ログイン茂樹はどうかしていたのだ。美晴が彼の元を去ったあの日から、壊れてしまったのだ。茂樹は酒に溺れるようになり、毎晩のように意識を失うまで飲み続けた。昼間はソファに突っ伏したまま、美晴が置いていった離婚届を見つめてぼんやりと過ごした。飛び降り騒動で消防士に助け出された萌衣が彼の元を訪ねてきて、もう一度一緒にやり直したいと言った。しかし、その女の顔を見た瞬間、茂樹は激しい嫌悪感を抱いた。萌衣自身に問題があったわけではない。ただ、彼女の存在そのものが現実を突きつけていた。どれほど身勝手で、愚かで、哀れな男だったかという現実を。彼は萌衣を追い出した。はやとにさえ会おうとしなかった。その子を見るたびに、美晴が失った二人の子供たちのことを思い出してしまうからだ。それは、他でもない自らの手で奪い去った二つの命だった。……「会社で、ちょっと問題があって」茂樹は最後にぽつりと、平然を装ってそう言った。私は頷くだけで、それ以上は何も聞かなかった。知りたくもなかったし、どうでもよかったからだ。「美晴、俺は……」茂樹は息を深く吸い込んで、意を決したように言った、「もう一度、やり直せないか?」私は彼を見つめ、不思議そうに首を傾げた。言葉の意味を考えているかのように。「何をやり直すの?」「全部だよ」茂樹の目は真っ赤に潤んでいた、「結婚も、これからの生活もだ。絶対に新しい人生をお前に約束する。今度はお前を大切にする。もう二度と嫌な思いはさせない。萌衣とは完全に縁を切る。誰にもお前を傷させない。これからは、俺が……」「茂樹」私は彼の言葉を遮った。その声は淡々としていて、冷え切っていた。茂樹は言葉を失って、私を見つめた。「あなたから離れること。それが私にとって一番の救いなの」私は突き放すように言った。彼の体は完全にこわばった。みるみるうちに、顔から血の気が引いていった。私はもう二度と振り返らず、背を向けて歩き出した。茂樹はただその場に立ち尽くし、遠ざかっていく私の背中を見つめていた。追いかけて、私の手を掴み、ひざまずいて行かないでくれと縋りたかったはずだ。だが、彼の足は地面に張り付いたように、一歩も動かすことができなかった。空港ロビーは多くの人々が行き交い、それぞれが目的地に向かっ
彼女は振り向いて、真剣な目で私を見つめた。「ねえ、もうこれからのことを考えましょうよ。何があっても、毎日は続いていくんですから」私はその場に立ち尽くした。ハッと我に返ったときには、もう涙が頬を伝って溢れ出ていた。女の子がティッシュを差し出してくれた。「泣かないで。泣きすぎると目が腫れて、写真がきれいに写らなくなってしまいますよ」私は涙を拭いながら、笑顔を見せた。その日の午後、私はあの子と一緒に、山道を長いこと歩いた。私たちはたくさん話をした。命のこと、死のこと。それに、どうしても忘れられない人や出来事について。別れ際、あの子は私をぎゅっと抱きしめてくれた。「ちゃんと幸せに生きてくださいね」私は頷いた。何度も、力強く頷いた。あの日から、私は少しずつ変わろうと努力し始めた。ちゃんとご飯を食べ、ちゃんと眠り、自分の体をいたわるようにした。そして、静かな街の小さなお花屋で、新しい仕事を見つけた。毎日お花に囲まれて暮らすうちに、荒んでいた心も少しずつ穏やかになっていった。新しい友達もできて、週末には買い物に行ったり、食事や映画を一緒に楽しんだりした。私の誕生日の日、友達が誕生日ケーキを用意してくれた。キャンドルの火を吹き消して願い事を唱えたとき、急にスマホが鳴り響いた。ニュースの通知だった。【地元の有名起業家、桐谷茂樹が詐欺の疑い。株価は暴落し、破産手続きへ】私は一瞬だけ手を止め、それからスマホを静かにポケットへと戻した。友達から「どうしたの?」と聞かれたけれど、私は「ううん、何でもない」と笑って見せた。そんなニュース、私にとってはただの些細な出来事だと思っていた。けれど、本当の波乱はこれから起こるなんて、想像すらしていなかった。1週間後、私は友達を出迎えるために空港へ行った。ロビーは多くの人で混雑していた。私は出口のそばで、手持ち無沙汰にスマホを眺めていた。何気なく顔を上げた瞬間、一人の男が目に入った。その人は10メートルも離れていない場所に立っていた。ヨレヨレのシャツを着て、ひげは伸び放題、目の下にはひどいクマがあった。すっかり生気を失い、頬骨が浮き出るほど痩せ細っていた。それは、茂樹だった。彼も私に気づいたようだった。最初は呆然と目をぱちくりさせていた
私は、ひどい鬱病になってしまった。昼間はなんとか平気を装って、食事や身の回りのこと、買い物などをこなした。しかし夜になると、毎晩のように悪夢が襲ってきた。夢に出てくるのは、生まれる前に亡くなってしまった二人の子供たちだった。最初の子は遠くの方で後ろを向いたまま、いくら呼んでも振り返ってくれない。二人目の子は血の海の中で、小さな体を丸めていた。私はいつも冷や汗をかいて跳び起き、枕を涙で濡らした。次第に眠ることさえ、目を閉じることさえ怖くなった。私は一晩中窓辺に座り、外が徐々に明るくなっていくのをただ見つめていた。大家が、見かねて声をかけてくれた。ある日の夕方、大家はポルボロンをのせたお皿を持ってきて、私の隣に座った。「美晴さん。何があったかは知らないけれど、あなたにはまだ未来があるわ」私はうつむいたまま、何も言えなかった。「私も若い頃は、死のうと思ったものよ」大家は静かに語った。「あの頃は夫に浮気されて、子供も病気で、世界が終わった気がしたわ」私は顔を上げて彼女を見た。「でも後になって思ったの。なんで私が死ぬの?私を傷つけた彼らのほうこそ死ぬべきじゃないって」大家は私の手を強く握った。「だから生きて、思いきり輝くの。あなたを傷つけた人たちに、幸せになった姿を見せてやりなさい」その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れ出た。大家は続けて言った。「少し外の空気を吸っておいで。ずっと部屋にこもっていると、心がカビてしまうわ」次の日、私は荷物をまとめ、あちこちをめぐる旅に出た。ある時は、静かな海辺の民宿に部屋を借りた。毎朝窓を開けると、目の前に広がる青い海を一人占めできた。またある時は、古い町並みの石畳を散歩し、バーから聴こえてくる曲に耳を傾けた。またある時は、不思議な形の建物の前で立ち止まり、吸い込まれそうな青空を見上げた。ある山の上では、空気が薄くて激しい頭痛に襲われた。けれどその時、生きていてよかったと感じられた。そして、最後に向かったのは雪山だった。冬のその場所は、山頂のカルデラ湖も完全に凍り、周囲は一面の銀世界だった。私は麓の小さなホテルに泊まり、毎朝のように山を登った。そんなある日、雪道で一人の女の子に出会った。その子はハタチそこそこに見え、顔色は
次に、茂樹はプロポーズしたあの歩道橋へ向かった。あの日、茂樹はたくさんお酒を飲んでいた。人が行き交う歩道橋の上で片膝をつき、指輪を掲げて、「結婚してほしい」と言ったのだ。美晴は大泣きしながら言った。「もう、バカね。早く立ってよ、恥ずかしすぎるわ」でも、茂樹は頑なに立ち上がらず、「はい」と言うまで引かなかった。美晴は何度も頷いた。最後には声が枯れるほど、何度も何度も「はい」と言った。だが、今の歩道橋には誰もいない。ただ冷たい風が襟元から入り込み、体を激しく震わせるだけだった。最後に、茂樹は郊外の山の上へ向かった。静かに佇むその小さなお墓の下には、彼らの最初の子の形見が埋められている。「パパが来たよ」彼の声は震えていた。「ママは来たかな?会いに来てくれた?」誰も答えてはくれない。ただ、枯れ草を揺らす風の音が静かに響くだけだった。彼はそこにずっと座っていた。夜が明けてから、真っ暗になるまで。心の中がざわついて、いたたまれなかった。足の先から頭のてっぺんまで恐怖が這い上がり、体中の震えが止まらない。急いで車を走らせて家へ戻る途中、信号無視を3回もした。ドアを開けると、家の中はひっそりとしていた。「美晴」と呼んでみたが、返事はない。もう一度呼んでも、声が誰もいないリビングに寂しく響くだけだった。ふと、テーブルの上に書類が置かれているのが見えた。彼は飛びつくように駆け寄った。それは美晴が残した、たった一つのものだった。その口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいた。彼女は最後には折れてくれたのだ、と思った。きっと、自分に何か伝えたいことがあって、言葉を書き残してくれたに違いない。ちょっと頭を冷やしに行くけれど、数日で戻るという内容の手紙かもしれない。あるいは、昔撮った思い出の写真で、忘れないでほしいという内容かもしれない。しかし、彼が封筒から取り出した紙は、なんと離婚届だった。彼の指先はこわばり、顔から笑みが消え失せた。そこには美晴の署名があった。その文字はとても端正で、力強く書かれていた。まるで、書く時に強い覚悟を決めたかのようだった。離婚届の横には、指輪がぽつんと置かれていた。あれは二人の結婚指輪だった。彼の指輪は今も指にあるが、彼女の指輪は冷たいテー
茂樹は立ち止まったが、振り返った。「美晴、いい加減にしてくれ。すぐに戻るから、待っていて!」私はベッドで少し体を横にしていたが、起き上がった。点滴の針を抜き、壁を支えにして、一歩ずつ病室の外へ歩き始めた。……屋上には、すでに大勢の医療スタッフが集まっていた。彼らは萌衣から少し離れた場所に立ち、口々に説得を試みている。屋上の扉が勢いよく開き、入り口に茂樹が姿を現した。はやともその後ろから、泣き叫びながらついてきた。「萌衣、こっちへ来い!」萌衣は屋上のぎりぎりの端に立っており、風に髪をなびかせていた。「茂樹、美晴さんと離婚してよ、お願い」茂樹の表情が一瞬、凍りついた。「いい加減にしろ。萌衣、言ったはずだ。お前の望みなら何でも叶える。それが俺のお前に負い目だからだ。だけどそれは、美晴を傷つけないこと、ましてや彼女の立場を奪わないことが大前提だ」萌衣は体を激しく震わせ、大声で問い詰めた。「彼女の立場?じゃあ私は?はやとは?私たちのことはどうでもいいの?茂樹、あなたを愛していなくて、一生一緒にいたいと思わなかったら、愛人になるなんて絶対に嫌だった!あなたが美晴さんと暮らす家に行くわけもないじゃない!」その暴露に、周りのスタッフがざわざわと囁き合い始めた。茂樹の周りの空気は一変し、凍てついたようなオーラを放ち始めた。「降りろ。二度と言わせるな」萌衣はゆっくりと首を横に振った。多くの人が注目する前でわざわざこの話をぶちまけたのは、すべて茂樹をここで追い詰めるための賭けだったのだ。ここで降りてしまえば、二度と茂樹の心を思い通りに操るチャンスなどないと分かっていた。「美晴さんと離婚して。そしたら降りる!」萌衣がさらに言葉を重ねようとした時、茂樹の表情が完全に凍りついていた。彼は呆れて鼻で笑った。「脅迫が一番嫌いだ。たいしたものだ、萌衣」そう言い放つと、彼は迷わずその場から去っていった。背後で萌衣が涙を振り絞って茂樹の名を叫んだが、彼は二度と振り返らなかった。その直後、けたたましい悲鳴が上がった。茂樹が慌てて振り返ると、そこに萌衣の姿はもうなかった。はやとは手すりにしがみつき、叫び声を上げた。「ママ……」茂樹はぽかんとしたが、やはり戻ること
私は夢を見た。夢の中には、亡くなった私の一人目の子供が立っていて、赤ちゃんを抱いていた。なぜか、子供たちは私からどんどん遠ざかっていく。私は慌てて追いかけたが、どうしても追いつけない。喉が張り裂けるほど叫んでも、子供たちは一度も振り返ってくれなかった。次の瞬間、私は弾かれるように目を覚ました。すると、赤く充血した目で私を見つめる、茂樹の顔がそこにあった。嫌な予感が全身を駆け巡る。茂樹は私の手を握りながら、視線を泳がせ、目を合わせようとしない。「美晴……本当に、すまない……」お腹に走る痛みに気づき、私はハッとして、すぐに自分の手を伸ばして触った。点滴の針が抜け、私の手が触れたのは、すっかり平らになったお腹だった。消えてしまった。私の赤ちゃんが、またしても、いなくなったのだ。すべては茂樹のせいだ。彼と、萌衣の子供のせいで。じわじわと血がにじみ出す私の手を見て、茂樹はうろたえ、慌てて医者を呼んだ。手当てが終わると、茂樹ははやとを私の前に引きずり出し、謝らせようとした。はやとは私に向かって頭を下げ、「ごめん」と言った。だが、顔を上げたその目には、勝ち誇ったような光と、私への嫌悪が満ちていた。そこへ萌衣が慌てて駆け込んできて、その様子を見ると、すぐに目を真っ赤にした。「茂樹、はやとはまだ子供なのよ。何も分かっていないの……」茂樹の瞳に、冷たい光が宿った。「美晴とあの子に手を出すなと、あれほど言ったはずだ」はやとは目に涙を浮かべ、顔を上げた。「でもパパ、僕、美晴さんを押してなんていないよ!勝手に転んだんだ!」「はやと、嘘をつくんじゃない!」茂樹は声を荒らげて言った。萌衣はポロポロと涙を流した。「茂樹、どうしてそんな言い方をするの。はやとはあなたの実の息子なのよ!」茂樹はきょとんとした表情を浮かべ、少しの間黙り込んだ。それから静かに口を開いた。「どんな理由があれ、美晴の子供は失われたんだ。今日限りで、家から出て行ってくれ」萌衣は信じられないという風に、一歩後退りした。彼女は茂樹を見つめ、突然声を上げて泣き叫んだ。「私をそこまで追い詰めるの?そんなの、もう死んだ方がマシだわ!」それだけ言い残すと、彼女は踵を返して病室から走り去っていった。茂樹はしばらく