Masuk礼拝堂を後にしたアデーレは、一人バルダート家の屋敷に続く坂道を上っていた。
この道は港から続く大通りで、馬車も通れるよう頑丈な石畳によって舗装されている。
バルダートのお嬢様と最悪の出会いを果たしたのも、この場所だった。
バルダート家がこの地に別邸を持ったのは、避暑のためである。
シシリューア島は周囲の島々に比べると、地熱の影響により気温が高いらしい。
だからロントゥーサ島の、風通しが良く港からも近い土地に別邸を建てたそうだ。
(だからって、歩いて通うのにこの坂はちょっと大変だ)
額に汗をにじませながら、アデーレは屋敷へ続く坂道を上る。
勾配は緩やかだが、それでも今日の晴天はほどほどに疲労を蓄積させてくる。
これが夏本番になると、気温はさらに上昇する。
こうなると、たとえ実家が近いとはいえ、屋敷の使用人部屋で住み込みという選択肢も出てくる。
なお、その場合の父の反応は、推し量るまでもなく容易に想像がつく。
そんな、アデーレ・サウダーテとしての日常。
これまでを振り返り、そしてこれからに思いを馳せ……。
時折思うのは、この先自分はどういう人生を送るのだろうということだ。
今はまだ、佐伯 良太として歩んだ時間の方が長い。
だが後十年も経たずして、アデーレは良太の享年を超えることとなる。
今後、アデーレとしてそれらしい人生を送るのだろう。
では、過去に置いてきた良太の人生……夢はどうなってしまうのだろうか。
(終わったことだってのは、分かってはいるんだけど……)
テレビの中のヒーローと出会い、自分も彼らに命を吹き込む側になりたいと願った。
この世界でその夢が叶うことは、まずないだろう。
だが、今もその時の記憶や感覚を、はっきりと思い出せてしまうのだ。
そして夢を叶えようと努力した、佐伯 良太の日々を。
諦め悪く朝のジョギングを続けてしまう、【生前の】日課を。
叶わないのなら、最初から思い出したくはなかった。
ただのアデーレ・サウダーテとして、優しい人々との幸せな人生を送りたかった。
今も続ける朝のトレーニングも、特撮を見て初めて受けた感銘も。
アデーレにとって、それは呪い。決して外すことのできない
どれだけ目を背けようとも、記憶の方が勝手に湧き上がってくるのだ。
「……考え過ぎってのは、分かるんだけどね」
誰に言うわけでもなくつぶやく。
見上げた空は、相変わらず雲一つない突き抜けた青だ。
――空を、巨大な影が横切る。
「えっ?」
海の方から飛来したその影を、自然と目で追いかけるアデーレ。
直後、先の道から巨大な炸裂音が響いた。
地面は激しく揺れ、石畳の破片が周囲へまき散らされる。
音に合わせて土が煙のように舞い、道の先を見通すことが出来ない。
周囲の人々は悲鳴を上げ、続々と土煙の中から坂を下って逃げ去る。
しかし突然のことに、目の前で起きる異常を前に、アデーレの脚はその場で凍り付いてしまっていた。
人々が出てくる土煙の先から、目が離せないのだ。
何か、巨大な影が土煙の中で大きくうごめく。
「ウオオォォォォォォォッ!!」
その中から、人のものとは思えない雄たけびが響く。
強烈な音圧により土煙が吹き飛ばされ、遮られていた前方の視界がクリアになる。
「なっ……」
アデーレの顔が、一気に青ざめる。
土煙の先にいた影の正体は、巨大な翼を持つ首長の怪鳥だった。
大きさは三メートルほどか。虹色の羽毛で覆われた体と、鋭いかぎ爪が目立つ脚。
頭部には赤いとさかがあり、黄色の中に光のない黒点が浮かぶ目玉は、見る者に否応なしの恐怖心を掻き立てさせる。
金属を思わせる光沢を見せる鋭く巨大なくちばしが、命を奪う事だけに特化したものだというのは明らかだ。
こんな怪物が、なぜこの島に来たのか。
混乱するアデーレ。だがそれ以上に、この場を離れなければという危機感が脳内を巡る。
ようやく体の硬直が解け、震える脚で後ずさるアデーレ。
しかし彼女の震えは突然収まり、再びその場で立ち止まる。
「ああ、何で気付いちゃうんだろう」
振り返ろうとしたその瞬間、怪鳥の足元にいる小さな影に気が付いてしまった。
それは、栗毛がよく似合う少年だった。
服装は地元民と比べると少々身なりはいい。
避暑のために家族と島に来たのだろうか。
そんな少年が、この世のものとは思えない怪鳥に睨まれていた。
少年は動くことも声を上げることもせず、へたり込んで怪鳥を見上げている。
身を震わせ、抵抗することも出来ず、殺されるのを待つだけの状態。
その姿を前に、アデーレの脳裏に良太の最期が想起される。
誰かを助けるために、命を落としたあの瞬間。
思い上がりから常識はずれの行動に及んだ、あまりにも無謀な自身の姿。
全身の血液が失われていく、氷に触れたかのような冷たい感触……。
(後悔しているのかな、自分は)
無謀の末に、夢を失った。
後悔はしていない……いや、それはただの言い訳だ。未練は今でも胸中でくすぶっている。
それでも、良太は自分の行動を悔いてはいなかった。
アデーレとして生まれ変わったからこそ、良太の命と共に失われるはずだった複雑な感情を知ってしまった。
なのに……それなのに。いや、だからこそか。
気付いたときには、アデーレは手にした荷物を投げ捨て、子供の方へと駆け出していた。
(間に合えッ!)
怪鳥の視線は、子供の方へ向けられたままだ。
アデーレは信じる。まだ助けられるはずだと。
やはり、夢とはアデーレにとって呪いなのだろう。
あの時と同じ無謀な行動を、もう一度繰り返そうとしているのだから。
たとえ生まれ変わっても、空想のヒーローに対する憧れは深く、深く、刻まれていた。
佐伯 良太は過去の人間なのに、その魂はアデーレの中で生き続けていた。
怪鳥が頭を上げ、少年めがけてくちばしを振り下ろそうと構える。
アデーレの距離はまだ遠く、少年には手が届かない。
それでも脚は止めない。まだ間に合うと信じて、アデーレは手を伸ばす。
少年が生きている限り、諦めたくはないと願う。
(間に合え……間に合え……ッ!)
だが、無情にも怪鳥の首が振り下ろされる。
アデーレの手は、まだ届かない。
それでも走り、手を伸ばし続ける。
(間に合ってッ!!)
……それは、二つの魂が同じ願いを叫んだようで。
伸ばした手の先が強い熱を帯び、視界をまばゆい光が遮った。
礼拝堂を後にしたアデーレは、一人バルダート家の屋敷に続く坂道を上っていた。 この道は港から続く大通りで、馬車も通れるよう頑丈な石畳によって舗装されている。 バルダートのお嬢様と最悪の出会いを果たしたのも、この場所だった。 バルダート家がこの地に別邸を持ったのは、避暑のためである。 シシリューア島は周囲の島々に比べると、地熱の影響により気温が高いらしい。 だからロントゥーサ島の、風通しが良く港からも近い土地に別邸を建てたそうだ。 (だからって、歩いて通うのにこの坂はちょっと大変だ) 額に汗をにじませながら、アデーレは屋敷へ続く坂道を上る。 勾配は緩やかだが、それでも今日の晴天はほどほどに疲労を蓄積させてくる。 これが夏本番になると、気温はさらに上昇する。 こうなると、たとえ実家が近いとはいえ、屋敷の使用人部屋で住み込みという選択肢も出てくる。 なお、その場合の父の反応は、推し量るまでもなく容易に想像がつく。 そんな、アデーレ・サウダーテとしての日常。 これまでを振り返り、そしてこれからに思いを馳せ……。 時折思うのは、この先自分はどういう人生を送るのだろうということだ。 今はまだ、佐伯 良太として歩んだ時間の方が長い。 だが後十年も経たずして、アデーレは良太の享年を超えることとなる。 今後、アデーレとしてそれらしい人生を送るのだろう。
その日は一日、屋敷の掃除に明け暮れることとなった。 拭き掃除に掃き掃除、使われていなかった家具を磨き本家から運ばれた食器を磨き……。 幸いだったのは、夕暮れまでに帰宅することが許されたことだろうか。 「そう。そんなに急なお話だったの」 テーブルに突っ伏すアデーレを、食器を片付けるサンドラが心配そうに見つめる。 いつもは率先して家事を手伝うアデーレだが、慣れない重労働で動く気力を失っていた。 「家事ならって……正直、なめてた」 「さすがバルダート家のお屋敷だな。掃除一つ取ってもうちの比じゃなかったんだね」 顔を上げずに話すアデーレの肩を、ヴェネリオが優しくさする。 「それだけじゃないよ。あんなに広いのに人が少ないし」 メリナと仕事を進めていくうちに、アデーレは気づいたことがあった。 それは、メリナのような経験を積んだベテランの使用人が、一人か二人の新米使用人を連れて仕事をしてたということだ。 ベテランの使用人は、おそらくメリナを含めて十人ほど。 彼女達が率いる新人は、同年代の顔見知りばかりだった。 顔見知りが多いのは気楽だが、未経験者ばかりでは手際が悪い。 そうなると仕事量は増え、一人ひとりの負担も大きくなる。 その結果が、帰るなり息も絶え絶えのアデーレというわけだ。 (メリナさんもそうだけど、先輩たちの手際
その日の夜……。「えっ、ドゥラン様のところへご奉公に行くの?」 ランプの明かりに照らされたダイニングで、家族と夕食を囲んでいたアデーレ。 向かい側に座る両親との話題は、昼間のメリナと交わしたやり取りだ。 真っ先に反応したのは母のサンドラ。 アデーレは母親似で、特に背中の辺りまで伸ばした青交じりの黒髪はサンドラ譲りだ。「やってみないかって誘われただけだから。確かに六年前のことはあるけど……」 六年前のことは、島の者なら誰でも知っている。 大貴族バルダート家の一人娘に楯突いた農家の娘。 そのことで忌諱されるなどといったことはなかったが、良くも悪くも度胸がある子だと一目置かれることとなった。 あの頃は良太が物を知らなかっただけのことで、バルダート家がどういった家柄なのかもわからず口を挟んでしまった。 お嬢様ことエスティラの父、ドゥラン執政官。 執政官とは、ここシシリューア共和国における国家元首なのだ。 後にそのことを知ったアデーレ……というより良太は、いよいよ国のトップの娘に口出ししてしまったのかと、色々な意味で自分に感心してしまったものだ。 だが、後悔はしていないし、自分が悪いことをしたという認識もない。 何よりメリナと知り合えることも出来たのだ。今ではいい思い出だろう。一応は。「父さんは悪くないと思うよ。数年働けば、転職の際の紹介状も書いてもらえるらしいじゃないか」「そうは言ってもあなた、もしもエスティラお嬢様に目を付けられでもしたら」「なあに、あのドゥラン様のご息女だよ。六年も前のことを根に持つようなことはないさ」 手にしていたスプーンを皿に置いて、アデーレの顔色をうかがうサンドラ。 楽観的なヴェネリオに対し、やはりサンドラは娘の身を案じているようだ。「メリナさんが、一般の人はお嬢様に会うことはめったにないって」「そうかもしれないけど……やっぱり心配だわ」 サンドラのため息が、アデーレの耳に残る。 過保護を人の形にしたようなヴェネリオほどではないにしても、サンドラも人並みの母親以上の思いをアデーレに抱いていることが伺える。「まぁまぁ。それで、アデーレはどう考えているんだい?」「私は……一度屋敷に行ってみようと思う」 「そうか」とつぶやき、ヴェネリオが姿勢を改める。 アデーレの言葉を聞いたサ
良太の記憶を取り戻して、六年の歳月が過ぎた。 あれからアデーレの性格は、徐々に良太の人間性に引っ張られてしまった。 しかし彼女も元来おとなしい性格だったためか、周囲から違和感を抱かれたことは数えるほどしかない。 また、両親に恵まれなかった良太とは違い、アデーレの両親であるヴェネリオ、サンドラ夫妻は深い愛情を持っていた。 一人娘故の溺愛ともいえるが、農民なりに女性として満足のいく生活を送らせてあげようと、アデーレに着飾る機会などを与えてくれた。 今のアデーレは、良太が送った二十一年の人生と地続きになったような状態だ。 純粋なアデーレ・サウダーテとして育てられた十年の月日があったためか、幸いにも性別が変わったことを受け入れるのにそれほど時間が掛かることはなかった。 むしろ、そうでなければ……そんなことをふと思いつつ、着替え中の自身を鏡に映す。「中身、男のままだったらまずかったなぁ、これ」 そう言って、肌着越しに自分の胸に手をやる。 佐伯 良太としての率直な感想は、でかい。町でも上の方の大きさである。 おかげで町の男共の視線を集めるし、コルセットやら何やらは息が詰まる。 自分が女性であるという自覚があるからまだよかったが、着替える度に毎度ガチガチに抑え込むのは苦痛だった。 また、身長もかつての良太に比べれば低いとはいえ、女性としては高い方だろう。 東洋人では考えられない脚の長さについては、初めて気づいたときに感動してしまったほどだ。 とはいえ、男の頃の生活を思い出すと、今の身だしなみに気を遣わなければいけない生活は窮屈で仕方がない。 髪は伸ばした方が似合うと母に言われ、現在は長い髪を腰の上あたりで切りそろえている。 これを毎度キャップが収まるようまとめるのが、とにかく面倒なのだ。 大体これでは伸ばした意味があるのかと、アデーレとしては常日頃疑問に思っていた。「アデーレ、ちょっと来てくれないかしらー?」 扉越しに聞こえる母の声。 さすがに下着姿のまま自室を出る訳にもいかない。「ちょっと待っててー」 扉に向けて返事をするアデーレ。 そのまま周囲の衣服を手に取り、手早く朝の着替えを済ませるのだった。 ◇ 十六歳になったアデーレの仕事は、主に農作業の手伝いだ。 サウダーテ家の農場は港町
石灰の塗られた白い建物が並ぶ、石畳の大通り。 道の両側には店舗が並び、軒先に日よけを張り、野菜や日用雑貨が陳列されている。 路肩に積まれた木箱や樽。道行く人々。 日常の雑多な風景の中に、人々が取り巻く生活空間が生まれていた。 その中心にいるのは、眉を吊り上げ腕を組む、いかにも不機嫌そうな金髪の少女だ。 周囲の人々が着るくたびれた服とは違う、フリルをこしらえたピンク色のドレスは、彼女が高貴な家柄の人物であることを物語っている。 さて、そんな少女の前には、十代後半と思われる少女が膝立ちになり、何かを懇願している様子だった。 彼女の姿は黒いワンピースにエプロンドレス。白いキャップを被った明るい茶髪。 おそらくは、目の前の少女の家に仕える使用人だろう。「私のやることにケチ付けるとか、メイドのくせにっ」「で、ですが奥様からの言いつけですので、どうか」「いーやーだー!」 懇願する使用人に対し、お嬢様は耳を押さえてそっぽを向く。 状況の分からないアデーレだったが、それだけでお嬢様がわがままを通そうとしていることは分かる。 外見からして、彼女はまだ十歳に満たないくらいの子供だろう。 そうなれば、きっとアデーレと同じぐらいの年齢だ。 ただしこちらの精神面は二十歳過ぎの男でもある。 わがままを通そうとするお嬢様の姿に、内心呆れていた。「ありゃあ、バルダート様んトコの娘さんか?」「まーたお嬢様の癇癪かぁ」
最初に感じたのは、吹き抜ける潮風だった。 鼻をくすぐる海の匂い。全身を包む柔らかな感触。 とても穏やかに、体が揺れる。 (……あれ?) それは、あまりにもおかしな感覚だった。 違和感が脳内を駆け巡り、急ぎ周囲を確認するため目を開けてみる。 眩しさに目を細めた後、目の前に広がっていたのは楽園を思わせる美しい海。 海底の砂が見えるほどの透明度と、青と緑の混じるエメラルドグリーン。 そんな海を見渡せる白い砂浜の上に、脚を伸ばして座っていた。 しかし、その脚は小さく細く色白で全く見慣れないものだった。 手に付いた砂を払おうと、視線を下に移す。 ……見慣れない服。髪も長くて鬱陶しさを覚える。 手のひらは小さく、これまでのトレーニングのおかげでごつくなった手ではない。 砂浜の白に負けないほどに美しい、色白でほっそりとした子供の手だ。 更に視線を落とせば、多少だが胸に膨らみがあるように見受けられる。 (何だ? 何が起きてる?) ゆっくりと、裸足のまま砂浜に立つ。 青い海、白い砂浜。遠くには白い岩の岬が海に向かって伸びる。 そして今になって気づく。【彼は】自分がズボンをはいていないことに。 着ている服は、男からすれば馴染みのないベージュのワンピースというもの