたので、嫁いでからはオーブンに触れなくなっていた。最初に焼いたパンは焦げてしまった。その真っ黒な表面を見ていたら、思わず笑ってしまった。京和市を離れてから、心から笑ったのは初めてだった。……その頃、直哉は、紗和が行きそうな場所をほとんど探し尽くしていた。紗和の母が入院していた病院にも足を運んだ。診療記録室の担当者が、7年ほど前の資料を出してきた。手術を受けたあと、紗和の母は半年だけ長く生きられた。その半年間、紗和は昼は母の世話をし、夜は直哉と久世グループの事業資料をまとめていた。当時の看護師は、紗和のことを覚えていた。「森川さんは、あの頃とても苦労されていました。お母様が亡くなったときも、久世さんは病院にいらっしゃいませんでしたね」直哉は言葉を失った。あの日、久世グループでは臨時の取締役会が開かれていた。紗和が送ったのは、【お母さんが亡くなった】という一通のメッセージだけだった。彼は会議を終えて葬儀場へ駆けつけ、紗和を抱き締めて謝った。紗和は泣かなかった。彼を責めることもなかった。それどころか、会社が大変なときなのだから仕方ないと、彼女のほうが彼を慰めた。もう終わったことだと、直哉は思っていた。看護師が古い紙箱を差し出すまでは。「森川さんが、あのとき置いていかれたものです」箱の中には、紗和の母が娘に宛てた手紙が入っていた。最後に
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第7話
店がオープンした日は、よく晴れていた。私は店に「はじまり」と名づけた。佳代には、もう少ししゃれた名前にすればいいのにと言われた。けれど私は、これでいいと思った。小さな店だが、窓を開ければ海が見える。初めのうちは客も少なく、毎朝4時に起きて生地をこね、夜10時まで店を開けていた。体はまだ、ときどき鈍く痛んだ。医師には定期的な診察を欠かさず、無理をしないようにと言われていた。私は自分を大切にすることを、少しずつ覚え始めた。昔は直哉の胃薬も、会議の予定も、大事な記念日も忘れなかったのに、自分の体のことは、いつも後回しにしていた。1か月ほどすると、常連客が少しずつ増えてきた。隣の民宿の主人、瀬戸航(せと わたる)が写真を撮り、ネットに載せてくれた。海と花と焼きたてのパンに引かれて、観光客も来るようになった。私が久世夫人だと気づく人もいた。否定はしなかった。事情を説明することもしなかった。過去は、恥じるようなものではない。ただ、もう終わった暮らしだ。直哉が私を見つけたのは、雨の日だった。ドアのベルが鳴ったとき、私はケーキにクリームを塗っていた。入口に立つ彼のスーツは雨にぬれ、前に会ったときよりずっとやつれていた。カウンター越しに目が合った。私は手を止めなかった。「何になさいますか?」直哉が、ごくりと喉を鳴らした。「紗和」その声で名前を呼ばれ、一瞬、昔に引き戻された気がした。昔は呼ばれさえすれば、すぐに振り向いていた。今は最後のいちごを飾ってから、ようやく顔を上げた。「久世さん、ここはパンとケーキの店です。何をお求めですか?」彼の目が、一瞬で赤くなった。「一緒に帰ろう」私はうつむき、手についたクリームをきれいに拭った。「離婚協議書は、届いているはずだけど」「署名はしていない」「なら、裁判にする」直哉は傷ついたように身をこわばらせた。「俺を恨んでいるのは分かってる。殴ってもいい。罵ってもいい。何をしろと言われてもする。だから、俺を罰するために離婚するなんて言わないでくれ」私は彼を見た。「私が出ていったのは、あなたを罰するためだと思っているの?」「違うのか?」彼は一歩近づいた。声が震えていた。「紗和、7年も一
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第8話
直哉は町を去らなかった。隣の民宿に泊まっていた。毎朝、開店前から通りの向こうに立っていた。私は相手にしなかった。それでも彼は、夜まで待ち続けた。ある日、台風が通り過ぎ、店の看板が吹き落とされた。翌朝店に着くと、看板は直っていた。航の話では、直哉が雨の中で夜中までかかって直したらしい。そのとき金属片で手のひらを切り、6針縫ったという。私は業者に連絡し、新しい看板に替えてもらった。取り外された看板を見て、直哉は一瞬、傷ついたような顔をした。「どうして替えるんだ?」「借りを作りたくないから」「俺たちは夫婦だろ」「もうすぐ、そうじゃなくなる」彼は何も言えなくなった。離婚訴訟の期日を迎える前に、直哉はようやく協議書に署名した。その日、彼はすべての財産を、改めて私の名義にしようとした。私は何ひとつ受け取らなかった。店までやってきた彼の目は、ひどく充血していた。「これは、もともと紗和のものだ。久世グループがここまで来られたのは、紗和のおかげでもあるんだ」「あの頃一緒に頑張ったのは、株が欲しかったからじゃない」「なら、何が欲しい?」声がかすれていた。「言ってくれれば、何でも渡す」私は窓の外の海を見た。「もう、ここへ来ないで」直哉の手の中で、書類がぐしゃりと曲がった。しばらくして、低い声が返ってきた。「それ以外なら、何でも聞くから」「私が望むのは、それだけ」彼の目から、少しずつ光が失われた。……離婚届を提出したことは、誰にも知らせなかった。役所の窓口で手続きを終えて外へ出ると、よく晴れていた。道端でしばらく立ち止まったあと、花を一束買って母に会いに行った。私は少し色あせた母の写真を、墓前に置いた。その隣に、離婚届の控えを置いた。「お母さん。もう、恩を返すために生きるのはやめるね」風が丘を渡り、葉がかすかに鳴った。私は長い間、そこに座っていた。坂を下りると、遠くに直哉が立っていた。近づいてはこなかった。距離を置いたまま、私が立ち去るのを見送っていた。あとになって知った。彼は倉橋家へ行っていた。バングルの亀裂は、専門機関で改めて調べられた。ひびが入ったのは、親族の食事会より前だと分かった。廊下の防犯カメ
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第9話
1年後、「はじまり」は2号店を開いた。直哉が渡そうとしたお金は、1円も使わなかった。軌道に乗せるまでは大変だった。母の家を担保に入れ、睡眠時間も一日5時間まで削った。けれど今度は、自分のためにする苦労だった。航が宣伝を担当し、佳代が1号店を見てくれた。新しい店の開店日、入口には長い列ができた。オーブンの前で、次々とパンが膨らんでいくのを眺めていると、初めて、確かな充実感が胸に広がった。昔は誰もが、私のことを直哉の妻としか呼ばなかった。今は、紗和の作ったケーキが食べたいと、わざわざ足を運んでくれる人がいる。私はもう、誰かの妻というだけの存在ではなかった。直哉は、ときどき店に来た。帰ってこいとも言わず、私の前に立ちふさがることもなくなった。ただ、いちばん隅の席に座り、昔私がいれていたブラックコーヒーを一杯頼んだ。彼は胃が弱い。以前なら、空腹で飲ませたりしなかった。今は飲んで顔色が悪くなっても、注意する人はいない。ある日、彼が店の外で倒れた。アキが慌てて私を呼びに来た。私は救急車を呼んだが、病院へは付き添わなかった。……目を覚ました直哉は、がらんとした病室を見回して尋ねた。「紗和は来たか?」アキが首を振った。「森川さんが救急車を呼んでくださいました」「それから?」「お仕事に戻られました」直哉は目を閉じた。以前、彼が胃から出血して入院したときは、紗和が3日間、つきっきりで看病した。医師に家族の署名を求められたとき、紗和の手はペンを握れないほど震えた。今は、彼が倒れたと知っても、紗和は見知らぬ人に対するのと同じことしかしなかった。恨まれなくなることが、恨まれるよりも深い絶望になると、彼は初めて知った。その年の結婚記念日、直哉は一人で火事のあったホテルへ行った。ホテルはすでに改装されていた。休憩室だった場所は、会議室になっていた。かつてそこで、妊婦ががれきの下敷きになったことを知る人はいなかった。直哉は廊下に座り、一晩を明かした。翌日、彼は紗和にひとつの箱を送った。……私のもとに届いた箱には、修理された木馬と、短い手紙が入っていた。【紗和、ごめん。今さら言っても意味がないことは分かっている。ただ、紗和とあの子に会
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第10話
3年後、私は海辺に小さな建物を買った。1階は店、2階は近所の若い女性たちにお菓子作りを教える場所にした。昔の私と同じような境遇の子もいた。学歴も、頼れる家族もない。その子たちには給料を払い、自分の力で食べていけるよう、お菓子作りの技術も教えた。佳代はよく、ずいぶん変わったと言った。おどおどしなくなったし、何をするにも、まず人の顔色をうかがう癖もなくなった、と。鏡を見て初めて気づいた。直哉と離れてからのほうが、私はずっと私らしく生きていた。母の残した家は売らなかった。庭のアジサイは、毎年花を咲かせる。ときどき庭に座り、生まれてこられなかったあの子を思った。今でも、悲しくはなる。けれど、その悲しみから抜け出せなくなることは、もうない。私はあの子の名前をつけた「ぶどう基金」を立ち上げ、治療費を払えない妊婦を支援することにした。最初に入れたお金は、自分で稼いだものだった。直哉はそれを知ると、名を伏せて多額の寄付をした。私は返した。翌日、彼が再び寄付してくることはなかった。代わりに久世グループの名で、別の街で同じような支援事業を始めた。私たちは、遠く離れたまま暮らしていた。彼は私の暮らしに踏み込まなくなった。私も彼の生活を気にしなかった。雅子が何度も見合いの話を持ってきたが、彼は一度も会おうとしなかったと聞いた。久世家の本邸には、私が使っていた部屋が今もそのまま残されているという。枕元には、結婚指輪と740万円の領収書。誰かが、もう前を向かなければと諭したとき、彼はこう言ったそうだ。「紗和は、もう前に進んだ。同じ場所にいるのは、俺だけだ」再び顔を合わせたのは、チャリティーの晩餐会だった。私は基金の代表として出席していた。直哉は最前列に座っていた。目が合うと、彼はしばらく私を見つめ、それから小さくうなずいた。会が終わると、出口で待っていた。数年ぶりに会う彼は、以前より口数が少なくなっていた。目元には、疲れもにじんでいた。「元気にしていた?」「うん。とても」社交辞令ではなかった。私は今、本当に幸せだ。好きな仕事がある。自分の家もある。一緒に食事をしたり、旅行に行ったりできる友達もいる。海を何度となく眺めたし、母が生前行きた
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