Masukそう言いながら、愛莉は沙羅の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きついた。沙羅はこの泣き虫を突き放したくてたまらなかったが、堪えた。智也は外にいる。それに愛莉まで目の前で騒がしくて、ますます苛立つ。――いっそ、このまま倒れてしまったほうが早い。そう計算した次の瞬間、沙羅は本当にそうした。そのままベッドへ、力なく崩れ落ちたのだ。愛莉は目を見開いて固まり、遅れて絶叫した。「パパ!パパ!ララちゃんが倒れた!」入口で玲奈と張り合っていた智也は、その声を聞くなり迷わず部屋へ駆け込んだ。玲奈は病室のほうを見なかった。ただ、智也の切迫した声が聞こえる。「沙羅......!」それに重なるように、愛莉の胸を裂く泣き声。「ララちゃん......!」――結局。夫も娘も、別の女を心配する。さっき智也が何を言っていようと関係ない。玲奈は、智也があの人を気にかけているのを、もう嫌というほど思い知らされた。しかも、愛莉は「腕なんていらない」とまで言った。あの腕は――私が命を削って産んだ体じゃないの?そう思った途端、胸の奥がざわついて、頭が熱くなった。部屋の中の騒がしい声も、もう一秒たりとも聞いていられない。玲奈は立ち上がり、ゆっくりその場を離れた。向かったのは階段室。小さな窓を開け、玲奈は眼下の久我山の街を見下ろす。眩い都会。車の流れ、ネオン、高層ビル――全部がきらきらしているのに、彼女の心だけが石みたいに重い。窓枠にもたれ、吹き込む冷気に髪を乱されながら、玲奈はスマホの動画をぼんやり流した。けれど出てくるのは、別れだの離婚だの、そんな文句ばかり。しまいには「離婚したら子どもは誰にも要らない存在になる」だなんて。うんざりして、玲奈は乱暴に画面を消した。――そして顔を上げた瞬間。目の前に、智也の深い黒い瞳があった。玲奈は湧き上がる怒りを必死に押し込み、少し間を置いてから尋ねた。「......どうして来たの?」智也は階段室の入口に立ったまま言う。「お前がいなかったから。心配になって、見に来た」玲奈が、彼の口から「心配」という言葉を聞いたのは初めてだった。けれど、胸が温まるどころか、疑いが先に立つ。何年も望んだ言葉が今さら叶っても、信じる理由が
【出会った日......?】玲奈は思い出せなかった。けれど不安のほうが先に立ち、すぐ直子に打った。【受け取ったの?】直子から返ってくる。【さすがに受け取れなかったわ。でも須賀君が置き捨てて、そのまま行っちゃったの】玲奈は落ち着かず、指を早めた。【お母さん、そのカードは大事に保管して。数日中に時間を作って、私が返しに行くから】【わかったわ。ちゃんとしまっておくわね】スマホを握りしめたまま、玲奈はもう一度だけ確認する。【ほかに、須賀君は何か言ってた?】直子は隠さず、そのまま返した。【うちへの結納金だと思ってって】その文字を見た瞬間、玲奈は自分が言葉を読めなくなったみたいに感じた。しばらく固まってから、やっと短く返す。【......わかった】画面を消そうとした、そのとき。頭上から低く、掠れた声が落ちてきた。「誰にメッセージしてた?」智也だった。玲奈が顔を上げると、智也は見下ろしている。暗がりに顔が半分沈み、輪郭はぼやけているのに、視線だけが鋭く刺さってくる。動揺を飲み込み、玲奈は平然と答えた。「母に」言い終わるなり、智也が手を差し出す。「じゃあ見せろ」玲奈は眉を寄せる。「見せてどうするの?」それでも智也は手を引かない。「俺に隠し事はするな」玲奈はおかしくなって、返事の代わりに沙羅がいる診察室のほうへ視線を投げた。中から沙羅のか細い嗚咽が聞こえてくる。玲奈は智也に言った。「まず彼女のほうを見てあげたら?」彼女に、玲奈はわざと強く言った。何を忘れてるのか――思い出させるみたいに。それでも智也の視線は玲奈から離れない。「こんなの、ちょっとした怪我だ。少し我慢すればいい」その言葉で、玲奈の体の芯が一気に冷えた。まさか智也が、怪我をした沙羅に対してそんな言い方をする日が来るなんて。この人は――本当に心があるの?玲奈は智也をじっと見た。探るように、見透かそうとして。けれど彼の顔は静まり返っていて、何ひとつ読み取れなかった。いったい、何を考えているのか。一方、診察室の中ではギプス固定が進んでいた。沙羅は汗と涙でぐしゃぐしゃになり、痛みに耐えている。愛莉はそばで見守り、目を真っ赤にしてい
玲奈はわかっていた。智也は潔癖気味で、汚れることを嫌う男だ。それなのに今、沙羅が涙でシャツを濡らしても、彼は少しも嫌な顔をしない。その様子を見て、玲奈はふと考えてしまう。智也が沙羅をそこまで愛していないとしても――少なくとも彼の中で、沙羅はやはり特別なのだろう、と。沙羅を抱えたまま玲奈の横を通り過ぎるとき、智也は足を止めた。そして声を落として言う。「愛莉と手を繋いでやれ」玲奈が答えるより先に、愛莉が首を振った。「いい。パパの服の裾つかんで歩くから」そう言って、愛莉は智也のコートの裾をきゅっと握った。智也はそれ以上何も言わず、愛莉の好きにさせた。玲奈はその場に立ち尽くし、胸の奥が薄く冷えていくのを感じる。もう慣れたはずなのに、やっぱり刺さる。苦い笑いを二つ落としてから、玲奈も遅れて歩き出した。智也は沙羅を助手席に座らせ、丁寧にシートベルトまで締めてやった。立ち上がろうとした瞬間、沙羅が智也の手を引く。眉を寄せ、痛みに耐える顔で呟いた。「智也......怖い」水みたいに柔らかい声だった。人の心を揺らすような、甘い響き。智也は一瞬動きを止め、沙羅を見下ろす。そして頭を軽く撫でて、静かに言った。「大丈夫。大したことじゃない」それでも沙羅の涙は増すばかりで、しゃくり上げながら訴えた。「私......足が悪くなって、歩けなくなったらどうしよう」智也は指で彼女の唇にそっと触れ、言い聞かせる。「心配するな。そんなことにはならない」頬を染めた沙羅が、恐る恐る続ける。「もし......本当にそうなったら、あなた......」言い終える前に、智也が先に答えた。「万が一そうなっても、俺がその先の人生まで面倒を見る」その言葉で、沙羅の表情がすっと落ち着いた。瞳には一気に光が宿る。玲奈がここにいても、勝つのは自分――沙羅はそう確信したのだろう。智也が助手席のドアを閉め、振り返る。玲奈はまだ車のそばに立ったまま、乗る気配がない。「乗れ。愛莉の隣に座れ」玲奈は返事をせず、ドアを開けて後部座席へ滑り込んだ。愛莉は右側に座っている。けれど体ごと前へ傾け、ドアの隙間から小さな手を伸ばし、沙羅の手を握った。「ララちゃん、すごく痛
車に乗り込むと、玲奈は後部座席へ座り、愛莉もその隣に腰を下ろした。二人は左右に分かれ、間にはまるで天の川でも流れているみたいな距離があった。車内は静まり返り、誰ひとり口を開かない。智也はバックミラー越しに、ときおり後ろの妻と娘へ目をやった。――そこにいるのは、家族というより、互いを避け合う他人同士だった。玲奈は窓の外へ顔を向け、流れていく街灯の影をぼんやり追う。けれど心はずっと遠くに漂っていた。智也の条件を飲んだ自分が、情けなくて仕方ない。頬を張り飛ばしてやりたいほどだ。けれど拒めば、智也は別の手で必ずねじ伏せてくる。そうなるくらいなら、最初から承諾したほうがまだマシ――そう結論づけるしかなかった。それにしても、どうして急にこんな態度を取るのか。智也は離婚を待ち望んでいたはずだ。別れれば堂々と沙羅を迎えられるのに。なのに今の智也は、まるで別人みたいだった。この数日も、過去五年も。玲奈は一度も智也の本心を掴めなかった。自分は彼を、何ひとつ理解できていなかったのだ。やがて車が停車した。智也が愛莉を連れて降りると、玲奈も続いて外へ出る。ここは学のいる大学だった。玲奈が、ずっと憧れてきた博士課程。降りた瞬間から、玲奈は周囲の景色に目を奪われた。校内に漂う、濃い学術の空気。胸の奥が静かに熱を帯びる。前を行く一大一小は足早だ。玲奈は急がず、ゆっくりと後ろからついていく。心にあるのは、この場所への渇望だけだった。――三年後には、自分もここに立っていたい。気づけば三人は、沙羅のいる場所へ辿り着いていた。沙羅は階段に腰を下ろし、ズボンの裾を膝の上までまくり上げていた。覗いた脛はすらりと真っ直ぐで、肌は白い。傷口はないが、大きな青あざがはっきり残っている。玲奈は一目見ただけで、おおよその見当がついた。――骨に響いている。たぶん、打撲だけじゃない。しばらく座り込んでいた沙羅は、智也がようやく来たのを見た途端、目を赤くした。次の瞬間には、顔中涙でぐしゃぐしゃだった。沙羅が泣くのを見て、愛莉は胸を痛めたように駆け寄り、そっと首に抱きつく。「ララちゃん、泣かないで。愛莉とパパ、来たよ」沙羅は愛莉を抱き返しながらも、その言葉には答えず
智也は玲奈を見つめた。離婚の意思が揺らがないと分かった瞬間、胸の奥を鋭いもので突かれたようだった。しばらく黙ったあと、智也が口を開く。「離婚が成立するまでに、俺の条件を一つ飲め。そうしたら......きれいに別れてやる」その言い方が妙に改まっていて、玲奈は反射的に昨夜の「もう一度」の話を思い出した。胸の奥が冷える。それでも玲奈は、落ち着いた声で訊いた。「条件って?」煙草はまだ燃え尽きていなかった。玲奈の目が煙で赤くなっているのを見ると、智也は迷いなく煙草を地面に捨て、靴底で二度、強く踏み潰した。そして玲奈の前まで歩み寄り、低く言う。「最後の一週間、昔みたいに暮らすんだ」玲奈は反射的に断ろうとした。だが智也が続けて言葉を重ねる。「この数日だけは、前みたいな扱いはしない。普通の夫婦みたいに、夫としてやるべきことをちゃんとやる。期限が来て、それでもお前の気持ちが変わらないなら......そのときは本当に離婚する」玲奈は乾いた笑いを浮かべ、智也を見上げた。「......何を根拠に信じろっていうの?」智也は淡々と言い返す。「ここまで手続きが進んでる。何が不安なんだ」玲奈は言葉を飲み込んだ。すると智也は、さらに釘を刺すように言う。「ただし、よく考えろ。ここまで来ても、片方が嫌だって言えば、離婚は成立しない」笑っているのに、脅しが滲んでいた。玲奈は顔色を失いながら、それでも問い返す。「そこまでして......私たち、こんなにみっともなくならなきゃいけないの?」智也は視線を逸らし、目を閉じてから、硬い声で言った。「言っただろ。最後の条件を飲めば、きれいに終わらせる」玲奈は彼を見つめた。憎しみが、また一段深く沈んでいく。ここまで壊れているのに、なぜ今さら、理屈の通らないことに執着するのか。――けれど相手は智也だ。やると言ったら、やる男だ。玲奈は苦い笑みを落としてから、静かに言った。「口約束じゃ信用できないわ。......書面を作りましょう。誓約書、交わして」智也は即答した。「いいだろう」その迷いのなさが、玲奈には余計に滑稽だった。智也は続ける。「じゃあ今日から、お前は常に俺のそばにいろ。小燕邸に戻っ
大型犬の姿が完全に見えなくなってから、玲奈はようやく張り詰めていた体の力を抜いた。ゆっくり背筋を伸ばし、振り返って智也と愛莉を見る。すると智也が、どこか嬉しそうに笑って玲奈を見ていた。その笑みの意味に、玲奈は遅れて気づく。――今の玲奈の行動から「まだ俺たちのことが好きなんだ」とでも言いたいのだろう。けれど、そんなふうに思いかけた瞬間、智也は軽く笑って言った。「ほらな。お前、結局まだ俺たちのこと気にしてるじゃないか」玲奈は何食わぬ顔でバッグを肩に掛け直し、智也をまっすぐ見た。「さっきの状況なら、相手が誰でも助けてたわよ」だが智也は引かない。断言するように言った。「でも、咄嗟の行動は誤魔化せない。お前は俺のことも、愛莉のことも、まだ気にしてる」玲奈は思わず笑ってしまった。昔の自分は、どうして彼がこんなに自意識過剰な男だと気づかなかったのだろう。この話で揉める気はない。玲奈はさらりと話題を切り替える。「早く行かないと、沙羅の足、本当にまずいんじゃない?」その言葉に、智也が慌てるより先に、愛莉が顔を上げて不安そうに言った。「パパ、早くララちゃんのところ行こう」智也は愛莉の小さな手を、軽くくすぐるように撫でて笑った。「分かった。行こう」そう言って、智也は愛莉を抱いたまま車のほうへ歩き出す。その背中に向かって、玲奈がふいに声をかけた。「智也。あなたたちは行って。私は......行かないわ」本音だった。もう、あそこへ行きたくない。智也の足が止まり、振り返る。声を低くして言った。「でも、お前さっき一緒に行くって言ったよな」玲奈は二、三メートルほど距離を保ったまま、淡々と返す。「私が行ったら、あなたと沙羅の邪魔になるだけ。デートの邪魔はしたくない」智也は眉を寄せ、すぐに否定した。「デートじゃない。行って、無事か確認したらすぐ帰る」それでも玲奈は譲らない。「でも私は帰りたいの。嫌なことを無理にさせないで」その瞬間、智也の黒い瞳に陰が落ちた。春日部家に、あの男がまだいる――そう思い出したのだろう。掠れた声で、智也が刺すように訊く。「......本当に帰りたいだけか?」玲奈は頷く。「うん」智也は腕の中の愛
買ってきたおかゆを手に病院へ戻ると、愛莉は宮下のスマホで動画を見ていた。何か面白いものを見たのか、顔いっぱいに笑みを浮かべている。「愛莉様、奥様がお戻りです」宮下の声に、愛莉は慌てて画面を消し、ベッドから身を起こして呼んだ。「ママ!」玲奈の寝間着は、もうどこを見ても濡れていた。それでもおかゆを大事そうに抱え込み、冷めやしないか、こぼれはしないかと気を配っていた。差し出しながら言う。「宮下さん、これを愛莉に食べさせてあげて」全身びしょ濡れの玲奈を見て、宮下の胸にじんと痛みが走る。声を出すと、かすれた。「奥様......まずお着替えをなさってください」
拓海は抑え、必死に自制していた。だが、玲奈の言葉はその火に油を注ぐだけだった。胸の奥の炎はますます勢いを増し、彼はもう抑えることをやめた。顔を傾け、強引にその唇を塞ぐ。口の中に流れ込んでくるのは、タバコの苦味とミントの清涼感が入り混じった強い味。圧倒的で荒々しいそのキスは、突風のように彼女の喉奥まで吹き込んでくる。逃れる暇も、声を上げる隙すらなかった。玲奈は顔を仰け反らせ、ただその暴力的な口づけを受けるしかない。必死に腰をつねり、爪が食い込むほどに力を込める。だが彼は眉ひとつ動かさない。むしろ、耐えきれぬ痛みに低い声を洩らした。その声に、玲奈の全身が
智也は、玲奈の背中を見つめながら言った。「小燕邸も......おまえの家だ」玲奈は嘲るように笑い、振り返りもせず答える。「そうかしら?」小燕邸は彼女の家なのか。かつてはそうだったかもしれない。だが今は――決して違う。沙羅が住み込んだ時点で、小燕邸の女主人はすでに玲奈ではなくなっていたのだから。智也はその皮肉めいた問いに応じず、ただ淡々と告げた。「愛莉には、おまえが必要なんだ」玲奈は反射的に拒絶した。「智也、わたしには仕事がある。四六時中、愛莉に張り付いているわけにはいかないの」彼は背中越しに言葉を重ねる。「だが、俺にも仕事がある。おま
駆け寄ってきた娘を見下ろした玲奈の胸に、一瞬ぬくもりが広がった。けれど両手に買い物袋を抱えていたため、ただ優しく声をかけるだけだった。「はいはい。ママ、すぐご飯作るからね」何度も傷つけられてきた娘――それでも母と子の絆だけは、どうしても断ち切れない。愛莉は立ち上がると、気を利かせたように玲奈の手から袋を取ろうとした。「ママ、愛莉も手伝う。持ってあげる」袋は重かった。玲奈は気の毒に思い、首を振った。「遊んでなさい。ママがやるから」だが愛莉は頑なに袋を掴んで離さない。「先生が言ってたよ。お家に帰ったら、お手伝いをするんだって。愛莉、ママに







