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すべてを失った私が、ロンドンで見つける春

すべてを失った私が、ロンドンで見つける春

By:  AONO YUBAECompleted
Language: Japanese
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私、深津玲奈(ふかつ れな)の親友、水野灯里(みずの あかり)は、飲み会で酔った勢いで部屋を間違え、見知らぬ男と一夜を共にしてしまった。1か月後、吐き気が止まらなくなり、妊娠していることが分かった。 周囲は口をそろえて中絶を勧めたが、灯里は頑として聞き入れず、子どもを産むことを選んだ。 身寄りもなく、たった一人で出産を迎えようとする彼女を放っておけなかった私は、部屋探しから妊婦健診まで付き添った。つわりで苦しんでいると聞けば夜中でも薬を届け、出産後も一晩中そばについていた。 そうして何かあるたび灯里を優先しているうちに、婚約者である柏木時也(かしわぎ ときや)との結婚は何度も先延ばしになっていった。 ついに我慢の限界を迎えた時也は、指から婚約指輪を外すと、苛立ちをぶつけるように投げ出した。 「玲奈、いい加減にしてくれ。世話をやきすぎだ、はたから見たらお前の子だと勘違いするほどだぞ」 本気で怒っている時也を見て、私もさすがにまずいと思った。慌てて彼を抱きしめ、機嫌を直してもらおうと言葉を尽くす。 「灯里の子が生後1か月になったら、今度こそすぐに入籍しよう。もう先延ばしにはしないから」 そう約束して何度もなだめると、時也もようやく怒りを収めてくれた。 ところが、灯里の子どもが生後1か月を迎えた日、その子が誤って階段から転落してしまう。 頭を強く打って緊急搬送され、診断の結果は頭蓋内出血。一刻も早い輸血が必要だった。 しかし、私の血液型は適合しなかった。 どうしようと焦る私の横で、時也が迷いなくシャツの袖をまくる。 「俺はO型だ。俺の血を使ってくれ」 すると、その言葉を聞いた灯里の顔色が一変した。 まるで何かに取りつかれたような勢いで時也に飛びつき、必死にその足にしがみつく。 突然のことに戸惑いながらも、私は一刻を争う状況に苛立ち、灯里の手を引き離そうとした。 「何してるの?時也はもうすぐ私の夫になる人よ。この子にとってだって家族みたいなものでしょ。こんなときまで遠慮してる場合じゃないでしょう?」 力任せに手をほどくと、灯里はその場に倒れ込んだ。 それでもなお、彼女は涙を流しながら、必死の形相で叫んだ。 「だめ!時也は献血しちゃだめ!直系の親族からは輸血できないの!」 その瞬間、騒がしかった廊下が嘘のように静まり返った。 誰も言葉を発しない。 時也もまた、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。 どれほどそうしていただろう。 やがて彼はゆっくりと灯里へ目を向ける。その目は赤く充血し、声はかすかに震えていた。 「……あの夜、間違えて俺の部屋に入ってきた女って……お前だったのか?」

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Chapter 1

第1話

時也は、否定の言葉を求めるように灯里を見つめていた。

けれど、灯里は何も答えない。唇を噛んでうつむいたまま、涙だけが次々と床へ落ちていく。

その沈黙を破ったのは、処置室の扉が開く音だった。

「必要な血液製剤を緊急で手配しています。お子さんの状態はまだ不安定ですので、ご家族はこちらでお待ちください」

看護師の切迫した声に我に返った時也は、すぐさまスマートフォンを取り出し、秘書の相沢孝男(あいざわ たかお)へ電話をかけた。

「病院側で必要な手続きや移送があるなら、全部すぐに対応してくれ。車でも人でも、必要なものは何でも手配しろ」

どんな不測の事態にも動じないはずの時也が、今はスマートフォンを握る手さえかすかに震わせている。

つい数時間前まで、せっかくの休日が他人のことで潰れるとぼやき、今日こそ予定どおり入籍できるのかと私に念を押していた。それなのに今、彼の頭にあるのは、処置室で生死の境をさまよう子どものことだけだった。

泣き崩れる灯里を抱き寄せ、時也はかすれた声で言い聞かせる。

「大丈夫だ。俺がいる。俺たちの子は絶対に助かる」

親子鑑定すら、まだしていない。

それでも時也はもう、何の迷いもなくその子を自分の子として受け入れていた。

灯里は時也の胸にすがり、時也も震えるその肩を強く抱きしめる。

閉ざされた扉を二人並んで見つめる姿は、わが子の無事を祈る夫婦そのものだった。

一歩後ろに立つ私だけが、その輪の外に取り残されている。

3時間後、ようやく処置室から出てきた医師が告げた。

「ひとまず危険な状態は脱しました。ただ、しばらくは入院して経過を見ます」

その言葉を聞いた途端、灯里の膝から力が抜けた。

崩れ落ちそうになった身体を時也がすぐに支え、頬を伝う涙をそっと拭う。

「もう大丈夫だ。助かったんだ」

そう言って灯里をなだめてから、ようやく私の存在を思い出したようにこちらを見た。

「玲奈、今日は先に帰ってくれ。夜には戻る。そのときちゃんと話すから」

「でも、役所の受付、もうすぐ終わるよ。今日、入籍するって――」

「今、この状況でそんな話ができるか?子どもはついさっきまで危なかったんだ。灯里だってこんな状態だろ。入籍はまた今度にすればいい」

冷たく言葉を遮られ、私は何も言えなくなった。

この半年、入籍が延びるたびに苛立ちを露わにし、いつまで灯里を優先するのかと私を責めていたのは時也だ。

とうとう指輪まで投げつけ、もうこれ以上は待てないと言い出した本人が、今では自分から延期を口にしている。

その腕の中で、灯里は私と目を合わせようとしなかった。

私は今、いったい何のためにここにいるのだろう。

時也の婚約者としてなのか。

灯里の10年来の親友としてなのか。

それとも、何も知らずに二人の子どもの世話を焼き続けていた、ただの馬鹿としてなのか。

何を言えばいいのかも、誰に問いただせばいいのかも分からないまま、私は一人で病院をあとにした。

時也が帰ってきたのは、日付が変わった午前1時過ぎだった。

暗いリビングで待っていた私を見ると、いつものように抱き寄せようと腕を伸ばしてくる。

「まだ寝てなかったのか?」

その身体から漂ってきたのは、病院の消毒薬の匂いと、灯里がいつもまとっている甘い香水の香りだった。

込み上げる嫌悪に耐えきれず、私はその胸を押し返した。

「時也。どうして黙ってたの?」

「何を?」

「灯里と関係を持ったこと」

時也の表情が固まった。

「あの夜は俺の意思じゃない。俺は薬を盛られていたし、灯里もひどく酔っていた。二人ともまともな状態じゃなかったんだ。それに、灯里はお前の親友だろ。まったく見ず知らずの女ってわけじゃない」

たった半日で、呼び方まで変わっていた。

これまで距離を置いて「水野さん」と呼んでいた人を、今はもう自然に「灯里」と呼んでいる。

「相手が誰かなんて関係ない。薬のせいだったとしても、私以外の人と関係を持った事実まで消えるわけじゃないでしょ」

抑えようとしても、声が震えた。

「私にとっては、裏切りだよ」

時也は疲れたように額へ手を当てる。

「玲奈、どうして分かってくれないんだ。正常な判断ができる状態じゃなかった。灯里だって酔い潰れてた。俺も灯里も、あの夜の被害者なんだ」

二人とも被害者だというのなら、婚約者と10年来の親友に同時に裏切られた私は、いったい何なのだろう。

「それで、これからどうするの?」

時也は私からわずかに視線をそらし、しばらく黙ってから答えた。

「俺はずっと、あの夜の相手を捜してた。見つけたら、何かしら責任を取るつもりだったんだ。でも、まさか灯里だとは思わなかったし、子どもまで産んでいたなんて知らなかった。子どもがいる以上、このままにはできない。

まず灯里と入籍して、生活も子どものこともきちんと整える。それから離婚して――そのあとで、改めて玲奈と結婚する」

あまりにも当然のように語られる未来に、思わず乾いた笑いがこぼれた。

「どうして私が、離婚したあなたを大人しく待ってると思うの?」

「そんな言い方するなよ。6年も一緒にいたんだ。お前が本気で俺と別れられるわけないだろ」

時也は昔と変わらない優しい手つきで、私の頬を伝う涙へ指を伸ばした。

けれど、その指が触れる寸前、スマートフォンが震えた。

画面に浮かんだ名前は、灯里だった。

時也はためらうことなく電話に出る。

そして、受話器の向こうの声を聞いた途端、その声色が変わった。

「泣くな。今から行く」

そのまま上着を手に取り、私には何一つ言い残さないまま家を出ていった。

扉が閉まったあとも、私は暗いリビングに座ったままだった。

やがて窓の外が白み始めた頃、何日も返事を保留にしていた一通のメールを開く。

ロンドン支社への赴任打診。

もう、迷いはなかった。

私はその場で、承諾のボタンを押した。

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第1話
時也は、否定の言葉を求めるように灯里を見つめていた。けれど、灯里は何も答えない。唇を噛んでうつむいたまま、涙だけが次々と床へ落ちていく。その沈黙を破ったのは、処置室の扉が開く音だった。「必要な血液製剤を緊急で手配しています。お子さんの状態はまだ不安定ですので、ご家族はこちらでお待ちください」看護師の切迫した声に我に返った時也は、すぐさまスマートフォンを取り出し、秘書の相沢孝男(あいざわ たかお)へ電話をかけた。「病院側で必要な手続きや移送があるなら、全部すぐに対応してくれ。車でも人でも、必要なものは何でも手配しろ」どんな不測の事態にも動じないはずの時也が、今はスマートフォンを握る手さえかすかに震わせている。つい数時間前まで、せっかくの休日が他人のことで潰れるとぼやき、今日こそ予定どおり入籍できるのかと私に念を押していた。それなのに今、彼の頭にあるのは、処置室で生死の境をさまよう子どものことだけだった。泣き崩れる灯里を抱き寄せ、時也はかすれた声で言い聞かせる。「大丈夫だ。俺がいる。俺たちの子は絶対に助かる」親子鑑定すら、まだしていない。それでも時也はもう、何の迷いもなくその子を自分の子として受け入れていた。灯里は時也の胸にすがり、時也も震えるその肩を強く抱きしめる。閉ざされた扉を二人並んで見つめる姿は、わが子の無事を祈る夫婦そのものだった。一歩後ろに立つ私だけが、その輪の外に取り残されている。3時間後、ようやく処置室から出てきた医師が告げた。「ひとまず危険な状態は脱しました。ただ、しばらくは入院して経過を見ます」その言葉を聞いた途端、灯里の膝から力が抜けた。崩れ落ちそうになった身体を時也がすぐに支え、頬を伝う涙をそっと拭う。「もう大丈夫だ。助かったんだ」そう言って灯里をなだめてから、ようやく私の存在を思い出したようにこちらを見た。「玲奈、今日は先に帰ってくれ。夜には戻る。そのときちゃんと話すから」「でも、役所の受付、もうすぐ終わるよ。今日、入籍するって――」「今、この状況でそんな話ができるか?子どもはついさっきまで危なかったんだ。灯里だってこんな状態だろ。入籍はまた今度にすればいい」冷たく言葉を遮られ、私は何も言えなくなった。この半年、入籍が延びるたびに苛立ちを露わにし
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第2話
ほとんど眠れないまま朝を迎えても、仕事だけは待ってくれない。重い身体を引きずるように出社し、ロンドン赴任の引き継ぎ書類に目を通していると、上司の高木美穂(たかぎ みほ)課長が何気ない調子で声をかけてきた。「柏木さん、玲奈が飲み会から10分遅く帰っただけでも何度も電話してくるくらいだったのに、よく3年の海外赴任を許したわね。昨日、ずいぶん説得したんじゃない?」昨夜から一度も通知のないスマートフォンを見て、私は事実だけを告げた。「事情が変わりまして。結婚は、しないことになりました」高木課長の笑顔が消えた。理由を問いただすことはせず、少しだけ私の肩を叩く。「結婚する前に分かってよかったって、そう思える日がきっと来るわよ」裏切った相手が10年来の親友でさえなければ、素直に頷けたのかもしれない。それでも、もう起きてしまったことを職場で語る気にはなれず、どうにか笑ってその場をやり過ごした。引き継ぎに追われ、帰宅したのは午後8時を回ってからだった。玄関を開けた瞬間、見慣れたはずのリビングで足が止まる。ソファには時也と灯里が肩を並べ、その手はしっかりとつながれていた。頭に血が上った次の瞬間、視界が暗くなる。ドア枠に手をついて身体を支え、眩暈がおさまるのを待つと、私はそのまま背を向けた。「玲奈!」追ってきた灯里が、上着の袖をつかむ。「待って。玲奈の好きなスペアリブと魚の蒸し焼き、それに卵スープを作ったの。少しだけでも食べていかない?」そのすぐ後ろから来た時也は、灯里の腰へ手を添え、私から庇うように立った。「灯里は昨夜ずっと病院にいて、昼間もほとんど寝てないんだ。それでもお前のために作ってくれた。せっかくなんだから、少しくらい付き合えよ」二人の様子を見れば、単なる謝罪の食事ではないことくらい分かった。「……分かった」灯里の手を袖から外し、ダイニングへ向かう。これまで3人で食卓を囲むときは、私と時也が隣に座り、灯里が向かい側にいるのが当たり前だった。それが今日は、時也が迷いもなく灯里の隣へ座り、私だけが二人と向かい合う。料理には手をつけず、私は先に話を促した。「話があるんでしょ。先に聞くよ」灯里が何か言いかけるより早く、時也がその手を握った。「明日、灯里と入籍する。それから、しばらく灯里と子どもも
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第3話
私から金の話を持ち出すとは思っていなかったのだろう。時也の顔が強張り、その隣で灯里は目を赤くしながら紙とペンを取りに行った。「玲奈、怒らないで。借用書を書くから。子どもがもう少し大きくなったら私も働くし、利息もちゃんと払う」震える手で書き始めた紙を、時也が途中で取り上げ、そのまま破り捨てた。「必要ない。今まで灯里にいくら使ったのか、全部出せ。俺がまとめて返す」さらに灯里の手を握り、安心させるように声を落とす。「書かなくていい。俺がいる。俺たち夫婦が玲奈に借りを作る必要はない」かつて、私にとって誰より大切だった二人が今は夫婦として肩を並べ、私の向かい側にいる。その光景を見ているだけで胸の奥が締めつけられ、涙がこぼれそうになった。私はそっと息を整え、込み上げるものを飲み込んだ。「分かった。じゃあ、全部清算しよう」スマートフォンの決済履歴を開き、灯里のために支払ったものを一件ずつ確認していく。妊婦健診の費用、栄養食品、住居費、産後ケア。画面を遡り続けるうちに、時計はいつの間にか午前0時を回ろうとしていた。そしてようやく、一番古い記録に辿り着く。18歳のとき、灯里から振り込まれた13万5,076円だった。あの頃、両親は私の大学進学に反対していた。進学などせずに働き、その金を兄の結婚資金に回せと言われ、私が拒むと、家から出られないよう部屋に閉じ込められた。そんな私を助けてくれたのが灯里だった。窓を壊して部屋に入り、私をあの家から連れ出してくれた。それだけではない。何年も貯めてきたお年玉も、アルバイトで稼いだお金も、灯里は惜しむことなく私に差し出してくれた。「玲奈なら絶対に大丈夫。これは貸すんじゃなくて、先行投資。私、人を見る目には自信あるんだから」画面にぽたりと涙が落ちた。私はすぐに指で拭い、その13万5,076円だけは合計から外した。あのお金まで、今さら返してもらう気にはなれなかった。ほどなくして、時也から入金の通知が届く。857万2,005円。端数まできっちり計算された金額。私はしばらく、その数字を見つめていた。13万5,076円は、灯里が持っているものを惜しみなく差し出し、私をあの家から連れ出してくれたときのお金だった。それなのに今、目の前に届いた85
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第4話
2時間後、診察室で渡された検査結果には、【妊娠6週3日】と記されていた。薄い紙一枚なのに、手にした途端、息が詰まりそうになった。私も時也も、ずっと子どもを望んでいた。いつか生まれてくる子どもの名前を一緒に考え、結婚後に住む家も、子育てのことを考えて選んだ。それなのに。灯里が時也の子どもを産んだと知り、私が彼のもとを離れようと決めた今になって、私のお腹にも小さな命が宿っていた。どうしたらいいのか分からないまま病院の廊下を歩いているうちに、気づけば悠真の病室の前まで来ていた。少し開いた扉の隙間から中を覗くと、時也と灯里が並んでベッドのそばに座っていた。二人きりでいても気まずそうな様子はなく、まるでずっと前から一緒に暮らしてきた夫婦のように自然だった。灯里が玩具を鳴らすと、悠真が楽しそうに笑う。それを見た時也の表情も、柔らかくほころんだ。「灯里、ありがとう。こんなにかわいい子を産んでくれて」灯里が目を潤ませながら時也の肩にそっと寄り添うのを見て、私は無意識に下腹部へ手を添えた。見た目にはまだ何の変化もない。それでも、このお腹の中には確かに小さな命が宿っている。その時、時也がふいに顔を上げた。扉越しに目が合った瞬間、時也の表情からそれまでの優しさが消え、代わりにわずかな警戒が浮かんだ。それでも、灯里へ向ける声だけは変わらなかった。「悠真を見ててくれ。ちょっと外してくる」そう言って病室を出ると、時也は私の腕をつかみ、そのまま人目のない非常階段まで連れていった。「何しに来た?」開口一番そう問われ、胸の奥がずきりと痛んだ。「私が、何の罪もない子どもに何かするとでも思ってるの?」思わず声が震える。「私が病院にいるのを見て、体調でも悪いのかって……少しも思わなかった?」涙で赤くなっていく私の目を見て、時也の表情が一瞬だけ強張った。「そういう意味じゃない。ただ、俺たちは結婚したばかりだし、お前がまだ受け入れられないのも分かってる。灯里もお前のことを気にしてる。これ以上、二人が揉めるようなことにはしたくないんだ」口にするのは灯里を気遣う言葉ばかりで、私がどうして病院にいるのか、時也は一度も尋ねようとしなかった。たった一夜の過ちと、そこから生まれた子ども。それだけで、私たちが
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第5話
病院には泊まりたくなかった。麻酔が抜けるのを待って退院したものの、身体にはまだ十分に力が戻っていなかった。それでも何とか正面玄関までたどり着くと、少し離れたところで時也と灯里が言い争っているのが見えた。灯里の足元には大きなスーツケースが置かれ、時也がその持ち手を離すまいと強くつかんでいる。二人とも目に涙を浮かべていた。「どこへ行くつもりだ。勝手に出ていくな」「あの夜、私がわざとあなたの部屋に入ったこと、もう知ってるんでしょ?だったら、これ以上そばにはいられないよ。許してほしいなんて言わない。だから玲奈を大切にして。悠真のことも、ちゃんとお願い」そう言ってスーツケースを取り返そうとした灯里を、時也はそのまま腕の中へ引き寄せた。「もういい。あの夜、相手がお前じゃなくても、きっと同じことになってた。それに……相手がお前だったと分かって、むしろほっとした」そこまで聞けば、もう何も言う気にはなれなかった。まるで悲劇の恋人同士のように抱き合う二人を見ていると、あまりの光景に思わず乾いた笑いが漏れた。その声に気づき、二人が同時にこちらを見る。「玲奈!」灯里は慌てて時也の腕から離れ、私のところへ駆け寄ってきた。「違うの。玲奈が思ってるような――」伸ばされた手を見た瞬間、胃の奥から吐き気が込み上げた。反射的に振り払うと、灯里は足をもつれさせ、その場に転んでしまう。「灯里!」時也がすぐに駆け寄り、身体を支えた。「大丈夫か?」灯里が頷いても安心できないのか、時也は怪我がないか確かめてから、庇うように自分の後ろへ立たせた。「灯里は悠真のところへ戻ってろ。ここは俺に任せろ」灯里は何度もこちらを振り返りながら、病棟へ戻っていった。私が一人で手術を受けていた数時間のあいだに、二人の距離はさらに縮まっていたらしい。午後に病室で見たときよりも、ずっと親密に見えた。時也は灯里の姿が見えなくなってから、ようやく私へ向き直った。「近くで話さないか?」「ここじゃ駄目なの?」時也は周囲を気にするように見回し、声を落とした。「悠真はまだ入院してるし、灯里もしばらくここに通わないといけない。余計な噂を立てられたくないんだ」灯里のことを気遣っているのだと、すぐに分かった。かつての時也は、どんな
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第6話
結局、私はカフェの閉店まで席を立てなかった。家へ帰る気にもなれず、かといってほかに行くあてもない。その夜は会社近くのホテルに泊まり、翌朝、残っていた引き継ぎを済ませるためにそのまま出社した。ところが、会社に着くなり高木課長に呼ばれ、応接室へ通された。「玲奈、これどういうこと?」応接室へ入ると、机の上には私を名指しで担当から外すよう求める要望書が何通も並べられていた。「海外赴任が決まってる以上、いずれ引き継ぐことにはなるけど……同じ時期に何社も一斉に担当を替えてほしいなんて言ってきたら、本部だってあなたの仕事に何か問題があったんじゃないかって疑うでしょ」資料に目を通すと、そのうち2社は時也が役員を務める企業で、残りも彼と関係の深い取引先ばかりだった。ここまで揃えば、誰が動いたのかは考えるまでもなかった。「私が対応します」そう告げて部屋を出ると、すぐに時也へ電話をかけた。何度かけてもつながらず、8回目でようやく出たと思えば、聞こえてきたのは灯里の声だった。「玲奈?時也ならまだ寝てるの。何か急ぎかなと思って、私が出ちゃった」「時也に代わって」「でも、昨日は悠真につきっきりで、ほとんど寝てなくて――」それ以上聞く気にはなれず、私はそのまま電話を切り、病院へ向かった。病室では、時也が付き添い用のベッドで眠っていた。わずかに開いたシャツの襟元からは、鎖骨をかすめて奥へ続く新しいひっかき傷がのぞいている。それだけで、昨夜二人の間に何があったのかは十分に察しがついた。込み上げる嫌悪をこらえながらベッドへ歩み寄り、私は時也を起こした。「時也。どういうつもり?」寝ぼけたまま私の手を握った時也は、まだ目もろくに開いていない。「灯里……悠真がどうかしたか?」けれど、目の前にいるのが私だと分かった途端、時也の表情からさっきまでの柔らかさが消えた。「玲奈か。また何しに来た?」その態度に、抑えていた苛立ちが再びこみ上げた。「私を名指しで担当から外させたの、あなたでしょ?自分の立場を使って私の仕事にまで手を出しておいて、何しに来たってよく言えるね」そこへ、飲み物を持った灯里が戻ってきた。険悪な空気を察すると、慌てて二人の間に割って入り、私を庇うように時也の前に立った。「時也、玲奈をい
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第7話
ホテルを引き払い、荷物を取りに家へ戻った。玄関には、いつの間にか灯里の靴が加わっていた。私がよく履いていたパンプスは一番下へ押し込まれ、甲にはくっきりと折れ跡がついていた。リビングに飾ってあった時也との写真も消え、代わりに、悠真を抱いた時也と灯里の三人で撮った家族写真が飾られていた。それを見た瞬間、以前、冗談まじりに時也へ尋ねたことを思い出した。「もし私がいなくなったら、どのくらいで忘れる?」あのとき時也は私を抱きしめながら、「一生忘れるわけない」と笑っていた。けれど、目の前にある答えは――たった2日だった。寝室へ向かおうとしたところで、玄関の鍵が開く音がした。振り返ると、時也と灯里が並んで入ってきた。私の姿に気づいた灯里は、ぱっと表情を明るくした。「玲奈、帰ってきたんだ。もしかして……許してくれたの?」私は何も答えなかった。けれど灯里は、その沈黙を肯定と受け取ったらしい。「時也から聞いたよ。1か月だけ待ってくれるんだよね。ありがとう」灯里は目を潤ませ、ほっとしたように笑った。「1か月経ったら、私はちゃんと離れる。もう二人の邪魔はしないから」少し離れたところに立つ時也も、灯里の言葉を否定する様子はなかった。結婚前に別の女との間に子どもをつくり、その相手と一度結婚した男を、1か月後には私が何事もなかったように受け入れる。二人とも、本気でそう思っているらしい。説明する気にもなれず、そのまま寝室へ入って荷物をまとめていると、ドアの向こうから遠慮がちな灯里の声が聞こえてきた。「玲奈、まだご飯食べてないよね?スペアリブ、作ろうか?」返事をしないでいると、やがてキッチンから鍋や食器の触れ合う音が聞こえてきた。ちょうど最後の荷物をスーツケースへ収め、ファスナーを閉めた、そのときだった。突然、けたたましい火災警報器の音が家中に響き渡った。「火事!」灯里の叫び声に、慌てて寝室を飛び出す。キッチンからは、すでに濃い煙が押し寄せていた。考え事をしながら料理をしていた灯里が、油を熱しすぎて火を出したらしい。慌てた拍子に調味料棚まで倒し、燃えた油が壁へ飛び散ったことで、炎は換気扇から天井へ一気に燃え広がっていた。煙にむせて咳き込んでいると、突然、大きな音とともに燃え
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第8話
火災で焼けたあの家は、とても住める状態ではなかった。悠真の退院に合わせ、時也は灯里と子どもを、柏木家が所有する川沿いの空き物件へ移した。4LDKの室内には家具も生活用品も一通りそろっており、子ども部屋まであらかじめ用意されていた。淡い青の壁紙に、雲の形をした照明。棚には新しい玩具がずらりと並んでいる。悠真を抱いたまま部屋を見回していた灯里は、次第に目を潤ませた。「時也、ここまでしてくれなくてもよかったのに。私と悠真なら、ホテルでも大丈夫だよ」時也はその言葉を遮るように悠真を受け取ると、すっかり慣れた手つきで抱き上げた。「そんな気を遣わなくていい。今は俺たち家族なんだから、ホテル暮らしなんてさせられないよ」「家族」という言葉に、灯里は一瞬だけ動きを止めた。やがて灯里は、嬉しさを隠すようにそっと目を伏せた。たとえ1か月だけで、最初から終わりの決まった結婚だとしても、今この瞬間だけは時也の妻として隣にいられる。けれど、そんな気持ちに浸る間もなく、荷解きも終わらないうちから火事の後始末に追われることになった。まず管理会社から連絡が入り、消火活動の水が階下まで漏れたことで、天井やフローリング、壁にまで被害が出ていると知らされた。さらに、煙で汚れた外壁や共用部分の清掃と修繕も必要になるという。その電話を切ると、今度は保険会社から連絡があり、消防関係の書類や現場写真、家具の購入記録、損害品の一覧を追加で提出するよう求められた。そのうえ、階下の住人からも直接連絡が入り、送られてきた見積もりを見た時也は思わず眉を寄せた。「床や天井の修理だけで、こんなにかかるんですか?」電話の向こうから、すぐに苛立った声が返ってくる。「フローリングは水を吸って浮いていますし、壁も直さないといけません。家具にも被害が出ています」そう言われると、時也も返す言葉がなかった。これまで、こうした面倒ごとはいつも玲奈が先回りして片づけていた。マンションの水漏れも、車の保険の手続きも、壊れた家具の手配もそうだったし、時也がキャッシュカードを服のポケットに入れたまま洗濯してしまったときでさえ、玲奈が銀行へ連絡して再発行まで済ませてくれた。それでも最後には、決まって何でもないことのように「もうやったよ」と言うだけだった。だか
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第9話
「どこに行った?」「ロンドンです」その答えを聞いた瞬間、時也はスマートフォンを握る手に力を込めた。なぜか苛立ちが湧いたものの、すぐに自分を納得させるように言う。「もともと出張の多い仕事だ。急な案件でも入って、予定より早く向こうへ行っただけだろ」「ですが、勤務先の話では――」「もういい。管理会社と保険の件を先に片づけてくれ」玲奈がいつ戻るのかも尋ねないまま、時也は孝男の言葉を遮って電話を切った。火事のとき、自分が灯里を先に助けたことに傷ついて、玲奈は意地になっているだけだ。昔から気が強く、簡単に弱音を見せるような性格ではないから、仕事を口実にしばらく海外へ離れただけなのだろう。1か月後に灯里と離婚すれば、6年も自分を愛してきた玲奈は、きっとまた戻ってくる。時也はそう信じて疑わなかった。「少し放っておけばいい。落ち着けば、向こうから連絡してくるさ」ソファに腰を下ろした時也へ、灯里は無理に笑って頷いた。「……そうだね」けれど、胸の奥に残る不安は消えなかった。灯里は、時也よりずっと長く玲奈を知っている。つらければ泣き、腹が立てば正面からぶつかってくる。けれど、本当に心が離れたときの玲奈は、怒ることも責めることもなく、何も言わずに去っていく。灯里はそれを伝えかけたものの、結局口をつぐんだ。自分が時也の妻でいられるのは、たった1か月なのだから、せめてその短い間だけは玲奈のことを考えずに過ごしたかった。それからの数日、二人は本当の新婚夫婦のように暮らした。悠真の世話ひとつ取っても、灯里は何かあるたびに時也を頼った。夜中に雷が鳴れば不安そうに寄り添い、火事の後始末をこなす姿を見れば、素直に頼もしさを口にする。そうやって頼られ、必要とされることを、時也は次第に心地よく感じるようになっていた。玲奈といるとき、時也が誰かに頼られ、必要とされていると感じることはほとんどなかった。玲奈は仕事でも生活でも、自分のことは自分で片づけてしまう。滅多に弱音を吐かず、誰かにすがることもしない。その一方で、灯里は何かあるたびに時也を頼り、素直に手を伸ばしてくる。そんな違いに触れるうち、灯里に惹かれた自分の気持ちも、間違いではなかったのかもしれないと、時也は思うようになっていた。けれど、そんな穏やか
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第10話
生活の混乱が収まらないうちに、今度は灯里の仕事でも次々と問題が起こり始めた。時也から案件を正式に引き継いだ当初、灯里にはそれなりの自信があった。数年間同じ会社で働き、会議にも出て、顧客対応や資料作成も一通り経験してきたからだ。けれど、誰かの指示を受けながら進めるのと、自分が責任者としてすべてを判断するのとでは、まるで勝手が違った。初日から見積書の数字を一桁間違え、本来800万円だった予算を8000万円として提出してしまう。先方から厳しく問いただされても、灯里は慌てるばかりでまともに説明できず、結局、時也が自ら訂正に入ることになった。その数日後には、先方から追加された要望を見落とし、制作チームは古い案のまま3日間も作業を進めてしまった。「先週、グループチャットでメインビジュアルを変更してほしいと伝えましたよね?こちらの連絡、きちんと確認されているんですか?」慌てて履歴を遡ると、そのメッセージには灯里自身が既読をつけていた。ただ、対応するのを忘れていたのだ。その夜、プロジェクトチーム全体が修正作業に追われるなか、灯里は忙しく動く社員たちに何度も頭を下げるしかなかった。さらに今度は、法務確認前の契約書を誤って取引先へ送ってしまう。修正前の違約条項を相手に指摘され、このままでは会社が大きな損失を負いかねない事態となった。時也は法務担当者を連れて急きょ再交渉に入り、契約を正式な内容で結び直せたのは午前4時を回ってからだった。わずか1週間で、時也が灯里の後始末をするのはこれで3度目だった。そして4度目は、重要な進行日程の共有漏れだった。また納期が遅れると分かった瞬間、時也はとうとう会議室の机へ資料を叩きつけた。「どうして、同じようなことを何度も繰り返すんだ?」会議室中の視線が、一斉に灯里へ集まった。灯里は唇を噛み、目に涙をためながら言い返す。「私だって、ちゃんとやってるよ」「ちゃんとやってるなら、納期を間違えたりしない」時也の声は冷たかった。「会社は仕事を覚えるための練習場所じゃない。責任を持てないなら、この案件から降りろ」とうとう堪えきれなくなった灯里は、涙をこぼしながら会議室を飛び出した。帰宅してからもそのまま寝室に閉じこもり、時也が様子を見に来ても、なかなか泣き止まなかった
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