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夫の悪夢どおり、私は彼を捨てた

夫の悪夢どおり、私は彼を捨てた

By:  原稿だいすきCompleted
Language: Japanese
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夫の南条怜司(なんじょう れいじ)が、ある夢を見た。 夢の中で彼は、会員制ラウンジで働く女性スタッフのために藤崎千夏(ふじさき ちなつ)を裏切り、彼女を傷つけることを次々にしてしまうのだという。 それを聞いた瞬間、千夏の胸は理由もなく、ちくりと痛んだ。 けれどそれは本当に一瞬のことで、すぐに平静を取り戻した彼女は、笑って怜司をからかった。 「それで?」 「それで?」 怜司は千夏を腕の中に閉じ込め、恨めしげに彼女の耳を噛んだ。 「それで君は、俺が気づかないうちに離婚協議書にサインさせて、気づいたときにはもう、どこにもいなくなっていたんだ!」 怜司は、口では「そんなことは絶対に起こるはずのない悪夢だ」と言いながらも、自分の手元に回ってくる書類を一枚残らず細かく確認するようになった。とりわけ、千夏から渡されたものは念入りだった。 友人たちと集まるのが何より好きだったあの会員制ラウンジにも、二度と足を運ばなくなった。女性スタッフには徹底して距離を置いた。 真夜中に突然飛び起きることもあった。千夏が無事に眠っている顔を見て、ようやく安心してまた眠りにつくのだ。 怜司はひどい分離不安に陥り、一時期は心理カウンセラーの力を借りなければならないほどだった。 千夏は呆れるやらおかしいやらだったが、怜司に少しでも安心してもらうため、自分も以前より彼を好きで、彼に頼っているように振る舞った。 やがて、あの夢のことは二人の記憶から薄れていった。 怜司が援助している、あの女子学生が現れるまでは。

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Chapter 1

第1話

夫の南条怜司(なんじょう れいじ)が、ある夢を見た。

夢の中で彼は、会員制ラウンジで働く女性スタッフのために藤崎千夏(ふじさき ちなつ)を裏切り、彼女を傷つけるようなことを、次々としてしまうのだという。

それを聞いた瞬間、千夏の胸が理由もなく、ちくりと痛んだ。

けれど、それは本当に一瞬だけだった。すぐに平静を取り戻した千夏は、笑って怜司をからかった。

「それで?」

「それで?」

怜司は千夏を腕の中に閉じ込め、恨めしげに彼女の耳を軽く噛んだ。

「それで君は、俺が気づかないうちに離婚協議書にサインさせて、気づいたときにはもう、どこにもいなくなってたんだ!」

怜司は、口では「そんなことが起こるはずのない悪夢だ」と言いながらも、自分の手元に回ってくる書類を一枚残らず細かく確認するようになった。とりわけ、千夏から渡されたものには念入りだった。

友人たちと集まるのが何より好きだった、あの会員制ラウンジにも二度と足を運ばなくなった。女性スタッフとは徹底して距離を置いた。

真夜中に突然飛び起きることもあった。千夏が何事もなく眠っている顔を見て、ようやく安心し、また眠りにつくのだ。

怜司はひどい分離不安に陥り、一時期はカウンセリングを受けなければならないほどだった。

千夏は呆れるやらおかしいやらだったが、怜司に少しでも安心してもらうため、自分も以前より彼を好きで、彼を頼っているように振る舞った。

やがて、あの夢のことは二人の記憶から薄れていった。

怜司が援助している、あの女子学生が現れるまでは。

……

四度目の結婚記念日。

本来なら、二人で盛大に皆から祝福を受けるはずの日だった。

だが千夏は記念日のケーキを食べたあと、アナフィラキシーを起こした。原因は、そのケーキが、彼女にとって重度のアレルゲンであるマンゴー味だったからだ。

白いワンピースを着た森野茉莉(もりの まり)は、病室の隅に追いやられるように立ち、不安そうに怜司を見つめていた。

「申し訳ありません、南条社長。わざとじゃないんです……

マンゴーなんて、田舎で育った私たちにとっては、めったに口にできない高級品で。毎年一度だけ、弟が食べ終えた種の周りに残った果肉を少しもらうくらいしかできませんでした。こんなにおいしいものにアレルギーがある人がいるなんて、本当に思いもしなくて……」

誰もが、茉莉はお終いだと思った。

以前、あるレストランのシェフが、うっかり千夏のデザートに小さなマンゴーの角切りを二粒入れてしまったことがあった。千夏はそのデザートを口にしてすらいなかった。

それでも怜司は厨房に乗り込み、そのシェフを引きずり出して殴りつけた。

それから間もなく、そのレストランは海都から姿を消した。

皆が茉莉の行く末に息をのんでいた、そのときだった。

低く抑えた男の声が響いた。

「千夏、茉莉はわざとやったわけじゃない」

「え?」

病床の千夏を含め、その場にいた全員が固まった。千夏は信じられない思いで口を開いた。

「私はショックで死にかけたのよ。それなのに、わざとじゃないって言うの?」

怜司の体が、ほんのわずかに強張った。彼は困ったようにため息をついた。

「ただ、どうでもいい人間のせいで、俺たちの記念日を台無しにしたくないだけだ。今は、どうするつもりだ?」

「もちろん、彼女を解雇して」

千夏は冷たい顔で言った。胸の奥で、怒りがじわじわと熱を帯びていく。

茉莉の顔から血の気が引いた。

「社長、私……」

怜司は茉莉を一瞥もしなかった。甘やかすように千夏の髪を撫で、優しい声で言った。

「分かった。全部、君の言うとおりにする。会社でまだ用があるんだ。あとでまた顔を出す」

病室を出る直前、彼はうつむいたままの茉莉に目を向けた。

「君は戻って、退職願を書け」

茉莉がしおれたような背中で去っていくのを見て、友人たちは口々に羨ましがった。

「びっくりした。怜司があの子を見逃すつもりなのかと思ったよ。なんだ、冗談を言っただけだったんだね」

「この森野茉莉って子、解雇だけじゃ済まないでしょ。怜司なら、この街で二度とまともに働けないようにするはずだよ。せっかく田舎から出てきたのに、これで人生終わったね」

千夏は友人たちに合わせて笑った。

けれど胸の内には、不安がじわじわと広がっていた。

そのとき、スマートフォンが鳴った。

怜司からのメッセージだった。

【今夜、『ナイトカラー』で会おう】

目ざとい友人がそれを見つけ、笑いながらからかった。

「怜司って本当に気が利くね。きっと記念日をやり直してくれるつもりなんだよ」

千夏は少し照れた。同時に、さっき感じた違和感はただの気のせいで、自分が少し心の狭いことを考えてしまっただけなのだと思った。

夜、千夏は「ナイトカラー」へ向かった。

扉を開けようとしたそのとき、彼女の目に飛び込んできたのは――

解雇されるはずだった茉莉が、満面の笑みで怜司の隣に座っている姿だった。茉莉の前には、マンゴー味のスイーツがテーブルいっぱいに並べられていた。

「怜司さん、奥さんには茉莉を解雇するって約束したんでしょう?解雇していないどころか、社長特別補佐にまで昇進させたって知られたら、奥さんが騒いだとき、どうするんですか?」

千夏はドアノブを握る手に力を込めた。

その言葉とともに、胸が深く沈んでいく。

怜司は甘やかすように茉莉の髪を撫で、落ち着き払った声で言った。

「千夏に知られることはない。君たちも余計なことは言うな。茉莉は純粋だから、千夏の前で騒いだりもしない。茉莉は大学を卒業してすぐ俺についてきたんだ。これ以上、つらい思いはさせられない」

千夏の顔から、一瞬で血の気が引いた。

茉莉が大学を卒業したのは一年前。

つまり一年前にはもう、怜司は彼女を裏切っていたのだ。

千夏は口を開いた。けれど喉を何かにきつく締めつけられたようで、唾を飲み込むことさえ苦しかった。

友人の一人が口を閉じる仕草をしてから、それでも堪えきれずに尋ねた。

「でも怜司さん、怖くないんですか……前に見たあの夢が、現実になることが」

その一言で、賑やかだった部屋は一瞬にして静まり返った。

怜司の端正な顔立ちは暗がりに沈み、指先の煙草の火だけが明滅していた。

茉莉は頃合いを見計らったように、おびえた不安そうな表情を浮かべた。けれど入口に立つ人影を見た瞬間、その唇にかすかな笑みをのせた。

茉莉はマンゴーケーキをひとさじすくい、怜司の口元へ差し出した。怜司は顔を下げてそれを口にし、勝ち誇ったように笑った。

「あれはただの夢だ。

茉莉は、夢に出てきた偽善的で性根の腐った女性スタッフじゃない。俺も、夢の中のように何の備えもしていなかった俺じゃない。

夢の中では、千夏が離婚成立後に実家に匿われた。だから俺は一時的に手が出せなかっただけだ」

「でも、もし……千夏の実家が破産したら?」

「後ろ盾を失えば、千夏は二度と俺のそばを離れられない」

シャンデリアの光が、怜司の瞳に宿る決意と残酷さを照らし出した。彼はゆっくりと、美しい煙の輪を吐き出した。

「それに、君たちは千夏がどれほど俺を愛しているか知っているか?

あの夢のことを正直に話したあと、千夏は前よりずっと俺に甘えるようになった。前よりずっと俺を愛するようになった。誰よりも、あの夢が現実になることを怖がっていた。

そんなにも俺を愛している千夏が、俺のほんの一時の気の迷いくらいで、俺のもとを去るはずがないだろう?」

その言葉に、友人たちは羨ましさを隠せず、笑いながら彼をからかった。

「やっぱり愛されてる側は強いな!」

千夏は扉の外に立っていた。

胃の奥から、すべてがこみ上げてくるようだった。

彼女はよろめきながら外へ出た。心臓はまるで凍りついた湖のようで、外へ向かって一歩踏み出すたびに、誰かに穴を穿たれ、ひび割れが広がっていく音が聞こえる気がした。

そのとき千夏はようやく気づいた。

この「ナイトカラー」こそ、怜司が夢を見て以来、近づくことさえ避けていたあの会員制ラウンジだったのだ。

今、彼はまたここへ戻ってきた。

千夏は魂の抜けた人形のように、目的もなく街を歩き続けた。

気づけば、自分の実家へ戻っていた。

両親は彼女の真っ青な顔を見て、ぎょっとした。

「千夏、今日は記念日のお祝いに行くんじゃなかったのか?まさか怜司のやつに泣かされたのか?」

千夏の母は、思わず怜司をかばった。

「変なことを言わないで。怜司は当時、私たちを安心させて千夏を嫁がせるために、前もって離婚協議書にサインまでしてくれたのよ。あの子が千夏を怒らせるわけ……」

「離婚協議書?」

千夏は夢から覚めたように顔を上げ、切迫した声で言った。

「お母さん、今すぐそれを見せて!」

最後のページに、見慣れた筆跡で書かれた「南条怜司」の四文字を見た瞬間、胸につかえていた石がようやく落ちた。

同時に、その石は彼女の胸に大きな穴を穿った。

押し寄せる巨大な悲しみに、千夏は今にものみ込まれそうだった。けれど彼女は深く息を吸い込むと、自分の名前を書いた。

彼女と怜司は、やはりこの結末へたどり着いたのだ。

千夏は協議書を弁護士に確認してもらい、有効であることを確かめてから、両親に事の一部始終を話した。そして二人をなだめながら、決断を下した。

「会社はもともと海外市場の開拓を進める予定だったわ。資産をそのままM国へ移しましょう。10日後に離婚が成立したら、すぐに引っ越すの」

怜司が自ら、夢と同じ道を歩き始めたのなら。

彼女は一歩ずつ、この悪夢を現実にしてやる。

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第1話
夫の南条怜司(なんじょう れいじ)が、ある夢を見た。夢の中で彼は、会員制ラウンジで働く女性スタッフのために藤崎千夏(ふじさき ちなつ)を裏切り、彼女を傷つけるようなことを、次々としてしまうのだという。それを聞いた瞬間、千夏の胸が理由もなく、ちくりと痛んだ。けれど、それは本当に一瞬だけだった。すぐに平静を取り戻した千夏は、笑って怜司をからかった。「それで?」「それで?」怜司は千夏を腕の中に閉じ込め、恨めしげに彼女の耳を軽く噛んだ。「それで君は、俺が気づかないうちに離婚協議書にサインさせて、気づいたときにはもう、どこにもいなくなってたんだ!」怜司は、口では「そんなことが起こるはずのない悪夢だ」と言いながらも、自分の手元に回ってくる書類を一枚残らず細かく確認するようになった。とりわけ、千夏から渡されたものには念入りだった。友人たちと集まるのが何より好きだった、あの会員制ラウンジにも二度と足を運ばなくなった。女性スタッフとは徹底して距離を置いた。真夜中に突然飛び起きることもあった。千夏が何事もなく眠っている顔を見て、ようやく安心し、また眠りにつくのだ。怜司はひどい分離不安に陥り、一時期はカウンセリングを受けなければならないほどだった。千夏は呆れるやらおかしいやらだったが、怜司に少しでも安心してもらうため、自分も以前より彼を好きで、彼を頼っているように振る舞った。やがて、あの夢のことは二人の記憶から薄れていった。怜司が援助している、あの女子学生が現れるまでは。……四度目の結婚記念日。本来なら、二人で盛大に皆から祝福を受けるはずの日だった。だが千夏は記念日のケーキを食べたあと、アナフィラキシーを起こした。原因は、そのケーキが、彼女にとって重度のアレルゲンであるマンゴー味だったからだ。白いワンピースを着た森野茉莉(もりの まり)は、病室の隅に追いやられるように立ち、不安そうに怜司を見つめていた。「申し訳ありません、南条社長。わざとじゃないんです……マンゴーなんて、田舎で育った私たちにとっては、めったに口にできない高級品で。毎年一度だけ、弟が食べ終えた種の周りに残った果肉を少しもらうくらいしかできませんでした。こんなにおいしいものにアレルギーがある人がいるなんて、本当に思いもしなくて……」誰もが
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第2話
その日、千夏の心はずっと揺さぶられたままだった。両親と会社の海外移転に向けた段取りを話し合ったあと、彼女はそのまま実家に泊まることにした。いつもなら、千夏の顔を見なければ安心して眠れない怜司が、その日はあっさりと受け入れた。誰が彼のそばにいるのかなど、考えるまでもなかった。怜司と茉莉が親しげに寄り添う光景が、棘のように千夏の頭に刺さって離れない。その夜、彼女は何度も浅い眠りを繰り返した。うつらうつらしているうちに、彼女は怜司が見たという夢によく似た夢を見た。夢の中で、怜司はあの女性スタッフを愛していた。彼女がどんな目に遭っても、怜司は必ず千夏が陥れたのだと決めつけ、その代償を何倍にもして千夏に払わせた。千夏を守ろうとした秘書の張間小春(はりま こはる)は、怜司の手で刑務所に送られ、心身をすり減らした末に死んだ。父は怒りのあまり心筋梗塞を起こし、母は心労で見る影もなくやつれてしまった。そして千夏は、怜司の大切な女を陥れたと決めつけられ、彼の部下たちに殴られて流産した。二度と、母親になれない体になった。悪夢から飛び起きたとき、枕は涙でぐっしょり濡れていた。千夏はそっと自分の腹に手を添えた。そのまま目を開け、夜明けまで一睡もできなかった。絶対に。絶対に、あの悲劇を繰り返させはしない。翌朝、千夏は一番早い時間で産婦人科の専門医を予約した。ところが、出かけようとした矢先、小春から電話がかかってきた。「藤崎社長、南条社長はあなたを騙していました。森野茉莉は解雇なんてされていません!」夢の中で小春が迎えた惨い結末が脳裏をよぎり、千夏は踏み出しかけた足をすぐに止めた。「小春、落ち着いて。何より自分の身の安全を優先して。私が着いてから話しましょう」千夏が南条グループに着いたとき、小春はすでに怜司のボディーガードたちに取り囲まれていた。けれど幸い、怪我はしていなかった。千夏を見た瞬間、怜司の表情がわずかにこわばった。だがすぐに、上に立つ者らしい余裕を取り戻し、鼻で笑った。「助けを呼べば無事で済むとでも思ったのか?」小春は千夏を見るなり、怒りに震えながら事の経緯を一気に話した。茉莉が何かを盗もうとしている、あるいは逆恨みから報復しようとしているのだと思い、咄嗟に彼女を床に押さえつけたのだという。その拍子に
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第3話
病院の産婦人科。「妊娠八週目です。胎児は無事です。これだけ大きな怪我をされているのに、よく持ちこたえています」傷の手当てを終えたばかりの小春も、思わず嬉しそうな声を上げた。「よかったですね、藤崎社長!妊娠したと知ったら、南条社長もきっと喜びます。今度こそ藤崎社長の味方をして、森野みたいなあざとい女の肩なんか持たなくなりますよ」けれど千夏は首を横に振り、医師に向かって静かに言った。「お願いします。中絶の手続きをしてください」「藤崎社長……」小春は呆然と彼女を見つめた。瞳には痛ましさが滲んでいた。「南条社長は、まだ藤崎社長を愛しているはずです。ただ、あのあざとい女に目をくらまされているだけで……」実際に傷つけられてしまったあとで、愛しているかどうかに、まだそんなに大きな意味があるのだろうか。冷たい手術台の上で、麻酔を打たれていても、千夏には何か大切なものが体の奥から少しずつ剥がされていくような感覚があった。涙が音もなくこぼれ落ちる。彼女の心の中に、土砂降りの雨が降った。千夏が手術室から出ると、怜司からメッセージが届いていた。【千夏、三日間出張に行ってくる。帰ったらお土産を持って帰るよ】彼女はそれを何気なく一瞥し、画面を閉じようとした。すると、SNSの通知が目に入った。リトル・マリというユーザーからの投稿だった。【あなたを想い続けることは、あの頃の私にできた、たった一つの勇気でした】添えられていた写真には、すらりと背の高い男の後ろ姿が写っていた。千夏には一目で、それが怜司だと分かった。二人は海辺へ遊びに行き、クルーザーに乗り、フレンチを食べていた。「リトル・マリ」がその男を心から慕い、崇拝していることは明らかだった。投稿の端々に彼への想いが滲んでいて、ほどなく二人には二人を応援する人たちまでつき始めた。千夏には分かっていた。これは茉莉が、わざと自分に見せているのだ。彼女は何気なく、その投稿に「いいね」を押した。三日後、千夏は無事に退院した。だが、小春が慌ただしく外から駆け込んできた。顔色はひどく悪い。「どうしたの?」小春は悔しさと怒りで目を赤くしていた。「藤崎社長、本当は言うつもりはありませんでした。医師からも、しばらくは体をしっかり休めるように言われていますし
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第4話
千夏には分かっていた。怜司は、少しずつ追い詰められている。小春を排除しようとしたのは、千夏のそばから頼れる人間を奪うため。藤崎グループに圧力をかけたのは、彼女から最後の後ろ盾を奪うため。けれど、それが何だというのだろう。あの夢の結末を恐れているくせに、怜司は結局、自分の足で同じ道を進んでいる。疑われないように、その夜、千夏はおとなしく家へ帰った。けれど、食卓に茉莉まで座っているとは思わなかった。千夏が帰ると、怜司はあらかじめ少し冷ましておいたスープを彼女の前に置いた。「茉莉が大きな契約を取ったんだ。祝いに、うちで食事をさせると約束していた」そこでようやく、千夏は食卓の中央に、大きなタラバガニが一杯置かれていることに気づいた。千夏は蟹が好きだった。ただ、胃腸があまり強くない。体調が悪いときに食べると、決まって具合を崩した。だから怜司は以前、千夏が大きな契約を取った日だけ蟹を食べてもいいと決めていた。彼なりに、彼女の体を気遣っているつもりだったのだろう。それなのに今、その特別な祝い方まで、別の女に与えられている。もうとっくに麻痺したと思っていた心の奥が、鈍く痛んだ。千夏はその光景を見たくなくて、うつむいたまま黙ってスープを口に運んだ。だが茉莉は、彼女を放っておくつもりなどなかった。「怜司さん、千夏さんは私のこと、歓迎していないんでしょうか。蟹を一口も召し上がらないなんて……やっぱり、あのプロジェクトを私が受け取るべきじゃなかったんですよね……千夏さんが謝ってくださらなくても、私、もう慣れていますから……」怜司は、いちばん柔らかい蟹の身をほぐし、茉莉の皿に置いた。「千夏、茉莉を困らせるな」千夏は、中絶手術を受けたばかりだった。まだ体は戻っていない。消化に負担のかかるものなど、本来なら口にするべきではなかった。「私が食べないと言ったら?」怜司は、駄々をこねる子供を見るような目で彼女を見た。「俺が食べさせてやってもいい。昔はよく、そうしていただろう?」千夏は喉の奥に何かが詰まったようになった。彼女は蟹の身を箸で取り、何も言わずに口へ運んだ。ひと口、またひと口。味など、まるで分からなかった。怜司の見えないところで、茉莉が得意げに笑った。怜司は、千夏
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第5話
千夏は、怜司に半ば無理やりパーティー会場へ連れていかれた。茉莉も、当然のように彼の後ろについてきていた。この界隈の人間は、皆、そういう空気に敏い。茉莉がたった一年で社長特別補佐にまで引き上げられ、そのうえ人目もはばからず怜司のそばにいる。二人がどういう関係なのかなど、説明されなくても分かることだった。だから人々は、自然と怜司と茉莉の周りへ集まり、機嫌を取るような言葉ばかりを並べた。千夏はいつの間にか、人の輪の外へ押し出されていた。「千夏さん、大丈夫か?」以前、藤崎グループと取引のあった越智悠真(おち ゆうま)が、彼女の顔色の悪さに気づき、心配そうに声をかけた。千夏は人に迷惑をかけたくなくて、首を横に振った。「大丈夫よ」「そういえば、藤崎グループはどうしてM国へ事業の軸を移し始めたんだ?まさか君たち……」「M国?」不機嫌そうな声が割って入った。怜司が歩み寄り、千夏と悠真の間に立った。二人の距離を、強引に断ち切るように。千夏は一瞬だけ動揺した。けれど、すぐに口を開いた。「最近、M国で伸びている企業の話をしていただけよ」怜司はうなずいたものの、表情にはまだ不機嫌さが残っていた。悠真が立ち去ってから、怜司は茉莉に言った。「茉莉、ここに残って千夏についていてくれ」茉莉の顔に不満がよぎったが、彼女はすぐにそれを隠した。「怜司さん、千夏さんのことは私がちゃんと見ています」怜司が離れると、茉莉はたちまち表情を変え、勝ち誇ったように顎を上げた。「自分だけのものだった人を、少しずつ奪われていく気分はどうですか?」千夏の腹の痛みは、いっそう激しくなっていた。彼女は痛みに耐えながら、静かに問い返した。「拾ったゴミを宝物みたいに抱えている気分はどう?」その直後、視界が真っ暗になった。千夏は激痛に耐えきれず、その場にうずくまった。茉莉はひどく楽しそうに笑った。そして周囲から見えない位置で、千夏の足を軽く踏みつけると、耳元に顔を寄せて低く囁いた。「千夏さん、本当に苦しそうですね。あなたが中絶手術を受けたこと、私、知っているんですよ。蟹を食べさせたのも、わざとです。でも、怜司さんはどちらを信じると思います?」そう言い終えると、茉莉はわざとらしく息をのんだように声を上げ
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第6話
「千夏!」視界が暗く沈みきる直前、悠真が自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。悠真は千夏を車に乗せ、病院へ向かおうとした。だが、その途中で一台のベントレーが行く手を塞いだ。「越智さん。俺の妻を、どこへ連れていくつもりですか?」千夏は意識を失っていた。悠真は後部座席で彼女を支え、座席から崩れ落ちないよう抱きかかえていた。その光景が怜司の目に入った瞬間、嫉妬で理性が焼き切れそうになった。「具合が悪そうだったから、病院へ連れていこうとしただけだ」怜司は車内に手を伸ばし、強引に千夏を抱き上げた。「俺の妻のことを、越智さんに心配してもらう必要はない」悠真はなぜか、嫌な予感がした。そのとき、千夏の白いスカートに血が滲んでいるのが目に入った。「出血している!」怜司の胸が、きゅっと締めつけられた。千夏を抱く腕が、わずかに震える。けれど彼女の固く閉じた目を見た瞬間、ふと何かを思い出したように、その表情が冷えた。「千夏、もう芝居はやめろ。たしか、君の生理はこの時期だったはずだ」怜司の車の中で、千夏は再び痛みに目を覚ました。怜司は彼女が目を開けたのを見ると、安堵したような顔をした。だがすぐに、やはりそうだったかと言いたげな冷たい表情に戻った。そして低い声で問い詰めた。「どうしてあいつについていった?千夏、そんなにほかの男にすがりたかったのか?」千夏にはもう、体が痛いのか、心のほうが痛いのか分からなかった。痛みに意識を削られ、今が夢なのか現実なのかさえ曖昧だった。「死にたく……なかったから……あなた以外なら……誰でもよかった……」怜司は怒りのあまり、かえって笑った。瞳の奥は暗く沈んでいた。「そうか。よく分かった」彼は千夏を使用人に引き渡した。「千夏は、ほかの男との距離の取り方が分かっていないらしい。納戸で、しばらく頭を冷やしてもらえ」千夏がどれほど暗闇を怖がるか、怜司ほどよく知る者はいなかった。だからこそ彼は、いちばん日当たりのいいこの邸宅を二人の新居に選んだのだ。屋敷の中はいつも明るく灯され、まるで千夏のそばには夜など訪れないかのようだった。それなのに今、彼は自分の手で、彼女を屋敷の中で最も暗い部屋へ閉じ込めた。千夏を閉じ込めたあと、怜司は使用人に命じた。「千
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第7話
「ナイトカラー」で、怜司はソファの隅に腰を下ろし、資料の束に目を通していた。指先の煙草から立ちのぼる煙が、彼の眉間に落ちた影をいっそう濃く見せている。身近な者たちは皆、知っていた。千夏が煙草の匂いを嫌うため、怜司が煙草に手を伸ばすのは、よほど苛立っているときだけだ。「越智悠真のことを調べてるのか?」友人が驚いたように目を見開いた。「そこまでするか?あいつ、千夏を車に乗せただけだろ。そんな調子じゃ、次に千夏を見かけたら、俺は裏口から逃げるしかないな」それでいい。怜司は、千夏の周りをうろつく男など、一人残らず消えてしまえばいいと思っていた。自分以外は。彼の視線は、千夏とのメッセージ画面に釘づけになっていた。千夏が最後に自分から連絡をくれたのは、二人の結婚記念日の日だった。パーティーの夜、青白い顔で弱りきっていた千夏。そして、白いスカートに滲んでいた血の跡。場違いにもその光景が脳裏に浮かび上がり、胸の奥に言いようのない不安が広がっていく。自分の記憶違いではないことを確かめるように、怜司は毎月つけている千夏の周期管理アプリを開いた。そこには、二か月分の空白があった。千夏の生理が、二か月も来ていない。まさか。ある可能性に思い至った瞬間、怜司の胸に言葉にできないほどの喜びが込み上げた。彼は親指と人差し指の間を強くつねり、自分に落ち着けと言い聞かせた。もう、血気にはやる若造ではない。大人らしくしろ。それに、もしかしたら自分は――あの日、千夏をあんなふうに脅してしまった。彼女は今も、きっと怒っている。そう思うと、怜司は千夏の番号を押しかけて、結局、家で彼女の世話をしている使用人に電話をかけた。「千夏は最近どうしている?食事はちゃんと取っているか?あの日、千夏は二時間だけ閉じ込めたら、あとはこっそり出してやれと言っただろう。ちゃんとそうしたか?俺の指示だとは言うな。自分たちが見ていられなかったから出したことにしておけ」普段は機転の利く使用人が、なぜか急に言葉を失った。声までしどろもどろになる。「だ、旦那様……ですが……」「もういい」怜司は、自分の心がとっくに千夏のもとへ飛んでいることに気づいた。これ以上、意地を張って千夏を放っておく意味などなかった。
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第8話
「怜司さん……」茉莉は泣きながら怜司の胸に飛び込み、ひどく傷ついたように訴えた。「千夏さんが私に渡したあのプロジェクト、中身が空っぽだったんです……千夏さんは、病院にまで手を回して私にアレルギー発作を起こさせたんですよ。それだけでもひどいのに、お詫びだと言って渡してきたものまで偽物だったんです。あの人、少しも反省していません。怜司さん、絶対に……」茉莉は延々と自分のつらさを訴えた。だが怜司の耳に届いたのは、千夏に関わる部分だけだった。「中身が空っぽ?」そんなはずがない。会議室で、千夏が腕を押さえられながらも、黙ってプロジェクト譲渡書に署名した姿が脳裏に浮かぶ。胸の奥の不安が、じわじわと大きくなっていった。藤崎グループはプロジェクトを奪われ、大きな痛手を負う。その後、南条グループに少しずつ取り込まれ、最後には立ち行かなくなる。そうなれば、千夏は怜司の庇護の下で暮らすしかない。二度と、彼のそばを離れられなくなる。自分が少し焦りすぎていることは、怜司にも分かっていた。それでも、千夏の逃げ道を完全に塞がなければ、あの悪夢の影から抜け出せなかった。それなのに今、すべてが計画から外れていく。その感覚が、怜司をひどく苛立たせた。じっとしていられないほどだった。「藤崎グループがこのプロジェクトに充てるはずだった資金が、どこへ移されたのか調べろ」怜司の顔に陰りが差すのを見て、茉莉の目にかすかな得意げな色が浮かんだ。彼女はシルクのキャミソール姿のまま怜司の腕に絡みつき、物分かりのいい女を装った。「怜司さん、怒らないでください。私、このプロジェクトなんていりません。私は……今夜、あなたがそばにいてくれるだけで……それだけで十分なんです……」そのときになってようやく、怜司は隣にまだ茉莉がいることを思い出した。だが、彼女を慰める気にはまったくなれなかった。怜司は茉莉の手を振りほどいた。「茉莉。君がなぜ俺のそばにいられるのか、分かっているか?」茉莉はよろめき、床に膝をついた。顔いっぱいに、愕然とした表情が広がる。熱を出したと聞いて、怜司はすぐに駆けつけてくれた。だから彼の心には、きっと自分がいるのだと思っていた。そこへ弱々しく振る舞いながら千夏の「罪」を訴えれば、怜司はもっと自分を哀
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第9話
M国では、ここ数日、雨が降り続いていた。けれど千夏には、雨に足を取られている余裕など少しもなかった。藤崎グループは拠点をM国へ移した。だが、競争の激しいこの国で足場を築くことがどれほど難しいかは、言うまでもない。「藤崎社長、陸奥グループが会ってくれるそうです!」いつもは落ち着いている小春が、満面の笑みでそう報告してきた。千夏は疲れたようにこめかみを押さえたが、それでも思わず笑みをこぼした。この数日、彼女たちはM国でも有数の企業を何十社も訪ね、提携を持ちかけてきた。だが、どこからも例外なく断られていた。まさか唯一、話を聞くと言ってくれたのが、国内屈指の大手である陸奥グループだとは思いもしなかった。「でも藤崎社長、陸奥グループはどうして、こんなにすんなりうちに興味を持ってくれたんでしょう。まさか本当は、買収の話を持ちかけるつもりなんじゃ……」そう口にした途端、小春の浮き立った気持ちは少し冷めた。「何を言われるにしても、まずは行ってみないと」千夏はそこまで深く考えなかった。機会は、自分でつかむものだ。戦う前から怖じ気づく理由などない。けれど、そんな千夏でさえ予想していなかった。彼女たちのような新参の会社が相手なら、普通は部長やマネージャークラスが出てくるものだ。しかし会議室に入った二人を待っていたのは、陸奥グループの代表、陸奥誠也(むつ せいや)本人だった。誠也は物静かで、落ち着いた男だった。表情は淡々としているのに、怜司の冷たさとはまるで違う。このとき千夏が怜司を思い出したのは、大学時代、誠也と怜司がA大学経営学部の双璧と呼ばれていたからだった。「陸奥社長」千夏は挨拶を済ませると、相手の時間を無駄にしないよう、すぐに本題へ入り、今回の提携案を説明した。「藤崎さん」誠也が目を上げ、彼女を見た。その瞳には、読み取れない感情が沈んでいた。「提案は確かによくできている。だが、M国には同じくらい優れた提案がいくらでもある」千夏は、そう言われることも想定していた。M国市場で生き残っている会社に、平凡な企業などあるはずがない。利益と安全性を考えれば、条件がほぼ同じなら、誰だって付き合いのある会社を選ぶ。千夏はきちんと笑みを浮かべた。その顔に、敗北感は一切なかった
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第10話
彼女なら信じられる。千夏は昔から、猫や犬を見ると放っておけない性格だった。A大学にも、彼女になついた野良猫が何匹もいた。ある日、キャンパスでいちばん人懐っこい茶トラが車にはねられた。千夏が見つけたときには、すでに誰かが先に動物病院へ運んでいた。それが、誠也だった。それに、藤崎グループのような新参の小さな会社など、誠也にとってはあってもなくても大差ない。利用価値も、ほとんどないはずだった。千夏は、彼には人に言えない事情があるのか、あるいは家から結婚を急かされていて、形だけの妻を探しているのだろうと考えた。どちらにしても、千夏にとって損はなかった。小春は千夏の推測を聞き、うなずいた。顎に手を添え、美しい上司を見つめながら、心の中で思う。本当は、もう一つ別の可能性もあるのではないか、と。けれど千夏の前の結婚を思い出すと、やはり今は仕事に専念したほうがいいと思い直した。午後、千夏は誠也と「デート」をすることになっていた。内容は主に、二人の婚約パーティーについての打ち合わせだった。すでに多くのことを経験してきた千夏でさえ、思わず目を見開いた。「少し、早すぎない?」誠也はラフな服装をしていたが、それでも身にまとった品のよさは隠せなかった。ただ、会社で会ったときよりも、雰囲気はずっと柔らかい。彼は笑っているような、いないような顔で言った。「どうせ形だけだ。早くても遅くても、大した違いはない」千夏は少し考えた。たしかに、そのとおりだった。続いて、誠也は婚約パーティーの進行表を彼女に見せた。隅々まで行き届いた、完璧な内容だった。打ち合わせとは言っても、実際には誠也がすでにすべて手配していた。千夏が気を揉む必要は、ほとんどなかった。ただ、一つだけ引っかかることがあった。「ここまで盛大にする必要ある?どうせ形だけなのに」自分の言葉をそのまま返され、誠也は目元の笑みを深くした。「俺たちにとっては形だけでも、周りにとっては本物だ。陸奥家が初めて開く婚約パーティーだ。きちんと華やかにやるべきだろう」それを聞いて、千夏の疑問は消えた。「ただ……」彼女は唇を軽く噛み、少し申し訳なさそうに言った。「私、マンゴーアレルギーがあるの。マンゴーを使った料理があれば、事前にメニュー
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