LOGIN「智也、愛莉がこんな状態なのに......それでもまだ沙羅を庇うの?」玲奈の声は震えていた。怒りと悲しみがないまぜになり、その瞳には怨嗟の色が宿っている。智也はその視線から逃げるように顔をそむけ、冷えた声で言った。「俺はただ事実を言ってるだけだ。愛莉がどこでインフルエンザをもらったか、お前の言葉ひとつで決めつけられることじゃない。結果はもう出てる。今さら過去を責めて、何の意味がある?」玲奈は胸元を押さえた。そこが、針で突かれたように痛む。深く息を吸っても、苦しさは少しも和らがなかった。「......あなた、いつも私に母親失格って言うけど、あなたは父親としてふさわしいの?」智也の表情がこわばる。「何が言いたい?」玲奈は唇の端を震わせながら、かすかに笑った。「言いたいことなんてないわ。ただ――これだけは覚えておいて。あなたがこの子しかいらないって言うなら、せめて少しは良心を持って育てて」その言葉が空気を裂いた瞬間、病室の扉が開いた。汗をにじませた若い看護師が、カートを押しながら出てくる。「点滴の針、入りました。点滴も始めています。このままご家族の方が付き添ってください。あとで体温を測りに来ますね」玲奈はかすれた声で「ありがとうございます」と答え、病室のドアを押し開けた。智也もその後に続く。ベッドの上では、愛莉がぐったりと枕に顔を伏せていた。泣きすぎて目は真っ赤に腫れ、頬は涙で濡れている。泣き声はもう止んでいたが、小さな肩がまだ時おり震えていた。玲奈はベッドの脇に腰を下ろし、汗で濡れた前髪をそっと撫で上げる。「......少しは楽になった?」愛莉は母の声を聞くと、ぱちりと目を瞬かせた。次の瞬間、また涙があふれた。けれど、何も言わずにただ静かに泣き続ける。玲奈は何も言わず、小さな手を取って見つめた。手の甲には、針のあとが二つ。どちらも赤く腫れ、うっすらと血がにじんでいた。智也もその手を見て、胸の奥が締めつけられた。愛莉の血管が細いのは分かっていた。それでも、ここまで痛々しい跡になるとは――ちょうどそのとき、看護師が体温計を手に病室へ入ってきた。それを見た智也の顔が一瞬で険しくなる。「どういうつもりだ。
玲奈は壁に手をつき、全身の力が抜けていくのを感じていた。心臓は狂ったように早鐘を打ち、呼吸さえままならない。病室の中から、愛莉の泣き声が響いてくる。その声は、胸を裂くような叫びだった。「ママ、いやだ!帰りたい!」その一言一言が、玲奈の神経を針で突くように刺した。――自分の身体から生まれた子どもが、いま苦しんで泣いている。その痛みを、母親が感じないはずがない。隣に立つ智也も、玲奈の震える肩を見つめながら、胸の奥に押し込めた不安と罪悪感に押し潰されそうだった。だが、彼の手が玲奈の肩に触れる前に――玲奈はその手を振り払った。「......智也、触らないで!」顔を上げた玲奈の目は真っ赤に染まり、怒りと悲しみが入り混じった光を宿していた。智也はその目を見て、ゆっくりと手を引っ込めた。言葉を失ったまま、ただ黙って立ち尽くす。病室の中では、愛莉の泣き声が続いている。それが止む気配はなく、むしろどんどん大きくなっていった。玲奈の心は限界だった。耐えていた感情が、ついに溢れ出す。「智也......言ったわよね?あなたがあの子を甘やかせば、いずれ愛莉を苦しめることになるって!なのに、どうして聞いてくれなかったの?」声は震え、涙が次々と頬を伝う。それは怒りでもあり、絶望でもあった。結婚して以来、彼女がここまで取り乱したことはなかった。離婚を切り出したときでさえ、こんな声は出さなかった。今の彼女は、母であり、深く傷ついた女だった。智也は言葉を失い、ただその場に立ち尽くす。いつもの冷静さも、理屈も、すべてが吹き飛んでいた。玲奈の涙は止まらなかった。嗚咽とともに、心の奥の叫びが溢れていく。智也は見かねて一歩踏み出し、抱きしめようとした。だが玲奈は後ずさり、手を差し出して制した。「来ないで!もうあなたの顔なんて見たくない!」智也は眉をひそめ、低い声で言う。「......分かってる。俺が悪いのは分かってる。でもあの日、沙羅が『愛莉に会いたい』って言ったんだ。あの人は入院中で、眠れないほど弱ってた。だから少しでも気晴らしになればと思って......」そこまで言ったところで、智也は口をつぐんだ。玲奈は、涙に濡れた顔で彼を見つめる。
玲奈の胸の奥は、張り裂けそうなほどに乱れていた。医師として働き始めて一年。生と死の境を何度も見てきたはずなのに、それが自分の娘のこととなれば、頭も心も、まるで働かなくなってしまう。冷静でいなきゃ――そう言い聞かせても、心は恐怖に支配されていた。智也は、その怯えを敏感に感じ取っていた。そして、そっと腰をかがめ、彼女の肩を支える。「行こう。......愛莉は大丈夫だ」玲奈の足取りはふらつき、まるで夢の中を歩いているようだった。智也は、その頼りない後ろ姿を見つめながら、胸の奥が痛んだ。そのとき、廊下の奥から一人の若い看護師が駆け寄ってきた。その慌ただしい足音に、玲奈の心臓が再び跳ね上がる。「どうしました?まさか......娘に何か?」看護師が口を開くよりも早く、玲奈は震える声で問いかけた。看護師は慌てて首を振る。「い、いえ、そうじゃありません。お子さん、目を覚ましました!」「......えっ?」玲奈の目が見開かれた。次の瞬間、智也の腕を振り払って病室へ駆け出していた。ベッドの上で、愛莉は確かに目を開けていた。まだ顔色は悪く、体もぐったりとしているが、その小さな瞳が動いている。玲奈はそっとベッドの傍に腰を下ろし、娘の頬を優しく撫でた。「......愛莉、少しは楽になった?」その声は、涙に濡れ、限りなく柔らかかった。だが、愛莉は赤くなった目で玲奈を見つめるだけで、唇を噛み、何も言わなかった。――見たいのは、自分ではない。玲奈には、その沈黙が痛いほど分かった。彼女は静かに席を立ち、代わりに智也へと場所を譲った。智也がベッド脇に座ると、愛莉はようやく声を出した。「......パパ」智也の表情がやわらぐ。「気分はどうだ?ちょっとは楽になったか?」愛莉は小さく頷いた。「......うん。少しだけ」「そうか。......よかった」智也は微笑み、娘の頬を撫でた。「パパがずっとそばにいるからな」愛莉はもう一度小さく頷く。だが智也は、ふと視線を玲奈へと向け、穏やかな声で娘に言った。「......ママには、言わないのか?」愛莉の唇がきゅっと結ばれた。「さっき、お前を抱えてここまで運んできたのはママだぞ。すごく
病院へ向かう車の中で、愛莉の意識はすでに朦朧としていた。玲奈は必死に呼びかけ、これまでの思い出をひとつひとつ語りかける。「愛莉、覚えてる?ママと一緒にアイスを食べた日......」「ほら、運動会で転んでも泣かなかったでしょ?」言葉を重ねるうちに、涙が頬を伝って零れ落ちた。かつては天真爛漫で、笑顔を絶やさなかった娘。今は、同い年の子どもたちともうまく関われず、心を閉ざしてしまっている。――どこで間違えたのだろう。自分が、ちゃんと向き合ってこなかったせいなのか。胸の奥が締めつけられるように痛かった。やがて車が病院に着く。ドアが開くと同時に玲奈は降り、娘を抱き上げようと身をかがめた。その肩を、智也がそっと押しとどめる。「俺が抱くよ。お前はもう十分、頑張った」玲奈は一瞬ためらったが、もう力は残っていなかった。黙って頷くと、智也に託した。智也は愛莉を抱き上げ、急ぎ足で救急外来へ走る。玲奈もすぐにその後を追った。診察室に入ると、愛莉はすぐベッドに寝かされ、血液検査の準備が進められた。高熱のため、医師は緊急で解熱注射を指示する。針が刺さっても、愛莉はぴくりとも動かない。普段はあんなに痛がりなのに――その静けさが、かえって恐ろしかった。玲奈の心臓が早鐘のように鳴る。自分が小児外科の医師であるだけに、事態の深刻さが誰よりも分かってしまう。少しでも処置が遅れれば、命に関わる――そんな最悪の想像を振り払おうとするたび、息が詰まりそうになった。智也も隣に立っていたが、何をしていいか分からず、ただ落ち着かない様子で立ち尽くしていた。専門外の彼には、声をかけることさえ怖かったのだ。やがて検査結果が出て、看護師が呼びに来る。二人は医師のオフィスへ向かった。デスクの向こうで、当直医が眼鏡を押し上げ、カルテから顔を上げる。「お子さんはインフルエンザですね。最近、人の多いところに行かれましたか?」その言葉に、玲奈はすぐ原因を悟った。子どもの免疫は弱い。人混みに出れば、感染するのも当然だ。彼女の脳裏に、あの夜の出来事が浮かぶ。「......病院へ行きました」その一言に、医師の顔が強張った。「病院?どうしてそんな所に!今は季節の変わり目
拓海の表情には、どこか寂しさが滲んでいた。それを見た沙羅は、なぜか胸の奥がすっと軽くなる。だが同時に、焦りにも似た感情が湧いた。「須賀さんのような方、私......実は結構タイプなのよ。スマートで、才能もあって......素敵だもの」沙羅はそう言って、ゆるやかに微笑んだ。まるで無邪気な告白のように。拓海は一瞬、眉を上げた。まさかここまであからさまに誘ってくるとは思わなかった。彼は唇の端をわずかに上げ、わざと淡々とした口調で答える。「男が情を寄せ、女がその気――惜しいな。相手が智也の女じゃなきゃ、俺はきっと、遠慮なく楽しませてもらってたと思うよ」わざと下品に、あえて軽薄に。彼女が怯んで引くのを期待していた。だが、沙羅は頬を染め、視線を伏せながら小声で言った。「......でも実は私、まだ......誰とも経験したことがないの」その一言に、拓海の表情が一瞬だけ止まった。――処女、だと?頭のどこかで、冷静に否定が浮かぶ。「そんなはずない。嘘だ」けれど、ほんの一瞬、迷いが生まれる。もしそれが本当だったら?もし沙羅と智也の間に、本当に何もなかったとしたら?玲奈がそのことを知ったら、離婚を思いとどまってしまうのではないか――その想像が脳裏を掠めるたび、拓海の胸の奥に、抑えようのない焦燥が広がっていった。彼はすでに、玲奈の最初の八年を失った。次の八年までも失う気はなかった。たとえ奪うことになっても、騙すことになっても、懇願することになっても――彼はもう、彼女を離さないと決めていた。傷つけられた彼女を、もう二度と誰にも傷つけさせないために。拓海は、そう信じていた。玲奈を幸せにできるのは、自分だけだと。一方、沙羅は、彼の沈黙を動揺と受け取っていた。やっぱり、私に惹かれている――そんな確信が胸の中でふくらんでいく。「須賀さん......よかったら、連絡先を交換しない?」さらに一歩、踏み込む。挑発にも似た甘い声。拓海は遠い思考の中からゆっくり戻り、彼女の言葉にようやく気づいた。数秒の沈黙のあと、軽く笑って言う。「こんな美人からそう言われて、断るわけにはいかないな」そう言ってスマホを取り出し、彼女の連絡先を登録する。
拓海は人波の中に立っていた。背が高く、顔立ちも整っている彼は、ただそこにいるだけで目を引いた。通りすぎるたびに、誰もが一度は振り返る。そして、今――その注目の視線を浴びながら、拓海の目はただ一人の女性に向けられていた。それは沙羅だった。彼はその姿をじっと見つめ、口もとに薄く笑みを浮かべていた。周囲の女性たちは、彼が沙羅を見ていることに気づき、次々と羨望の眼差しを彼女に向ける。――まるで、選ばれたヒロインのように。沙羅はその反応に、得意げに胸を張った。羨ましがられる心地よさに、優越感がじわりと湧き上がる。確かに、拓海は自分を拒んだ。けれど、そんなの信じられない。この私が、彼の目を惹けないはずがない――そう思っていた。彼女は花のような笑みを浮かべながら、わざと甘い声で尋ねた。「それで......須賀さんの大切な人って、誰なの?」その瞬間、拓海の脳裏に、彼女が灯籠に書いた願いがよぎった。――世界中の男たちがみんな私を好きになって、私のために命を懸けてくれて、そして惜しみなくお金を使ってくれますように。思い出しただけで、吐き気がした。どこからそんな自信が湧いてくるのか。どうして、そんな願いを平気で書けるのか。拓海はかつて、星羅にこう言ったことがある。「お前は、俺がこの世で三番目に嫌いな女だ」それは本音だった。彼が心底嫌った女は、これまでたった三人しかいない。一人目は美由紀――玲奈をいじめた女。二人目は、いま目の前にいる沙羅。彼女は玲奈から智也を奪った。奪っただけならまだいい。それでも智也を本気で手に入れるわけでもなく、中途半端に揺さぶり続けている。そういう女が、拓海は一番嫌いだった。だが――彼の脳裏に、ふと悪戯な考えが浮かぶ。高く飛ぶ女ほど、落ちたときは痛い。拓海はゆっくりと目を細め、淡々と答えた。「俺の大切な人は、玲奈だ。俺は、あいつの言うことしか聞かない」その言葉を聞いた沙羅の笑みが、一瞬だけ固まる。けれど、数秒後にはすぐに表情を整え、作り笑いを浮かべた。「......須賀さん、知らないみたいね。玲奈のこと......」その先に続くのは、玲奈を貶める言葉だと悟り、拓海は彼女の言葉を途中で遮った。「深津さん、あなた