LOGIN私、深津玲奈(ふかつ れな)の親友、水野灯里(みずの あかり)は、飲み会で酔った勢いで部屋を間違え、見知らぬ男と一夜を共にしてしまった。1か月後、吐き気が止まらなくなり、妊娠していることが分かった。 周囲は口をそろえて中絶を勧めたが、灯里は頑として聞き入れず、子どもを産むことを選んだ。 身寄りもなく、たった一人で出産を迎えようとする彼女を放っておけなかった私は、部屋探しから妊婦健診まで付き添った。つわりで苦しんでいると聞けば夜中でも薬を届け、出産後も一晩中そばについていた。 そうして何かあるたび灯里を優先しているうちに、婚約者である柏木時也(かしわぎ ときや)との結婚は何度も先延ばしになっていった。 ついに我慢の限界を迎えた時也は、指から婚約指輪を外すと、苛立ちをぶつけるように投げ出した。 「玲奈、いい加減にしてくれ。世話をやきすぎだ、はたから見たらお前の子だと勘違いするほどだぞ」 本気で怒っている時也を見て、私もさすがにまずいと思った。慌てて彼を抱きしめ、機嫌を直してもらおうと言葉を尽くす。 「灯里の子が生後1か月になったら、今度こそすぐに入籍しよう。もう先延ばしにはしないから」 そう約束して何度もなだめると、時也もようやく怒りを収めてくれた。 ところが、灯里の子どもが生後1か月を迎えた日、その子が誤って階段から転落してしまう。 頭を強く打って緊急搬送され、診断の結果は頭蓋内出血。一刻も早い輸血が必要だった。 しかし、私の血液型は適合しなかった。 どうしようと焦る私の横で、時也が迷いなくシャツの袖をまくる。 「俺はO型だ。俺の血を使ってくれ」 すると、その言葉を聞いた灯里の顔色が一変した。 まるで何かに取りつかれたような勢いで時也に飛びつき、必死にその足にしがみつく。 突然のことに戸惑いながらも、私は一刻を争う状況に苛立ち、灯里の手を引き離そうとした。 「何してるの?時也はもうすぐ私の夫になる人よ。この子にとってだって家族みたいなものでしょ。こんなときまで遠慮してる場合じゃないでしょう?」 力任せに手をほどくと、灯里はその場に倒れ込んだ。 それでもなお、彼女は涙を流しながら、必死の形相で叫んだ。 「だめ!時也は献血しちゃだめ!直系の親族からは輸血できないの!」 その瞬間、騒がしかった廊下が嘘のように静まり返った。 誰も言葉を発しない。 時也もまた、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。 どれほどそうしていただろう。 やがて彼はゆっくりと灯里へ目を向ける。その目は赤く充血し、声はかすかに震えていた。 「……あの夜、間違えて俺の部屋に入ってきた女って……お前だったのか?」
View More3日後、灯里と時也はそろって帰国し、離婚の手続きを済ませた。悠真は灯里が引き取り、時也が毎月養育費を支払うことになったという。灯里も時也の会社を辞め、別の小さな会社へ転職したらしい。今の灯里には、そこで働き続けるのも楽ではないだろう。けれど、もう私には関係のないことだった。私も新しい案件が始まったばかりで、本部では欧州エリア副統括の昇進候補に名前が挙がっていた。会議が終わればそのまま取引先へ向かうような、慌ただしい毎日が続いていた。そんな日々のまま半月ほど過ぎた頃、受付から電話が入った。「深津さん、柏木様がまたお見えです」「前回と同じく、お断りしてください」時也はこれまでにも何度か会社まで来ていたため、入館を断るよう社内で共有されていた。しばらくして窓の外を見ると、警備員に促されながら建物を出ていく時也の姿があった。何か訴えているようだったが、警備員が応じることはなく、結局、書類の入った封筒だけを受付に預けて立ち去った。その封筒には、二人で暮らすために用意していた家の権利関係の書類と、名義変更に必要な書類が入っていた。添えられた紙には、一言だけ書かれている。【家は修繕した。玲奈に返す】その申し出を断るつもりはなかった。あの家には、私自身も長い時間をかけて手を入れてきた。その日のうちに書類へ署名し、不動産会社へ売却を依頼した。家は直せても、終わった関係まで残しておく理由はなかった。冬を迎える頃、私は皮膚移植を受けることにした。火事を忘れたいからではない。あの出来事を忘れないことと、その傷跡まで一生残すことは別だと思えるようになったからだ。それに、腕に大きな傷跡を残したままでいるのも、もう嫌だった。入院を翌日に控えた夜、明人に家へ招かれた。食卓には、スペアリブ、魚の蒸し焼き、卵スープが並んでいた。見た目は少し不格好だったが、味は驚くほど私の好みに合っていた。「どうして私の好みの味が分かったんですか?」そう尋ねると、明人は隠す様子もなく、本棚から分厚い手書きのノートを2冊取り出した。最初のページにあったのは、見慣れた灯里の字だった。【玲奈専用レシピ】「灯里さんがロンドンを離れる前に、俺にこれをくれた。もう玲奈に顔向けできないから、せめてこれだけはって。胃が弱いか
契約終了から2週間後、国内の元同僚から灯里の近況を聞いた。担当していた案件で問題が相次ぎ、社内調査が始まったため、灯里は一時的に職務を外されたらしい。時也がまだロンドンにいる今、これまでなら彼が表に出る前に収めていた問題も、そのまま調査の対象になっていた。経理からは誤った見積もりについて説明を求められ、法務では契約書の管理状況を確認され、各案件の遅延についても一つずつ経緯を追われているという。元同僚の話では、灯里は毎日のように時也へ電話をかけていたものの、ほとんどつながらなかったという。会社から仕事を外されたことや、いつ帰るのかを尋ねても、時也はまだロンドンに用があると答えるだけで、私のことを聞いても返事をしなかったらしい。その後も、会社の調査に対応するよう促したり、悠真のことはシッターに任せればいいと突き放したり、連絡を控えるよう求めたりと、返事はそっけないものばかりだったそうだ。そんなやり取りが続くうちに、親友を失ってまで手に入れた相手が、本当にそこまでして選ぶ価値のある人だったのか、灯里もようやく考え始めたのだろう。それから10日ほど経ったある日、仕事を終えてアパートへ戻ると、建物の前に灯里が立っていた。悠真を抱き、足元にスーツケースを置いた灯里は、私がそばを離れてからずいぶん痩せていた。私の姿を見るなり、かつてと同じように涙をこぼした。「玲奈……」私は数歩離れたところで足を止めた。「時也に会いに来たの?」灯里は強く首を横に振った。「玲奈に会いに来た」近くのカフェへ移ると、悠真はベビーカーの中ですぐに眠った。向かいに座った灯里は、カップを握りしめたまましばらく俯いていたが、やがてかすれた声で口を開いた。「玲奈。ごめんなさい。パーティーの夜、時也の様子がおかしいって気づいて、相沢さんのあとをついていったの。部屋が分かって……私、わざと入ったの」涙で何度も声を詰まらせながら、灯里は続けた。「ずっと時也が好きだった。本当は、一晩だけでいいと思ってた。妊娠するなんて思ってなかったし、悠真ができたからって時也が私と結婚するとも思ってなかった。でも、本当に手に入るかもしれないって分かったら……手放せなかった」薄々気づいてはいた。それでも本人の口から聞くと、やはり心は穏やかではいられなかった
時也は帰国しなかった。翌日には孝男を通じて、私の会社からそう遠くない場所に3か月契約で部屋を借りていた。最初から、簡単に諦めて帰るつもりはなかったらしい。ほどなくして先方から担当変更の連絡が入り、灯里に代わって時也自身が案件を引き継ぐことになった。しかも、こちらの窓口には引き続き私を指定し、メールの末尾にはわざわざ一文まで添えられていた。【重要事項は、深津さん本人と直接確認します】狙いは分かっていたが、仕事である以上、私情だけで断るわけにもいかなかった。最初の打ち合わせ場所に指定されたのは、以前二人でロンドンを訪れたときに入ったレストランだった。そこで待っていた時也は、6年前の初デートで着ていた白いシャツに、私が贈った濃紺のネクタイを締めていた。腕には、社会人になって初めてもらったボーナスで私が贈った時計までつけている。もう何年も身につけていなかったはずのものばかりだった。私が時計に目を留めると、時也はうれしそうに笑った。「覚えてるだろ?」「柏木さん、仕事の話をしましょう」私はそのままパソコンを開いた。時也も一度は引き下がり、予算や進行状況について真面目に話を進めた。ところが打ち合わせが終わる頃になると、テーブルの脇から白いバラの花束を取り出した。「玲奈に買ったんだ」一気に疲れが増した気がして、私はパソコンを閉じた。「仕事は終わりました。花は持って帰ってください」「じゃあ、花はいい。せめて食事だけでもどう?」「遠慮します」「前に来たとき、この店のビーフウェリントンが好きだって――」最後まで聞く気にもなれず、私はそのまま席を立った。次に時也が持ち出したのは、週末の現地確認だった。指定された場所へ行ってみると、いるはずの関係者は誰一人おらず、テムズ川沿いで待っていたのは時也だけだった。「時也、いったい何がしたいの?」「ただ、玲奈と少し歩きたかった」「仕事を口実に呼び出したの?」「そうでもしないと、会ってくれないだろ」時也は悪びれる様子もなく続けた。「玲奈が俺を嫌ってるのは分かってる。でも、こうして会えてるうちは、まだやり直せるチャンスがある」帰ろうとすると、時也が前へ回り込んだ。「俺は本気だ。玲奈が帰りたくないなら、俺がロンドンに残る。灯里に会
露わになった火傷の跡を見たまま、時也は動かなかった。信じられないものを見るように傷を見つめ、やがて震える声で尋ねる。「……それ、火事のときの?」私は袖を戻しながら答えた。「そう」「皮膚移植は?こんな怪我してたなら、どうして言わなかったんだ?」呼吸を乱す時也を、私はまっすぐ見返した。「言ったところで、どうしたの?灯里が落ち着いてから、私のところに来るつもりだった?」時也の表情が、目に見えてこわばった。「そんなにひどい怪我だなんて知らなかった。てっきり軽い火傷だと思ってたし、玲奈なら自分で何とかできるって……」また、それだった。結局、時也にとって私は、何があっても一人で何とかできる人間だったのだ。怪我をしても、つらいことがあっても、自分で乗り越えられる。だから火事のときでさえ、私を置いて灯里のもとへ行けた。そう思うと、もう隠しておく理由はなかった。「時也。火事の前の日、私は中絶手術を受けたの」時也の目が大きく見開かれた。「……何?」「妊娠6週3日だった」時也は言葉を失い、手にしていた傘を取り落とした。「妊娠してた……?どうして言わなかった?」「検査の日、悠真の病室の前で、時也が灯里を抱きしめて、息子が生まれたことを喜んでるのを見た」時也は黙ったまま、何も返さなかった。「そのあと私を非常階段まで連れていって、何しに来たのかって聞いたよね」あの日のことは、今でもはっきり覚えている。「本当は、あのとき妊娠したって言うつもりだった。でも時也が気にしてたのは、灯里と悠真のことだけだった」私は淡々と続けた。「その日の午後、一人で手術を受けた。あの子の存在を知ったのも、見送ったのも、私は一人だった」時也は何も言えず、ただ私を見つめていた。「その翌日に火事が起きたの。立っているのもつらい状態だったのに、すぐそばにいた私を通り過ぎて、時也は灯里を助けた」そこでようやく、時也の目が赤くなり、私を抱き寄せようと手を伸ばした。「玲奈……ごめん」私は一歩下がって、その手を避けた。「触らないで」時也の手が止まった。私の目に浮かぶ嫌悪と憎しみを見て、ようやくすべてを失ったことに気づいたのだろう。私も、存在さえ知らなかった自分の子どもも、もう戻らない。「知らな