「最新型の実験療法がなければ、あと72時間の命です」 医者はそう言った。 でも、そのたった一つの治療枠は黒崎蒼汰(くろさき そうた)が佐倉美優(さくら みゆう)に与えた。 「彼女の腎不全の方が深刻だから」と、彼は言った。 私はうなずいて、死を早めるとされる白い錠剤を飲み込んだ。 残された時間で、私はたくさんのことをした。 署名のとき、弁護士の手は震えていた。 「……400億円相当の株を、すべて譲渡するおつもりですか?」 「ええ、美優に全部です」 娘の萌花は、美優の腕の中で嬉しそうに笑っていた。 「美優ママがね、新しいワンピース買ってくれたの!」 「よく似合ってるよ。これからは美優ママの言うことをちゃんと聞くのよ」 私が自ら築き上げたあのギャラリーも、今では美優の名前が掲げられている。 「お姉ちゃん……本当に、ありがとう……」彼女は涙を流して言った。 「あなたの方が、きっと上手く経営できるわ」 両親の信託基金さえ、私は署名して放棄した。 蒼汰はようやく、長年見せたことのなかった心からの笑みを浮かべた。 「紗季、君……変わったな。もうあんなに尖ってない。今のお前、本当に綺麗だよ」 そう、死にかけの私こそが、ついに彼らの求める「完璧な伊藤紗季」になった。 従順で、寛大で、決して争わない伊藤紗季(いとう さき)。 残された72時間のカウントダウンは、もう始まっている。 私はふと、思った。 心臓が止まる瞬間、彼らは私のことをどう記憶するのだろう? 「ついに手放すことを覚えた良き妻」? それとも―― 「死をもって復讐を遂げた女」?
View More夕暮れ時、一人の若い女性が墓前に現れた。「あなたは……?」 萌花は不思議そうに彼女を見つめた。「加藤優奈(かとう ゆうな)と申します。膵臓癌の患者でした」 女性の目には涙がにじんでいた。 「五年前、紗季基金のおかげで助かったんです。今日は、あなたのお母様にお礼を言いに来ました」「きっと、聞こえてますよ」 萌花はそっと答えた。優奈は花束を置き、深く頭を下げた。 「紗季さん、本当にありがとうございました。あなたがいてくれたから、私は今日まで生きることができました。子どもが成長する姿を見届けることができました」こういう光景を、萌花は何度も目にしてきた。 基金から救いの手を差し伸べられた人たちは、皆、紗季という名前を忘れなかった。母が命をかけて遺したものは、家族の後悔だけじゃない。 それは、数えきれないほどの人々の、第二の人生でもあった。夜が訪れ、萌花はようやく立ち上がり、帰る準備を始めた。「ママ」 墓碑に最後の視線を向けながら、ポツリとつぶやいた。 「前に聞いてたよね。私たちは、あなたのことを思い出すかって。答えは……毎日、毎瞬、永遠に」家へ向かう道すがら、萌花は母の遺した日記を開いた。 18歳の誕生日に渡された、大切な一冊。 紗季が妊娠してから、萌花が五歳になるまでの記録が、びっしりと綴られていた。最後のページは、紗季が亡くなる一週間前に書いたものだった――【私の大切な萌花へ 今日もまた、美優ママって呼んだね。胸が痛かったけど、怒ってはいないよ。 あなたはまだ小さくて、ほんとのことを見分けられないだけ。 いつか大人になったとき、全部わかったとき、自分を責めすぎないでね。 ママは一度もあなたを責めたことなんてない。これからも絶対にない。 だって、あなたを愛することが、私の人生で一番幸せなことだから】日記の最後のページには、かすれた字でこう綴られていた。――【生まれ変わっても、あなたのママになりたい】萌花は日記を抱きしめたまま、涙を止められなかった。窓の外、街はいつも通り賑やかで、日常は続いていく。 けれどその片隅には、いつまでも埋まらない穴がある。 紗季という名の穴が。それは、命で母の愛を語った女性。 「やっと従順になった」女
二十年後。萌花はギャラリーの大きな窓の前に立ち、外に広がる華やかな街並みを見下ろしていた。彼女は母・紗季の美貌を受け継ぎ、そして生まれつきの商才までも引き継いでいた。二十五歳にして、すでにアート業界の新星として注目を集めている。「萌花さん、インタビューの時間です」 アシスタントが静かに声をかけた。今日は『タイム』誌の特集インタビュー。「母の跡を継ぐ者――紗季の娘が築くアート帝国」というテーマだった。「萌花さん、あなたとお母様はとてもよく似ていると言われますが、どう思いますか?」 記者が問いかける。萌花はしばらく沈黙し、それから静かに答えた。 「私は、母にはなれません」「それはどうしてですか?」「母は二十九年の人生で、本当の愛というものを教えてくれました。でも私は、十八年かけてやっと後悔というものを知ったんです」記者は、その家族の過去を知っていたのだろう。それ以上、質問を重ねることはなかった。インタビューが終わると、萌花は自ら車を運転して墓地へ向かった。今日は紗季の命日。毎年この日は、必ず母のもとを訪れる。墓前にはすでにたくさんの花が供えられていた。蒼汰が送ったものもあれば、生前の友人たちからのもの、そして見知らぬ誰かからの花もある。紗季が設立した慈善基金は、これまでに何千人ものがん患者を救ってきた。その恩に報いようと、花束を捧げて感謝を伝えに来る人々が後を絶たない。「やっほー、ママ、また来たよ」 萌花は墓石の前に腰を下ろし、いつものように話しかけた。風が墓地を通り抜けていき、まるで返事のようだった。「ギャラリー、今年は二億の利益が出たよ」 萌花はささやくような声で続けた。 「きっと誇りに思ってくれるよね。ママの日記に書いてあったもん。いつか全国で一番のギャラリーにしたいって。今、それが叶ったよ」少し間を置いてから、続けて言った。「パパは相変わらずだよ。あの出来事以来、誰とも付き合ってないの。ママを一度傷つけたから、もう二度と誰かを愛する資格がないって。おじいちゃんもおばあちゃんも、去年立て続けに亡くなったよ。逝く前にね、ママに伝えてって言われたの。『ずっと愛してた。気づくのが遅すぎたけど』って。それから……美優」 萌花の声が少し震える。 「刑務所の中で、壊れちゃ
一ヶ月後。蒼汰は毎日、紗季の墓前に座りに行った。いつも萌花を連れて行ったが、小さな女の子はいつも嫌がっていた。「パパ、なんでまたここに来るの?」萌花は小石を蹴りながら聞いた。「ここには、君を愛してくれた人が眠ってるんだよ」「でも、その人、全然遊んでくれないじゃん」萌花は口を尖らせた。「美優ママがね、本当に私のことを愛してる人は、ずっと一緒にいてくれるって言ってたよ」蒼汰の心はまた砕けた。たった五歳の子供に、「ずっと一緒にいてくれる」と言った人が嘘つきで、「遊んでくれない」と言われた人こそが命を懸けて愛してくれた――そんなこと、どう説明すればいいのか分からなかった。美優には無期懲役の判決が下された。法廷でも彼女は「すべては紗季の罠だった」と言い張っていたが、動かぬ証拠がそろっており、誰も信じなかった。紗季の両親は家を売り払い、海外へ引っ越した。故郷にいれば、失った娘の面影があちこちに残っていてつらいという理由だった。旅立つ前、母親は紗季の墓前で長い間膝をつき、動かなかった。「もし生まれ変わることができるなら……」嗚咽混じりに言った。「母さんは、今度こそあなただけを愛するよ」紗季の遺志により、彼女が経営していたギャラリーはメトロポリタン美術館に寄贈された。オープニングの日には、特別に紗季の追悼展が開催され、生前に彼女が集めた作品が展示された。中でも一枚の絵が来場者の目を引いた――それは紗季自身が描いたもので、海辺を走る小さな女の子が描かれていた。その裏面には、小さな文字でこう添えられていた。【愛しの萌花へ。ママはいつまでもあなたを愛してる。2019年作】それは、萌花が生まれて二年目のことだった。五年後。十歳になった萌花は、ある日アルバムをめくりながら蒼汰に聞いた。「ねえパパ、なんで私とママのツーショット、こんなに少ないの?」蒼汰の手が一瞬止まった。「それは……ママが忙しかったから、かな」「ふうん」萌花はページをめくり続けた。「でも、ママって写真の中でいつも私のこと見て笑ってるよね」「うん。ママは君のこと、本当に大好きだったから」「でもね、美優ママは……」萌花は途中で口を閉ざした。刑務所にいる美優のことは、もう彼女が口にしたくない存在になっていた。その夜、萌花は夢を見た。夢
美優が連れ去られた後、伊藤家の豪邸はまるで死んだように静まり返った。蒼汰は紗季の遺体のそばに座り込み、魂が抜けたように動かない。彼のスマートフォンはひっきりなしに鳴り続けていた。取締役やビジネスパートナー、メディア関係者――誰もが何が起きたのかを問いただしていたが、蒼汰は一通も応じなかった。「旦那様……」 田代おばさんがそっと声をかける。 「葬儀社の方が来られました」蒼汰は勢いよく顔を上げた。 「ダメだ!彼女を連れて行かないでくれ!」だが、それが叶わぬ願いであることを彼自身が一番わかっていた。 紗季はもういない。永遠に――階下では、紗季の両親がまだ証拠資料をめくっていた。それぞれの書類、録音データの一つ一つが、心を切り裂く刃のように彼らを責め立てる。「この日付……」 母親が震える指で医療明細を指す。 「去年のクリスマス、紗季はもうガンを見つけてたのね……」「でも、何も言わなかった……」 紗季の父の声はまるで一気に十歳老け込んだようだった。田代おばさんがゆっくりと近づいてきた。 「その日、美優が急病で、皆さん病院に付き添っておられましたから。紗季様はご迷惑をかけたくなかったんです」母親は顔を手で覆い、声を上げて泣き崩れた。 「私たちは……何をしてしまったの……!」そのとき、島村弁護士が駆けつけてきた。彼がもたらしたのは、さらに衝撃的な知らせだった。「紗季さんは、三日前に遺言を変更していました」 島村弁護士は静かに書類を広げた。 「全財産を美優さんに譲渡する形です。ただし……」「ただし……何?」「この譲渡には特別条項がついています。受益者が犯罪行為に関与していた場合、全財産は自動的に『紗季慈善基金』へ移されることになります」蒼汰は呆然としながら呟いた。 「慈善基金……?」「はい。ガン患者専門の支援基金です」 島村弁護士は一呼吸置き、続けた。 「つまり、美優さんは一円も受け取れません」紗季は、すべてを見越していたのだ。命を賭けて罠を張り、美優の罪を暴き出し、同時に一切の利益を与えなかった。「それと、こちらも」 島村弁護士がもう一通の封筒を取り出す。 「これは紗季さんが萌花ちゃん宛に書いた手紙です。18歳の誕生日に渡すようにと。それと、100億
蒼汰は手紙を読みながら、手の震えがどんどんひどくなっていった。 手紙には紗季の病状、彼女自身の選択、そして最後の三日間の心の葛藤が詳細に綴られていた。紗季の母親は途中まで読んだところで崩れ落ちた。 「私の娘が……可哀想な娘が……!」その時、田代おばさんがテレビをつけ、USBを差し込んだ。 「これは紗季様が今日、必ず流してほしいとおっしゃったものです」モニターには三日前の病院での出来事が鮮明に映し出されていた。 蒼汰は何のためらいもなく、美優に治療の機会を譲った。紗季の意向を聞くことすらせずに。その後、音声が再生された――美優とその愛人・福田直也(ふくだ なおや)との会話。 一言一言が鋭利な刃のように、場にいた全員の心を切り裂いていった。「計画は順調よ。紗季はもうすぐ死ぬわ」「君、何年も仮病を続けてたのに、まったく疑われていなかったね……」リビングは沈黙に包まれた。まるで時間が止まったかのようだった。「違う!これは偽物よ!」美優がヒステリックに叫ぶ。だが、誰も彼女の言い訳に耳を貸そうとはしなかった。 田代おばさんはさらに証拠を差し出す。偽造された検査結果、金の流れを示す記録、美優と直也の親密な写真……真実は、山のように圧し掛かってきた。「お前だったのか!」蒼汰の目は血走り、怒りで声を震わせた。 「お前が……紗季を殺したんだ!」彼は美優に飛びかかり、その喉を締め上げた。「パパ!」萌花の声が、その場の空気を一変させた。 階段の上に立つ小さな女の子が、不思議そうに混乱する大人たちを見下ろしていた。「どうしたの?」小さな眉をひそめながら言った。 「美優ママ、なんで床に座ってるの?」誰も答えなかった。「ママは?」 萌花はリビングを見回しながら、まるで他人のことのように淡々と尋ねた。 「またどこか行っちゃったの?」「萌花……」蒼汰の声が詰まる。「何よ?」萌花は苛立ったように足を踏み鳴らした。 「今日、美優ママと遊園地行くって言ったでしょ?」「萌花」田代おばさんが萌花の前にしゃがみ込んだ。 「あなたのママはね……とっても遠いところへ行っちゃったのよ」「ふーん」萌花は驚くほど冷静に頷いた。 「じゃあ、いつ帰ってくるの?」「それがね……もう帰って
車内で、伊藤夫人は何度も娘に電話をかけていた。「まだ電源が切られてるわ……」 焦った表情で夫を見つめる。「紗季がこんなに長いこと電話に出ないなんて、今までなかったのよ」「落ち着いて。蒼汰に電話してみる」 紗季の父は運転しながらスマホを操作した。長いコールの後、ようやく電話が繋がった。「お義父さん……?」蒼汰の声は低く、疲れきっていた。「蒼汰、紗季はそっちにいるのか?」 紗季の父が切迫した声で聞いた。「彼女の携帯は電源が切れてる。連絡がつかないんだ。弁護士から聞いたんだが、彼女が全財産を美優に譲ったって……まさかとは思うが……」受話器の向こうで数秒の沈黙が流れた。「お義父さん、お義母さん……今、どこにいますか?」「今、そっちに向かってるところよ!」 伊藤夫人が電話を奪い取った。「蒼汰、紗季はそこにいるの!?無事なの!?ねぇ、お願い、教えて!」「……早く来てください」蒼汰の声はさらに低く沈んだ。「なにがあったの!?」伊藤夫人の心臓が跳ね上がった。「紗季に……紗季に何かあったの!?ねぇ、お願い、言ってよ!」「お義母さん……来ればわかります……」そのまま電話が切れた。伊藤夫人は夫に顔を向けた。二人とも顔面を蒼白にしていた。「急いで!お願い、早く!」 伊藤夫人は叫んだ。「絶対、何かあったのよ……私の娘に……!」二十分後、車は黒崎家の大きな屋敷の前に到着した。正門が開け放たれており、庭には黒い車が一台停まっている――それは葬儀社の車だった。「いや……」伊藤夫人の膝が崩れた。「そんなはずない……!」二人はよろめくように門を通り、家の中へ駆け込んだ。リビングでは、美優がソファに座り、目を真っ赤に腫らしていた。蒼汰は窓際に立ち、背中を向けていた。「紗季は!?」伊藤夫人の声は震えていた。「うちの娘は、どこなの!?」蒼汰がゆっくりと振り返る。血走った目が、一瞬二人を捉えた。「お義父さん……お義母さん……」「どこだ」紗季の父は扉の枠に手をつき、声を震わせながら言った。「教えてくれ、紗季はどこにいるんだ!?」「二階です」田代おばさんが階段から降りてきた。顔には深い悲しみの色が浮かんでいる。 「伊藤様、奥様……ご愁傷様です」「ご愁傷様って……」
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