LOGIN私・江角美緒(えすみ みお)の6歳の誕生日に、母の江角悦子(えすみ えつこ)が心の病だと診断された。 前触れは何もなく、原因もわからなかった。 その時に、主治医であり、母の友人でもある里中莉乃(さとなか りの)先生から、父の江角宗一(えすみ そういち)と兄の江角寛太(えすみ かんた)に、こう伝えた。 「とにかく、できるだけ、逆なでしないようにしてあげて」 その一言で、すべてが変わった。 振り返れば、あのときから私の人生は終わっていたのかもしれない。
View Moreその日、母と里中先生は留置場から戻らなかった。残りの人生を刑務所で過ごすことになるだろうと、捜査隊長は話した。父と兄は、抜け殻のように家へ帰った。二人とも道中、一言も口をきかない。父は居間で一晩中、煙草を吸い続けながら、なぜこんなことになったのかと涙をこぼしていた。署を出る間際、捜査隊長が言い渡した言葉が、耳の奥に残っている。「手を下したのは奥様ですが、あなた方もまた、美緒さんを見殺しにしたことに変わりはない。もう少し早く病気に気づいていれば、少なくとも三ヶ月は生きられたはずです」父は煙草をくわえ、深く吸い込んだまま、長く吐き出す。煙のなかで、その顔がぼやけた。この顔を、私は昔見たことがある。12年前、里中先生が母の診断を下したあの夜も、父はこうして居間で一晩中、煙草を吸っていた。ふわりと浮かんだまま、かすかな泣き声をたどって二階へ向かう。兄はあの日記を抱きしめ、部屋の中で泣き崩れていた。声を押し殺すように顔を覆い、何度も頭をかきむしりながら、途切れ途切れに言葉をこぼしている。「美緒……ごめん。俺が、俺が最低だった。もっとお前のことをちゃんと見ていれば……」その先は言えなかった。だが、今の私にはもうどうでもいいことだった。振り返ってほしい。ただ一度、こちらを見てほしい。そうすれば、一目で真実が見えるはずなのに、と何度も願った。けれど、この二人は決して振り返らなかった。私が葬られた日、担任の先生も城戸先生も来てくれた。クラスメートも、近所の人たちも、たくさんの人が集まった。「美緒さん、まだこんなに若いのに……本当に、いい子だったのに」「学校でも、あんなに頑張り屋で。もし普通に過ごせていたら、今年の学年首席は間違いなくこの子だっただろうに」担任の先生は、白菊を手向けると、涙を拭い、虚ろな目をした父の前で立ち止まった。「江角さん。美緒さんが最後に残した願いが何だったか、ご存じですか」父は呆然と顔を上げる。「……なんだったんです」「美緒さんは……」先生の目が再び潤み、鼻をすすった。「一度でいいから、きれいなワンピースが着たいと。どの娘にとってもただの日常が、あの子にとっては最期の願いだったんです。それでも……胸は痛みませんか」そう言い残すと、先生は目を真っ赤にしたまま、背を向けて去ってい
「母さんは病気じゃない?どういうことだよ、それ!」その一言に、誰もが息を呑んだ。最初に動いたのは里中先生だった。捜査隊長をじっと見つめ、その表情は揺れている。捜査隊長は冷ややかに里中先生を一瞥すると、脇の若い刑事に短く指示を飛ばした。「事件に進展があった。現場の証拠品を押収し、関係者全員を署まで連行して事情聴取を行う」母は弾かれたように立ち上がり、声を張り上げた。「何をする気!私たちは殺人犯じゃない!どうして逮捕されなきゃいけないの!」捜査隊長は鼻で笑った。「殺人犯かどうかは、あなたが決めることじゃありません。連行しろ」その言葉で、二人の警官が母を玄関のパトカーへ連れて行こうとする。母は激しく身をよじり、半狂乱になって泣き叫んだ。「あなた!私、怖い!早く助けて!」その叫びにも、父は一度も振り返らなかった。母とは別のパトカーに、まっすぐ乗り込んでいく。「寛太まで私を見捨てるの!」母の金切り声に、兄は苦しげに振り返り、ただ一言なだめるように言った。「母さん、大丈夫だ。警察がちゃんと調べてくれるから」やがて里中先生はもちろん、隣人まで全員が署へ連行された。取調室の中で、母はぐったりと椅子に座り込んでいた。「置物に付着していたのは娘さんの血液ですが、指紋は江角悦子さんのものです。どう説明しますか」「私、あのとき発作で……自分を抑えられなかったんです。わざとじゃありません!」警察が何を尋ねても、母は同じ言葉を繰り返すだけだった。「あなたは、娘に日常的な暴力を振るっていたのではありませんか」「違う!」母の声が裏返る。「あの子がわざとスカートを履いて、私を怒らせたんです。虐待なんかじゃない!」「そうですか」捜査隊長は別の調書をめくる。「ご近所の方々に話を聞いたところ、あなたは江角さんの留守中、頻繁に娘に手を上げ、ひどい言葉を浴びせていた。これについては覚えがありますね?」観察室の中で、父の顔色がみるみる土気色に変わっていく。10年以上の歳月のなかで、私が母に何度殴られたか、父はもう数えきれずにいた。止めようと思うたび、妻の「心の病」と里中先生の診断書が頭をよぎり、言いかけた言葉を何度も飲み込んできた。妻は病気なのだ。美緒は娘なのだから、わかってくれるはずだ。あの子は
床に残った血痕は、すっかり乾いていた。現場で指揮する捜査隊が手袋をした手で、廊下の隅に転がっていた金属製の置物を拾い上げる。鑑識官に手渡すと、担当者はじっくりと検分し、低い声で言った。「現時点での見立てですが、死因は後頭部への強い打撃、および急性白血病による大量出血です。事故か故意かは、まだ判断できません」母は父の胸にすがりつき、今にも泣き崩れそうな、あの痛ましげな顔を作った。「事故です……私、あのとき発作を起こしていて……わざとじゃなかったんです……あの子が私を怒らせるから」母は次々と言い訳を並べながら、熱のこもった目でじっと父を見つめる。かばってくれる言葉を、待っているのだ。だが、父はただうつむき、ソファに沈み込んだまま、何も言わなかった。頭のなかで「白血病」「失血死」という言葉がぐるぐると回り、喉が詰まったように声が出ない。捜査隊長は母に向き直り、じっと見据えた。「事故かどうかは、解剖の結果が出ればわかります」そう言うと彼は兄を連れて二階へ上がり、私の部屋を探し当てた。そして、一面が黒で覆われた部屋の前で、足を止める。振り返り、兄に問うた。「ここは君の部屋じゃなくて、妹さんの部屋ですか」兄は赤く腫らした目で、かすれた声を絞り出した。「……妹の部屋です」年の頃の娘の部屋が、なぜこれほどまでに陰気なのか。捜査隊長はかすかに眉をひそめ、しばらくその場に立ち尽くしていた。この部屋は、母がわざわざ私に与えたものだった。幼い頃から外の派手な色に目を慣らしてはいけない、家では心を落ち着けなさい——そう言われて、私はこの部屋で育った。ほんの少しでも逆らおうものなら、母は「私の趣味を馬鹿にして、せっかくの好意を踏みにじった」と、父の前で泣き崩れる。父がそれを決めてから、私の寝室はもちろん、シーツに至るまで、すべてが黒一色に染まった。捜査隊長の目が、枕の下に隠されたものを見つけた。今朝、慌てて出かけるときにしまい忘れた、あの日記帳だ。ページをめくりながら、次第に表情を曇らせていき、日記を手にしたまま足早に階下へ降りてきた。父がまだ呆然と座り込んでいるのを見て、捜査隊長は日記を差し出し、確信を込めた声で言った。「これを読んでみてください。娘さんの死について、見方が変わるかもしれません」父は機械的
階下に目をやると、一団の医師たちが押し入ってくるのが見えた。先頭の医師の名札には、城戸と書いてある。「美緒さんは白血病の末期でした。実の親でありながら、治療を受けさせるどころか、寝たふりだと罵ったそうですね。あなたたちに親を名乗る資格がありますか」「何様だ?」兄は母を悪く言われるのが我慢できないらしく、咄嗟に母の前に立ちはだかり、怒鳴り返した。「私は美緒さんの主治医、城戸修平(きど しゅうへい)です。先月、すぐに入院するよう伝えましたが、彼女は検査結果を家族に見せて相談したいと言いました。私はずっと待っていました。そして来られないから電話をすれば、いたずら電話扱いされました」この言葉に、父の顔が一瞬で青ざめた。その場に崩れ落ちそうになる。あの日、私がポケットから取り出した紙を、父は差し出す間もなく丸めてゴミ箱に捨てていた。その光景が、今になって蘇ったのだろう。父は母の腕を振り払うと、転がるように階段を駆け下りた。ゴミ箱の前で這うように紙屑をかき分け始める。「あなた、何をしてるの」初めて、父は母の問いかけに答えなかった。狂ったように手を動かし、ゴミ箱をまさぐり続けている。やがて目当ての紙を見つけ出し、震える手でゆっくりと広げた。そこに印刷された「白血病」の文字をはっきりと目にした瞬間、その場に膝をつき、顔を覆って声を詰まらせた。城戸先生は父の姿を無視して階段を駆け上がると、人混みをかき分け、私を病院へ運び出そうとした。そのときになって初めて、母がはっと彼を指さし、詰め寄った。「美緒をどこに連れて行くつもり!」「病院です。本来の病状なら、美緒さんはあと三ヶ月は生きられたはずです。なぜ突然命を落としたのか。あなたたちも知りたいでしょう」言いながら、城戸先生は父の方を振り返った。「娘さんの病気を放っておいたのに、死ぬまで放っておくつもりですか」そう言い残すと、城戸先生はそれ以上何も言わず、ストレッチャーに私を乗せて車へ運び出した。次の瞬間、父は這い上がり、顔を乱暴に拭うと、その後を追って駆け出した。二階にいた兄も、真っ青な顔で慌てて飛び出そうとし、階段を踏み外して転がり落ちた。それでも足を引きずりながら車に飛び乗る。ついさっきまで騒がしかった居間は、静まり返った。母はもう泣いていなかった。青ざめ
reviews