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歪んだ日常

Author: 雫石しま
last update publish date: 2026-04-12 12:01:56

 ポニーテールを揺らし、石段を駆け上がる。葛城の屋敷は良く言えば洋風、実際は近所の小学生には『お化け屋敷』と呼ばれる昭和初期の威厳を保っている。苔むした石垣と蔦の絡まる壁が、夕暮れの薄闇に溶け込む。重厚な玄関ドアを開けると、夫の忠則はまだ帰っていない。靴を脱ぎながら、今日の出来事を誰かに話したい衝動に駆られるのに、ここにも私の味方はいない。母屋の奥から義母の視線が刺さるような気がして、背筋が冷える。

 親戚の勧めでお見合いをしたのは3年前、まだ25歳だった私は訳もわからずに高砂の席に座っていた。忠則は従業員1000人を抱える葛城株式会社の社長らしく、重々しい佇まいと落ち着いた口調で周囲を圧倒していた。

 けれど、新婚旅行の計画を立てる段になると、義母が「忠則は私がいないと何もできない子なの」と笑いながら割り込み、忠則はただ「母さんの言う通りだ」と頷くだけ。結局、ハネムーンは義母同伴の三人の旅になった。

 毎朝の着替えすら義母が選び、食事の好みも義母の意見が優先される。社長室には義母の写真が飾られ、重要な決断の前には必ず「母さんに相談する」と電話をかける。

 私の誕生日さえ、義母の機嫌を損ねない日取りに変えられた。この屋敷で、私はいつも義母の影に隠れた忠則の妻でしかない。

「ただいま帰りました」

 義母の部屋の襖を開けると、線香の煙が私にまとわりつく。仏壇の前で正座していた義母は、大島紬の着物の裾を優雅に直しながら、ゆっくりと私に向き直った。「お帰りなさい」そこには張り付いたような笑顔が浮かんでいたが、目は笑っていない。いつものことだ。部屋の空気が重く、忠則の幼い頃の写真が並ぶ棚が視界に入る。義母は立ち上がり、細い指で私の肩の埃を払うふりをして、耳元で囁く。「今日も遅かったのね」その声には、探るような棘が隠れている。

「残業が……あとお買い物をしてきました」

 義母は私の隣に置かれたスーパーマーケットの袋を鋭い目で見た。袋からは白く太い大根が顔を覗かせている。

「美穂子さん、その袋はなに?」

「……え?」

「エコバッグはどうしたの?」

「銀行に忘れてしまいました」

「なんてこと!こんな袋に5円も払ったの!?」

 義母の声が一瞬高くなり、線香の煙の中でその顔が歪んだ。たかが5円なのに、まるで私が家計を崩壊させたような非難の視線。私はただ俯くしかなく、指先が冷たくなる。忠則の前では決して見せないこの棘のある言葉が、今日も私の胸を刺す。卯月様の怪しい取引の違和感より、こっちの方がずっと重くのしかかる。

「その大根はお幾らだったの?」

 義母の声は更に厳しく、和室の静かな空間を切り裂いた。

「299円です」

 私は財布からレシートを取り出し、大根の値段を小さく読み上げた。税込299円、少し値が張るかと思ったが、スーパーで『不作だから仕方ないわよね』と立ち話をしているご婦人方の言葉に背を押されて、つい買い物カゴに入れてしまった。義母は細い目をさらに細め、レシートを指先で摘むようにして覗き込む。「こんな高い大根を買うなんて……」その呟きに、胸の奥に重い石が沈んでゆくのを感じた。

「今夜の献立はなに?」

 義母は家事を一切しない。足元に埃が落ちていれば、私を呼びつけて箒と塵取りを持たせるような人だ。台所に立つのはいつも私だけ。

「ぶり大根です」

「あら、そう……薄味にしてね」

「はい」

「高血圧でポックリなんて嫌だわ」

 義母は疑わしい目で私を見据えた。まるで私が塩を山盛りにして忠則や自分を殺すつもりだとでも言いたげだ。299円の大根が、こんなにも罪深いものになるとは思わなかった。線香の匂いと非難の視線が混じり、私はただ「わかりました」と小さく答えるしかなかった。

 結婚して以来、私は銀行とこの屋敷への往復だけだ。『葛城家の嫁たるもの、夜の外出など以ての外!』と、友人との会食や同窓会への参加も義母に禁じられた。

 当初はLINEで繋がっていた友人たちとも、返信が遅れ遅れになり、自然と疎遠になった。スマホを開いても、通知はほとんどなく、ただ義母の監視のようなメッセージが残るだけ。私はいつも孤独と隣り合わせだった。

 台所でぶり大根を煮ながら、今日の卯月様の顔と「あんたが葛城美穂子さんか?」という言葉が頭をよぎる。あの違和感だけが、今の私にわずかな刺激を与えている。

「お義母さん、お夕飯の準備が出来ました」

「あら、早かったわね」

「圧力鍋がありますから」

「じゃあ、美穂子さんじゃなくて圧力鍋が作ったようなものね」

 義母の言葉に、薄く笑みを浮かべながらも、目は私を値踏みするように細められている。私はただ「そんなことありません」と小さく返すだけ。台所から運んだぶり大根の湯気が立ち上る中、義母は箸を手に取る前から味見するように皿を睨む。この家で私の努力は、いつも道具や偶然の功績にすり替えられる。

 義母の箸が大根に差し入れられる。私は固唾を飲み、その姿を窺い見る。繊維の一本までが柔らかく煮しめられた大根は、力を入れることなくスッと半分に割れた。赤い紅の口に運ばれる大根、緊張感漂う食卓に、咀嚼する音がやけに大きく響く。義母はゆっくりと味わうように目を閉じ、次にぱちりと開けて私を射抜いた。

「……少し塩気が強いわね」

 その一言に、私の胸が締め付けられる。圧力鍋のせいか、私のせいか。忠則はまだ帰らず、この静かな食卓でまた一つ、私の存在が小さくなっていく。

「申し訳ありません」

 義母は私が頭を下げると、満足そうな笑みを漏らした。彼女はとにかく私に謝罪を求め、常に優位に立ちたいのだ。私は、大切な『忠則ちゃん』を奪った憎い女なのだから。ぶり大根の塩気が強いという一言でさえ、私の不出来を証明するための材料にされる。義母はゆっくりと箸を置き、着物の袖で口元を拭いながら、「次はもっと気をつけてね」と優しく言うが、その目は冷たい。食卓の空気がさらに重くなり、私はただ頷くしかなかった。

 食卓の片付けを終え、リビングのソファでぼんやりと時計を見る。もう9時を過ぎている。忠則はいつものように遅い。玄関の重いドアが軋む音がして、ようやく帰宅の気配がした。

「おかえりなさいませ」

 私は立ち上がり、廊下へ急ぐ。忠則はコートを脱ぎながら、疲れた顔で小さく頷くだけ。義母が奥の座敷から現れ、「忠則ちゃん、お帰り」と優しく声をかけると、忠則の表情がほんの少し緩んだ。

「ただいま、母さん」

 その声は私に向けられたものより、ずっと温かい。義母に今日の仕事の話を始めながら、忠則は私の横を通り過ぎる。ぶり大根の残りが冷蔵庫にあることも、私が待っていたことも、気づかないふり。肩が触れそうな距離なのに、まるで私は空気のように扱われる。この家で、夫の帰宅さえ、私の孤独を深めるだけだ。

 忠則とすれ違う時、薔薇の香水の匂いがした。接待だったのだろうか……それにしてはあまりにも濃く、甘く香り立つ。忠則のコートの襟元に、かすかに残るその匂いが鼻を突く。義母はすでに奥の座敷へ引き上げ、廊下には私と忠則の二人だけ。私は「お疲れ様でした」と小さく声をかけたが、忠則は軽く頷くだけで、階段を上り始めた。背中から漂う薔薇の香りが、屋敷の古い木の匂いと混じって不自然に残る。接待で女性と会ったとしても、ここまで香りが移るものだろうか。

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