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迷子のツバメは帰れない

迷子のツバメは帰れない

作家:  三央完了
言語: Japanese
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概要

家族もの

スカッと

ひいき/自己中

切ない恋

クズ男

しっかり者

ドロドロ展開

六歳で視力を失った年、私・藤原安奈(ふじわら あんな)は凍え死にかけていた森川澄也(もりかわ すみや)を拾った。 目の代わりになってくれる相棒がほしいのだと嘘をついて、母に頼み込み、彼を助けてもらった。 私はこっそり、彼の耳元で約束した。 「あなたに盲導犬みたいなことをさせたいわけじゃないの。ちゃんと生きて。行きたいところへ、どこへでも行って」 けれど澄也は、私のそばに残った。母が再婚したあと、彼は私にとってただ一人の支えになった。 彼は私の成長を見守り、何年も何年も、私の白杖代わりでいてくれた。 それどころか、私の目を治すために、誰よりも優れていた絵の才能を諦め、医学の道へ進んだ。 けれど彼が眼科の名医になっても、私は相変わらず何も見えなかった。 そして私が二十五歳になった日、かつて澄也の理解者だった人が、美術界の大きな賞を受賞した。 澄也は書斎に閉じこもり、紙を破るような音だけを、かさかさと響かせていた。 感情を押し殺した声で、私への誕生日メッセージを書いているのだと言った。 嬉しくなって、彼にキスしようと近づいたそのとき、真っ暗なはずの視界に、突然コメントの列が流れた。 【安奈、いい加減気づきなよ。あいつ、自分の絵を全部びりびりに破ってる。裏には全部、『藤原安奈、死ね』って書いてあるんだよ】 【これ以上進まないで。あいつ、目の前にショートした電線を置いてる。踏んだら命がないよ!】 私はその場で固まった。それでもすぐに笑みを浮かべ、大きく一歩を踏み出した。

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第1話

第1話

六歳で視力を失った年、私・藤原安奈(ふじわら あんな)は凍え死にかけていた森川澄也(もりかわ すみや)を拾った。

目の代わりになってくれる相棒がほしいのだと嘘をついて、母に頼み込み、彼を助けてもらった。

私はこっそり、彼の耳元で約束した。

「あなたに盲導犬みたいなことをさせたいわけじゃないの。ちゃんと生きて。行きたいところへ、どこへでも行って」

けれど澄也は、私のそばに残った。母が再婚したあと、彼は私にとってただ一人の支えになった。

彼は私の成長を見守り、何年も何年も、私の白杖代わりでいてくれた。

それどころか、私の目を治すために、誰よりも優れていた絵の才能を諦め、医学の道へ進んだ。

けれど彼が眼科の名医になっても、私は相変わらず何も見えなかった。

そして私が二十五歳になった日、かつて澄也の理解者だった人が、美術界の大きな賞を受賞した。

澄也は書斎に閉じこもり、紙を破るような音だけを、かさかさと響かせていた。

感情を押し殺した声で、私への誕生日メッセージを書いているのだと言った。

嬉しくなって、彼にキスしようと近づいたそのとき、真っ暗なはずの視界に、突然コメントの列が流れた。

【安奈、いい加減気づきなよ。あいつ、自分の絵を全部びりびりに破ってる。裏には全部、『藤原安奈、死ね』って書いてあるんだよ】

【これ以上進まないで。あいつ、目の前にショートした電線を置いてる。踏んだら命がないよ!】

私はその場で固まった。それでもすぐに笑みを浮かべ、大きく一歩を踏み出した。

「澄也、あなたの祝福なら、きっと全部叶うね」

私は慎重に歩いた。あのショートした電線を踏み損ねないように。

ふいに澄也が口を開いた。

「安奈!」

その声は涙に詰まっていたのに、結局その先を言えないままだった。

私は何も知らないふりをして、明るい声で彼をなだめた。

「また頭が痛いんでしょう。揉んであげる」

コメントの列が激しくまたたいた。

【安奈、もう行かないで。電線、すぐ目の前だよ!】

よかった。

目の前なら、踏み外さずに済む。

けれど私が足を下ろそうとした瞬間、玄関のチャイムがけたたましく鳴り、続いて椅子を乱暴に引く耳障りな音がした。

「危ない!」

強い力で押し倒され、頭の中ががんがん鳴った。痛みでしばらく息もできなかった。

澄也は震える手で私を助け起こした。

「安奈……ごめん……今、電線があったんだ」

コメントの列は罵声で埋め尽くされた。

【森川澄也、この大馬鹿!殺そうとしたのは自分じゃないか。今さら後悔して手を震わせてるんじゃないよ!】

胸の奥が、じんわりと痛んだ。

馬鹿だなあ。

どうしてそこで、優しくしてしまうの。

私は痛みをこらえ、澄也を安心させるように笑った。

「電線があったなら、見えない私が悪いんだよ。大丈夫。痛くないから」

コメントの列が爆発したように乱れた。

【安奈、転んで頭でもおかしくなったの?なんで謝ってるの!】

でも私は知っていた。

今、澄也のほうが私よりずっとつらいのだ。

途切れ途切れの嗚咽が耳に届いた。彼がなおも何か言おうとしたとき、電話が鳴った。

女の人の声が聞こえた。

「家にいるのは分かってる。あなたに会えるまで帰らない。澄也、これを……最後にするから」

声で分かった。

テレビにも出ている天才女性画家、白石悦子(しらいし えつこ)だ。

悦子と澄也は、ボランティアをしていた頃、絵をきっかけに知り合った。

澄也はかつて言っていた。

理解者を見つけた、と。

悦子も以前、私に言ったことがある。

澄也の絵には、彼女がこれまで見てきた中でいちばん魂が宿っている、と。

けれど今、一人は天才女性画家になり、一人は目の見えない私のそばにいる医者になった。

澄也は医者でいることが好きではない。

手術を終えるたび、ひどく吐いて、立っていられなくなる。

澄也は突然、私の手を強く握りしめた。けれど次の瞬間にはぱっと離し、よろめくように玄関へ駆けていった。

突き飛ばされた私はよろめき、方向が分からなくなったまま、後頭部を鋭い机の角にぶつけた。血がどくどくと流れ出した。

私はか細い声で痛みを訴えた。

「澄也、痛い……」

けれどドアは、ばたんと音を立てて閉まった。

私には見えない代わりに、人よりずっと耳がいい。扉が閉まっていても、押し殺した声は聞こえた。

扉越しでも、外から潜めた声が私の耳に届いた。

悦子は泣き声まじりに言った。

「あの子の目はもう治らないのよ。あなた一人が背負い続けることなんてできない!あなたのその手は、私なんかよりずっと才能があったのに!

私と一緒に先生のところへ行こう。まだ間に合う。あなたが……」

けれど澄也は震える声で彼女を遮った。

「悦子、俺の命は安奈にもらったものだ。安奈は目が見えないまま、ここにいる。俺がどこにも行けない」

悦子の声は悲しみに沈んでいた。

「じゃあ、あなたの夢はどうなるの?それじゃあ……私は?」

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第1話
六歳で視力を失った年、私・藤原安奈(ふじわら あんな)は凍え死にかけていた森川澄也(もりかわ すみや)を拾った。目の代わりになってくれる相棒がほしいのだと嘘をついて、母に頼み込み、彼を助けてもらった。私はこっそり、彼の耳元で約束した。「あなたに盲導犬みたいなことをさせたいわけじゃないの。ちゃんと生きて。行きたいところへ、どこへでも行って」けれど澄也は、私のそばに残った。母が再婚したあと、彼は私にとってただ一人の支えになった。彼は私の成長を見守り、何年も何年も、私の白杖代わりでいてくれた。それどころか、私の目を治すために、誰よりも優れていた絵の才能を諦め、医学の道へ進んだ。けれど彼が眼科の名医になっても、私は相変わらず何も見えなかった。そして私が二十五歳になった日、かつて澄也の理解者だった人が、美術界の大きな賞を受賞した。澄也は書斎に閉じこもり、紙を破るような音だけを、かさかさと響かせていた。感情を押し殺した声で、私への誕生日メッセージを書いているのだと言った。嬉しくなって、彼にキスしようと近づいたそのとき、真っ暗なはずの視界に、突然コメントの列が流れた。【安奈、いい加減気づきなよ。あいつ、自分の絵を全部びりびりに破ってる。裏には全部、『藤原安奈、死ね』って書いてあるんだよ】【これ以上進まないで。あいつ、目の前にショートした電線を置いてる。踏んだら命がないよ!】私はその場で固まった。それでもすぐに笑みを浮かべ、大きく一歩を踏み出した。「澄也、あなたの祝福なら、きっと全部叶うね」私は慎重に歩いた。あのショートした電線を踏み損ねないように。ふいに澄也が口を開いた。「安奈!」その声は涙に詰まっていたのに、結局その先を言えないままだった。私は何も知らないふりをして、明るい声で彼をなだめた。「また頭が痛いんでしょう。揉んであげる」コメントの列が激しくまたたいた。【安奈、もう行かないで。電線、すぐ目の前だよ!】よかった。目の前なら、踏み外さずに済む。けれど私が足を下ろそうとした瞬間、玄関のチャイムがけたたましく鳴り、続いて椅子を乱暴に引く耳障りな音がした。「危ない!」強い力で押し倒され、頭の中ががんがん鳴った。痛みでしばらく息もできなかった。澄也は震える手で私を助け
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第2話
澄也は長い沈黙の末、かすれた声で答えた。「どんな時でも、俺たちはいちばんの……親友だ」悦子は泣きながら走り去った。「もうあなたには会いに来ない……気持ちが変わったら、それを持って先生のところへ行って」朦朧とした意識のまま床に倒れていると、ふいに十三歳の頃のことを思い出した。いじめられて、腫れた顔で視覚特別支援学校から帰ってきた私を見て、澄也は激怒した。あんなに賢い子だったのに、どうしても同じ学校へ転校すると言い張り、私のそばにいてくれた。外の普通校の勉強に追いつくため、彼は一度もまともに眠れなかった。十五歳のとき、母が再婚した。母は私の手を握りしめ、泣きながら言った。「安奈、新しいお父さんは目の見えない子まで養えないの。お母さん、本当に大変なのよ。分かってくれるわよね?森川澄也は、もともとあなたのために拾った子なんだから。あの子があなたの面倒を見るべきなのよ」母はスーツケースを引いて出ていき、古い家と澄也だけが残された。十八歳になったばかりの澄也は、目の見えない私を抱え込み、無理を重ねて身体を壊していった。私はいつも泣きながら澄也に訴えた。もう行って。私のことなんて放っておいて、と。けれど彼はいつも笑って、私の頭を撫でてくれた。「泣き虫だな。ほら、下のツバメだって、ちゃんとつがいで飛んでるだろ。どっちか一羽だけじゃ駄目なんだよ」今、その小さなツバメは疲れてしまった。だから彼は、一人で飛び立つべきなのだ。私みたいに誰にも望まれない目の見えない人間は、澄也に手を引かれてここまで生きてこなければ、とっくに死んでいるはずだった。死ぬなら、澄也の知らない場所がいい。そうでなければ、彼はきっと自分を責めてしまうから。……私は激しく痛む後頭部に手をやり、血をぬぐった。手探りで立ち上がったところで、ドアが開いた。「どうしたんだ?」澄也の声はひどくかすれていた。「なんでこんなに血が出てる」コメントの列が飛ぶように流れた。【何言ってるの。あんたが突き飛ばしたんでしょうが!】私はどうにか笑ってみせた。「ごめんね。見えないから、うっかりつまずいちゃった」言い終えた瞬間、私の足元でコップが砕け散った。「藤原安奈!この家に何年住んでると思ってるんだ。そんな近くの場所も
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第3話
「どうして俺を拾ったのが、よりによって目の見えない子だったんだろうな」どうしてだろう。馬鹿だなあ。それなら、どうしてまだ私のことを放っておかないの。私はとうとう堪えきれなくなり、声を上げて泣いた。「そうだよ、私は馬鹿じゃない!だったら行ってよ。あなたに面倒を見てもらいたくなんかない!」五歳のとき、父と母は離婚でもめていた。二人は毎日、私を引き取りたくないと言って喧嘩ばかりしていた。私が高熱で視力を失ったことにさえ、気づかなかった。誰にも望まれない子どもは、目さえ守れないのだと、私は悲しく思った。だから雪の中で、捨てられていた澄也を見つけたとき、すぐに胸が痛んだ。この世界に、目まで失ってしまう子どもが、もう一人増えなくてもいい。澄也は力なく私の手を握った。「もういい。俺が悪かった。そんな意地を張るな。放っておいて、お前を車にはねさせるわけにいかないだろ」彼は私の手を引いて家へ戻った。それから白杖の練習のことは、二度と口にしなかった。ただ日に日に、書斎にあるものを見つめては黙り込むようになった。私は部屋にこもり、電話をかけた。相手は私だと分かった途端、声を荒らげた。「まだ私に何の用?もうあなたを育てる義務なんてないのよ」鼻の奥がつんと痛んだ。私は小さく鼻をすすった。「お母さん、養ってほしいわけじゃないの。ただ、私を引き取って、一緒に暮らすふりをしてくれない?」絶対にすがったりしないと何度も約束して、ようやく母は、親子だった情に免じて、妹のサマーキャンプが終わったら迎えに行くと言ってくれた。電話を切ったあと、私は笑った。よかった。お母さんには、もう新しい子どもがそばにいる。澄也も、私という足手まといを捨てられる。澄也の部屋のドアをノックすると、中で彼が慌てて何かを片づける音がした。「何の用だ。また何か見つからないのか」私は一瞬、言葉に詰まった。それでも、おどけるように笑ってみせた。「澄也、お母さんから連絡があったの。今は幸せに暮らしているけど、私のことをずっと申し訳なく思っていたんだって。一緒に暮らしたいって言ってくれて、私、うんって返事したの」澄也は信じられないというように言った。「自分が何を言ってるか、分かってるのか?」私はもう一度繰り返した。「
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第4話
火はみるみる燃え広がり、煙に巻かれた私はその場に倒れ込んだ。皮膚は焼けただれ、痛みさえ感じなくなっていた。私は泣きながら、必死に外へ這った。「安奈、あなたみたいな役立たずが、こんなところで死んじゃ駄目!」もし澄也が帰ってきて、黒焦げになった私を見つけたら、彼は一生、その記憶から逃れられなくなる。コメントの列が、焦ったように行く先を示してくれた。【安奈、こっち。こっちに逃げて!】私はコメントの列が示すほうへ必死に這った。けれど、やがて息ができなくなり、少しずつ意識が遠のいていった。目を覚ましたとき、私は病院にいた。ほどなくして澄也が駆けつけ、悦子も一緒に来ていた。澄也は疲れきった声でつぶやいた。「たった一日、家を空けただけだろ。どうしてまた、こんな目に遭うんだ」私は落ち着かず、指をぎゅっと絡め合わせた。「ごめんなさい……」警察官が厳しい声で澄也を責めた。「あなたは保護者でしょう。どうして目の見えない人を一人で家に置いていったんですか。あと少しで焼け死ぬところだったんですよ」私は慌ててかばおうとした。けれどその前に、澄也の呆然とした声が聞こえた。「俺が前に進もうとするたびに、お前は現実を突きつけてくるんだな。俺はお前のそばにいるしかないって」そのとき、悦子が突然、悲鳴のように叫んだ。「藤原安奈!あなた、わざと私に澄也を説得させたんでしょう?それなのに、彼がもう少しでうなずきそうになった途端、こんなことを起こして。罪悪感で彼を縛りつけるつもりだったのね!」私には、澄也の目がどれほど赤く充血しているのか見えなかった。私は突然、声を上げて笑った。「そうだったら何?私の目が治らない限り、彼には一生そばで私の犬をしてもらうの。そうじゃなきゃ、何のために拾ったと思ってるの?」ぱん、と乾いた音が病室中に響き渡った。澄也に頬を打たれ、私の顔は横へ弾かれた。私はかすかに口角を上げた。馬鹿だなあ。人を叩くときに、どうして手が震えるの。「澄也、捨てられた子が、普通の人みたいに夢を見られると思ってるの?あなたが隠していた絵は、全部私が燃やした。どこかへ行けるなんて思わないで」そのとき、私の携帯が鳴った。母の大きな声が、すぐに流れ出した。「もうすぐ古い家に着くからね。荷物をまとめて待っ
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第5話
【安奈、もう進まないで。早く止まって!この先は池だよ!】私は耳を貸さず、前へ進んで澄也を抱き上げた。どぼん、と音がした。氷のように冷たい水が、四方八方から私の目や鼻や口を塞いでいく。意識が途切れる直前、遠くから響く声が、水の底まで突き抜けてきた。「やめなさい!こんな真冬に飛び込んだって、もう息なんかしていないよ!」その声を聞きながら、私は目を閉じ、どこまでも沈んでいった。見えるようになった気がした。色鮮やかな一羽のツバメが、目の前を旋回している。私は手を伸ばし、追い払おうとした。美しい鳥。どうか、自由に飛んでいって。……澄也は、湖面に残った最後の波紋が静まっていくのを、ただ見つめていた。顔からは、血の気がすっかり引いていた。彼には分からなかった。暗闇を怖がって、いつも泣いていた私のような目の見えない子が、どうしてあんな凍てつく水の中へ飛び込めたのか。彼は警備員の手を振りほどこうと、狂ったようにもがきながら、自分の服を引き裂く勢いで引っ張った。「放せ!俺が捜しに行く。俺が安奈を捜す!」警備員は職務どおり、彼を必死に押さえた。「警察にはもう連絡しました。落ち着いてください!あなたが入っても助けにはなりません。命を一つ余計に失うだけです!」澄也は地面に押さえつけられたまま、絶望に喉を潰すほど叫んだ。「間に合わない、間に合わないんだ。あいつは目が見えないんだ。俺以外に、誰が助けようとするんだよ!頼むから、放してくれ!」澄也の絶望的な叫びに、警備員の手がほんの一瞬だけ緩んだ。そのわずかな迷いを逃さず、澄也は彼らを振りほどいた。次の瞬間、澄也は薄氷の浮かぶ池へ、まっすぐ飛び込んだ。この街の冬の水が、これほど骨まで刺すように冷たいものだと、彼はそのとき初めて知った。警察と救助隊は、すぐに到着した。池は大きくなかったため、私と澄也はほどなく引き上げられた。引き上げられたとき、澄也は私の手を固く握りしめていた。警察官は応急処置を施し、二人の鼻先で息を確かめると、ほっと息をつき、急いで私たちを病院へ運んだ。誰かが私の耳元で、そっと私を呼んでいた。「安奈、安奈、どうすればいい?」彼は何度も何度も、どうすればいいのかと私に尋ねた。私は眠っているようでも
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第6話
「もともと火傷がひどかったところに、あれだけ氷水に浸かってしまったので……皮膚移植が必要です」澄也は呆然と俯き、自分のズボンの裾をまくった。そして、太ももの皮膚に目を落とした。「俺の皮膚は、使えますか」そのとき、悦子が飛び込んできた。彼女は澄也を好きだった。彼の才能も惜しんでいた。だから結局、どうしても去ることができなかったのだ。「駄目よ!澄也、あなた自分で言ったじゃない!安奈への借りはもうとっくに返しきったって。それなのに、どうしてまだ安奈のために自分を傷つけるの!安奈が何を言ったか忘れたの?最初から、あなたを犬みたいに扱うために助けたんだって言ったのよ!」澄也の虚ろな視線が、ゆっくりと彼女へ向いた。「知ってるか。あの日、俺は、安奈の言葉が全部嘘だって分かっていたんだ。なのに、どうして俺はあの日、あんな意地を張って、安奈を捨てようとしたんだろうな」澄也は悦子を見ていた。けれど、まるで彼女を見ていないようでもあった。「あの日、俺はどうして、あんな意地を張ったんだろう」澄也は自分の太ももを、指先が白くなるほど強くつかんだ。彼はあの日のことを思い出していた。悦子の先生であり、業界でもめったに会えない巨匠と、彼はとても楽しく話していた。先生は彼を、めったにいない才能のある若者を見るような目で見ていた。あのとき彼は、ほんのひととき、自分の責任も、目の見えない私のことも忘れていた。まるで普通の学生のように、先生からの称賛を受けていた。もういいじゃないか、と彼は思った。誰もが、安奈の目は治らないと言っている。それなのに、どうしてまだ治すことにこだわる必要があるのか。自分を選んでもいいのではないか。ようやくそんな夢を見られたのに、警察から電話がかかってきた。安奈が家を燃やした、と。その夢は、泡のように弾けて消えた。本気で思ったこともあった。もう行こう。本当にいなくなってしまえばいい、と。けれど火事になった古い家を片づけていると、記憶が少しずつ彼の頭をこじ開けていった。机に突っ伏して眠っていると勘違いした目の見えない安奈が、そっと彼に毛布をかけていたこと。こっそり彼の耳元に顔を寄せ、涙をこぼしていたこと。「澄也、私が目の見えない人間じゃなければよかったのに。あ
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第7話
私は、なんとか目を大きく、大きく開こうとした。少しでも何かが見えることを願って。けれど必死に目を開けても、やはり何も見えなかった。頭の中を流れていたコメントの列も消えていた。それなのに、澄也の懐かしい匂いだけが、息苦しいほど鼻の奥へ押し寄せてきた。不思議に思って、私は思わず強く息を吸った。懐かしい、花の香りのする石けんの匂いは、まだそこにあった。私は途方に暮れたまま、病床に横たわっていた。「そっか。私、死んでないんだ」突然、肩を澄也に強くつかまれた。骨がずれてしまいそうなほどの力だった。それなのに、澄也の声は、よどんだ水のように静まり返っていた。「安奈、もう二度と馬鹿なことをするな。俺はどこにも行かない。もう二度と、お前を置いていかない」私の心臓は、まだあの凍てつく池の水に沈んでいるみたいだった。冷たくて、重い。私は乾いた唇を開いた。「澄也、私は一度だって馬鹿なことなんかしてない。本気だったの」本気で、死のうとしていたのだ。けれど澄也は、力なく私の手を握っただけだった。「安奈、俺はもう諦めたんだ。これ以上、俺にどうしろっていうんだ」彼は背を向けて出ていき、それ以上、私と話そうとはしなかった。大病からようやく目を覚ましたばかりの、目の見えない私に、隠れようとする人を捜す手立てなんて何ひとつなかった。私は長いあいだ、病床に横たわっていた。目を覚ましてしばらくすると、身体には大きな問題はなくなり、退院できることになった。退院の手続きは、澄也がしてくれた。古い家は火事ですっかり変わり果て、もう住める状態ではなかった。澄也は外に部屋を借りた。知らない場所で暮らすことは、私にとって宇宙に放り出されるようなものだった。足をどこへ踏み出せばいいのかさえ分からなかった。暮らし始めて、たった一日。それだけで、私の脚にはいくつも痣ができた。澄也は何も言わなかった。それでも昔と同じように、部屋中の角という角を、丁寧に覆ってくれた。けれど幼い頃、あの家に流れていた空気は明るかった。あの頃の澄也は、いつも得意げに私へ自慢した。「角のあるところは全部包んでおいたぞ。安奈、これでまたぶつかったら俺の負けだ」でも今は、澄也が押し殺しているものが分かる。私の胸は空っぽで、どう
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第8話
悦子は泣きながら、笑い声を漏らした。「あなたが心にしまい込んでいるその手も、こうやって安奈に壊されたの?あなたには、安奈に傷つけられてもいい手が、あと何本残っているの?」私が、悦子の手を傷つけたの?罪悪感が津波のように押し寄せ、私を押し潰した。「ごめんなさい、本当にごめんなさい。さっきはただ、道が見えた気がして、歩いてみたかっただけなの。知らなかったの。彼女がそこにいるなんて、本当に知らなくて……」澄也の嫌悪のにじむ冷たい声が、私の言葉を遮った。「もういい。安奈、お前は目が見えないんだぞ。何の道が見えるっていうんだ」澄也の声は、歪むほどに震えていた。「俺の絵を描く手が潰れただけじゃ、まだ足りないのか?頼むから教えてくれ。あと何人の未来を、お前のために差し出せばいいんだ?」私はその場に立ち尽くし、震えながら何度も謝り続けた。そうだ。私は目が見えないのだった。どうして自分に見えるなんて思ったのだろう。澄也は慌てて悦子を抱きかかえ、病院へ向かった。私のそばを通り過ぎるとき、彼はもう一言も口をきかず、私を見向きもしなかった。私を、がらんとした廊下に置き去りにしたまま。私はもう試す勇気がなくなり、壁を伝って部屋へ戻った。どれくらい時間が経ったのか分からない。ようやく澄也が帰ってきた。彼は何も言わなかった。私はむなしく口を開いた。「悦子さんの手は……」澄也はやはり何も言わなかった。ただ、冷たい指先で、私のまぶたを何度もそっとなぞった。澄也の声は、聞き逃しそうなほど小さかった。「安奈、古い家を直しておいた。あそこへ戻れ」私の心臓は、その瞬間、なぜか静かに落ち着いていった。私は澄也の手を自分の頬に当て、大切に頬ずりした。「うん、澄也。私も、あの家に帰りたかったの」澄也は私の荷物をすべてまとめ、私を送ってくれた。見慣れたはずの建物の下に立ったとき、私は自分から足を止めた。「澄也、ここまででいいよ。この道はね、私、よく知ってるの。白杖がなくても歩けるよ」けれど澄也は、新しく買った白杖を私の手に握らせた。彼は何度も私の名前を呼んだ。けれどそのたびに荒い息に遮られ、言葉にはならなかった。私は笑って、彼を軽く押した。「行って。もう行っていいよ。忙しい
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第9話
澄也以外の人と、こんなふうに親しくしたことはなかった。私は彼女に手を握られるまま、どうしていいか分からず、その場に立ち尽くした。これのどこが人見知りなのだろう。それに、こんなに可愛い子に友達がいないなんて、私には信じられなかった。けれど莉央は人見知りどころか、私が黙っていると、ずっと私の手をぶんぶん揺らし続けた。「ねえってば、いいでしょ?友達になってよ。私、引っ越してきたばっかりで、ひとりぼっちなんだから」私は顔を真っ赤にして、しどろもどろに「うん」と答えた。莉央は、とても嬉しそうに笑った。彼女はやっぱり、人見知りとはまるで無縁だった。知らない人にも物怖じしない。毎日、姉が作ったものをあれこれ抱えて、手探りで私の家に入ってきては、当然のようにソファへ座った。たいていは莉央が話し、私がそれを聞いていた。莉央だって、不機嫌になることはあった。「全然しゃべってくれないじゃん。私と友達になりたくないなら、私だってもう相手してあげないから!」私は焦って、顔を真っ赤にした。「違うの。なりたいよ。莉央のこと、好きだよ」子どもの頃、誰も目の見えない私と遊びたがらなかった。目の見えない子は、面倒だから。視覚特別支援学校の子たちも、それぞれに人と距離を置いていた。物心ついてからずっと、私には澄也しかいなかった。今、私には初めての……友達ができた。何度も夜になると、無意識に澄也へ連絡したくなった。友達ができたよ、と伝えたくて。けれど音声入力で文字にしたあと、いつも消してしまった。そんなことをしてはいけない。莉央は得意げに笑った。「最初からそう言えばいいのに」莉央は大胆だった。目が見えないのに、いつも私を外へ連れ出したがった。「安奈、海を見に行こうよ。姉ちゃんに頼んで連れて行ってもらうから!」私は困って首を横に振った。「莉央、私たちは目が見えないんだよ。家にいて、外で人に迷惑をかけないほうがいいよ。それに、二人とも見えないのに、海を見に行ってどうするの」莉央は、たちまちむきになった。「目が見えないから何なの?この世界に点字ブロックがないとでも思ってるの?私は目が見えないんだから、周りが気を遣ってくれたっていいでしょ!ふふん、安奈、もしかして白杖が使えないの?大丈夫
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第10話
「安奈はとてもいい子です。少しも迷惑なんかじゃありません」私はごみ袋を手にしたまま、その場で固まり、ため息をついた。まったく、澄也ったら。紗季が電話を切って振り返ると、私の虚ろな目と向き合った。彼女の声には、少し心配がにじんでいた。「安奈……」私は彼女に笑いかけた。「紗季さん、大丈夫です。ラーメンが一杯残っています。彼にも食べてもらいましょう」澄也は上がってきた。玄関の前に長いこと立ってから、ようやくノックした。私はドアのほうへ向かって、にこにこと笑った。「澄也、来たんだね。お腹すいたでしょう。ごはんにしよう。私が作ったの、食べてみて」私の声は軽かった。まるで彼が、ただ仕事から帰ってきただけみたいに。澄也は黙ったまま椅子を引いて座った。彼はラーメンを大口で、何度も口へ押し込んだ。涙がそのまま、どんぶりのスープに落ちて混ざっていった。私は静かに、彼がその一杯を食べ終えるのを待った。やがて、澄也のしゃくり上げるような声が耳に届いた。「安奈、迷子になったツバメは、まだ飛んで帰れるのかな」捨てられたときでさえ、澄也はあまり泣かなかった。けれど今、目の前にいる穏やかで静かな顔を見て、彼はこれ以上ないほどはっきりと思い知った。自分が手を引いて育ててきた女の子は、本当にもう、自分を必要としていないのだと。澄也の目から、涙が大粒のままぼろぼろとこぼれ落ちた。「安奈、俺の中から、一本骨が抜け落ちたみたいなんだ。痛い。どうしようもなく痛いんだ」私がいなくなったこの一年、澄也は試してみた。家の中で角を覆っていたものを、すべて外した。自分の夢を追いかけようともした。けれど絵筆を握った瞬間、長いこと呆然と動けなくなり、キャンバスは真っ白なままだった。彼は怯えたように悦子の手をつかんだ。「俺の絵は?俺が最初に描いた絵、お前のところにあるんじゃないか」悦子は驚きながらも、その絵を探して澄也に渡した。澄也はその絵を見つめ、ようやく思い出した。悦子があれほど褒めてくれた絵が、何だったのかを。母親に捨てられて三日目も、雪はまだ激しく降っていた。澄也は呆然と目を閉じた。きっと、ここで死ぬのだろうと思った。けれど、温かい小さな手が、彼の冷えきった顔を不器用に探った
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