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八年にわたる冷たい結婚生活、去り際は振り返らず

八年にわたる冷たい結婚生活、去り際は振り返らず

By:  逆行する者Completed
Language: Japanese
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弁護士の夫と結婚して八年、彼は一度も私を妻として公表せず、娘に「お父さん」と呼ばせることも許さなかった。 何度も、夫は幼なじみの女性のために娘との時間を犠牲にし、挙げ句の果てには、娘を傷つけたその女性を許した。 私はすっかり心が冷え切り、離婚を決意した。 私は娘を連れて、彼の世界から姿を消した。 けれど、彼は離婚を拒み、狂ったように私たちを探し回った。 しかし、今度こそ、私も娘も、もう二度と振り返らない。

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Chapter 1

第1話

氷室彩葉(ひむろ いろは)は力なくベッドに横たわり、冷たい器具が、鈍く痛む下腹部を滑っていく感触に耐えていた。

「赤ちゃんは……大丈夫ですか……?」震える声で尋ねると、医師は憐れむように溜息をついた。

「切迫流産です。残念ながら……お子さんの心音は、もう聞こえません」

その瞬間、彩葉はシーツを強く握りしめた。心臓が氷の手で鷲掴みにされたように、軋む。

「仮に心音が確認できたとしても、出産は推奨できませんでした。火災で大量の有毒煙を吸い込まれている。胎児への影響は計り知れません」

二時間前──氷室グループ傘下の新エネルギー研究室で火災が発生し、彩葉は開発中の最新チップを守るため、躊躇なく炎の中に飛び込んだ。

チップは守れたものの、彼女自身は濃い煙に巻かれて意識を失ったのだ。

救急室に運ばれた時、体は擦り傷だらけで、下半身からは血が流れ、目を覆いたくなるほどの惨状だったという。

家庭と仕事に昼夜を問わず奔走し、心身ともに疲れ果てていた彼女は、この時になって初めて、自分のお腹に新しい命が宿っていたこと──妊娠二ヶ月だったことを知った。

「あなたはまだ若い。きっとまた授かりますよ」

医師はそう慰めながら、「今は安静が第一です。ご主人に連絡して、付き添ってもらってください」と告げた。

身を起こすことすら億劫な体で、彩葉は夫である氷室蒼真(ひむろ そうま)に電話をかけるのを躊躇った。

二日前、彼は息子の氷室瞳真(ひむろ とうま)を連れてM国へ出張したばかりだ。

「プロジェクトの商談だ」と彼は言っていた。仕事中の彼が、邪魔をされることを何よりも嫌うことを、彩葉は知っていた。ここ二日間、彼からの連絡は一切ない。それほど忙しいのだろうか。

その時、携帯の短い振動が静寂を破った。

画面に表示されたのは、異母妹である林雫(はやし しずく)の名前。

震える指でメッセージを開いた彩葉は、息を呑んだ。

そこに添付されていたのは、一枚の写真。雫が息子の瞳真を抱きしめ、二人で笑顔のハートマークを作っている。そしてその隣には、眉目秀麗な夫・蒼真が静かに座っていた。

結婚写真すら「くだらない」と撮ろうとしなかった彼が、その写真の中では、薄い唇の端をわずかに上げ、滅多に見せない穏やかな笑みを浮かべていた。

その姿は、まるで幸せな三人家族そのものだった。

【お姉ちゃん、今ね、蒼真さんと瞳真くんとミュージカルを観てるの。「ナイチンゲールの歌」って、お姉ちゃんが一番好きな作品よね?お姉ちゃんの代わりに、私が先に観ちゃった!】

チケットは常に完売で、手に入れることすら困難な人気の演目。

いつか一緒に観に行きたい、と何度も蒼真に伝えたが、いつも冷たく突き放されるだけだった。

「今忙しいんだ。それに瞳真もまだ小さい。また今度だ」

……忙しいんじゃなかった。ただ、自分と行きたくなかっただけなんだ。

元々張り裂けそうだった胸に、鋭い杭を打ち込まれたような激痛が走る。

それでも諦めきれず、病室に戻った彩葉は腹部の痛みに耐えながら、蒼真に電話をかけた。

数回のコールの後、低く、それでいて芯のある冷ややかな声が鼓膜を揺らす。

「……どうした」

「蒼真……ごめんなさい、体調が悪くて、病院にいるの。少しだけ、早く帰ってきてもらえないかな……?」彼女の顔は蒼白で、声には力がなかった。

「こっちはまだ商談中だ。戻るのは二日後になる。家のことは山根に任せろ」蒼真の態度は、どこか冷めていた。

彩葉はスマホとを握りしめる。「……ねえ。もしかして、雫と一緒にいるの?」

その問いに、蒼真の声は露骨な苛立ちを滲ませた。「彩葉、そんな詮索に何の意味がある?もう五年だぞ。雫は妹のようなものだと何度も言ったはずだ。仮に一緒にいたとして、それがどうした。

最近のお前は、仮病まで使って同情を引こうとするようになったのか?」

「パパ、声大きいよ!僕と雫の邪魔しないでよ!」

電話の向こうから、瞳真の高い声が響いた。「もうママなんてほっときなよ!本当にうざいんだから!」

彩葉が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。

ほんの少しの時間すら、彩葉のために割いてはくれない。

がらんとした病室で、彼女は布団を固く握りしめ、体の芯から冷えていくのを感じていた。

三日後、彩葉は無理を言って退院した。

研究開発部の仕事が、まだ山のように残っていたからだ。

特に今回の新製品発表会は、蒼真も期待を寄せている。そして自分にとっても、この二年間心血を注いできたプロジェクトを、成功させたかった。

夕方、疲れ切った体を引きずってブリリアージュ潮見の自宅に戻ると、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。

息子の瞳真と、雫の声だ。

胸がどきり、と嫌な音を立てる。彩葉はとっさに身を隠し、鉢植えの影からリビングの様子を窺った。

ソファには、氷室父子の間に座る雫の姿があった。テーブルの上には、バースデーケーキ。そして彼女の首には、赤いルビーのネックレスが輝いていた。それは某高級ブランドの世界限定品だ。

先月、ショーウィンドウで見かけて心惹かれたものの、目を見張るような値段に諦めた、あのネックレス。

それが今、雫の胸元を飾っている。

「蒼真さん、素敵なプレゼントをありがとう。すごく嬉しいわ」雫はペンダントに優しく触れ、潤んだ瞳で男の端整で凛々しい顔を見つめる。「でも、こんな高価なもの……これからは無理しないで。気持ちだけで十分嬉しいから」

蒼真は淡然とした表情で言った。「金などどうでもいい。お前が喜んでくれるなら、それが一番だ」

「ねえねえ雫、お目々閉じて!」瞳真がはしゃいだ声で言った。

雫が素直に瞳を閉じると、瞳真は小さな手で、色とりどりのクリスタルが繋がれたブレスレットを彼女の腕に通した。

「もう開けていいよ!」

「わぁ、綺麗!」雫は驚きの表情を見せた。

瞳真はへへっと笑い、頭を掻く。「これね、僕が一つひとつ選んで、糸に通したんだ。雫への誕生日プレゼント!」

「ありがとう、瞳真くん。一生大切にするわ」雫が身をかがめて瞳真の額にキスをしようとした、その時。

瞳真は自ら顔を上げ、ちゅっ、と音を立てて雫の頬にキスをした。

瞳真は父親に似て、どこか冷めた子供だった。実の母親である彩葉にさえ、ほとんど懐こうとしなかったのに。

自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、雫はこんなにもたやすく手に入れてしまう。

嫉妬と絶望で、胸の奥がキリキリと痛んだ。

瞳真はキラキラした目で雫を見つめ、真剣な顔で言う。「雫は体が弱いから、これからは僕とパパが守ってあげる。だから安心してね」

「ふふっ……ありがとう。頼りにしてるわね」雫は恥じらうように頬を染め、ちらりと隣の男に視線を送る。

蒼真は切れ長の瞳を細め、自らケーキを一切れ切り、雫の手に渡す。

血の気が、すうっと引いていく。立っていられなくなりそうだった。

全身全霊で愛した夫は、他の女の誕生日を祝い、命がけで産んだ息子は、母親からすべてを奪った女を守ると誓う。

彩葉は、赤く染まった目で静かに笑った。そして踵を返すと、五年もの間自分を縛り付けた結婚という名の牢獄から、毅然と歩み出した。

自宅の外は、冷たい雨が降っていた。

全身ずぶ濡れになりながら、彩葉は道端に立ち、久しぶりにかける番号を呼び出す。電話の向こうから、懐かしい声が聞こえた。

「お嬢!お久しぶり!元気か?」

「えぇ、元気よ」彼女は微笑んだ。その美しい瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っていた。

「離婚することにしたの。だからお願い、離婚協議書を用意してちょうだい。なるべく、早くね」
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第1話
「古賀(こが)主任、今までご指導いただき、本当にありがとうございました。この恩は一生忘れません」私は退職願を古賀主任に手渡した。古賀主任はそれを受け取って中身を見ると、驚いたように私を見つめた。「仕事を辞める?」私はうなずき、落ち着いた口調で言った。「仕事を変えたいんです。もう弁護士のアシスタントはやめようと思って。子どものお父さんが海外にいるので、会いに行くつもりです」古賀主任は一瞬固まり、思わず口をついた。「お子さんのお父さんは亡くなったのかと思った……」彼はすぐに自分の失言に気づき、気まずそうに笑って言った。「ごめんなさい、言い間違えた」その後、名残惜しそうな顔で私を引き止めようとした。「もったいないなあ。本当に優秀なのに。できれば、このまま続けてほしいんだけど」私は首を振って断り、薄く微笑んだ。実は、子どものお父さんは死んだも同然だったし、私がどれだけ優秀でも、所詮はただのアシスタントだった。私は古賀主任に丁寧にお礼を言い、退職を了承してもらったあと、同僚たちと業務の引き継ぎを始めた。給湯室で、私はネイトと彼の幼なじみであるセレナが親しげに話しているのを見かけた。ネイトはこの法律事務所の創設者で、私の上司であり、娘のお父さんでもある。八年前、私は入社してすぐに彼のアシスタントになった。あるパーティーの夜、私は酔った勢いで彼と一夜を共にし、子どもを授かった。それがきっかけで彼と結婚したが、それは「秘密の結婚」だった。彼は私のことが好きではなかった。娘のことも同様で、「お父さん」と呼ばせることすら許さなかった。一方、セレナは彼の幼なじみで、二人は深い絆で結ばれていた。座っている二人は、まるで恋人のように親密だった。セレナはネイトの腕にからみつき、全身で彼に寄りかかっていた。ネイトは彼女に向かって優しく微笑み、その表情は、私の角度から見るとまるで額にキスしているようだった。オフィスでそんなことをするなんて、もはや常識を逸脱している!私はつい我慢できず、彼のあだ名を呼んでしまった。「ネイト……」彼は冷たい目で私を見て、疑問を投げかけた。「安井さん、何か用?」公私をわきまえた口調で、私がただ彼のアシスタントに過ぎないことを伝えている。彼の真面目な顔には、距離感がはっ
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第2話
翌日、私は一人で娘の運動会に参加した。お父さんが来なかったのを見て、娘は悔しそうに泣いた。娘が生まれてからずっと、ネイトは一度も彼女の成長に関わってこなく、親子イベントに一度たりとも顔を出さなかった。私がそばで応援し、娘は一等を取っても、喜べなかった。子どもにとって、お父さんにそばにいてもらえないことは、「愛されていない」と同じなんだ。帰り道、娘はずっと私に聞き続けた。「お母さん、お父さんは私のこと好きじゃないの?」「お母さん、明日の誕生日のお祝い、お父さんは来るの?」私は何も答えられなかった。娘の期待を裏切りたくなくて、私は何度もネイトにメッセージを送った。無数のメッセージを送りつけた末、彼はようやく返事をくれた。【誕生日パーティーには行くよ】そのメッセージを見て、私は驚きと喜びで娘を見つめた。「もちろん、お父さんは来るよ」娘は歓声をあげ、飛び跳ねて喜んだ。私はほっと胸をなでおろした。結婚してから初めて、私の上司であるネイトが、お父さんとして娘の誕生日に付き合う意思を見せたのだ。夜、娘と私はテーブルにつき、ネイトを待っていた。テーブルにはネイトの好きな食べ物が並べられていた。娘は前もって、普段認めてはいけない社長であるお父さんの好みをしっかり覚えていたのだ。娘はドアの前で立ったり座ったり、夜中の十一時五十分まで待ち続け、ようやく泣きそうな顔で私の方へ歩いてきた。私はネイトに何度も電話をかけ、メッセージを送ったが、返事は一つもなかった。彼がまた約束を破るのだと、私はわかっていた。「お母さん、お父さんは忙しすぎるみたい。もう待つのはやめよう」娘は急に大人びた言葉を口にしたが、その目には深い失望が浮かんでいた。私は悲しみを押し込めて、娘を抱きしめた。「もう少しだけ待ってみようか?」娘は首を振り、もう待ちたくなかった。私は娘の頬に強くキスをした。お父さんの愛は与えられないけれど、お母さんの愛はしっかりと感じさせてあげたい。私は一人で娘の誕生日を祝った。ろうそくの灯りで、娘は目を閉じて願い事をした。私は娘の願いを聞かなかったが、彼女がお父さんの愛を切望していることはわかっていた。だが、その夜、私たちは二度とネイトの名前を口にしなかった。娘が眠ったあと、
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第3話
ネイトが内容を見ようとしたその時、スマホが鳴った。電話の向こうからは、セレナの慌てた、怖がる声が聞こえた。「ネイト、お腹がすごく痛いの……すぐ迎えに来てくれない?怖いの……」「すぐに行くよ」彼は急いでセレナをなだめ、離婚協秘書の内容を確認することなく、ペンを手に素早く署名し、慌ただしく立ち去った。私は彼の背中を見ながら冷ややかに笑った。この家は、もう終わりだ。午後、ネイトからメッセージが届き、娘の誕生日プレゼントを宅配便で送るように伝えられた。私はそれを開けてみると、人形だった。私は呆然とした。昨年の会社の団体レクリエーションで、私は娘を連れて参加した。しかし、セレナは私に隠れて娘をお化け屋敷に連れて行き、恐ろしい人形に娘は大泣きした。セレナは面倒くさがり、娘をお化け屋敷に一人で一時間も置き去りにした。私たちは会場中を探し回ってようやく娘を見つけたが、彼女はすでに気絶していた。目を覚ました娘は、セレナがわざと彼女を置き去りにしたと指摘した。しかし、セレナがきっぱりと否定した。ネイトはセレナをかばい、娘に「変な考えをするな」と言った。それ以来、娘は人形を見ると悪夢を見るようになった。それなのに、今、ネイトは人形を誕生日プレゼントとして贈ってきた。なんてひどいお父さんだ。私はこっそりとそのプレゼントを取り替えようと思ったが、娘はすでに見てしまった。夜、ネイトは帰宅すると、突然私に言った。「セレナをしばらく一緒に住まわせようと思う」彼は当然のように言い、続けて冷たく命じた。「俺たちは秘密の結婚だ。彼女には俺と君の関係を知られたくない。君と娘は先に引っ越して、距離を置け」「つまり、私たちを追い出して、セレナと家でイチャイチャするつもり?」ネイトは眉をひそめ、不機嫌な口調で言った。「余計なことを言うな。ただの一時的なことだ。俺たちの関係は公にできない。君の身分がまだ俺には釣り合わないから」私は冷笑して何も言わなかった。つまり、彼の目には、私と娘は最初から世間に知られてはいけない厄介者だったのだ。私は怒りのあまり反論する気も失せた。心が疲れ果てた。もういいや、諦めよう。私が不機嫌そうな顔をしていると、彼は突然柔らかい口調になった。「数日後には君たちを迎えに行く。そした
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第4話
「社長おじさん、この間はいろいろお世話になった」私は信じられない思いで娘を見つめた。娘は誇らしげに顔を上げ、涙で目が潤んでいるけれど、こらえて泣かなかった。隠し婚の八年間、ネイトは私たちの関係を一度も公にしなかった。私は彼を支え、起業を助け、弁護士業界での地位を築き、娘も産んだ。それでも彼は隠し婚を貫き通し、事業のためだと言った。娘は彼の血のつながった子なのに、ネイトは娘に「お父さん」と呼ばせることさえ拒んで、いつも「おじさん」と呼ばせていた。今では娘も彼の意向に従い、「おじさん」と呼んでいる。「お母さん、私たちはもう邪魔しないで」娘はそう言って私の腕を引き、私を連れて歩き出した。私は素直に頷いた。どうせいずれは離れるんだから、今出て行っても同じだ。私は彼にはもう何の期待もしていなかった。私は娘を連れて去った。その時、ネイトが追いかけてきて、私たちの行く手を遮った。「荷物を持ってないだろう」私は彼をまともに見ず、断った。「もう必要ないです」その荷物にはあまりにも多くの思い出が詰まっていた。今捨てるということは、過去のすべてを捨てるという意味でもあった。「でも沙耶香(さやか)の生活用品くらいは、少し持っていったほうがいいだろ?」彼は娘を見ながら言った。娘はうつむいて黙り、私の背中に隠れた。「これは私たちの問題です。社長には関係ありません。心配しすぎだと思いませんか?」ネイトは言いよどみ、複雑な眼差しで私を見つめた。彼はしばらく躊躇した後、ポケットからカードを取り出して娘に手渡し、言い聞かせた。「沙耶香、外で暮らすなら、何か足りなければこれで買いなさい。カードの暗証番号は沙耶香の誕生日だ」そして彼はセレナが抱えていたチョコレートの箱を取り上げ、娘に渡した。「そうだ、これが沙耶香の好きな味だ。昨日は誕生日に付き合えなかったから、今日はこのチョコレートをお詫びの代わりにあげるよ」そう言って、チョコレートを無理やり娘の手に押し込んだ。私は娘の目にわずかな喜びの色が浮かぶのを見て、一瞬ため息をついた。子どもだから、なだめられればすぐに機嫌が直る。子どもは大人の事情を知らないから、私はあまり干渉してはいけない。娘はチョコレートを受け取り、瞳を輝かせながら一粒を慎重に剥が
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第5話
退職手続きを終えた後、私は法律事務所を去った。ネイトに会いたくもなければ、別れの挨拶もしたくなかったので、私は離婚協議書を宅配便で彼に送った。あとは彼が目を通してサインするだけで、私たちは夫婦じゃなくなる。ネイト、さようなら。あなたと愛する人が末永く幸せでありますように。私は娘を連れて海外へ行くつもりだったが、娘が私の決断を責めるのではないかと不安で、慎重に尋ねた。「沙耶香、お母さんとお父さんは別れることになったよ。これから海外で暮らすけど、悲しくないの?」娘は首を振り、大人びた様子で私の頬にキスをした。「お母さんがいればそれでいいよ。沙耶香はずっとお母さんのそばにいる。お母さんが幸せになってほしいの」私は感情が崩れ、涙があふれたが、心の痛みは一瞬にして消えてしまった。娘がいるだけで、この世界の全てを手にしたような気がした。男なんて、どうでもいいわ。私は過去のすべてのことを許し、受け入れた。私は海外で農場を見つけ、娘と新しい生活を始めた。日々は心地よく自由だった。以前、事務所で仲の良かった同僚がいて、毎日昼食を一緒にし、彼女とは噂話を共有する間柄だった。私が去った後も、彼女はよくボイスメッセージや動画を送ってきて、世間話を共有してくれた。ある日、彼女はセレナに関する動画を送ってきた。再生すると、ネイトの冷たい顔が映り、どこかぼんやりしていて、不安そうに見えた。彼は退職願を手に持って、今まさに二ページ目をめくって名前を確認しようとしていた。その時、セレナが彼の後ろに来て、退職願を奪い取り、脇に投げ捨てた。「これはネイトの求めている案よ」セレナは書類をネイトに差し出し、顔も彼に近づけ、そして彼の手を握った。しかしネイトは冷静に手を引いた。ネイトは少し苛立って、目をそらしていたように見えた。彼は案を受け取り、目を通した。数ページ読んだ後、眉間にしわを寄せた。「この案には目新しい点がない。うちの弁護士が他社の法務担当になる際の役割が明確に書かれておらず、責任回避の条項もないんだ」彼は背筋を伸ばし、真剣な口調で問題点を指摘した。「しかもうちの事務所の名前すら間違えている。これは基本中の基本で、弁護士の厳密さを示すものだ。どうしてこんなミスも犯せるんだ?」読み進めるに
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第6話
オフィスのドアは開いたままだった。その光景を目にしたみんなは思うところがあっても口に出せず、沈黙が広がった。ネイトの顔はひどく険しく、追いかけもせず、重くソファに寄りかかり、疲れた様子で額を揉んだ。ネイトは事務所の責任者で、セレナは部下だった。しかし、セレナは上司であるネイトに対して不機嫌な態度を取り、私情を仕事に持ち込んでいた。だから彼は不機嫌だった。同僚は私に「さあ、面白い話を教えてあげる」と言わんばかりに、セレナの能力不足を嘲笑し、コネで楽して昇進しようとしていると愚痴っていた。同僚はまた、ネイトがどれだけの間セレナに耐えられるかと賭けまでしていた。私は同調せず、笑顔の絵文字一つでやり過ごした。実は以前、私はよくネイトに叱られたが、彼が私に仕事の能力を上げてほしいだけだとわかっていた。だから私は教訓を受け入れ、努力して改善した。昔、高校までしか通えなかった私は両親を亡くし、学歴もなく、生きるために清掃員として働いていた。その頃、私は苦労を厭わず、給料を上げるために法律を独学し、ネイトにくっつき回って勉強していた。彼は最初、私を嫌って拒否したが、私は低姿勢で教えを乞い続けた。昼も夜も、私は法律の勉強に没頭した。一年間の厳しい勉強を経て、私はついに実力がつき、彼が出す法律の難問にはすべて対応可能になった。その時、彼に「頭がいい」と褒められ、私は一晩中嬉しくて眠れなかった。彼から任された仕事を早く終わらせるため、私は長時間の徹夜も重ね、胃を悪くしたこともあった。やがて、私は彼のそばで最も優秀なアシスタントとなった。私はずっと彼を支え、誰にも注目されなかった事務所を有名にした。たとえずっと彼に能力を軽視されても、私は努力を惜しまなかった。しかし、あのパーティーの酔っ払い事件が、その穏やかな関係を壊した。彼はずっと私がわざと酔って彼を誘惑したと疑っていた。彼は酔いから覚めた後、何も覚えていなかった。だが、彼は私が妊娠したと知ってから、私が彼の妻になろうと必死に尽くしたことを責め続けた。前のすべての賞賛は責めに変わった。以前あれほど私を評価していたのに、今ではネイトはそれと同じくらい私を嫌うようになった。子どものために私たちが結婚したが、彼は私に愛を持たず、冷たく接した。彼の理想の女性
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第7話
ネイトは仕方なくため息をつき、諭すように言った。「皆は君を罵っているわけじゃない。ただ注意してくれているんだよ」「『頭が悪い』、『浅はかで自己中心的』って言われるのは罵倒じゃないの?私が反論するのは何が悪いの?ネイトも助けてくれないし」セレナは悔しそうに泣き出し、子供のようなわがままを吐き出した。ネイトは頭を抱え、顔には呆れが浮かんだ。彼はどうしようもなく、どんなに怒ってもライブ配信で爆発できず、歯を食いしばって我慢するしかなかった。「もういいよ、俺が悪かった」彼はそれ以上話すのを避け、ライブ配信を終了した。私は思わず笑ってしまった。せっかくのライブ配信がセレナのせいで罵声の嵐になり、ネイトというプロの弁護士の面目も丸つぶれだった。今回のひどいライブ配信は、間違いなくネット上で批判を浴びるだろう。やがて、ネット上に批判の声が続出した。みんながセレナの品性のなさを嘲り、以前アシスタントを務めていた私の賢さと仕事の腕前、そして卓越した解説ぶりを懐かしんでいた。さらに多くのネットユーザーが、ネイトに私を呼び戻すよう求めていた。しかし、どんなに騒がれてもネイトは無視を決め込んだ。後日、同僚がその日のライブ配信終了後の様子を撮影した動画を送ってきた。セレナがネイトの胸に飛び込んで泣き崩れた姿は映っていた。ネイトが失望してセレナを突き放し、意味深な一言を言った。「君は賢い人だと思っていたが、実は愚か者だった。全く空気が読めず、ますますつまらなく、度を越している」そう言うと彼はセレナを置いて、逃げるように去った。私は驚いた。彼はセレナを嫌いになったのか?理想の女性の魅力は、もう消えてしまったのだろうか?だが、彼がセレナとどう付き合おうが、私にはもう関係なかった。私はスマホに残っている自宅の監視カメラアプリを開き、メモリをクリアして、そのアプリをアンインストールしようとした。以前のクラウドには娘の動画が保存されていたので、私は一つずつダウンロードした。ふと、リアルタイムの監視映像でネイトが帰宅したのを見つけた。彼は酔っていて、歩くのもふらついていた。「雪乃、胃が痛い。スープを作ってくれ」彼は大声で私の名前を呼んだが、誰も返事はしなかった。彼は部屋を見回し、誰もいないのに気づき、私
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第8話
古賀主任はため息をつき、続けて言った。「そうですよ!彼女を引き留めようとしたのですが、彼女の態度が固くて、夫を探しに行くと言うから、仕方なく私は承知しました」ネイトの顔色は真っ黒くなり、目には怒りが燃え、スマホを握る手の甲には血管が浮き出た。やがて彼は自嘲的な笑みを浮かべた。「彼女に他の夫がいるなんて、どうして知らなかったんだ?」古賀主任は言葉に詰まった。「どうして彼女の辞職を認めたんだ?俺は責任者だ。辞職は俺の承認が必要で……」ネイトは怒りに任せて叱責した。「お父さん、誰と電話してるの?まだ寝ないの?」しかし、電話から子供のはっきりした声が聞こえると、ネイトの饒舌はぴたりと止まった。「もうすぐだよ、いい子にしててね、すぐ寝ようね」古賀主任の声は優しく、背中を叩く手の音もかすかに聞こえた。ネイトは呆然とした。数秒後、彼はゆっくりと電話を切り、悟ったように独り言をつぶやいた。「実は、俺にも家庭がある。でも、どうやら失くしてしまったらしい」その夜、ネイトは地面に座り込んだまま一晩中過ごした。彼は険しい表情で考え込んでいたが、その眼差しには葛藤と苦悩の色が濃くにじんでいた。夜が明けて、彼はやっと起き上がった。靴箱の上に置かれた宅配物を見ると、足を止めた。好奇心から開けると、彼の目には苦しみの色が浮かんだ。それは、私が彼に送った離婚協議書だった。彼は何日も前に受け取っていたが、ほったらかしで一度も開かなかった。まるで、彼が退職願を見ようとした時にセレナに邪魔され、それを横に投げ捨てたあの日のように。彼の両手は力なく滑り落ち、書類は床に落ちた。離婚協議書の大きな文字が彼の目に鮮明に飛び込み、二人の離婚合意の署名もはっきり見えた。彼は壁にもたれて地面に座り込んだ。気付けば、目頭が熱くなっているのを感じた。「雪乃、君は本当に俺から離れるんだな」私は彼の悲しげな様子に驚いた。彼は私を愛していなかったのでは?なぜ今は傷ついているように見えるのか?恐らく、彼は私が去るとは思っていなかったのだろう。私がいなくなり、戸惑っているのだ。確かに、私は長年彼に付き添い、彼にとってはもはや付属品のような存在だった。失って初めて、その重みを知ったのだろう。その時、誰かが外からドアを開け
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第9話
ネイトは真剣な表情で、氷のように冷たい目で、はっきりと返した。「嘘はついていない。俺は彼女に惚れた。雪乃に会いに行くよ」そう言うと、彼は力強くセレナを押しのけて去っていった。私は監視カメラを切り、呆然としてから、思わず笑った。恋愛って、本当に冗談みたいなものだ。まさか知らず知らずのうちに、離れられなかったのは私ではなく、彼の方だったなんて。彼は海外へ行き、私を探しに来る。彼は、私がそばにいた時に大切にしてくれなかったのに、私が離れて初めて、私の価値に気づいたのね。しかし、それに意味はあるのだろうか?海外。朝、私はいつも通り娘を学校に送り届け、家に帰っては花に水をやり、野菜を育てていた。正直なところ、ネイトには感謝してる。彼が経済的にケチじゃなかったおかげで、今私は毎月のんびり暮らせるだけの老後資金があった。私が花に水をやっていると、目の前に背の高い影が現れた。体がこわばり、誰が来たのかすぐに察した。「雪乃ちゃん」そんな親しい呼び方に、私は全身が震えた。ネイトが来たのだ!私は振り返って彼を見ると、彼のやつれた姿に驚いた。髪には何本か白髪が混じり、顎には長いひげまで生えていた。事務所の噂好きな同僚によると、私が去った後、ネイトはまるで狂ったかのように私を探していた。国内はもちろん、ほとんど世界中を探し回ったそうだ。それでも、歳を取ったとはいえ、彼はやはりイケメンだった。昔、私はその顔に騙されたのだ。誰も知らないかもしれないが、私が面接を受けたのは、毎日彼に会いたかったからだ。彼に一目惚れだった。しかし、私は見た目もよくなく、学歴も低く、家柄もなかった。私にあるのは、彼への純粋な愛だけだった。私は愛を抱いて彼に必死でついていき、多くの苦労をし、ようやく彼のそばに立てた。彼のそばにいるという強い意志で、彼の右腕となった。しかし、彼は一晩で私を奈落の底に突き落とし、私を八年間も孤独にした。この八年間、私は失望し、苦しみ、そして諦めた。私は薄く笑みを浮かべ、隣の椅子を指差した。「座って」彼の目はぱっと明るくなり、私のそばに歩み寄って座った。私はお茶を注ぎ、差し出した。彼は両手で受け取り、視線はずっと私に釘付けで、声はやや沈んでいた。「もう君に無視さ
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第10話
「なるほど、私があなたの心の中では、ずっと計算高い女だったのね」しかし、私は失望していなかった。むしろすべてを見透かしていた。彼はあんなに誇り高い男だった。女のために本当に頭を下げるわけがない。「ネイト、あの夜、私こそが被害者だったって、考えたことはないの?」彼が一歩ずつ迫るたびに、私は一歩ずつ後ずさった。私が逃げ場がなくなり、壁にもたれかかった瞬間、彼は足を止め、不思議そうに私を見つめた。「どういう意味だ?」私は何も答えず、ただあの夜の記憶に引きずり込まれていった。ネイトが酔っぱらって、私は彼を支えて部屋に連れて行った。彼の服を脱がせ、布団をかけてから、振り返って部屋を出ようとした。しかし、ドアの前で彼は私の腕を掴み、私をベッドに投げつけると、そのまま覆い被さってきた。彼の意識がもうろうとしているのに、顔は真っ赤で、瞳には熱い欲望が宿っていた。彼が薬を盛られたのだと私はすぐに悟った。私は必死に抵抗し、逃げようとしたが無理だった。女の体力が男に勝てるはずがない。彼は素早く私の服を脱がせ、薬の影響で迫ってきた。私は彼のことが好きだったが、そんな形で彼を手に入れたくはなかった。だが、事は既に起こり、後は受け入れるしかなかった。しかし彼は何も覚えておらず、目覚めて私の裸を見ては、私をベッドから蹴り落とし、恥知らずと罵った。私は彼が夜のことを忘れていると知っていた。彼が意図的に私を傷つけたのではないと自分に言い聞かせた。だがこの八年間の無視や傷つけは、明らかに意図的だった。「話せ」私が黙っていると、彼は催促した。「真実を知りたいなら、自分で調べろ」私は急に真実を明かすのが嫌になった。「ネイト、もう過去のことよ。これからは私の生活に関わらないでほしい。感謝するわ」そう言い放ち、私は表情の重たくなった彼を押しのけ、寝室へ向かった。ネイトは去った。去り際に私の寝室に来て一言言った。「たとえ訴訟になっても、俺は離婚に同意しない。八年前の真実も必ず調べる」私は彼が調べるかどうかには関心がなかった。彼が去ると、私のプレッシャーも消えた。私は海外での生活を続け、娘との大切な時間を過ごしていた。離婚訴訟も進め、何度も却下されたが、私は諦めなかった。時間が経つに
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