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この先の人生に、もう嵐はいらない
この先の人生に、もう嵐はいらない
作者: モリサマー

第1話

作者: モリサマー
丸三年かけて――手の届かないはずの高嶺の花だった大森一弥(おおもり かずや)を、私・大森鈴実(おおもり すずみ)はついに自分のものにした。

築き上げてきたキャリアのすべてと引き換えに、誰もが羨む「大森家の奥様」という肩書きを手に入れたのだ。

なのに、結婚5周年を迎えたその日、私は離婚を切り出すことに決めた。

弁護を頼んだのは長年の親友、佐久間知世(さくま ともよ)だった。彼女は何度も念を押すように尋ねてくる。

「本当にいいの?あの人と結婚するために、あの誰もが知っている雑誌のオファーだって迷いなく断ったあなたが、今になって離婚したいなんて」

込み上げる苦さを喉の奥に押し戻しながら、私は静かに告げた。

「離婚協議書、作ってもらえる?できるだけ早く」

彼女は納得できない様子で声を荒げた。「どうしてよ!」

食卓に飾られた、丁寧に包まれた黒いダチュラの花束を見つめながら、私は最後の答えを口にした。

「たった一束の、花のせいよ」

今日、あの花束を受け取った瞬間、正直私は嬉しかった。

一弥もようやく分かってくれて、結婚記念日のサプライズを用意してくれたのだと思っていた。

けれど花に添えられたカードを開いた瞬間、私の笑みはその場で凍りついた。

【一弥先輩、叔母の手術のために遠方まで駆けつけてくれて、本当にありがとうございました。家族一同、心から感謝しております。

この花は私が先輩のために選んだものです。「私たち」にぴったりだと思って。気に入っていただけたら嬉しいです。――坪井優花(つぼい ゆか)】

手が震え、花束はどさりと床に落ちた。

三年前、父が重い病に倒れた。

医師からは、一刻も早い手術が必要だと告げられていた。

けれど田舎町の医療設備は乏しく、父の体力では遠方への転院に耐えられなかった。

私は泣きながら一弥に、実家まで来て父の手術をしてほしいと頼んだ。

けれど彼はこう言った。「うちの病院は出張手術を禁じている。仕事は仕事だ。私情で規則を曲げるわけにはいかない」

その後、父は転院する救急車の中で息を引き取った。

それは、私の一生の悔いとなった。

父の葬儀の供花には、私はあえて黒いダチュラを選んだ。

予測できない死と愛を意味するその花が、父を送るのにふさわしいと思ったから。

けれど本当は、予測できないものなど何もなかったのだ。

深夜、ふと目が覚めるたびに、死の間際の父の白髪交じりの頭を思い出し、全身が震えるほど泣いた。

一弥を恨んではいけないと何度も自分に言い聞かせた。誰にでも守りたい信念というものがあるのだから、と。

けれど本当は、規則は破れるものだったし、信念だって譲れるものだったのだ。

ただ、私にはその価値がなかっただけ。

親友との離婚に関する打ち合わせを終え、電話を切った。

飾りつけていたリボンや風船を、静かにすべてゴミ箱へ放り込んだ。

そして検索欄を開き、いくつかの文字を打ち込んだ。「車中泊 絶景ドライブ おすすめルート」

雪山、草原、湖、そして地平線まで続く曲がりくねった道。

かつて父と交わした約束。生きているうちに車を走らせ、カメラを片手に、あの道を旅しようと。

父が死んだ後、一弥は私を慰めようと、その未完の約束を父の代わりに叶えると言ってくれた。

けれどその年、彼はちょうど医長に昇進したばかりで、忙しさのあまり食事すらままならなかった。

彼には、身の回りの世話をし、家庭を守ってくれる専業主婦の妻が必要だった。

だから私は自分のスタジオを畳み、写真家から「大森さんの奥様」になった。

その年、私は全国規模の写真賞を受賞し、複数の一流企業からオファーを受け、将来を嘱望されていたというのに。

それでも私は、迷わずすべてを手放した。

その後、一弥は最年少で心臓外科の部長となり、業界屈指の名医と呼ばれるようになった。

一時は、自分の犠牲や努力に価値があったのだと思っていた。

今思えば、本当に滑稽な話だ……

鍵の回る音が、物思いを断ち切った。

一弥が帰ってきた。

コートを脱ぎながら、彼はがらんとした食卓に目をやり、眉をひそめた。

「飯は?」

私はパソコンの画面から目を離さずに答えた。

「作る気になれなかった。疲れたから」

彼の眉間の皺が、さらに深くなる。

「俺より疲れてるとでも言うのか?」

私が答える前に、彼のスマホが鳴った。

画面を一瞥するなり、彼はすぐさま電話に出た。

「……どうした?」

電話の向こうから、優しい女性の声が聞こえてくる。

張り詰めていた彼の表情が、目に見えて緩んだ。

かすかな笑みさえ浮かんでいる。

「焦らなくていい、すぐ行く」

向こうから、病院の同僚らしき囃し立てる声が聞こえてくる。

「おっ、坪井師長がまた助っ人を呼んだぞ」

「大森先生、早く来てくださいよ。師長がもう限界です」

笑い声が絶えず、和やかな空気の中に、どこか二人を冷やかすような浮かれた雰囲気すら漂っていた。

籍を入れたはずの妻である私が、まるで部外者のようだった。

電話を切ると、一弥は脱いだばかりのコートをまた羽織り直した。

私は思わず口にした。「優花さん?」

彼の動きが一瞬止まる。

「患者の容体が急変したんだ。彼女一人じゃ手に負えない。人命がかかってる。妙な勘繰りはよせ」

言い終えると、彼は外へと向かって歩き出した。

私はその背中を見つめた。

先週も彼は同じように慌ただしく出かけ、3日間出張だと言っていたことを思い出す。

今考えれば、あれは出張などではなかった。

500キロも離れた場所まで、優花の叔母の手術のために駆けつけていたのだ。

「一弥」

私は彼を呼び止めた。

彼が振り返る。

「何だ?」

私は彼を見つめたまま、静かに尋ねた。

「今日が何の日か、覚えてる?」

彼は考える間もなく、口を突いて出た。「6月1日?」

私は笑った。

本当に忘れていたのだ。

今日は、私たちの結婚記念日。

結婚5周年なのに。

幸いにも、最後の年でもある。

「なんでもない」

私は視線を逸らした。

「仕事、頑張って」

一弥は私を見つめ、何かに気づいたような顔をした。

しばらく沈黙した後、硬い声で絞り出すように言った。

「片づいたら帰る。夜食、何か買ってこようか?」

私は首を横に振った。

「いらない」

もう二度と、必要ない。

一弥が出て行った後、私は着替えて、1週間も前から予約していたあのレストランへ向かった。

クラシック音楽が流れ、恋人たちが寄り添う中、私だけがひとりだった。

店員が尋ねてくる。「お客様、お連れ様はいつ頃いらっしゃいますか?」

私は笑って答えた。

「来ません」

もう、これから先も。

食事を終え、私はディーラーに電話をかけた。

「オフロード車を1台注文したいんです。性能重視で、長距離ドライブできるくらいの。予算は1500万円前後で」

担当者によると、条件に合う車種はあるものの、人気車種のため在庫がなく、取り寄せに1週間かかるという。

7日間。過去を手放し、この絡まりきった結婚生活を片づけるには、十分な時間だ。

「それでお願いします。1週間後に受け取りに伺います」

電話を切り、ブラウザを開いて車中泊の絶景ドライブ情報を眺め続けた。

写真が次々と流れていくうちに、5年間も棚上げにしていた夢が、再び息を吹き返していくような気がした。

しばらくして、親友から電話がかかってきた。離婚協議書はすでに作成済みで、メールで送ったという。

私は小さく「ありがとう」と応えた。

彼女は少し沈黙した後、堪えきれないように尋ねてきた。

「鈴実、あなたそこまで彼のこと愛してたのに、本当に手放せるの?」

私は逆に問い返した。「あなた、一弥が誰かのために信念を曲げて、我を忘れるほど必死になるところ、見たことある?」

「ない」彼女は正直に答えた。

「私はある」

窓の外に果てしなく広がる夜景を眺めながら、私は物悲しく笑った。

「でも、私のためじゃなかったわ」

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