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死の三日前、私はついに家族が求める完璧な女になれた

死の三日前、私はついに家族が求める完璧な女になれた

By:  イライナクスCompleted
Language: Japanese
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「最新型の実験療法がなければ、あと72時間の命です」 医者はそう言った。 でも、そのたった一つの治療枠は黒崎蒼汰(くろさき そうた)が佐倉美優(さくら みゆう)に与えた。 「彼女の腎不全の方が深刻だから」と、彼は言った。 私はうなずいて、死を早めるとされる白い錠剤を飲み込んだ。 残された時間で、私はたくさんのことをした。 署名のとき、弁護士の手は震えていた。 「……400億円相当の株を、すべて譲渡するおつもりですか?」 「ええ、美優に全部です」 娘の萌花は、美優の腕の中で嬉しそうに笑っていた。 「美優ママがね、新しいワンピース買ってくれたの!」 「よく似合ってるよ。これからは美優ママの言うことをちゃんと聞くのよ」 私が自ら築き上げたあのギャラリーも、今では美優の名前が掲げられている。 「お姉ちゃん……本当に、ありがとう……」彼女は涙を流して言った。 「あなたの方が、きっと上手く経営できるわ」 両親の信託基金さえ、私は署名して放棄した。 蒼汰はようやく、長年見せたことのなかった心からの笑みを浮かべた。 「紗季、君……変わったな。もうあんなに尖ってない。今のお前、本当に綺麗だよ」 そう、死にかけの私こそが、ついに彼らの求める「完璧な伊藤紗季」になった。 従順で、寛大で、決して争わない伊藤紗季(いとう さき)。 残された72時間のカウントダウンは、もう始まっている。 私はふと、思った。 心臓が止まる瞬間、彼らは私のことをどう記憶するのだろう? 「ついに手放すことを覚えた良き妻」? それとも―― 「死をもって復讐を遂げた女」?

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Chapter 1

第1話

「君はもっと優しくなるべきだ」と夫は言った。

「自己中心的すぎる」と両親は言った。

娘はこう言った――「美優ママのほうが好き」

だから私は決めた。

残された72時間、私の命とすべてを、美優というの「完璧な女」に捧げようと。

「末期の癌です。特別な治療をすぐに受けなければ、余命はせいぜい三日でしょう」

医者の言葉が耳に残っている。

病室のベッドに身を預け、窓の外をぼんやりと見つめながら、私は思い返していた。

黒崎蒼汰(くろさき そうた)の妻として、この7年間、私は必死にこの結婚を守ってきた。

――彼女が現れるまでは。

「大丈夫か?」

ドアが開き、入ってきたのは夫の蒼汰だった。

その顔には、どこかうんざりしたような表情が浮かんでいた。

「平気よ」私は静かに答えた。

彼は眉をひそめ、「医者は、君にあの実験療法の枠が必要だって、でも……」

「でも、美優のほうが優先だってことでしょう?」

私は彼の言葉を引き取って、苦笑いを浮かべた。

佐倉美優(さくら みゆう)――十二歳のときに、私が両親を説得して引き取った孤児院出身の少女。

妹のように可愛がってきた相手。

まさか、自分のすべてを奪っていく存在になるなんて、思いもしなかった。

「紗季、分かってくれ」蒼汰の声が少しだけ優しくなる。

「美優の状態は本当に深刻なんだ。腎臓がもう限界らしくて……君はまだ元気そうだし」

そう、私は「元気」に見える。

誰も知らない。彼らに心配かけたくなくて、私はずっと致死量ギリギリの鎮痛剤を飲み続けて、癌の激痛を隠していた。

「……分かったわ」私は穏やかに言った。「治療の枠は彼女に譲るわ」

蒼汰は明らかに安堵の表情を浮かべた。

「やっぱり君は変わったよな。前みたいに意固地じゃないし」

意固地?

私は心の中で冷たく笑った。

美優が現れてから、私のすべての主張は「嫉妬」や「心が狭い」としか受け取られなくなった。

その夜、私はフラつきながらも自宅へ戻った。

「ママ!」

黒崎萌花(くろさき もえか)が私を見るなり、さっと美優の後ろに隠れた。

「萌花……」私は無理に笑顔を作った。

「紗季お姉ちゃん、お帰りなさい」

美優は、私が贈ったシャネルのセットアップに身を包み、以前は私の場所だったソファに座っていた。

「美優、少し話があるの」

私は書斎に向かい、一つのファイルを手に取った。

「これ、私が名義人のギャラリーの譲渡書よ。あなたにあげたいの」

「……えっ?」美優は驚いて立ち上がった。

「お姉ちゃん、それって一番大事にしてたギャラリーじゃない!」

そう、そのギャラリーは私がゼロから立ち上げた、大切な場所だった。

でも、もうどうでもよかった。

「あなたの方が上手に運営できるわ。結婚祝いの前渡しだと思って」

美優の表情が一瞬だけ揺れた。けれどすぐに、あの「無垢」な笑顔に戻った。

「お姉ちゃん、何の話してるの……?」

私は彼女に近づき、そっと囁いた。

「全部知ってる。でもいいの。祝福するよ」

ちょうどそのとき、蒼汰がリビングに入ってきた。

私たちの様子を見て、少し緊張したような顔をした。

「なに話してたの?」

「紗季お姉ちゃんが、ギャラリーを譲ってくれるって」美優は涙ぐんで言った。

「本当に優しすぎるの……」

蒼汰は私を見つめ、どこか複雑な感情を浮かべた目で言った。

「紗季、君……」

「疲れたの。先に休むわ」私は彼の言葉を遮った。

「萌花、いい子にしててね。美優おばちゃんの言うこと、ちゃんと聞くのよ」

「うん」萌花はそっけなく答え、すぐに美優の方を見た。

「美優ママ、ゲームの続きをしよう!」

……美優ママ。

その一言に、胸がきゅっと締めつけられた。

部屋に戻り、ドアにもたれかかると、体が崩れ落ちた。

癌細胞が容赦なく身体を蝕み、薬がその速度をさらに加速させている。

私はクローゼットを開き始めた。

高級なドレス、ジュエリー、バッグ――まもなく、すべてが美優のものになる。

「あと72時間」

鏡に映る青ざめた自分に、私は静かに呟いた。

「紗季、最後の三日間だけでも……『完璧な女』として記憶されよう」

私は知っている。真実はいずれ明らかになる。

私が集めた証拠は、私の死後にきっと暴いてくれる。

そのとき、彼らは後悔する。

でも、私はもういない。

それが、私の――復讐。
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第1話
「君はもっと優しくなるべきだ」と夫は言った。 「自己中心的すぎる」と両親は言った。 娘はこう言った――「美優ママのほうが好き」 だから私は決めた。 残された72時間、私の命とすべてを、美優というの「完璧な女」に捧げようと。 「末期の癌です。特別な治療をすぐに受けなければ、余命はせいぜい三日でしょう」 医者の言葉が耳に残っている。 病室のベッドに身を預け、窓の外をぼんやりと見つめながら、私は思い返していた。 黒崎蒼汰(くろさき そうた)の妻として、この7年間、私は必死にこの結婚を守ってきた。 ――彼女が現れるまでは。 「大丈夫か?」 ドアが開き、入ってきたのは夫の蒼汰だった。 その顔には、どこかうんざりしたような表情が浮かんでいた。 「平気よ」私は静かに答えた。 彼は眉をひそめ、「医者は、君にあの実験療法の枠が必要だって、でも……」 「でも、美優のほうが優先だってことでしょう?」 私は彼の言葉を引き取って、苦笑いを浮かべた。 佐倉美優(さくら みゆう)――十二歳のときに、私が両親を説得して引き取った孤児院出身の少女。 妹のように可愛がってきた相手。 まさか、自分のすべてを奪っていく存在になるなんて、思いもしなかった。 「紗季、分かってくれ」蒼汰の声が少しだけ優しくなる。 「美優の状態は本当に深刻なんだ。腎臓がもう限界らしくて……君はまだ元気そうだし」 そう、私は「元気」に見える。 誰も知らない。彼らに心配かけたくなくて、私はずっと致死量ギリギリの鎮痛剤を飲み続けて、癌の激痛を隠していた。 「……分かったわ」私は穏やかに言った。「治療の枠は彼女に譲るわ」 蒼汰は明らかに安堵の表情を浮かべた。 「やっぱり君は変わったよな。前みたいに意固地じゃないし」 意固地? 私は心の中で冷たく笑った。 美優が現れてから、私のすべての主張は「嫉妬」や「心が狭い」としか受け取られなくなった。 その夜、私はフラつきながらも自宅へ戻った。 「ママ!」 黒崎萌花(くろさき もえか)が私を見るなり、さっと美優の後ろに隠れた。 「萌花……」私は無理に笑顔を作った。 「紗季お姉ちゃん、お帰りなさい」 美優は、私が贈ったシャネルのセットアップに身を包み、以前は私の
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第2話
翌朝、激しい痛みに襲われながら目を覚ました。癌細胞が燃え盛る炎のように体を蝕んでいたが、鎮痛剤のおかげで表面上は平静を保てていた。無理やり体を起こす。今日やるべきことが山ほどあるからだ。階段を降りると、リビングから萌花の笑い声が聞こえてきた。彼女は美優の膝の上に座り、二人で絵本を読んでいた。「美優ママ、このお姫様すっごくきれい!」「そうね、萌花みたいにきれいよ」 美優は優しく彼女の額にキスした。私に気づいた萌花は、ちらっと一瞥をくれただけで、また絵本に目を戻した。まるで私は通りすがりの他人みたいだった。「おはよう、萌花」 私は声をかけながらそっと近づいた。「おはよう」 彼女はそっけなく答え、美優の手を引いた。 「美優ママ、お庭でちょうちょ見ようよ!」「ちょっと待って、萌花」 美優は私の顔を見て、わざとらしく心配そうに言った。 「君のママ、何か話したいことあるかもよ」「聞きたくない」 萌花は口を尖らせた。 「ママ、いつもお仕事ばっかで遊んでくれないもん」胸が裂けるような痛みが走った。たしかに、ここ数年、会社のことで手一杯で娘と過ごす時間なんてほとんどなかった。その間、美優はいつも萌花のそばにいてくれた。「いいのよ、二人で行ってらっしゃい」 私は無理に笑みを浮かべた。手をつないで庭に向かっていく二人の背中を見送りながら、私は壁に手をついてようやく立っていた。身体の痛みだけじゃない。心まで軋んでいた。ダイニングでは蒼汰が経済ニュースを見ていた。私が入ってきたのに気づくと、彼はチラリとこちらを見ただけだった。「顔色悪いな」眉をひそめた彼が言う。「無理するなよ」「大丈夫よ」私は椅子に腰を下ろしながら答えた。「あなたと話したいことがあるの」「何だよ」彼はiPadをテーブルに置き、不機嫌そうに顔を向けた。「私たちの婚前契約のこと」私は用意していた書類を取り出した。「内容を変更したいの」蒼汰は書類を受け取り、目を通すと眉をひそめた。 「紗季……君、財産分与の権利を放棄するって?」「そうよ」私は穏やかにうなずいた。 「もし私に……何かあったときは、すべての財産をあなたに譲りたい。両親が残した信託基金も含めて。それと、私の美術品コレクションも
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第3話
午後、グループ本社。噂はすぐに広まった――伊藤紗季(いとう さき)が義理の妹を連れて取締役会に現れ、その場で株式譲渡を発表したのだ。「紗季、冗談だろう?」取締役の宮浦が私を呼び止めた。「本気だわ」私は署名をしながら言った。「今日から、美優が私の代わりに会社の意思決定に参加するよ」美優は全身を震わせて、興奮を必死に抑えながら謙虚なふりをしていた。「お姉ちゃん、わ、私……何て言えば……!」「何も言わなくていいわ」私は書類を彼女に手渡した。「しっかりやりなさい」帰りの車の中で、彼女はようやく仮面を外した。「お姉ちゃん、なんでこんなこと……?」「それがあなたの望んだことだからでしょ?」私は窓にもたれながら呟いた。「夫も、娘も、財産も……美優、あなたの勝ちよ」「お姉ちゃん、私……」「一つだけお願い」私は彼女の言葉を遮った。「萌花の前では、演じ続けて。あの子はまだ小さい。家族が必要なの」夜、私は書斎で一人、荷物を整理していた。田代おばさんが入ってきて、私の姿を見るなり目を赤く染めた。「奥様……」「これ、全部処分して」私は机の上の書類――美優の犯罪の証拠を指した。「燃やしてちょうだい」「でも奥様、これがあれば私たちは……」「萌花にはママが必要なの」涙を拭いながら私は言った。「たとえ、それが私じゃなくても」最後の朝、私はほとんどベッドから起き上がれなかった。癌細胞はすでに全身に広がり、呼吸一つするだけでも体中が刃物で切られているようだった。鏡に映る私は、血の気が引き、痩せ細り、目の下に深い影が落ちていた。「あと24時間」私は自分に言い聞かせた。今日は蒼汰と美優の婚約パーティー。そう、彼らはもう待ちきれなかったのだ。這うようにして階段を降りると、リビングはすでに華やかに飾り付けられていた。美優はシャンパングレーのドレスを身にまとい、使用人たちに花の配置を指示していた。「紗季」振り返ると、両親が入ってきた。二人とも礼服に身を包み、母は祖母から受け継いだサファイアのネックレスまで身につけていた――本来なら私が受け継ぐはずのものだった。「紗季、よくやったわね。ようやく分別がついたのね!この何年、美優と張り合ってばかりで、お父さんと私は本当に心配してたのよ」母は満足げに笑った。「そうだな、
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第4話
「ママ」俯いた私の目の前に、萌花が立っていた。ピンクのドレスを着た彼女は、まるで小さなプリンセスのようだった。「美優ママが伝えてって言ったの。ケーキ、切る時間だって」その口調は冷たく、まるで他人に話すようだった。「知らせてくれてありがとう」私はしゃがみ込み、彼女に少しでも近づこうとした。すると彼女は、すぐに一歩後ろに下がった。「美優ママがね、あんまり近づかないほうがいいって。今日の雰囲気、壊さないでって」胸に鋭い痛みが走った。五歳の娘が、別の女性の悪意をそのまま私にぶつけている。「萌花」私は静かに言った。「ママね、あなたに伝えたいことがあって……」「聞きたくない!」彼女は私の言葉を遮って、小さな顔に苛立ちを浮かべた。「ママはいつも美優ママを困らせるもん。大っ嫌い!」そう言い残して、くるりと背を向けて走り出した。「美優ママ!美優ママ!」「かわいそうな紗季さん……」近くで誰かがひそひそと囁いた。「娘にも距離を置かれてるんだね。まあ、仕事ばっかりで子どもにかまわないんだから当然よ。美優さんみたいに、いつも一緒にいるわけじゃないし」手に持ったシャンパングラスが小さく揺れた。周囲の言葉ではない。心を刺したのは、萌花の「大っ嫌い」の一言だった。私の娘――十月十日、お腹で育てて産んだこの子が、そんなふうに私を拒絶した。私は人ごみの中に立ちながら、自分がどこにも属していないような感覚にとらわれていた。夫も、娘も、家族も、みんなが美優を中心に回っている。私だけが、そこにいない。「感動的なシーンだったわね」母が隣にやってきた。「見た?萌花はあんなにも美優を慕って……紗季、少しは反省したら?」「まったくだ」父も続く。「子どもの目は嘘をつかない。萌花が美優を選んだってことは、それだけ美優の方が母親にふさわしいってことだ」私は何も言えなかった。何を言ったところで、彼らの中で私は、いつも間違っている人間なのだ。パーティーが終わった後、私はそっとその場を離れた。誰も気づかない。誰も私を引き止めなかった。みんな、「幸せな新しい家族」を祝福するのに夢中だった。家に戻ると、私は真っ直ぐ書斎へ向かった。「田代おばさん」私のそばにいつもいてくれた看護師を呼んだ。「奥様、どうなさいましたか?」私は彼女にUSB
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第5話
「すぐに戻ってきてください」田代おばさんの声は、落ち着いているのにどこか揺るぎないものだった。同じ頃、伊藤家の大邸宅――「なにだって?紗季が信託資金の相続権を放棄したって?」伊藤夫人は電話を握りしめ、信じられないというように声を上げた。「島村弁護士、それ本当に間違いじゃないの?100億円の話よ!」「伊藤夫人、書類は昨日の午後に届いておりまして、紗季さんご本人が署名されたものです」電話口の弁護士が淡々と答えた。「彼女はすべての権利を美優さんに譲渡すると明言されました」「そんなはずない!」紗季の父が電話をひったくるように奪った。「確かに紗季は美優に優しいが、そこまでするような子じゃない!」「伊藤様、信託資金だけではありません。私の把握している限りでは、彼女はこの数日でギャラリー、会社の持ち株、さらにはあなた達から贈られた美術品のコレクションまで……」「なに!?母が遺してくれたモネの原画まで渡したの!?」伊藤夫人の顔色が一気に変わった。「はい。すべて正式な手続きを経て、公証も完了しています」電話を切ったあと、二人は顔を見合わせた。「いったいあの子、何を考えているの……?」伊藤夫人は焦燥に駆られたように部屋を行ったり来たりした。「昨夜のパーティーでは、あんなに穏やかだったのに……」「明らかに様子が変だ」紗季の父は眉をひそめた。「紗季は衝動で動くタイプじゃない。どうしてすべてを美優に……そんなの、あの子らしくない」「まさか……」伊藤夫人は言い淀みながらも言葉を続けた。「蒼汰と美優の婚約を見て、ショックを受けたんじゃ……?」「電話しろ!」「もうしたわよ、でも電源が切れてるの!」伊藤夫人の声はさらに切迫したものに変わった。「昨晩のパーティーが終わってから、一人で帰ったのよ。今日ちゃんと話そうと思ってたのに……」「よく言うよ!」紗季の父は突然怒りを露わにした。「普段から美優ばかり褒めてさ、紗季のことは強すぎるとか言ってただろ。今になって、紗季が全部を美優に譲って、満足か?」「私だって想像してなかったわよ!美優が可哀想だと思っただけで……でも紗季は、私の実の娘なのよ!」「今さらそんなこと言っても始まらん!まずは見つけるのが先決だ!」二人は慌てて電話をかけ始めた。紗季の友人、会社の関係者、ギャラリーのスタッフ――あらゆ
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第6話
黒崎家本邸。「紗季!」蒼汰は早足でベッドの傍に駆け寄り、手を伸ばして彼女の額に触れた。 「なんでこんなに冷たいんだ?田代さん、早く医者を呼んで!」美優もあとから部屋に入ってきて、心配そうなふりをする。 「お姉ちゃん、どうしたの?昨日はすごく疲れてたから……そのせい?」「末期のがんです」田代おばさんは扉のところに立ち、落ち着いた声で言った。 「奥様は、すでに亡くなりました」「なんだって?」蒼汰は眉をひそめた。 「そんな冗談言うなよ。昨夜はまだ元気だったじゃないか」彼は携帯を取り出し、主治医に連絡を取ろうとしたが、田代おばさんが止めた。 「黒崎さま。奥様は亡くなってから、すでに二時間経っています」「ありえない」蒼汰は首を振った。だがその語調に悲しみはなく、苛立ちのほうが強かった。 「きっとまた同情を買おうとしてるだけだ。美優も言ってただろ?最近、仮病ばかり使ってたって」「仮病?」田代おばさんは冷たい笑みを浮かべた。 「じゃあこちらをご覧ください」彼女はベッド脇の引き出しを開けた。中には空になった薬瓶がずらりと並んでいた。 「これはすべて致死量の鎮痛剤です。夫人は三日間、痛みに耐えながらこれを飲み続けていたんです。あなたたちに悟られないように」「彼女は……」蒼汰が何か言おうとしたが、田代おばさんが続けた。「三日前、医者は余命七十二時間と告げました。その唯一の治療の機会は、あなたが美優さんに与えたんですよ」美優はすぐに目を潤ませた。 「そんな……お姉ちゃんの病気がそこまで深刻だったとは知らなかった……どうして言わなかったの?」「言ったところで、治療の機会を返してあげましたか?」 田代おばさんの問いに、美優は口を噤んだ。「私……もし知ってたら、きっと……」「もういい」蒼汰が苛立ったように話を遮った。 「もう亡くなったんだ。今さら何を言っても無意味だろう」彼はベッドの紗季を見つめ、眉間に皺を寄せた。 「本当に頑固な人だった。具合が悪くても何も言わずに……こんなことになって」田代おばさんは信じられないという目で彼を見た。 「黒崎さま、奥様が亡くなったばかりなんですよ。その言い方はあまりにも……」「事実を言ったまでだ」 蒼汰は冷たい表情で言い放った。 「
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第7話
車内で、伊藤夫人は何度も娘に電話をかけていた。「まだ電源が切られてるわ……」 焦った表情で夫を見つめる。「紗季がこんなに長いこと電話に出ないなんて、今までなかったのよ」「落ち着いて。蒼汰に電話してみる」 紗季の父は運転しながらスマホを操作した。長いコールの後、ようやく電話が繋がった。「お義父さん……?」蒼汰の声は低く、疲れきっていた。「蒼汰、紗季はそっちにいるのか?」 紗季の父が切迫した声で聞いた。「彼女の携帯は電源が切れてる。連絡がつかないんだ。弁護士から聞いたんだが、彼女が全財産を美優に譲ったって……まさかとは思うが……」受話器の向こうで数秒の沈黙が流れた。「お義父さん、お義母さん……今、どこにいますか?」「今、そっちに向かってるところよ!」 伊藤夫人が電話を奪い取った。「蒼汰、紗季はそこにいるの!?無事なの!?ねぇ、お願い、教えて!」「……早く来てください」蒼汰の声はさらに低く沈んだ。「なにがあったの!?」伊藤夫人の心臓が跳ね上がった。「紗季に……紗季に何かあったの!?ねぇ、お願い、言ってよ!」「お義母さん……来ればわかります……」そのまま電話が切れた。伊藤夫人は夫に顔を向けた。二人とも顔面を蒼白にしていた。「急いで!お願い、早く!」 伊藤夫人は叫んだ。「絶対、何かあったのよ……私の娘に……!」二十分後、車は黒崎家の大きな屋敷の前に到着した。正門が開け放たれており、庭には黒い車が一台停まっている――それは葬儀社の車だった。「いや……」伊藤夫人の膝が崩れた。「そんなはずない……!」二人はよろめくように門を通り、家の中へ駆け込んだ。リビングでは、美優がソファに座り、目を真っ赤に腫らしていた。蒼汰は窓際に立ち、背中を向けていた。「紗季は!?」伊藤夫人の声は震えていた。「うちの娘は、どこなの!?」蒼汰がゆっくりと振り返る。血走った目が、一瞬二人を捉えた。「お義父さん……お義母さん……」「どこだ」紗季の父は扉の枠に手をつき、声を震わせながら言った。「教えてくれ、紗季はどこにいるんだ!?」「二階です」田代おばさんが階段から降りてきた。顔には深い悲しみの色が浮かんでいる。 「伊藤様、奥様……ご愁傷様です」「ご愁傷様って……」
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第8話
蒼汰は手紙を読みながら、手の震えがどんどんひどくなっていった。 手紙には紗季の病状、彼女自身の選択、そして最後の三日間の心の葛藤が詳細に綴られていた。紗季の母親は途中まで読んだところで崩れ落ちた。 「私の娘が……可哀想な娘が……!」その時、田代おばさんがテレビをつけ、USBを差し込んだ。 「これは紗季様が今日、必ず流してほしいとおっしゃったものです」モニターには三日前の病院での出来事が鮮明に映し出されていた。 蒼汰は何のためらいもなく、美優に治療の機会を譲った。紗季の意向を聞くことすらせずに。その後、音声が再生された――美優とその愛人・福田直也(ふくだ なおや)との会話。 一言一言が鋭利な刃のように、場にいた全員の心を切り裂いていった。「計画は順調よ。紗季はもうすぐ死ぬわ」「君、何年も仮病を続けてたのに、まったく疑われていなかったね……」リビングは沈黙に包まれた。まるで時間が止まったかのようだった。「違う!これは偽物よ!」美優がヒステリックに叫ぶ。だが、誰も彼女の言い訳に耳を貸そうとはしなかった。 田代おばさんはさらに証拠を差し出す。偽造された検査結果、金の流れを示す記録、美優と直也の親密な写真……真実は、山のように圧し掛かってきた。「お前だったのか!」蒼汰の目は血走り、怒りで声を震わせた。 「お前が……紗季を殺したんだ!」彼は美優に飛びかかり、その喉を締め上げた。「パパ!」萌花の声が、その場の空気を一変させた。 階段の上に立つ小さな女の子が、不思議そうに混乱する大人たちを見下ろしていた。「どうしたの?」小さな眉をひそめながら言った。 「美優ママ、なんで床に座ってるの?」誰も答えなかった。「ママは?」 萌花はリビングを見回しながら、まるで他人のことのように淡々と尋ねた。 「またどこか行っちゃったの?」「萌花……」蒼汰の声が詰まる。「何よ?」萌花は苛立ったように足を踏み鳴らした。 「今日、美優ママと遊園地行くって言ったでしょ?」「萌花」田代おばさんが萌花の前にしゃがみ込んだ。 「あなたのママはね……とっても遠いところへ行っちゃったのよ」「ふーん」萌花は驚くほど冷静に頷いた。 「じゃあ、いつ帰ってくるの?」「それがね……もう帰って
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第9話
美優が連れ去られた後、伊藤家の豪邸はまるで死んだように静まり返った。蒼汰は紗季の遺体のそばに座り込み、魂が抜けたように動かない。彼のスマートフォンはひっきりなしに鳴り続けていた。取締役やビジネスパートナー、メディア関係者――誰もが何が起きたのかを問いただしていたが、蒼汰は一通も応じなかった。「旦那様……」 田代おばさんがそっと声をかける。 「葬儀社の方が来られました」蒼汰は勢いよく顔を上げた。 「ダメだ!彼女を連れて行かないでくれ!」だが、それが叶わぬ願いであることを彼自身が一番わかっていた。 紗季はもういない。永遠に――階下では、紗季の両親がまだ証拠資料をめくっていた。それぞれの書類、録音データの一つ一つが、心を切り裂く刃のように彼らを責め立てる。「この日付……」 母親が震える指で医療明細を指す。 「去年のクリスマス、紗季はもうガンを見つけてたのね……」「でも、何も言わなかった……」 紗季の父の声はまるで一気に十歳老け込んだようだった。田代おばさんがゆっくりと近づいてきた。 「その日、美優が急病で、皆さん病院に付き添っておられましたから。紗季様はご迷惑をかけたくなかったんです」母親は顔を手で覆い、声を上げて泣き崩れた。 「私たちは……何をしてしまったの……!」そのとき、島村弁護士が駆けつけてきた。彼がもたらしたのは、さらに衝撃的な知らせだった。「紗季さんは、三日前に遺言を変更していました」 島村弁護士は静かに書類を広げた。 「全財産を美優さんに譲渡する形です。ただし……」「ただし……何?」「この譲渡には特別条項がついています。受益者が犯罪行為に関与していた場合、全財産は自動的に『紗季慈善基金』へ移されることになります」蒼汰は呆然としながら呟いた。 「慈善基金……?」「はい。ガン患者専門の支援基金です」 島村弁護士は一呼吸置き、続けた。 「つまり、美優さんは一円も受け取れません」紗季は、すべてを見越していたのだ。命を賭けて罠を張り、美優の罪を暴き出し、同時に一切の利益を与えなかった。「それと、こちらも」 島村弁護士がもう一通の封筒を取り出す。 「これは紗季さんが萌花ちゃん宛に書いた手紙です。18歳の誕生日に渡すようにと。それと、100億
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第10話
一ヶ月後。蒼汰は毎日、紗季の墓前に座りに行った。いつも萌花を連れて行ったが、小さな女の子はいつも嫌がっていた。「パパ、なんでまたここに来るの?」萌花は小石を蹴りながら聞いた。「ここには、君を愛してくれた人が眠ってるんだよ」「でも、その人、全然遊んでくれないじゃん」萌花は口を尖らせた。「美優ママがね、本当に私のことを愛してる人は、ずっと一緒にいてくれるって言ってたよ」蒼汰の心はまた砕けた。たった五歳の子供に、「ずっと一緒にいてくれる」と言った人が嘘つきで、「遊んでくれない」と言われた人こそが命を懸けて愛してくれた――そんなこと、どう説明すればいいのか分からなかった。美優には無期懲役の判決が下された。法廷でも彼女は「すべては紗季の罠だった」と言い張っていたが、動かぬ証拠がそろっており、誰も信じなかった。紗季の両親は家を売り払い、海外へ引っ越した。故郷にいれば、失った娘の面影があちこちに残っていてつらいという理由だった。旅立つ前、母親は紗季の墓前で長い間膝をつき、動かなかった。「もし生まれ変わることができるなら……」嗚咽混じりに言った。「母さんは、今度こそあなただけを愛するよ」紗季の遺志により、彼女が経営していたギャラリーはメトロポリタン美術館に寄贈された。オープニングの日には、特別に紗季の追悼展が開催され、生前に彼女が集めた作品が展示された。中でも一枚の絵が来場者の目を引いた――それは紗季自身が描いたもので、海辺を走る小さな女の子が描かれていた。その裏面には、小さな文字でこう添えられていた。【愛しの萌花へ。ママはいつまでもあなたを愛してる。2019年作】それは、萌花が生まれて二年目のことだった。五年後。十歳になった萌花は、ある日アルバムをめくりながら蒼汰に聞いた。「ねえパパ、なんで私とママのツーショット、こんなに少ないの?」蒼汰の手が一瞬止まった。「それは……ママが忙しかったから、かな」「ふうん」萌花はページをめくり続けた。「でも、ママって写真の中でいつも私のこと見て笑ってるよね」「うん。ママは君のこと、本当に大好きだったから」「でもね、美優ママは……」萌花は途中で口を閉ざした。刑務所にいる美優のことは、もう彼女が口にしたくない存在になっていた。その夜、萌花は夢を見た。夢
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