Share

黒いセダン

Author: 雫石しま
last update publish date: 2026-04-12 12:11:31

 私は解雇通知書を握りしめたまま、銀行の外に出た。

 佐藤さんが真っ赤な傘を持って追いかけて来てくれた。

「事情があって……銀行を辞めることになったの」

「……そうなんだ……せっかく仲良くなれたのに……残念だわ」

「色々、ありがとう」

 私たちは互いの連絡先を交換し、別れを告げた。

 霧雨が頰を濡らし、制服の肩に細かい雫を落とす。足元がふらつき、近くのベンチに崩れ落ちた。スマートフォンを取り出す手が震える。クラウドに保存した裏帳簿の写真は、もう開けない。アクセス権が剥奪され、「このアカウントは存在しません」と冷たいメッセージだけが表示される。

 菊乃さんは完璧だった。

 隠しカメラだけでなく、私のスマートフォンにも遠隔で侵入していたのだ。証拠はすべて消去され、残ったのは私の一方的な「不正アクセス」と「機密資料の盗撮」だけ。

 ポケットからカードキーが落ちた。あのスイートルームの、無意味になったプラスチック片。拾い上げて、指で強く握る。痛みが走るほど力を込めた。

 こんな時、両親が生きていれば相談も出来ただろう……。けれど父も、母も、私が赤ん坊だった頃、交通事故でこの世を去った。親戚に
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • この度は離縁状をありがとうございます   葬儀

    私は黒崎龍也の私邸を単身で訪れた。高級住宅街の奥に佇むモダンな邸宅。門をくぐった瞬間、重い鉄の音が背後で閉ざされた。人払いを済ませた龍也は、ワイングラスを手に私を迎え入れた。「美穂子、俺のものになる気になったのか」私は妖しく微笑み、グラスを受け取った。「……ええ。あの日の刺激が忘れられないの。卯月じゃ、物足りなくて」龍也の目が一瞬、獣のように輝いた。彼は機嫌よくワインを傾け、私の腰を引き寄せる。「待って……人払いして」ドアの向こうには、ボディガードが厳ついドーベルマンのように佇んでいる気配があった。「そうだな、無粋だな」龍也が手を振ると、気配が遠ざかった。私は彼の目を盗み、ワインに粉薬を溶かした。無味無臭、しかし血圧を急激に上昇させ、心筋梗塞か脳卒中を引き起こす強力なものだ。「飲んで、楽しみましょう」龍也は上機嫌でグラスを一気に飲み干した。「さぁ、いつまでも焦らすな」私はピルを飲んでいる。万が一、最後まで行為が進んでも妊娠の可能性は低い。ベッドに倒れ込み、龍也の激しい愛撫に身を任せた。興奮し始めた彼の様子に、異変が起き始めた。息が荒くなり、顔が真っ青に変わる。胸を押さえ、ベッドにうずくまった。「……大丈夫?」私は心配するふりをして、悲痛な声を上げた。「誰か! 誰か来て!」龍也の目が驚愕に見開かれる。指が震え、喉を押さえて苦しげに喘ぐ。私は冷たい目でその様子を見下ろした。黒崎龍也。あなたが私にしたことの、ほんの一部よ。◇◇◇龍也の自室に、若頭をはじめとする舎弟たちが雪崩れ込んだ。「総長!」若い衆の一人が血相を変え、私を壁へと押し当てた。「このアマ! 何しやがったんだ!」荒々しい手が私の肩を強く掴む。その瞬間、若頭の鋭い声が飛んだ。「やめんかい! 結城のお嬢さんだ。そんな真似すんじゃねぇ!」「……へ、へい」黒崎の部下は慌てて手を離し、後ずさった。龍也はベッドの上で苦しげに喘ぎ、胸を押さえていた。若頭たちはすぐに心臓マッサージを始め、救急車を呼んだ。部屋は慌ただしく、悲鳴と怒号が飛び交う。私は警察で事情聴取を受けたが、「情事中の突然死」として処理された。罪に問われることもなく、黒崎組も結城組に対して表立った報復には出られなかった。数日後、雨の降る寺院で黒崎龍也の葬儀はしめやかに執り行わ

  • この度は離縁状をありがとうございます   俺の子を孕め

    龍也は私の奥深くで熱いものを解き放った。頭の中が真っ白になり、絶望が胸を締めつける。「俺の子を孕め、美穂子。これで黒崎と結城は兄弟の盃を交わしたも同然だ」龍也は満足げに息を吐き、シャツを乱暴に羽織ると、ニヤリと笑った。そして襖を勢いよく開け、舎弟たちを引き連れて部屋を出て行った。眩しさに目が眩んだ。明るさに目が慣れると、そこには顔面蒼白の国会議員と、動揺を隠せない若頭が立っていた。「人払いをして、女将を呼んで」私は震える手で女将の袖を掴み、着物を直してもらった。女将は私の耳元でそっと囁いた。「お嬢様、婦人科へ行かれませ。アフターピルもございます」「……そうね」私は掠れた声で答え、ゆっくりと立ち上がった。足が震え、太ももに熱いものが伝う感触が、吐き気を催す。龍也の残した臭いと、屈辱の感触がまだ体にまとわりついている。(……絶対に、許さない)この屈辱、この穢れ、この男の熱——すべてを、千倍、いや万倍にして返す。私は唇を強く噛み、血の味を舌に感じながら、心の中で静かに誓った。黒崎龍也。あなたが私にしたこと、あなたが結城に与えた屈辱、すべてを、血で洗い流してやる。私はまだ、折れていない。結城美穂子として、私はこの瞬間から、本当の復讐を始める。龍也の背中が遠ざかる廊下を見つめながら、私は静かに、しかし確かに牙を研いだ。この戦いは、まだ終わっていない。むしろ、今、ここからが本番だ。結城組の奥座敷は、今夜も重苦しい空気に満ちていた。お祖父様・結城勝次郎は上座に座り、葉巻の煙をゆっくりと吐き出している。その横顔はいつものように厳しく、しかし今日はさらに深い影が落ちていた。「黒崎の龍也が、帝都建設の株をさらに買い増したそうだな」若頭の一人が緊張した面持ちで報告する。「はい。現在の保有比率は12.8%。このままいけば、来月の株主総会で黒崎側が取締役を送り込む可能性が極めて高いです」座敷にいる幹部たちの表情が一様に硬くなった。湾岸プロジェクトを巡る黒崎組の攻勢は、単なる事業争いではなく、結城組そのものを内部から食い破るための総力戦だった。お祖父様は低く唸り、私の方へ視線を移した。「美穂子……お前はどう思う」私は正座したまま、静かに答えた。「黒崎龍也は、ただの若造ではありません。彼は父の代からの屈辱を、湾岸を奪うこ

  • この度は離縁状をありがとうございます   奪われる結城の血

    黒崎組の事務所が次々と潰れ、黒崎開発には警察の家宅捜索が入り、彼らは明らかに弱体化していた。湾岸一帯は結城興業が着実に占め始め、私はようやく息をつける頃合いだと油断していた。その日、私は卯月と別行動で、次の「会食」へと向かっていた。今日のゲストは、国会議員。湾岸プロジェクトの入札に有益な情報を流してくれる、太いパイプだ。若頭と数名の舎弟を引き連れ、いつもの料亭に足を運んだ。鹿威しが「カコーン……」と静かに時を刻む中、襖を開けた瞬間、私は息を止めた。そこにいたのは、国会議員と——黒崎龍也だった。「黒崎! あなたどこから……!」龍也はゆったりと笑みを浮かべ、盃を傾けた。「このおっさんはウチの先生だ。結城に渡すわけにはいかねぇよ」同時に、周囲の襖が一斉に開いた。黒崎組の舎弟たちが銃口をこちらに向け、部屋を埋め尽くす。結城の若い衆が内ポケットに手を伸ばしかけたが、若頭が鋭く制した。「動くな! こんなところで戦争を始めたいのか?」黒崎龍也は不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。その視線は私だけを捉え、冷たく妖しく光っている。「まさか。俺の目的は、あんた一人だよ、美穂子」部屋の空気が一瞬で張りつめ、殺気が肌を刺す。私は静かに息を吸い、龍也の目をまっすぐに見つめ返した。心臓の鼓動が耳に響く中、私は小さく微笑んだ。「残念ね、私には卯月という連れ合いがいるわ。あなたの入る余地はない」龍也の唇が歪んだ。「知っているさ、そんなものがどうした。俺が先に種付してやるよ」「なっ!」隣の座敷にはすでに布団が敷かれていた。「お嬢!」若頭たちが叫ぶが、銃口を額に突きつけられ、その場に組み伏せられる。龍也は私の腕を強く握り、隣の部屋に引きずり込んだ。襖が勢いよく閉まる音が響いた。「お嬢!」「黙らんかい!」私は必死にその腕を振り払おうとしたが、難なく組み伏せられた。畳に押し倒され、帯が荒々しく解かれる。肌襦袢がはだけ、白い肌が薄暗い和室に浮かび上がった。龍也の重みがのしかかり、熱い息が首筋にかかる。「抵抗するな。結城の血は、俺のものになる」私は歯を食いしばり、震える声で吐き捨てた。「……絶対に、許さない」龍也は低く笑い、私の顎を掴んで顔を近づけた。その瞳には、冷たい欲望と支配欲だけが宿っていた。和室に、荒い息遣いと

  • この度は離縁状をありがとうございます   藤色の風呂敷

    私は料亭「蒼穹亭」の最上階の個室に、「結城興業」に近しい政治家や役人を招き、接待した。畳の間には上等な季節の懐石が並び、窓の外には夜の湾岸の灯りが美しく広がっている。私は黒い着物に身を包み、静かに微笑みながら盃を傾けた。「お忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。湾岸プロジェクト、どうかご理解とご協力を賜りますよう」政治家たちは最初こそ余裕の笑みを浮かべていたが、会話が進むにつれ、顔色を変え始めた。私は穏やかな声で、しかし的確に彼らの弱みを突きながら、プロジェクトへの賛同を引き出していった。お帰りの際、私は一人ひとりに藤色の風呂敷で包んだ「菓子折り」を手渡した。中には現金と、彼らのスキャンダルを記した薄いファイルが忍ばせてある。「どうぞ、お気をつけてお帰りくださいませ」彼らは一様に顔を強張らせながらも、深々と頭を下げて料亭を後にした。その頃、卯月は舎弟たちを引き連れて、黒崎組の事務所(シマ)に挨拶に回っていた。黒いスーツに身を包んだ彼らは、夜の街を静かに進み、黒崎の縄張りに足を踏み入れる。卯月は先頭に立ち、事務所の前に立つ黒崎の若衆を冷たい目で見下ろした。「今日は挨拶に来ただけだ」その言葉は丁寧だったが、背後に控える舎弟たちの殺気と、卯月自身の静かな威圧感が、相手を圧倒していた。黒崎の事務所は一瞬で静まり返り、空気が張りつめた。卯月の挨拶は、静かだった。しかし、その静けさは牙を折るには十分すぎるほど鋭かった。黒崎組の小規模事務所に足を踏み入れた瞬間、卯月は穏やかな声で名乗った。「結城卯月です。妻の美穂子とともに、今後ともよろしくお願いいたします」言葉が終わらぬうちに、彼の右手はすでにトカレフを抜いていた。事務所の頭の額に、冷たい銃口がぴたりと押し当てられる。相手が小刀や拳銃に手を伸ばすより、遥かに速かった。「動くな」低く、抑揚のない声。卯月の目は一切の感情を排し、ただ冷徹に相手を射抜いていた。事務所内にいた黒崎の若い衆は、息を呑んで動きを止めた。空気が凍りつき、誰もが指一本動かせない。その夜から、黒崎組の小規模事務所は次々と潰されていった。表向きは「消防法違反」や「設備不備」による自主閉鎖。裏では、卯月率いる精鋭が夜の闇に紛れ、容赦なくシマを切り崩していった。看板は倒され、事務所は無人となり、黒崎

  • この度は離縁状をありがとうございます   銀行口座

    結城興業の「綺麗な金」を、政治家や役人にばら撒くために、その資金を銀行から受け取ることになった。あくまで表向きは「結城運送株式会社」の銀行口座。その銀行は、私がかつて勤めていた、あの銀行だった。同僚の日常的ないじめ、それを見て見ぬふりの上司、菊乃さんの一言で即座に解雇を決めた頭取——すべてが蘇る。私は意気揚々と銀行の窓口ロビーのソファに腰を下ろした。卯月が受付カウンターで低い声で告げる。「一千万円を準備して欲しい」かつての同僚は顔色を変え、慌てて席を立った。私たちはすぐに奥の応接室に通され、革張りのソファにゆっくりと腰を沈めた。やがて、紅茶のトレイを持った女性が部屋に入ってきた。アールグレイの香りが漂う中、彼女は私の顔を見て凍りついた。「……葛城さん」私は優雅に微笑み、静かに訂正した。「いいえ、今は結城美穂子よ」元いじめの首謀者だった彼女の手が震え、紅茶のカップがカチカチと音を立てる。目が泳ぎ、顔から血の気が引いていくのがはっきりとわかった。私は足を優しく組み替え、冷ややかに言った。「久しぶりね。今日は大切なお取引で伺ったの。……丁寧に、対応してくれるわよね?」応接室の空気が一瞬で凍りつき、彼女の肩が小さく震えた。かつて私を嘲笑い、蔑み、踏みにじった者たちが、今は私の足元に跪く。アタッシュケースを持参した頭取が、応接室のドアをノックして入ってきた。その瞬間、部屋の空気が凍りついた。卯月の静かな、しかし圧倒的な気配に、頭取の足がぴたりと止まる。顔から一瞬で血の気が引いていき、手元のケースがカタカタと小さく音を立てた。彼は必死に笑顔を作ろうとしたが、唇が引きつるだけで言葉が出てこない。そして、私の顔を真正面から見た瞬間、頭取の瞳が大きく見開かれた。「あ……あなたは……葛城……」声が上ずり、喉が鳴る。かつて私を切り捨て、菊乃さんの一言で即座に解雇を決めた男の顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。私はソファに深く腰を下ろしたまま、ゆっくりと微笑んだ。笑みは優雅だが、目は冷たい。「以前はお世話になりました、頭取。今後ともよろしくお願いしますね」私の声は穏やかだったが、部屋の温度を一気に下げた。頭取の額に脂汗が浮かび、膝が小刻みに震え始める。卯月が無言で一歩前に出ただけで、頭取は後ずさり、壁に背中をぶつけた。

  • この度は離縁状をありがとうございます   卯月と歩む道

    これまでは別々の食卓で食事をしていたが、これからは卯月も結城の屋敷のダイニングテーブルを囲むことになった。朝食はご飯、わかめと豆腐の味噌汁、塩ジャケ、きゅうりの生酢だった。シンプルで、どこか家庭的な献立。卯月は緊張の面持ちで座り、箸を持つ手がぎこちない。いつも冷静で影のように控えている彼が、こんなに固くなっている姿が新鮮で、少し可笑しかった。お祖父様が湯飲み茶碗を手に、意味深な笑みを浮かべて言った。「昨夜はよく眠れたか?」卯月は耳まで真っ赤になり、慌ててきゅうりの生酢を口に運んだ拍子にむせてしまった。咳き込む彼の背中を、私はそっとさすった。お祖父様は意地悪く目を細め、さらに追い打ちをかける。「子は早い方がいい。頼むぞ、卯月」私は思わず味噌汁を吹き出し、慌てて口元を押さえた。卯月はますます赤くなり、箸を置いて深く頭を下げた。「……お祖父様、お言葉ですが……」私は頰が熱いのを抑えきれず、そっと卯月の袖を引いた。これから毎朝、このようなやり取りを目にするのかと思うと、胸がくすぐったいような、照れくさいような、不思議な気持ちになった。白檀の香りが漂う朝のダイニングで、私は静かに微笑んだ。卯月が、そっと私の手に自分の指を重ねてくる。その温もりが、朝の光の中でとても優しく感じられた。 これが、私たちの新しい朝の始まりだった。私たちはシマの見回りと、卯月との婚姻挨拶を兼ねて、結城組の事務所を回った。黒いセダンの窓に流れる景色は、いつもと違って見えた。街並みが少し柔らかく、朝の光が優しく感じられる。これが結婚したということか……。私は左の薬指に光るプラチナのエンゲージリングを、そっと指でなぞった。シンプルで、けれど重みのあるリングは、まだ自分のものだという実感が薄い。卯月が運転席から静かに言った。「お嬢様……いや、美穂子。緊張していますか?」私は小さく微笑み、ルームミラー越しに彼の目を見つめた。「少しね。でも、嬉しい気持ちの方が大きいわ」最初の事務所は、港近くの物流倉庫を兼ねた建物だった。表向きは「結城運輸」の営業所。働いている社員のほとんどはカタギの人間だ。彼らは自分が働いている会社が、結城組の表の顔であることを知らないか、薄々察している程度だろう。事務所に入ると、所長をはじめ社員たちが一斉に立ち上がり、深々と

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status