Masukその日は一日、屋敷の掃除に明け暮れることとなった。
拭き掃除に掃き掃除、使われていなかった家具を磨き本家から運ばれた食器を磨き……。
幸いだったのは、夕暮れまでに帰宅することが許されたことだろうか。
「そう。そんなに急なお話だったの」
テーブルに突っ伏すアデーレを、食器を片付けるサンドラが心配そうに見つめる。
いつもは率先して家事を手伝うアデーレだが、慣れない重労働で動く気力を失っていた。
「家事ならって……正直、なめてた」
「さすがバルダート家のお屋敷だな。掃除一つ取ってもうちの比じゃなかったんだね」
顔を上げずに話すアデーレの肩を、ヴェネリオが優しくさする。
「それだけじゃないよ。あんなに広いのに人が少ないし」
メリナと仕事を進めていくうちに、アデーレは気づいたことがあった。
それは、メリナのような経験を積んだベテランの使用人が、一人か二人の新米使用人を連れて仕事をしてたということだ。
ベテランの使用人は、おそらくメリナを含めて十人ほど。
彼女達が率いる新人は、同年代の顔見知りばかりだった。
顔見知りが多いのは気楽だが、未経験者ばかりでは手際が悪い。
そうなると仕事量は増え、一人ひとりの負担も大きくなる。
その結果が、帰るなり息も絶え絶えのアデーレというわけだ。
(メリナさんもそうだけど、先輩たちの手際がすごかったな)
あらゆる仕事を器用にこなすメリナの姿を思い出す。
効率的かつ丁寧に仕事をこなす先輩使用人達のおかげで、この島で雇われた新米は夕暮れ時に帰宅することが出来た。
彼女らは文字通りのプロフェッショナルであり、華美な貴族を維持する文字通りの裏方だ。
特に、近くで見ていたメリナの働きっぷりは、アデーレの目には格好よく映った。
今日の仕事に思いを馳せていると、片付けを終えたサンドラがアデーレの向かいの席に座る。
「そういえばアデーレ、明日の礼拝には行けそう?」
「ああ、屋敷に行くのは礼拝の後でいいって」
顔を上げ、乱れた前髪を軽く直すアデーレ。
この島における礼拝は、良太のような日本人がイメージする教会の礼拝に近いものだった。
週に一度、港町の礼拝堂に集まり、お祈りをしたり神官の話を聞くような、特別なことのない儀礼だ。
「明日はお祈り行ったら、そのまま屋敷に行くよ」
週に一度の礼拝は、家族で欠かさず赴いている。
しかし、日本人的感覚の残るアデーレからすると、少々面倒に思うところもある。
それでも郷に入れば何とやら。そもそも子供の頃から続けてきた日課だ。
地域のコミュニケーションに必要なものとして、今は割り切っている。
「それじゃあ、今日は早くお休みしないとね。家のことは私がやっておくから」
疲れ果てた身に、母のいたわりが染み渡る。
そんな風に感じたアデーレは、改めて今の生活が恵まれているということを思い知る。
これが、明日も仕事を頑張る為の気力になるのだろう。
疲れた体を起こし、天井を眺めるアデーレ。
明日は早い。今日は母の厚意に甘えて、早めに就寝することを選んだ。
◇
朝日が水平線から姿を現そうとする頃。それを眺めるアデーレが一人、私服姿で畑の周囲をジョギングしていた。
これは良太の頃からの日課。
養成所に入るため、ひたすら続けてきた早朝トレーニングである。
転生した今でもその習慣が抜けることはなく、トレーニングウェアも満足に存在しない異世界であっても、絶やすことなく続けていた。
とはいえ、この世界の女性がズボンを履いて走り回るという姿は奇異の目で見られるものだ。
当初は両親も娘の姿を不思議に思っていたが、彼女の考えを尊重し、今は見守っている。
おかげでそれなりの体力はついてきたが、それでも男性だった頃の身体能力には及ばない。
第一、これは良太としての夢を叶えるための日課だ。
それをなぜ、今も続けているのか。
(……疲れたな、さすがに)
昨日の疲れがわずかに残っていたのか、いつもより足取りが重く感じるアデーレ。
これから使用人として生活するのであれば、このようなトレーニングも逆に負担にしかならないのではないか。
それでも、アデーレは思う。
この日課が終わることはなく、体が満足に動かなくなるまでこの農道を走り続けることになるのだと。
それが、未練というものなのだろう……。
◇
良太が転生したこの世界では、元いた世界と同じく宗教が複数存在する。現在訪れている礼拝堂は、主にシシリューアや多くの近隣諸国で信仰される【西方主教】のものだ。
礼拝堂は、約百人ほどが余裕をもって入ることのできる広い建物だ。
長方形の建物の上には大きなドームがあり、室内から見上げると、球形の天井に火を纏う竜の絵画が描かれている。
この火竜は西方主教における神の一柱、【火竜・ヴェスタ】だ。
(あー、神様。どうか今日の仕事は多少楽になってますように……)
本日の礼拝を終え、短い
周囲の人々は礼拝堂を後にしようと出入り口へと向かっている。
彼女は後方列の長椅子に座り、天井の絵画をぼんやりと眺めていた。
だが残念ながら、ヴェスタはそのような願いをかなえるような神ではないだろう。
西方主教は、元日本人の良太からすると馴染みのある宗教だ。
それは主神とその下に連なる複数の神を有する多神教で、つまり神道やヨーロッパの神話に近い。
ヴェスタは主神に仕える神の一柱で、聖火と戦いを司る神だ。
シシリューア島周辺では、主にこのヴェスタ信仰が盛んなのである。
「さて、お父さんたちは先に家に帰るけれど、アデーレはこれからお屋敷だろう?」
「ああ、うん。今から行くよ」
隣に座るヴェネリオが、アデーレに声をかける。
反対側の席には、サンドラが座っている。
「そうか。それじゃあ気を付けて行くんだぞ」
「頑張ってね、アデーレ」
「うん。ありがと、お父さん。お母さん」
アデーレに笑顔を向けながら、席を立つ両親。
もう少しのんびりしていたい気持ちもあったが、二人に続いてアデーレもゆっくりと立ち上がる。
うんと一度背伸びをし、二人と交互に顔を合わせた後、前方の祭壇へと目をやる。
ろうそくや花、いくつもの装飾で彩られた、飛翔するヴェスタの大彫像が置かれている。
鈍い輝きを見せる金箔の塗装は、それがこの地に設けられて長い年月を経ていることを表しているようだ。
(……今日も良い一日でありますように)
アデーレが心の中で念じる。
今日の彼女は、いつもよりほんの少しだけ、信心深くなってしまってるようだ。
それは使用人という新しい生活を始めたことによる節目からか。
まるで、年始の初詣のような気分だった。
礼拝堂を後にしたアデーレは、一人バルダート家の屋敷に続く坂道を上っていた。 この道は港から続く大通りで、馬車も通れるよう頑丈な石畳によって舗装されている。 バルダートのお嬢様と最悪の出会いを果たしたのも、この場所だった。 バルダート家がこの地に別邸を持ったのは、避暑のためである。 シシリューア島は周囲の島々に比べると、地熱の影響により気温が高いらしい。 だからロントゥーサ島の、風通しが良く港からも近い土地に別邸を建てたそうだ。 (だからって、歩いて通うのにこの坂はちょっと大変だ) 額に汗をにじませながら、アデーレは屋敷へ続く坂道を上る。 勾配は緩やかだが、それでも今日の晴天はほどほどに疲労を蓄積させてくる。 これが夏本番になると、気温はさらに上昇する。 こうなると、たとえ実家が近いとはいえ、屋敷の使用人部屋で住み込みという選択肢も出てくる。 なお、その場合の父の反応は、推し量るまでもなく容易に想像がつく。 そんな、アデーレ・サウダーテとしての日常。 これまでを振り返り、そしてこれからに思いを馳せ……。 時折思うのは、この先自分はどういう人生を送るのだろうということだ。 今はまだ、佐伯 良太として歩んだ時間の方が長い。 だが後十年も経たずして、アデーレは良太の享年を超えることとなる。 今後、アデーレとしてそれらしい人生を送るのだろう。
その日は一日、屋敷の掃除に明け暮れることとなった。 拭き掃除に掃き掃除、使われていなかった家具を磨き本家から運ばれた食器を磨き……。 幸いだったのは、夕暮れまでに帰宅することが許されたことだろうか。 「そう。そんなに急なお話だったの」 テーブルに突っ伏すアデーレを、食器を片付けるサンドラが心配そうに見つめる。 いつもは率先して家事を手伝うアデーレだが、慣れない重労働で動く気力を失っていた。 「家事ならって……正直、なめてた」 「さすがバルダート家のお屋敷だな。掃除一つ取ってもうちの比じゃなかったんだね」 顔を上げずに話すアデーレの肩を、ヴェネリオが優しくさする。 「それだけじゃないよ。あんなに広いのに人が少ないし」 メリナと仕事を進めていくうちに、アデーレは気づいたことがあった。 それは、メリナのような経験を積んだベテランの使用人が、一人か二人の新米使用人を連れて仕事をしてたということだ。 ベテランの使用人は、おそらくメリナを含めて十人ほど。 彼女達が率いる新人は、同年代の顔見知りばかりだった。 顔見知りが多いのは気楽だが、未経験者ばかりでは手際が悪い。 そうなると仕事量は増え、一人ひとりの負担も大きくなる。 その結果が、帰るなり息も絶え絶えのアデーレというわけだ。 (メリナさんもそうだけど、先輩たちの手際
その日の夜……。「えっ、ドゥラン様のところへご奉公に行くの?」 ランプの明かりに照らされたダイニングで、家族と夕食を囲んでいたアデーレ。 向かい側に座る両親との話題は、昼間のメリナと交わしたやり取りだ。 真っ先に反応したのは母のサンドラ。 アデーレは母親似で、特に背中の辺りまで伸ばした青交じりの黒髪はサンドラ譲りだ。「やってみないかって誘われただけだから。確かに六年前のことはあるけど……」 六年前のことは、島の者なら誰でも知っている。 大貴族バルダート家の一人娘に楯突いた農家の娘。 そのことで忌諱されるなどといったことはなかったが、良くも悪くも度胸がある子だと一目置かれることとなった。 あの頃は良太が物を知らなかっただけのことで、バルダート家がどういった家柄なのかもわからず口を挟んでしまった。 お嬢様ことエスティラの父、ドゥラン執政官。 執政官とは、ここシシリューア共和国における国家元首なのだ。 後にそのことを知ったアデーレ……というより良太は、いよいよ国のトップの娘に口出ししてしまったのかと、色々な意味で自分に感心してしまったものだ。 だが、後悔はしていないし、自分が悪いことをしたという認識もない。 何よりメリナと知り合えることも出来たのだ。今ではいい思い出だろう。一応は。「父さんは悪くないと思うよ。数年働けば、転職の際の紹介状も書いてもらえるらしいじゃないか」「そうは言ってもあなた、もしもエスティラお嬢様に目を付けられでもしたら」「なあに、あのドゥラン様のご息女だよ。六年も前のことを根に持つようなことはないさ」 手にしていたスプーンを皿に置いて、アデーレの顔色をうかがうサンドラ。 楽観的なヴェネリオに対し、やはりサンドラは娘の身を案じているようだ。「メリナさんが、一般の人はお嬢様に会うことはめったにないって」「そうかもしれないけど……やっぱり心配だわ」 サンドラのため息が、アデーレの耳に残る。 過保護を人の形にしたようなヴェネリオほどではないにしても、サンドラも人並みの母親以上の思いをアデーレに抱いていることが伺える。「まぁまぁ。それで、アデーレはどう考えているんだい?」「私は……一度屋敷に行ってみようと思う」 「そうか」とつぶやき、ヴェネリオが姿勢を改める。 アデーレの言葉を聞いたサ
良太の記憶を取り戻して、六年の歳月が過ぎた。 あれからアデーレの性格は、徐々に良太の人間性に引っ張られてしまった。 しかし彼女も元来おとなしい性格だったためか、周囲から違和感を抱かれたことは数えるほどしかない。 また、両親に恵まれなかった良太とは違い、アデーレの両親であるヴェネリオ、サンドラ夫妻は深い愛情を持っていた。 一人娘故の溺愛ともいえるが、農民なりに女性として満足のいく生活を送らせてあげようと、アデーレに着飾る機会などを与えてくれた。 今のアデーレは、良太が送った二十一年の人生と地続きになったような状態だ。 純粋なアデーレ・サウダーテとして育てられた十年の月日があったためか、幸いにも性別が変わったことを受け入れるのにそれほど時間が掛かることはなかった。 むしろ、そうでなければ……そんなことをふと思いつつ、着替え中の自身を鏡に映す。「中身、男のままだったらまずかったなぁ、これ」 そう言って、肌着越しに自分の胸に手をやる。 佐伯 良太としての率直な感想は、でかい。町でも上の方の大きさである。 おかげで町の男共の視線を集めるし、コルセットやら何やらは息が詰まる。 自分が女性であるという自覚があるからまだよかったが、着替える度に毎度ガチガチに抑え込むのは苦痛だった。 また、身長もかつての良太に比べれば低いとはいえ、女性としては高い方だろう。 東洋人では考えられない脚の長さについては、初めて気づいたときに感動してしまったほどだ。 とはいえ、男の頃の生活を思い出すと、今の身だしなみに気を遣わなければいけない生活は窮屈で仕方がない。 髪は伸ばした方が似合うと母に言われ、現在は長い髪を腰の上あたりで切りそろえている。 これを毎度キャップが収まるようまとめるのが、とにかく面倒なのだ。 大体これでは伸ばした意味があるのかと、アデーレとしては常日頃疑問に思っていた。「アデーレ、ちょっと来てくれないかしらー?」 扉越しに聞こえる母の声。 さすがに下着姿のまま自室を出る訳にもいかない。「ちょっと待っててー」 扉に向けて返事をするアデーレ。 そのまま周囲の衣服を手に取り、手早く朝の着替えを済ませるのだった。 ◇ 十六歳になったアデーレの仕事は、主に農作業の手伝いだ。 サウダーテ家の農場は港町
石灰の塗られた白い建物が並ぶ、石畳の大通り。 道の両側には店舗が並び、軒先に日よけを張り、野菜や日用雑貨が陳列されている。 路肩に積まれた木箱や樽。道行く人々。 日常の雑多な風景の中に、人々が取り巻く生活空間が生まれていた。 その中心にいるのは、眉を吊り上げ腕を組む、いかにも不機嫌そうな金髪の少女だ。 周囲の人々が着るくたびれた服とは違う、フリルをこしらえたピンク色のドレスは、彼女が高貴な家柄の人物であることを物語っている。 さて、そんな少女の前には、十代後半と思われる少女が膝立ちになり、何かを懇願している様子だった。 彼女の姿は黒いワンピースにエプロンドレス。白いキャップを被った明るい茶髪。 おそらくは、目の前の少女の家に仕える使用人だろう。「私のやることにケチ付けるとか、メイドのくせにっ」「で、ですが奥様からの言いつけですので、どうか」「いーやーだー!」 懇願する使用人に対し、お嬢様は耳を押さえてそっぽを向く。 状況の分からないアデーレだったが、それだけでお嬢様がわがままを通そうとしていることは分かる。 外見からして、彼女はまだ十歳に満たないくらいの子供だろう。 そうなれば、きっとアデーレと同じぐらいの年齢だ。 ただしこちらの精神面は二十歳過ぎの男でもある。 わがままを通そうとするお嬢様の姿に、内心呆れていた。「ありゃあ、バルダート様んトコの娘さんか?」「まーたお嬢様の癇癪かぁ」
最初に感じたのは、吹き抜ける潮風だった。 鼻をくすぐる海の匂い。全身を包む柔らかな感触。 とても穏やかに、体が揺れる。 (……あれ?) それは、あまりにもおかしな感覚だった。 違和感が脳内を駆け巡り、急ぎ周囲を確認するため目を開けてみる。 眩しさに目を細めた後、目の前に広がっていたのは楽園を思わせる美しい海。 海底の砂が見えるほどの透明度と、青と緑の混じるエメラルドグリーン。 そんな海を見渡せる白い砂浜の上に、脚を伸ばして座っていた。 しかし、その脚は小さく細く色白で全く見慣れないものだった。 手に付いた砂を払おうと、視線を下に移す。 ……見慣れない服。髪も長くて鬱陶しさを覚える。 手のひらは小さく、これまでのトレーニングのおかげでごつくなった手ではない。 砂浜の白に負けないほどに美しい、色白でほっそりとした子供の手だ。 更に視線を落とせば、多少だが胸に膨らみがあるように見受けられる。 (何だ? 何が起きてる?) ゆっくりと、裸足のまま砂浜に立つ。 青い海、白い砂浜。遠くには白い岩の岬が海に向かって伸びる。 そして今になって気づく。【彼は】自分がズボンをはいていないことに。 着ている服は、男からすれば馴染みのないベージュのワンピースというもの







