LOGIN周歓が呆然と立ち尽くすうち、沈驚月がいつの間にか音もなく忍び寄っていた。「あちらを。あの方こそ、兄者が探し求めておられる斉王殿下ですぞ」周歓が沈驚月の指し示す先へ目をやると、一人の男が隅の個室に座し、数人の友人と談笑しながら豪快に酒を酌み交わしている姿が映った。周歓が興味津々に男を窺っていると、その斉王は二人の視線に気づいたのか、ふとこちらを振り返った。目が合った瞬間、周歓は思わず息を呑んだ。──似ている!斉王と蕭晗は、顔立ちが驚くほどよく似ている。特にその双眸は、まるで蕭晗そのものではないか。ただ蕭晗と違うのは、斉王の方が明らかに年嵩であることだ。齢は少なくとも四十を越え、その鋭い眼差しには、世の荒波を乗り越えてきた者だけが持つ深みが滲んでいた。「おお、静山ではないか」沈驚月の姿を認めるや、斉王は己が太腿をぽんと一つ叩き、席を立つと大股で二人のもとへ歩み寄ってきた。「斉王殿下、ご無沙汰しております。お変わりなくご壮健なご様子、何よりです」沈驚月は恭しく一礼し、微笑を浮かべた。「静山も相変わらず凛々しいではないか!」斉王は沈驚月の肩をばしりと叩き、豪放に笑った。「静山……?」周歓はわけがわからず、訝しげに沈驚月を見やった。「私の字です」沈驚月は周歓の手を引き、斉王へと向き直ると紹介を始めた。「斉王殿下、こちらが誰かお分かりになりますか」「余も気になっておったところだ。先ほどから、この若者がひたと余の顔を見つめておるゆえな。もしや、余の知人か?」斉王は周歓をじっと見つめ、思案するように言った。周歓は慌てて斉王の前に跪くと、朗々と声を張り上げた。「皇后様の命を奉じ、監軍の職を拝命し兗州へ参りました周歓と申します。これより斉王殿下のお力となるべく、馳せ参じました!」「そなたが、あの周歓か!」斉王は驚きに目を見張り、慌てて周歓を助け起こした。「ほう、周歓殿の勇名はかねてより聞き及んでおる。ずっとここでお待ちしておったのだ!」周歓はそれを聞き、大きく安堵の息を漏らした。「なるほど、皇后様がすでにお話を通しておられたのですね。参る道中、もし斉王殿下が私のことをご存知なく、身分を証明する手立てさえなければ、さぞ気まずいことになるだろうと案じておりました。ははは……」「皇后様が?いや、そうではない」斉王は笑って首を横に振っ
夜の済水のほとり、夜気は水のごとく冷ややかに、至る所で灯火が煌めいていた。駕籠に揺られる周歓は、煌めく窓外の景色を眺め、まるで夢路を彷徨っているかのような心地であった。この目で直に見ていなければ、ほんの数時間前、凛丘城で最も名高いこの大路で見るに堪えない惨劇が繰り広げられたとは、到底信じられなかったであろう。しかし今や、その血の臭いも喧騒も、とうに人々の往来と繁栄のうちに掻き消され、跡形もなくなっていた。今宵、周歓は沈驚月と共に金陵閣へ赴き、かの伝説に名高い清平宴に参加する運びとなっていた。沈驚月の駕籠が金陵閣の前に乗りつけると、待ち構えていた群衆から、たちまち大きな歓声が沸き起こった。「ご覧になって、沈驚月様がいらしたわ」「まあ!沈驚月様よ!」男女の入り混じる甲高い声援が飛び交う中、沈驚月は涼やかな顔で駕籠から降り立ち、自ら周歓のために御簾を上げた。沈驚月が周歓の手を取り、肩を並べて金陵閣の前に歩み出ると、二人は瞬く間に居合わせた全ての者の視線を一身に集めた。まさに、万座の注目を浴びる華やかな登場であった。「あら!?沈驚月様のお隣にいらっしゃるのはどなた?あのような方、お見かけしたことがないわ」「おい、見ろ。沈驚月様が彼の手を引いておられるぞ」「どこのどなたかは存じ上げぬが、なんともご慧眼な顔立ちだ……」沈驚月が自ら見立てた豪奢な錦衣をその身に纏い、見物人たちの品定めするような視線と囁きに晒され、周歓は身の置き所のない思いであった。あまりの気恥ずかしさに、穴があれば入りたいほどだった。「手と足が一緒に出ておりますよ」沈驚月が彼をちらりと見て言った。「え、本当か」周歓は一つ咳払いをすると居住まいを正し、沈驚月の傍らに寄り添うと、神妙な面持ちで声を潜めた。「この格好、おかしくはないか。なぜ皆、俺のことばかり見るのだ?何を話しているのだろう」沈驚月はくすりと笑みを浮かべた。「もちろん、兄者がお綺麗だからですよ」周歓は半信半疑の面持ちで問い返す。「本当か。衣でも裏返しに着ていたかと思ったぞ」「じきに慣れます。人の目など気になさることはありませんよ」そう言うと、沈驚月は周歓の手を引き、風のように軽やかに金陵閣の中へと滑り込んだ。金陵閣に足を踏み入れた瞬間、周歓は思わず息を呑んだ。無数の灯籠と蝋燭の灯が三層の楼閣を煌々と照らし、交
「だが、俺には無理だ」周歓は途方に暮れた面持ちで、鏡に映る沈驚月を見つめた。「俺はもとより学のないただの庶民で、お前のような名家の若様とは違う。何の準備もなしに臨めば、どうなることか」沈驚月は微かに笑みを浮かべると、身をかがめて周歓の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。「そうなれば、大変なことになるでしょうね」周歓は思わず身を震わせ、顔を上げて尋ねた。「大鼓書なら唄えるが……これも芸のうちに入るだろうか」※大鼓書とは、小太鼓と快板を打ち鳴らし、節に乗せて物語を語る、庶民に親しまれてきた街場の語り芸である。沈驚月は意外そうに目を瞬かせた。「もちろん入りますとも。心得があるのですか」周歓は頷き、眉根を寄せる。「子供の頃、道端で聞き覚え、見よう見まねで多少はな。だが、決して上手いものではないぞ……」ところが、沈驚月は俄かに色めき立ち、目を輝かせて周歓の腕を掴んだ。「ぜひお聴かせ願いたい!今ここで一節、ご披露いただけませんか」周歓はにわかに面映ゆくなり、鼻の頭をこすると、意を決したように言った。「わかった。お前がそこまで言うなら、恥を忍んでお聞かせしよう」善は急げとばかりに、沈驚月はすぐさま下男に命じて小太鼓一つと快板二枚を運ばせた。そして自身は小さな腰掛けを引き寄せ、卓の前に居住まいを正すと、期待に満ちた眼差しで周歓を見つめた。周歓は片手に鼓の撥、もう片方の手に快板を持ち、ひとつ咳払いをして喉を潤すと、声を張り上げて唄い始めた。それは周歓が幼い頃より馴染み深い演目であった。幾度となく耳にしたその唄は、そらで諳んじられるほどに染みついている。かつて気が向けば、近所の女衆に一節披露してやったこともあった。しかし彼は天性の音痴で、唄い出しから終わりまでまるきり調子が外れているため、いつも途中で聴衆から野次を浴び、唄を止めさせられたものだ。だが、このたびは違った。沈驚月は遮るどころか、終始一言も発さず、静かに最後まで聴き入っていた。最後の一音が消えると、周歓は長く息を吐いた。それは久しく味わうことのなかった、胸のすくような爽快感だった。パチ、パチパチ、パチパチパチ……しばしの静寂を破り、沈驚月がやおら拍手を始めた。ぷっ、とこらえきれずに吹き出すと、沈驚月は肩を震わせ、手を叩きながら声を上げて笑い出した。「愉快だ
沈驚月は思わず一歩たじろぎ、何気なく視線を逸らした。「とはいえ、清平宴は名門貴族や上流の名士が集う場。ご参加なさるのでしたら、それなりの身なりを整えるべきかと存じます」「ほう?」周歓はきょとんと目を丸くし、己の身なりを見下ろした。「しかし、宮中でもこの格好で通してきたのだが」「それはなりません。清平宴はただの宴席にあらず。お支度を整え、念入りに装わなければ、人に侮られかねませぬ」言うが早いか、沈驚月は周歓の手を取り、「さあ、こちらへ」と促した。沈驚月は周歓を伴い、先ほどの個室に勝るとも劣らない豪奢を極めた部屋をいくつも通り抜け、やがて、精巧な装飾品や帯飾りが所狭しと並ぶ一室へと案内した。部屋に足を踏み入れるや、美しく着飾った十数人の侍女たちが一斉に二人へ向かって礼をした。そのうちの一人が紐を引くと、透かし彫りの玉簾が静々と上がり、その向こうから趣向を凝らした綾羅錦繍の衣がずらりと姿を現した。沈驚月は歩み寄り、すらりと伸びた指先で衣を一枚一枚撫でてゆく。やがてその視線が一着の紺青の衣に留まった。それを取り出して周歓の身にあてがうと、満足げにひとつ頷く。「これがよろしいでしょう。周歓殿にお召しさせなさい」わけもわからず呆然とする周歓をよそに、沈驚月の号令一下、侍女たちがわっと群がり寄った。口を挟む暇もなく、彼女たちは寄ってたかって周歓の着替えにかかる。周歓には成す術もなく、なすがままに身を任せるよりほかなかった。しかも衣替えだけでは終わらず、白粉や紅まで施される始末。そうしてあれこれと手を加えられ、気づけばたっぷり一時辰が過ぎていた。周歓は背筋をまっすぐに伸ばして座っている。とうに腰も背も痛み始めているが、微動だに許されない。やがて、彼は溜息交じりにこぼした。「なあ、良家の子息というのは、宴のたびに毎回このような派手な身支度をしなければならないのか?」沈驚月は眉筆を手に、周歓の眉を丁寧に描きながら応えた。「宴のあるなしにかかわらず、人前に出る以上、身なりを整えるのは基本中の基本でございましょう」「今まで知らなかったが、今にしてようやくわかった。男でいるというのも、なかなかに骨が折れるものだな」「私にはむしろ不思議でなりません。兄者は生まれながらにしてこれほどの美貌をお持ちでありながら、それを活かそうとなさらない。まさか、その他大勢の中
「拙宅へようこそ」沈驚月はゆっくりと歩み寄り、卓の傍らに腰を下ろすと、手ずから席を勧めた。「周歓殿、どうぞ」周歓は事態を飲み込めぬまま、促されるがままに沈驚月の向かいへと腰を下ろした。見ると、沈驚月は酒壺を手に取り、静かに二つの杯を満たし、その一つを周歓の前にそっと差し出した。「先ほどは、当家の者が周歓殿にご無礼を。家人に代わり、私からお詫びいたします。まずは罰として、この一杯を」言うなり、沈驚月は杯をすっと掲げ、一息に飲み干した。飲み干すと、沈驚月は杯の底を相手に向けてみせる。周歓が自分を呆然と見つめていることに気づくと、杯を置き、扇子で口元を隠した。わずかに小首を傾げ、伏し目がちに囁く。「私の顔に、何か付いておりますか」「い、いや、何でもない!」周歓はようやく我に返り、慌てて手元の酒を呷ると、ばつが悪そうに笑った。「お恥ずかしい話ですが、先ほどの……」先ほど過って沈驚月に口づけてしまった一幕――その柔らかな感触が生々しく唇に残っており、周歓は珍しくも耳まで真っ赤に染め上げた。「俺は決して、わざと無礼を働いたわけではないのです!あれはただの事故でして!そう、不慮の事故です!」沈驚月は黙って周歓の様子を窺っていたが、そのあまりにしどろもどろな様に、とうとう堪えきれなくなったらしい。パチリ、と手にした象牙の扇子を閉じ、朗らかに笑い声を上げた。「家人に連れられて戻られた姿を拝見していなければ、疑ってしまいましたよ。今そこにいらっしゃる貴方と、先ほど屋根の上で凛として衆を一喝なさった貴方とが、本当に同一人物かと」周歓はきまり悪そうに頭を掻いた。「あれは、まあ、その……人を助けたい一心で、後先考えずに口走ったまでです。今思えば我ながらぞっとしますよ。もしあの時、足を滑らせて屋根から落ちていなければ、今頃は全身に矢を浴びて仏になっていたでしょう。そう考えると、沈驚月殿には命を救われたも同然ですな」その物言いがまた彼のツボに入ったのか、沈驚月は一層楽しげに笑った。「貴方を救ったのは私ではありませぬ。貴方の足を滑らせた、あの腐った瓦ですよ」二人が言葉を交わし笑い合ううち、張り詰めていた空気はすっかり和らいでいった。沈驚月が身の上を尋ねると、周歓もまた、兗州への赴任を隠す必要はないと判断し、陳皇后の勅命で監軍として洛陽からやって来た旨を、包
けたたましい音を響かせ、軒先から転落した周歓は、とある人物の上に覆いかぶさる形となり、鈍い音を立てて地面へ叩きつけられた。地面に叩きつけられたその刹那、周歓の唇は、不意に柔らかな何かに押し当てられていた。舞い上がった土煙が収まる頃、ようやく我に返った周歓は、己が誰かを組み敷いていることに気づいた。そして、先ほどの柔らかな感触が、まさしくその人物の唇であったことにも。しばし呆然としていた周歓だったが、はっと事態を悟ると、慌ててその身を飛び退かせた。目を凝らせば、そこに衣を乱して横たわっていたのは、まさしくあの気品高く清麗な貴公子であった。彼は呆気に取られた面持ちで、ただ周歓と視線を合わせている。白磁のごとき肌には薄っすらと埃がつき、先ほど周歓の唇と触れ合ったその唇は、血が滲むほどに赤く染まっていた。「あ、いや、す……すま……」心臓が早鐘を打ち、周歓は言葉を詰まらせた。それが最後まで紡がれることはなく、鈍い衝撃と共に後頭部を凄まじい痛みが襲った。周歓は白目を剥くと、再び貴公子の上へと崩れ落ち、そのまま意識を手放した。「若様!ご無事でございますか、若様ッ!」家令らしき男が木の棒を手に、狼狽えながら周歓の背後に立っていた。周囲の護衛たちも慌てて駆け寄り、数人がかりで周歓を貴公子から引き剥がす。貴公子は秀麗な眉をひそめ、胸元を押さえながら身を起こした。幾度か咳き込んだ後、喉の奥から背筋も凍るような低い声を絞り出す。「この男の口をぐちゃぐちゃに叩き潰せ!」「はっ!」護衛たちが応じ、周歓を拘束して連れ去ろうとした、その時であった。「待て」貴公子が、不意に鋭い声を上げた。「若様……?」護衛と家令は顔を見合わせ、困惑の色を浮かべた。貴公子は立ち上がると、周歓の目前まで歩み寄り、意識を失ったその体を頭の先からつま先までしげしげと眺め、しばし沈黙した。「気が変わった。この男を、屋敷へ連れて行け」貴公子は周歓の顔を見つめ、微かに――まさしく微かに、口の端を吊り上げた。---紫煙がゆるりと立ち上り、沈香の薫りが満ちている。「すまなかった――ッ!」真紅の帳が下りた寝台の上で、周歓は弾かれたように目を見開き、叫びながら飛び起きた。その叫びは、静まり返った室内に虚しく木霊した。周歓はしばし呆然としていたが、ふと視線を落とすと、己の体には柔らかく