Mag-log inツインベッドの暗闇で目を閉じても、忠則の寝息だけが規則正しく響く。私は過去を遡る。
新婚当初、忠則はまだ少しは私を見てくれた。披露宴の後、義母同伴の新婚旅行から帰ると、彼は私を抱きしめ「美穂子、ありがとう」と囁いた。あの頃は菊乃さんの目が届かない夜、忠則は社長の仮面を外し、ただの30歳の男に戻った。寝室で私の髪を撫で、恥ずかしそうにキスを重ねた日もあった。
けれど、葛城株式会社の業績が傾き始めた頃から変わった。忠則は毎晩遅く、帰宅すると菊乃さんの部屋に直行した。「母さんに相談がある」と。ある夜、私は廊下で二人の会話を盗み聞いた。菊乃さんが「忠則ちゃん、あの子は所詮よそ者よ」と言い、忠則が「でも母さん、俺は……」と弱々しく返す声。
あの時、忠則は私を選べなかった。それ以来、彼は私に触れなくなった。会社の重圧と菊乃さんの影に押し潰され、別の温もりを求めるようになったのかもしれない。
菊乃さんの影響は、この家を息苦しくする根源だ。
忠則は30歳を過ぎた社長なのに、菊乃さんの前ではいつも10歳の少年に戻る。朝の挨拶すら「母さん、おはよう」と甘えた声で、菊乃さんが「忠則ちゃん、今日のネクタイはこれがいいわ」と選ぶのを素直に聞く。
会社の重要な契約の前夜も、菊乃さんの部屋で膝を突き合わせて相談し、私の意見など求めもしない。
新婚の頃、私が「忠則さん、少しは自分の考えで」と口を滑らせた途端、菊乃さんが廊下から現れ「美穂子さん、忠則ちゃんは私が育てたのよ。余計な口出しはしないで」と静かに釘を刺した。あれ以来、忠則は私と二人きりの時でさえ、菊乃さんの言葉を盾にするようになった。「母さんがこう言ってるから」と繰り返し、私の存在を薄めていく。
菊乃さんは家事も私に押しつけ、自分は仏壇と茶の湯だけ。けれど、この屋敷の空気すべてを支配している。忠則の浮気さえ、きっと気づいていながら黙認しているのだろう。私を「よそ者」として遠ざけ、『忠則ちゃん』を永遠に自分の傍に置いておきたいだけだ。この家で、私は菊乃さんの影に押し潰され続けている。
私はベッドからそっと起き上がり、ツインベッドの忠則の寝顔を睨んだ。薔薇の香りがまだ微かに残るシーツに、吐き気が込み上げる。もう我慢できない。
翌朝、忠則が出勤し、菊乃さんが仏壇の前に座る時間を見計らい、私は彼の書斎に再び忍び込んだ。スーツのポケットからホテルのカードキーが消えていた。どこかで捨てたのかもしれない……けれどなんらかの理由で持ち帰ったのであれば、この部屋のどこかに隠してあるはずだ。
「忠則さんが隠すなら……このチェスト」
私は深呼吸をして古びたチェストの前に佇む。引き出しの取っ手に指をかけると、軋む音を立てそれは開いた。
「……あった」
書類の束に隠すように仕舞われていたホテルのカードキーを握りしめ、私はもう一度深呼吸をした。
プラスチックの冷たさが掌に染み、磁気部分に残る履歴が、忠則の秘密を物語っている。私はそれをポケットにしまい、引き出しを静かに閉めた。もう後戻りはしない。この鍵が、私をあの薔薇の香りの主へと導くはずだ。
銀行の制服に着替える前に、鏡の前でポニーテールを解いた。ウェーブがかった亜麻色の長い髪を肩に垂らし、口紅を少し濃く塗る。いつもは控えめなベージュなのに、今日は深紅を選んだ。鏡の中の自分が、ほんの少し別人のように見える。菊乃さんの『お化け屋敷』で縮こまっていた自分を、今日から捨てる。
制服のブラウスを着込み、スカートの裾を整える手が、わずかに震える。ポケットに忍ばせたホテルのカードキーが、布越しに冷たく感じられた。忠則の秘密を暴くか、それともあの薔薇の香りの女性に辿り着くか。どちらにせよ、もう従順な嫁でいるのは終わりだ。玄関で靴を履く音が響き、菊乃さんが奥から声をかけてきた。
「美穂子さん、なんですか!そのだらしのない格好は!」と。
私は初めて、はっきりとした声で答えた。
「今日はこの格好で行きます」
菊乃さんの眉がぴくりと動いたが、私は視線を逸らさなかった。いつもなら俯いて謝ってしまうのに、今日は背筋を伸ばしたまま、彼女の目を真正面から受け止めた。
玄関のドアを閉め、屋敷の石段を降りる足取りが、いつもより軽い。朝の冷たい空気が頰を刺すが、心地よい。
ポケットの中のホテルのカードキーが、指先に触れるたび、決意が固まる。忠則の秘密を暴く。薔薇の香りの主が誰なのか、どこでどう絡んでいるのか。もう黙って耐える嫁でいるのは終わりだ。胸の奥で、静かな炎が灯り始めた。この火は、今日から消さない。
私は料亭「蒼穹亭」の最上階の個室に、「結城興業」に近しい政治家や役人を招き、接待した。畳の間には上等な季節の懐石が並び、窓の外には夜の湾岸の灯りが美しく広がっている。私は黒い着物に身を包み、静かに微笑みながら盃を傾けた。「お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。湾岸プロジェクト、どうかご理解とご協力を賜りますよう」政治家たちは最初こそ余裕の笑みを浮かべていたが、会話が進むにつれ、顔色を変え始めた。私は穏やかな声で、しかし的確に彼らの弱みを突きながら、プロジェクトへの賛同を引き出していった。お帰りの際、私は一人ひとりに藤色の風呂敷で包んだ「菓子折り」を手渡した。中には現金と、彼らのスキャンダルを記した薄いファイルが忍ばせてある。「どうぞ、お気をつけてお帰りくださいませ」彼らは一様に顔を強張らせながらも、深々と頭を下げて料亭を後にした。その頃、卯月は舎弟たちを引き連れて、黒崎組の事務所(シマ)に挨拶に回っていた。黒いスーツに身を包んだ彼らは、夜の街を静かに進み、黒崎の縄張りに足を踏み入れる。卯月は先頭に立ち、事務所の前に立つ黒崎の若衆を冷たい目で見下ろした。「今日は挨拶に来ただけだ」その言葉は丁寧だったが、背後に控える舎弟たちの殺気と、卯月自身の静かな威圧感が、相手を圧倒していた。黒崎の事務所は一瞬で静まり返り、空気が張りつめた。卯月の挨拶は、静かだった。しかし、その静けさは牙を折るには十分すぎるほど鋭かった。黒崎組の小規模事務所に足を踏み入れた瞬間、卯月は穏やかな声で名乗った。「結城卯月です。妻の美穂子とともに、今後ともよろしくお願いいたします」言葉が終わらぬうちに、彼の右手はすでにトカレフを抜いていた。事務所の頭の額に、冷たい銃口がぴたりと押し当てられる。相手が小刀や拳銃に手を伸ばすより、遥かに速かった。「動くな」低く、抑揚のない声。卯月の目は一切の感情を排し、ただ冷徹に相手を射抜いていた。事務所内にいた黒崎の若い衆は、息を呑んで動きを止めた。空気が凍りつき、誰もが指一本動かせない。その夜から、黒崎組の小規模事務所は次々と潰されていった。表向きは「消防法違反」や「設備不備」による自主閉鎖。裏では、卯月率いる精鋭が夜の闇に紛れ、容赦なくシマを切り崩していった。看板は倒され、事務所は無人となり、黒崎
結城興業の「綺麗な金」を、政治家や役人にばら撒くために、その資金を銀行から受け取ることになった。あくまで表向きは「結城運送株式会社」の銀行口座。その銀行は、私がかつて勤めていた、あの銀行だった。同僚の日常的ないじめ、それを見て見ぬふりの上司、菊乃さんの一言で即座に解雇を決めた頭取——すべてが蘇る。私は意気揚々と銀行の窓口ロビーのソファに腰を下ろした。卯月が受付カウンターで低い声で告げる。「一千万円を準備して欲しい」かつての同僚は顔色を変え、慌てて席を立った。私たちはすぐに奥の応接室に通され、革張りのソファにゆっくりと腰を沈めた。やがて、紅茶のトレイを持った女性が部屋に入ってきた。アールグレイの香りが漂う中、彼女は私の顔を見て凍りついた。「……葛城さん」私は優雅に微笑み、静かに訂正した。「いいえ、今は結城美穂子よ」元いじめの首謀者だった彼女の手が震え、紅茶のカップがカチカチと音を立てる。目が泳ぎ、顔から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。私は足を優しく組み替え、冷ややかに言った。「久しぶりね。今日は大切なお取引で伺ったの。……丁寧に、対応してくれるわよね?」応接室の空気が一瞬で凍りつき、彼女の肩が小さく震えた。かつて私を嘲笑い、蔑み、踏みにじった者たちが、今は私の足元に跪く。アタッシュケースを持参した頭取が、応接室のドアをノックして入ってきた。その瞬間、部屋の空気が凍りついた。卯月の静かな、しかし圧倒的な気配に、頭取の足がぴたりと止まる。顔から一瞬で血の気が引いていき、手元のケースがカタカタと小さく音を立てた。彼は必死に笑顔を作ろうとしたが、唇が引きつるだけで言葉が出てこない。そして、私の顔を真正面から見た瞬間、頭取の瞳が大きく見開かれた。「あ……あなたは……葛城……」声が上ずり、喉が鳴る。かつて私を切り捨て、菊乃さんの一言で即座に解雇を決めた男の顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。私はソファに深く腰を下ろしたまま、ゆっくりと微笑んだ。笑みは優雅だが、目は冷たい。「以前はお世話になりました、頭取。今後ともよろしくお願いしますね」私の声は穏やかだったが、部屋の温度を一気に下げた。頭取の額に脂汗が浮かび、膝が小刻みに震え始める。卯月が無言で一歩前に出ただけで、頭取は後ずさり、壁に背中をぶつけた。
これまでは別々の食卓で食事をしていたが、これからは卯月も結城の屋敷のダイニングテーブルを囲むことになった。朝食はご飯、わかめと豆腐の味噌汁、塩ジャケ、きゅうりの生酢だった。シンプルで、どこか家庭的な献立。卯月は緊張の面持ちで座り、箸を持つ手がぎこちない。いつも冷静で影のように控えている彼が、こんなに固くなっている姿が新鮮で、少し可笑しかった。お祖父様が湯飲み茶碗を手に、意味深な笑みを浮かべて言った。「昨夜はよく眠れたか?」卯月は耳まで真っ赤になり、慌ててきゅうりの生酢を口に運んだ拍子にむせてしまった。咳き込む彼の背中を、私はそっとさすった。お祖父様は意地悪く目を細め、さらに追い打ちをかける。「子は早い方がいい。頼むぞ、卯月」私は思わず味噌汁を吹き出し、慌てて口元を押さえた。卯月はますます赤くなり、箸を置いて深く頭を下げた。「……お祖父様、お言葉ですが……」私は頰が熱いのを抑えきれず、そっと卯月の袖を引いた。これから毎朝、このようなやり取りを目にするのかと思うと、胸がくすぐったいような、照れくさいような、不思議な気持ちになった。白檀の香りが漂う朝のダイニングで、私は静かに微笑んだ。卯月が、そっと私の手に自分の指を重ねてくる。その温もりが、朝の光の中でとても優しく感じられた。 これが、私たちの新しい朝の始まりだった。私たちはシマの見回りと、卯月との婚姻挨拶を兼ねて、結城組の事務所を回った。黒いセダンの窓に流れる景色は、いつもと違って見えた。街並みが少し柔らかく、朝の光が優しく感じられる。これが結婚したということか……。私は左の薬指に光るプラチナのエンゲージリングを、そっと指でなぞった。シンプルで、けれど重みのあるリングは、まだ自分のものだという実感が薄い。卯月が運転席から静かに言った。「お嬢様……いや、美穂子。緊張していますか?」私は小さく微笑み、ルームミラー越しに彼の目を見つめた。「少しね。でも、嬉しい気持ちの方が大きいわ」最初の事務所は、港近くの物流倉庫を兼ねた建物だった。表向きは「結城運輸」の営業所。働いている社員のほとんどはカタギの人間だ。彼らは自分が働いている会社が、結城組の表の顔であることを知らないか、薄々察している程度だろう。事務所に入ると、所長をはじめ社員たちが一斉に立ち上がり、深々と
白檀の香りが濃く立ち込める結城の屋敷は、朝から静かにざわめいていた。私は純白の打掛に身を包み、長い黒髪を優しく結い上げられていた。鏡に映る自分は、まるで別人のように凛としていた。数年前、葛城の屋敷で縮こまっていた小娘の面影は、もうどこにもない。「お嬢様……とてもお美しいです」卯月が後ろから静かに言った。彼もまた、黒の紋付袴に身を包み、いつもの冷静な表情の中に、わずかな緊張と喜びを浮かべている。私は鏡越しに彼の目を見つめ、そっと微笑んだ。「卯月……本当に、私でいいの?」彼は私の肩にそっと手を置き、熱のこもった声で答えた。「私は最初から、お嬢様だけを想って生きてきました。この日を、どれだけ待ち望んだか……」式は屋敷の奥にある神前で行われた。白い幔幕が風に揺れ、厳かな琴の音が響く中、私は卯月と並んで神前に進んだ。三三九度の杯を交わすとき、卯月の指がわずかに震えているのがわかった。私は彼の手をそっと握り返した。熱い。確かな温もり。杯を重ねるたび、私の胸にさまざまな思いが去来した。葛城家での屈辱、霧島の裏切り、龍也の冷たい視線、そして卯月が流した血……。すべてを乗り越えて、今、私はここにいる。杯の儀式が終わると、お祖父様が静かに声を上げた。「これより、結城美穂子は卯月と夫婦となる」舎弟たちが一斉に頭を垂れ、深く祝福の言葉を述べる。祝言の宴は静かで、しかし重厚だった。白檀の香りと、庭の鹿威しの音が、二人を優しく包み込む。夜が更け、客が去った後の屋敷は、静けさに包まれていた。卯月は私の手をそっと握り、指を優しく絡めてきた。その掌は温かく、少し硬い。長年、私を守り続けてきた手の感触だった。「これからは、ただの部下ではなく……あなたの夫として、傍にいます」彼の声は低く、穏やかだった。いつも私を影のように支えてくれた声が、今は少しだけ震えている。私は彼の胸にそっと寄りかかり、初めて心から安らぐ吐息を零した。白い打掛の袖が畳に広がり、ランプの柔らかな灯りが二人の影を長く、優しく伸ばす。「ありがとう、卯月……これからも、ずっと一緒に」卯月は私の背中に腕を回し、そっと抱きしめた。力は強くなく、けれど確かで温かい。傷ついた肩の包帯が、かすかに触れる。「美穂子様……お嬢様……」「二人だけの時は、美穂子でいいわ」「.
私は書斎のモニターを見つめ、静かに息を吐いた。結城組――いや、表の顔である結城興業は、帝都建設の株を13%まで買い占めていた。これで株主総会での発言権を確実に手に入れたことになる。卯月が隣で低く報告する。「お嬢様、帝都建設の取締役会に圧力をかける準備は整いました。政治家や役人とのパイプを繋ぐために、必要な『黒い金』もすでに用意してあります」私はゆっくりと頷いた。「政治家には十分にばらまきなさい。黒崎組が帝都建設を通じて湾岸プロジェクトを牛耳ろうとしている以上、こちらも同じ土俵で戦う。表の顔は綺麗に保ちながら、裏で確実に締め上げる」お祖父様は葉巻の煙を吐きながら、満足げに目を細めた。「美穂子……お前は本当に冷たくなったな」私は静かに微笑んだ。笑みは冷たく、しかし確かに燃えていた。「葛城家で味わった屈辱を、ただ忘れるわけにはいきません。帝都建設は、黒崎組の牙を折るための最初の駒です」窓の外に広がる夜の街を見下ろしながら、私は心の中で誓った。黒崎龍也、あなたが私を欲するなら、私はその欲望ごと、あなたのすべてを潰す。株主総会での一手が、静かに、しかし確実に動き始めていた。私の逆襲は、着実に加速している。政治家たちは、私が取引の場に現れると、必ず侮蔑の眼差しを向けてきた。「小娘が来たか……」そんな視線が会議室の空気を淀ませる。私は静かに微笑み、アタッシュケースをテーブルの上に置いた。蓋を開け、中から薄いファイルを抜き出す。「山本議員、去年の夏、銀座の会員制クラブで未成年の女性と三人で……楽しかったそうですね。奥様はまだご存じないんでしょう?」山本議員の顔から血の気が引いた。隣の佐藤代議士には、さらに重い一撃を。「佐藤先生、公共事業の受注見返りに、黒崎組のフロント企業から現金を受け取った記録がここにあります。五百万円……領収書も綺麗に揃っていますよ」佐藤代議士は額に脂汗を浮かべ、唇を震わせた。私はもう一人の若手議員に向き、静かに囁いた。「そして田中先生……お子様の留学費用として、闇ルートから三千万円が流れていたそうですね。税務署に知られたら、ただでは済みませんわ」三人の政治家は一様に顔面蒼白となり、膝を突いた。侮蔑の眼差しは完全に消え、代わりに恐怖と懇願の色だけが残る。私はファイルを閉じ、冷ややかに言った。「これでわ
「お祖父様、ただいま戻りました」白檀の香りが濃く漂う奥座敷で、私は三つ指をついて頭を下げた。廊下の古い板が軋む音が、まだ耳に残っている。お祖父様は葉巻を灰皿に押しつけ、深く安堵の息を吐いた。目尻の深い皺が少し緩む。「無事じゃったか……よかった」私はゆっくりと顔を上げ、静かに報告を始めた。「黒崎龍也は、予想通り湾岸プロジェクトの話を切り出してきました。帝都建設の裏金を使っての入札妨害が、彼らの主な目的だったようです」「ほう……」お祖父様の目が鋭く細まる。私は言葉を選びながら続けた。「そして……私も手に入れたい、結城と手を組みたいと仰いましたので、丁寧にお断りしました」「ふむ」短い相槌の後、私は少し間を置いて、最後の言葉を告げた。「私は、卯月と婚約したと伝えました」瞬間、お祖父様の硬い表情が一気に崩れた。テーブルに身を乗り出し、珍しく大きな声を出した。「そうか! ついに決めたのか!」私は頰が熱くなるのを感じ、視線を少し逸らした。背後に控えていた卯月を見やると、彼もまた神妙な面持ちで小さく頷いていた。耳の後ろまで熱が上がるのが自分でもわかる。お祖父様は満足げに笑い、グラスを手に取った。「ようやく決心したか。卯月、お前も本望だろう」卯月は深く頭を下げ、声を低く抑えながら答えた。「はい……お嬢様のお心が決まるなら、私はこの身を捧げてお仕えいたします」部屋に白檀の香りが重く立ち込める中、私は指先を強く絡めた。婚約という言葉が、現実の重みを持って胸に落ちてきた。霧島の裏切り、龍也の冷たい視線、卯月の血に染まった肩——すべてが、私をここまで突き動かした。お祖父様は葉巻を再びくわえ、満足そうに煙を吐いた。「良い返事だ。式はできるだけ早く挙げろ。黒崎の坊主が動き出す前に、結城の血を固めておかねばならん」私は小さく頷きながら、心の中で静かに繰り返した。結城美穂子として、私はもう後戻りはできない。卯月の温かい存在が、そっと私の背中を支えてくれている。この選択が、どのような未来を連れてくるのか——私はまだ、恐れと期待を胸に抱いたままだった。 「......そこでお祖父様、湾岸プロジェクトの件ですが......」「おお、そうじゃった。浮かれている場合ではないな」卯月がまとめた分厚い報告書を静かにめくった。黒崎組の妨害工作







