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月は闇に沈み、風の嘯く夜。古びたる森の奥深く、夜鳥の寒々しい声が木霊する。
目の前には、ぽっかりと口を開けた土の穴。その底には、頭をかち割られ、血に塗れたまま蒼白な顔で横たわる男の骸があった。
穴の底の男が、不意にその瞼をこじ開けるのではないか――おぞましい想像に駆られながらも、周歓は敢えてその闇を覗き込もうとはしなかった。
「俺がおまえを殺そうとしたんじゃねえ!先に手を出したのはそっちだろうが!」
額の汗を拭い、荒い息を吐き出す。人を殺めるつもりなど毛頭なかった。無学で怠け者ではあったが、それでも十八年の人生、お上の法と世間の習わしを守って生きてきた、しがない庶民だったのだ。
つい六時辰(※一日を十二に分けた古代中国の時刻単位)前までは、洛陽の街をぶらついていただけだったというのに。まさか夜更けに、このような森の奥で人殺しの罪を犯し、死体を埋める羽目になろうとは、夢にも思わなかった。
すべての事の起こりは、六時辰前に遡る。
周歓は洛陽で生まれ育った、生粋の洛陽人である。化粧品や香辛料の行商で、その僅かな稼ぎでどうにか家族を養っていた。
その日もまた、これといって当てもなく街をぶらついていると、一人の老人に呼び止められた。
深い皺を刻んだ老人は、周歓をじろじろと品定めするように見つめ、「ほう、これはなかなかの伊達男ではないか」と感嘆の声を漏らした。
老人は周歓を引き留めて矢継ぎ早に質問し、彼が洛陽の出身で、家柄も清く、定まった仕事もなく普段はぶらぶらしていることを知ると、不気味ににやりと笑い、こう言った。
「わしは、とある名家を知っておってな。近ごろ不運が続いているらしい。巫女に占わせたところ、若く健やかな男子を家に招き、厄払いの儀式を執り行う必要があるそうじゃ。礼はたんまりと弾むそうじゃが、もしよければ、わしと共に来てはくれまいか?」
「礼はたんまりと弾む」――その言葉に、元来、金に目のない周歓の心は踊った。後先も考えず、その場で承諾してしまったのである。
しかし、金に目が眩んだ代償がどれほど恐ろしいものか、この時の彼には知る由もなかった。
老人に連れられて路地に入ると、そこには一台の輿が待っていた。
その輿には窓もなく、四方は隙間なく塞がれ、さながら密閉された大きな箱であった。ただ天辺に親指ほどの穴が一つ開いており、そこから一筋の光が差し込むばかり。
「人をまるで荷物扱いじゃないか……近頃の名家というのは、何を考えているんだ?」
いささか不快感を覚えながらも、疑問を胸にしまい込み、周歓は輿へと乗り込んだ。どれほど揺られただろうか。しばらく運ばれた頃、輿は不意に静止した。
目的地に着いたかと安堵して輿から降りると、目に飛び込んできたのは、見慣れぬ路地と、衣類の詰め込まれた大きな葛籠――その脇には、屈強な衛兵が二人、石像のように佇んでいた。
「ここは……どこだ?」
問いかける周歓に、老人は含みのある口調で答えた。
「もう少しの辛抱でございますよ、周さん」
「えっ、なに……おい!?」
周歓が何か言う間もなく、左右の衛兵に両脇を固められ、為す術もなく葛籠の中へと押し込まれた。
ただならぬ事態にようやく気づき、籠から顔を出して抗議の声を上げようとした、その刹那。上からぐいと頭を押さえつけられ、頭上から、老人の静かな声が降ってきた。
「お静かに。もう間もなくにございます」
周歓は心の中で毒づいた。これほど奇怪なもてなしがあったものか。客人を迎える作法とは到底思えない。
だが、もはや賊の船に乗ってしまったも同然、運を天に任せるほかない。今の周歓はまな板の上の鯉であり、なされるがまま、衣類の山に身を潜めるしかなかった。
やがて、茶を一杯飲むほどの時間が過ぎ、うつらうつらとし始めた頃、籠の揺れが、ふと止まった。
「もうよろしいですよ、周さん」
ようやく許しを得て、周歓は大きな安堵の息を吐きながら、衣類の山から這い出した。
葛籠から出た瞬間、目の前の光景に思わず息を呑んだ。そこは、広々として壮麗な屋敷の一室であった。青磁や玉器をはじめ、周歓が目にしたことも聞いたこともないような骨董の品々が、所狭しと並べられている。
しばらくして、老人が数名の下男を伴って現れた。
「周さん、まずは湯浴みをして、お着替えを」
周歓は呆気に取られて口を開けた。
「湯浴み?着替えまで?そんな必要が……」
しかし老人は周歓の言葉を遮るように、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で促した。
「間もなく儀式が始まりますので。さあ、どうぞ」
下男たちは黙したまま、周歓を奥の部屋へと誘った。屏風の陰には湯気の立ち上る湯船があり、その表面には色とりどりの花びらが浮かんでいる。部屋の片隅の香炉からは一筋の青い煙が立ち上り、えもいわれぬ芳香が室内に満ちていた。
周歓が指一本動かすまでもなく、下男たちは手際よく彼の衣を剥ぎ、湯船へと導くと、丁寧にその体を洗い、髪を梳いてくれた。
これほどまで丁重なもてなしを受けるのは、周歓の生涯で初めてのことであった。道中の不快感や疑念は、たちまち霧散してしまう。
天国とは、かくも心地よいものか――周歓はうっとりと、甘美な夢のただ中にいるかのような心地であった。
しかし、その甘美な夢があまりにも早く終焉を迎えることを、周歓はまだ知らなかった。
第2話下男たちに手伝われ、沐浴を済ませた周歓は、薄紗のごとき軽やかな羽衣をまとい、隣室の寝台へと案内された。「悪霊払いの儀式ではなかったのか?なぜ俺を寝台へ?」寝台の傍らに腰を下ろした周歓は、戸惑いながら下男たちに問いかけた。だが下男たちは答えるでもなく、顔を見合わせるばかり。その視線に、周歓は得体の知れぬ恐怖と憐憫の色が浮かんでいるのを見て取った。誰一人として答えようとしない。周歓は募る不安を抱えながら、寝台の傍らで待つほかなかった。夜も更けた頃、微かな足音が聞こえた。燭台の灯りが、窓の外に佇む人影を黒々と映し出す。その影はしばし躊躇うように部屋の前を行き来していたが、やがて扉が軋む音と共に押し開かれ、室内へと素早く滑り込んできたかと思うと、慌ただしく背後で扉を閉ざした。目を凝らせば、室内へ入ってきたのは鵞鳥色の錦衣を纏い、髪を高く結い上げた痩身の青年であった。青年は扉に額を押し付け、周歓に背を向けたまましばし黙していたが、ふと、こちらを振り返った。周歓は息を呑み、その得体の知れない男とまともに視線を合わせた。揺れる燭台の灯りを頼りに、男の相貌をしかと捉えることができた。秀麗な眉に切れ長の目、唇は朱を点したように赤く、肌は玉のごとく白い。年は二十路を越えたばかりか、まさしく容姿端麗の貴公子であった。部屋に入るなり、男は周歓をただじっと見つめている。その気詰まりな沈黙に耐えかねた周歓は、口を開いた。「そなたは、何者だ?」「知るには及ばぬ」男は無愛想に言い放つと、意を決したようにすっくと胸を張り、周歓へと歩み寄った。有無を言わせぬその様に、周歓の胸に不吉な予感がよぎる。心臓が早鐘を打ち、思わず身を引いた。「ま、待て、何をする気だ!こちらへ来るな!聞いているのか!」男は周歓の制止も聞かず寝台に這い上がると、その手首を掴み、乱暴に寝台へ押し倒した。「今より、朕がそなたを臨幸する」(※臨幸は、皇帝が特定の妃の元を訪れるという意味でも使われることがあります。この意味で使う場合は、より婉曲的な表現を用いることもあります)「り、臨幸だと!?」周歓は衝撃に言葉を失った。だが、それよりも遥かに大きな問題があった。「待て。今、何と申した?……朕だと!?」男は一瞬虚を突かれたようだったが、すぐさま憤怒に顔を歪め、声を
月は闇に沈み、風の嘯く夜。古びたる森の奥深く、夜鳥の寒々しい声が木霊する。目の前には、ぽっかりと口を開けた土の穴。その底には、頭をかち割られ、血に塗れたまま蒼白な顔で横たわる男の骸があった。周歓は鉄の鋤を固く握りしめ、息を切らしながら、一心不乱に土をかけていく。穴の底の男が、不意にその瞼をこじ開けるのではないか――おぞましい想像に駆られながらも、周歓は敢えてその闇を覗き込もうとはしなかった。「俺がおまえを殺そうとしたんじゃねえ!先に手を出したのはそっちだろうが!」額の汗を拭い、荒い息を吐き出す。人を殺めるつもりなど毛頭なかった。無学で怠け者ではあったが、それでも十八年の人生、お上の法と世間の習わしを守って生きてきた、しがない庶民だったのだ。つい六時辰(※一日を十二に分けた古代中国の時刻単位)前までは、洛陽の街をぶらついていただけだったというのに。まさか夜更けに、このような森の奥で人殺しの罪を犯し、死体を埋める羽目になろうとは、夢にも思わなかった。すべての事の起こりは、六時辰前に遡る。周歓は洛陽で生まれ育った、生粋の洛陽人である。化粧品や香辛料の行商で、その僅かな稼ぎでどうにか家族を養っていた。その日もまた、これといって当てもなく街をぶらついていると、一人の老人に呼び止められた。深い皺を刻んだ老人は、周歓をじろじろと品定めするように見つめ、「ほう、これはなかなかの伊達男ではないか」と感嘆の声を漏らした。老人は周歓を引き留めて矢継ぎ早に質問し、彼が洛陽の出身で、家柄も清く、定まった仕事もなく普段はぶらぶらしていることを知ると、不気味ににやりと笑い、こう言った。「わしは、とある名家を知っておってな。近ごろ不運が続いているらしい。巫女に占わせたところ、若く健やかな男子を家に招き、厄払いの儀式を執り行う必要があるそうじゃ。礼はたんまりと弾むそうじゃが、もしよければ、わしと共に来てはくれまいか?」「礼はたんまりと弾む」――その言葉に、元来、金に目のない周歓の心は踊った。後先も考えず、その場で承諾してしまったのである。しかし、金に目が眩んだ代償がどれほど恐ろしいものか、この時の彼には知る由もなかった。老人に連れられて路地に入ると、そこには一台の輿が待っていた。その輿には窓もなく、四方は隙間なく塞がれ、さながら密閉された大きな箱であ