LOGIN忠則は「風呂に入る」とネクタイを解き、ソファに投げ捨てた。スーツやワイシャツも脱ぎ散らかしたまま、バスルームへ向かう。いかに菊乃さんが彼を甘やかして育ててきたかが、こんな些細なことからも窺い知れる。
私はそのセミの抜け殻のような服を黙って拾い、シワにならぬよう丁寧にハンガーに掛けた。薔薇の香水の匂いがまだ強く残り、襟元に触れる指先がわずかに震える。忠則の足音が遠ざかる中、私はバスルームの脱衣所に一人残された。この家で、私の役割はいつも後片付けだけだ。
そして私の疑惑を煽るように、シャワーの湯がバスルームのドアを激しく叩きつける。この違和感を忠則に尋ねるべきなのか……気を悪くするのではないか……脳裏にさまざまな思いが去来する。
「あ、あの……忠則さん」
私の声は彼の耳には届かず、忠則は風呂から上がると、すぐに自室へ向かった。薔薇の香水の匂いがまだバスルームに残り、私の鼻をくすぐる。私は脱ぎ散らかされたスーツをクローゼットにしまいながら、ポケットに手を入れると、小さな紙片が指先に触れた。
ホテルの領収書だ。今日の日付で、バーでの2名分の料金。
接待にしては遅すぎる時間。胸がざわつく。リビングに戻ると、菊乃さんがテレビを見ながら私をちらりと見た。
「忠則ちゃん、今日は随分疲れているようね」
その言葉に、匂いのことを聞きたい衝動が湧くのに、口は開かない。私はただ「お休みなさい」と呟いて階段を上る。普段、忠則と会話がない私は、いけないことだと知りながら、彼のLINEを覗く癖がついてしまっていた。寝室で忠則のスマートフォンを握る。指先が震える。息が止まる。パスワードが変わっていた。夫の浮気疑惑が、夜の闇の中で膨らんでいく。
そして、菊乃さんは「孫はまだか」と度々訊いてくるが、それはコウノトリが運んでくれなければ難しい話だ。寝室はナイトテーブルを挟んだツインベッドで、私と忠則は互いの温もりを知らない。
結婚当初こそ同じ布団で寄り添った夜もあったが、彼と本当に眠った日は指で数えるほど。ここ2年は手を繋いだことさえない。
忠則はすぐに背を向け、寝息を立てる。私は天井の暗がりを見つめながら、ツインベッドの間で目を閉じる。眠りは浅い。薔薇の香水の残り香が、まだ鼻の奥に絡みついている。
翌朝、忠則がいつものように早い出勤で家を出た後、私は彼の書斎に忍び込んだ。菊乃さんはまだ朝の仏壇勤め中だ。
引き出しを開けると、ホテルの領収書がもう一枚、昨日とは別の日付で挟まっていた。同じバー、同じく2名分。胸が締めつけられる。クローゼットにしまったスーツの内ポケットを探ると、薄いカードキーが落ちた。高級ホテルのものだ。部屋番号は書かれていないが、磁気ストライプの光沢が朝の光に冷たく反射する。
私はそれをスマートフォンで撮影し、そっと元に戻した。銀行へ向かう電車の中で、私は忠則のスマートフォンの位置情報を共有しているアプリを開く。昨夜の遅い時間、彼は確かに会社近くの高級ホテル街にいた。薔薇の香りの主は誰なのか。名前も顔もわからないのに、胸の奥で嫉妬と好奇心が渦を巻く。
業務に集中出来ない私は窓口業務でミスを重ねた。伝票の数字を打ち間違え、顧客に頭を下げ、やり直しの手間を増やしてしまう。昼休憩、休憩室で係長に「最近調子が悪いね。しっかりして」と穏やかだが重い声で注意されている私を、同僚たちは遠巻きに嘲り笑い、後ろ指を指した。クスクスという小さな笑い声が耳に刺さり、弁当の蓋を開ける手が止まる。忠則の薔薇の香り、ホテルの領収書、卯月様の鋭い視線が頭の中でぐるぐると回り、どこにも逃げ場がない。誰も味方してくれないこの場所で、また涙が込み上げてきて、必死に俯いた。
私は菊乃さんに「残業で遅くなります」と短い連絡を入れ、忠則の足取りを追うことにした。
いつもなら電車でまっすぐ帰宅するところを、今日はバスに乗り換え、高級ホテルが立ち並ぶ夜の通りでステップを降りた。街灯に照らされたガラス張りのビルが冷たく輝き、行き交う人々のコートから香水の匂いが漂う。
忠則の位置情報アプリは、彼がこの近くのカフェにいることを示していた。画面の赤い点が静止したまま、もう30分以上経つ。薔薇の香りの主はここにいるのか。足が震えそうになりながらも、私はカフェの入口へ近づき、ガラス越しに中を覗いた。胸の鼓動が耳に響き、今日の嘲笑われた悔しさよりも、ただ忠則の姿を探すことに囚われていた。
腰を屈め、観葉植物の影から混雑した店内を窺い見る。
「……いた」
カウンター席の奥、柔らかな間接照明の下に忠則はいた。
普段の重々しい社長の顔ではなく、肩の力が抜けた、まるで少年のような笑みを浮かべている。向かいの長い黒髪の女性は背を向けて座り、顔は見えないが、細い指で忠則の髪を優しく梳き、耳元で何か囁いている。忠則は目を細めて頷き、彼女の手をそっと包み込むように握った。その仕草に、胸が鋭く痛む。これまで私に見せたことのない、甘く溶けた表情だ。テーブルの上には2つのコーヒーカップと、小さなケーキの皿。
忠則がフォークでクリームをすくい、女性の口元へ運ぶ。彼女がくすりと笑って受け入れる様子に、薔薇の香りがここまで漂ってくる気がした。
私は葉の陰で息を殺し、ただその親密な世界を盗み見るしかなかった。
結城興業の「綺麗な金」を、政治家や役人にばら撒くために、その資金を銀行から受け取ることになった。あくまで表向きは「結城運送株式会社」の銀行口座。その銀行は、私がかつて勤めていた、あの銀行だった。同僚の日常的ないじめ、それを見て見ぬふりの上司、菊乃さんの一言で即座に解雇を決めた頭取——すべてが蘇る。私は意気揚々と銀行の窓口ロビーのソファに腰を下ろした。卯月が受付カウンターで低い声で告げる。「一千万円を準備して欲しい」かつての同僚は顔色を変え、慌てて席を立った。私たちはすぐに奥の応接室に通され、革張りのソファにゆっくりと腰を沈めた。やがて、紅茶のトレイを持った女性が部屋に入ってきた。アールグレイの香りが漂う中、彼女は私の顔を見て凍りついた。「……葛城さん」私は優雅に微笑み、静かに訂正した。「いいえ、今は結城美穂子よ」元いじめの首謀者だった彼女の手が震え、紅茶のカップがカチカチと音を立てる。目が泳ぎ、顔から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。私は足を優しく組み替え、冷ややかに言った。「久しぶりね。今日は大切なお取引で伺ったの。……丁寧に、対応してくれるわよね?」応接室の空気が一瞬で凍りつき、彼女の肩が小さく震えた。かつて私を嘲笑い、蔑み、踏みにじった者たちが、今は私の足元に跪く。アタッシュケースを持参した頭取が、応接室のドアをノックして入ってきた。その瞬間、部屋の空気が凍りついた。卯月の静かな、しかし圧倒的な気配に、頭取の足がぴたりと止まる。顔から一瞬で血の気が引いていき、手元のケースがカタカタと小さく音を立てた。彼は必死に笑顔を作ろうとしたが、唇が引きつるだけで言葉が出てこない。そして、私の顔を真正面から見た瞬間、頭取の瞳が大きく見開かれた。「あ……あなたは……葛城……」声が上ずり、喉が鳴る。かつて私を切り捨て、菊乃さんの一言で即座に解雇を決めた男の顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。私はソファに深く腰を下ろしたまま、ゆっくりと微笑んだ。笑みは優雅だが、目は冷たい。「以前はお世話になりました、頭取。今後ともよろしくお願いしますね」私の声は穏やかだったが、部屋の温度を一気に下げた。頭取の額に脂汗が浮かび、膝が小刻みに震え始める。卯月が無言で一歩前に出ただけで、頭取は後ずさり、壁に背中をぶつけた。
これまでは別々の食卓で食事をしていたが、これからは卯月も結城の屋敷のダイニングテーブルを囲むことになった。朝食はご飯、わかめと豆腐の味噌汁、塩ジャケ、きゅうりの生酢だった。シンプルで、どこか家庭的な献立。卯月は緊張の面持ちで座り、箸を持つ手がぎこちない。いつも冷静で影のように控えている彼が、こんなに固くなっている姿が新鮮で、少し可笑しかった。お祖父様が湯飲み茶碗を手に、意味深な笑みを浮かべて言った。「昨夜はよく眠れたか?」卯月は耳まで真っ赤になり、慌ててきゅうりの生酢を口に運んだ拍子にむせてしまった。咳き込む彼の背中を、私はそっとさすった。お祖父様は意地悪く目を細め、さらに追い打ちをかける。「子は早い方がいい。頼むぞ、卯月」私は思わず味噌汁を吹き出し、慌てて口元を押さえた。卯月はますます赤くなり、箸を置いて深く頭を下げた。「……お祖父様、お言葉ですが……」私は頰が熱いのを抑えきれず、そっと卯月の袖を引いた。これから毎朝、このようなやり取りを目にするのかと思うと、胸がくすぐったいような、照れくさいような、不思議な気持ちになった。白檀の香りが漂う朝のダイニングで、私は静かに微笑んだ。卯月が、そっと私の手に自分の指を重ねてくる。その温もりが、朝の光の中でとても優しく感じられた。 これが、私たちの新しい朝の始まりだった。私たちはシマの見回りと、卯月との婚姻挨拶を兼ねて、結城組の事務所を回った。黒いセダンの窓に流れる景色は、いつもと違って見えた。街並みが少し柔らかく、朝の光が優しく感じられる。これが結婚したということか……。私は左の薬指に光るプラチナのエンゲージリングを、そっと指でなぞった。シンプルで、けれど重みのあるリングは、まだ自分のものだという実感が薄い。卯月が運転席から静かに言った。「お嬢様……いや、美穂子。緊張していますか?」私は小さく微笑み、ルームミラー越しに彼の目を見つめた。「少しね。でも、嬉しい気持ちの方が大きいわ」最初の事務所は、港近くの物流倉庫を兼ねた建物だった。表向きは「結城運輸」の営業所。働いている社員のほとんどはカタギの人間だ。彼らは自分が働いている会社が、結城組の表の顔であることを知らないか、薄々察している程度だろう。事務所に入ると、所長をはじめ社員たちが一斉に立ち上がり、深々と
白檀の香りが濃く立ち込める結城の屋敷は、朝から静かにざわめいていた。私は純白の打掛に身を包み、長い黒髪を優しく結い上げられていた。鏡に映る自分は、まるで別人のように凛としていた。数年前、葛城の屋敷で縮こまっていた小娘の面影は、もうどこにもない。「お嬢様……とてもお美しいです」卯月が後ろから静かに言った。彼もまた、黒の紋付袴に身を包み、いつもの冷静な表情の中に、わずかな緊張と喜びを浮かべている。私は鏡越しに彼の目を見つめ、そっと微笑んだ。「卯月……本当に、私でいいの?」彼は私の肩にそっと手を置き、熱のこもった声で答えた。「私は最初から、お嬢様だけを想って生きてきました。この日を、どれだけ待ち望んだか……」式は屋敷の奥にある神前で行われた。白い幔幕が風に揺れ、厳かな琴の音が響く中、私は卯月と並んで神前に進んだ。三三九度の杯を交わすとき、卯月の指がわずかに震えているのがわかった。私は彼の手をそっと握り返した。熱い。確かな温もり。杯を重ねるたび、私の胸にさまざまな思いが去来した。葛城家での屈辱、霧島の裏切り、龍也の冷たい視線、そして卯月が流した血……。すべてを乗り越えて、今、私はここにいる。杯の儀式が終わると、お祖父様が静かに声を上げた。「これより、結城美穂子は卯月と夫婦となる」舎弟たちが一斉に頭を垂れ、深く祝福の言葉を述べる。祝言の宴は静かで、しかし重厚だった。白檀の香りと、庭の鹿威しの音が、二人を優しく包み込む。夜が更け、客が去った後の屋敷は、静けさに包まれていた。卯月は私の手をそっと握り、指を優しく絡めてきた。その掌は温かく、少し硬い。長年、私を守り続けてきた手の感触だった。「これからは、ただの部下ではなく……あなたの夫として、傍にいます」彼の声は低く、穏やかだった。いつも私を影のように支えてくれた声が、今は少しだけ震えている。私は彼の胸にそっと寄りかかり、初めて心から安らぐ吐息を零した。白い打掛の袖が畳に広がり、ランプの柔らかな灯りが二人の影を長く、優しく伸ばす。「ありがとう、卯月……これからも、ずっと一緒に」卯月は私の背中に腕を回し、そっと抱きしめた。力は強くなく、けれど確かで温かい。傷ついた肩の包帯が、かすかに触れる。「美穂子様……お嬢様……」「二人だけの時は、美穂子でいいわ」「.
私は書斎のモニターを見つめ、静かに息を吐いた。結城組――いや、表の顔である結城興業は、帝都建設の株を13%まで買い占めていた。これで株主総会での発言権を確実に手に入れたことになる。卯月が隣で低く報告する。「お嬢様、帝都建設の取締役会に圧力をかける準備は整いました。政治家や役人とのパイプを繋ぐために、必要な『黒い金』もすでに用意してあります」私はゆっくりと頷いた。「政治家には十分にばらまきなさい。黒崎組が帝都建設を通じて湾岸プロジェクトを牛耳ろうとしている以上、こちらも同じ土俵で戦う。表の顔は綺麗に保ちながら、裏で確実に締め上げる」お祖父様は葉巻の煙を吐きながら、満足げに目を細めた。「美穂子……お前は本当に冷たくなったな」私は静かに微笑んだ。笑みは冷たく、しかし確かに燃えていた。「葛城家で味わった屈辱を、ただ忘れるわけにはいきません。帝都建設は、黒崎組の牙を折るための最初の駒です」窓の外に広がる夜の街を見下ろしながら、私は心の中で誓った。黒崎龍也、あなたが私を欲するなら、私はその欲望ごと、あなたのすべてを潰す。株主総会での一手が、静かに、しかし確実に動き始めていた。私の逆襲は、着実に加速している。政治家たちは、私が取引の場に現れると、必ず侮蔑の眼差しを向けてきた。「小娘が来たか……」そんな視線が会議室の空気を淀ませる。私は静かに微笑み、アタッシュケースをテーブルの上に置いた。蓋を開け、中から薄いファイルを抜き出す。「山本議員、去年の夏、銀座の会員制クラブで未成年の女性と三人で……楽しかったそうですね。奥様はまだご存じないんでしょう?」山本議員の顔から血の気が引いた。隣の佐藤代議士には、さらに重い一撃を。「佐藤先生、公共事業の受注見返りに、黒崎組のフロント企業から現金を受け取った記録がここにあります。五百万円……領収書も綺麗に揃っていますよ」佐藤代議士は額に脂汗を浮かべ、唇を震わせた。私はもう一人の若手議員に向き、静かに囁いた。「そして田中先生……お子様の留学費用として、闇ルートから三千万円が流れていたそうですね。税務署に知られたら、ただでは済みませんわ」三人の政治家は一様に顔面蒼白となり、膝を突いた。侮蔑の眼差しは完全に消え、代わりに恐怖と懇願の色だけが残る。私はファイルを閉じ、冷ややかに言った。「これでわ
「お祖父様、ただいま戻りました」白檀の香りが濃く漂う奥座敷で、私は三つ指をついて頭を下げた。廊下の古い板が軋む音が、まだ耳に残っている。お祖父様は葉巻を灰皿に押しつけ、深く安堵の息を吐いた。目尻の深い皺が少し緩む。「無事じゃったか……よかった」私はゆっくりと顔を上げ、静かに報告を始めた。「黒崎龍也は、予想通り湾岸プロジェクトの話を切り出してきました。帝都建設の裏金を使っての入札妨害が、彼らの主な目的だったようです」「ほう……」お祖父様の目が鋭く細まる。私は言葉を選びながら続けた。「そして……私も手に入れたい、結城と手を組みたいと仰いましたので、丁寧にお断りしました」「ふむ」短い相槌の後、私は少し間を置いて、最後の言葉を告げた。「私は、卯月と婚約したと伝えました」瞬間、お祖父様の硬い表情が一気に崩れた。テーブルに身を乗り出し、珍しく大きな声を出した。「そうか! ついに決めたのか!」私は頰が熱くなるのを感じ、視線を少し逸らした。背後に控えていた卯月を見やると、彼もまた神妙な面持ちで小さく頷いていた。耳の後ろまで熱が上がるのが自分でもわかる。お祖父様は満足げに笑い、グラスを手に取った。「ようやく決心したか。卯月、お前も本望だろう」卯月は深く頭を下げ、声を低く抑えながら答えた。「はい……お嬢様のお心が決まるなら、私はこの身を捧げてお仕えいたします」部屋に白檀の香りが重く立ち込める中、私は指先を強く絡めた。婚約という言葉が、現実の重みを持って胸に落ちてきた。霧島の裏切り、龍也の冷たい視線、卯月の血に染まった肩——すべてが、私をここまで突き動かした。お祖父様は葉巻を再びくわえ、満足そうに煙を吐いた。「良い返事だ。式はできるだけ早く挙げろ。黒崎の坊主が動き出す前に、結城の血を固めておかねばならん」私は小さく頷きながら、心の中で静かに繰り返した。結城美穂子として、私はもう後戻りはできない。卯月の温かい存在が、そっと私の背中を支えてくれている。この選択が、どのような未来を連れてくるのか——私はまだ、恐れと期待を胸に抱いたままだった。 「......そこでお祖父様、湾岸プロジェクトの件ですが......」「おお、そうじゃった。浮かれている場合ではないな」卯月がまとめた分厚い報告書を静かにめくった。黒崎組の妨害工作
龍也は言葉を続けた。「黒崎と結城が兄弟の契りを交わす……最強の布陣になるとは思わないか?」私は静かに首を振った。「それは、湾岸全体を黒崎の縄張りにするためじゃないの?」龍也はうっすらと挑発的な笑みを浮かべ、私の背後に控える卯月をちらりと見た。「聞き捨てならないな。俺たちが夫婦になれば共同資産になるじゃないか」私は深く息を吸い、龍也の目をまっすぐに見据えた。「それはできない相談ね。私、卯月と婚約したの」一瞬、部屋の空気が凍りついた。龍也は「はっ!」と嘲るように短く笑い、卯月を一瞥した。「結城の跡目の連れ合いが犬か!」その声には明らかな侮蔑と、抑えきれない苛立ちが混じっていた。私は背筋を伸ばし、静かに、しかしはっきりと言った。「犬でも何でも構わないわ。少なくとも卯月は、私を裏切らない。あなたのように、甘い言葉で近づいて、裏で銃を突きつけるような真似はしない」龍也の笑みが消え、冷たい眼光が私を射抜いた。「面白い……本当に面白い。結城の跡目が、忠犬を選ぶとはな」彼はゆっくりと盃を置き、身を乗り出した。声のトーンが一段低くなる。「だが、美穂子。お前はまだわかっていないようだ。結城と黒崎が結べば、この湾岸は我々のものになる。プロジェクトも、資金も、すべてだ。お前がその鍵を握っている」私は龍也の視線を受け止め、冷たく微笑んだ。「鍵なら、壊してしまえばいいわ。湾岸プロジェクトも、黒崎の野望も……私が全部潰す」龍也の目が危険な光を帯び、部屋の空気がさらに重くなった。卯月が私の背後で、静かに一歩前に出た。二人の視線が交錯し、張りつめた緊張が頂点に達する。私は胸の奥で静かに燃える炎を感じながら、龍也に向かって言った。「ランチのお誘い、ありがとう。でも、もう十分よ。次に会うときは、もっと血なまぐさい場所になるかもしれないわね」龍也はゆっくりと立ち上がり、冷たい笑みを浮かべたまま答えた。「楽しみだ。結城美穂子……お前を俺のものにする日を、楽しみにしている」個室の空気が、火薬のように張りつめていた。私たちの一発触発の危険なランチは、庭の鹿威しが「カコーン……」と響く音と共に、ようやく終わりを告げた。東日本を二分する結城組と黒崎組が手を結ぶことなど、最初からあり得なかった。龍也は席を立ち、私の全身をゆっくりと見下ろしながら、薄く笑っ







