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さよなら、昨日の私たち
さよなら、昨日の私たち
作者: アカリ

第1話

作者: アカリ
海外で8年過ごした後、私は特別なオファーを受けて帰国した。ある研究会での発表を終えた後、まさか、そこで元カレの新井真司(あらい しんじ)と再会した。

真司は、よりを戻したいと言って、私にプロポーズしてきた。

その場にいた研究所の元同僚たちは一斉に囃し立てて、私が感動しながらプロポーズを受けるのを期待していた。

なぜなら彼らは皆、私がかつて真司のためなら全てを投げ出せるほど、彼のことを愛していたのを知っているから。

でも、彼らは8年前、あの新製品の発表会で、真司が冷たい顔で私のプロポーズを断ったことを忘れてしまったみたい。あの時、真司は可愛がっていた後輩に賞をとらせるために、大勢の記者の前で、私がその後輩の研究成果を盗んだと濡れ衣を着せたんだ。

私は必死で潔白を主張したけど、真司が用意した完璧な偽りの証拠のせいで、どうにもならなかった。

真司は、その後輩がメディアを操作して、私をネット中で攻撃するのを黙って見ていた。

私が何年も頑張ってきた研究は、私の黒歴史になった。そして、長年育んできた恋は、笑いものになったんだ。

あの日から、私は海外へ逃げるようにして国を離れるしかなかった。

それなのに今、私の目の前で、真司は指輪を手に片膝をついている。爽やかな笑顔で、こう言ったんだ。「もう全部、過去のことだ。俺はもう怒ってないからさ。せっかくお前も戻ってきたんだし、結婚しよう」

でも真司は知らない。私がもう、結婚しているなんて。

----------

「清水さん、そんなに意地を張らないで。新井さんは、清水さんが国内に戻ってきたって聞くやいなや、研究所の仕事も放り出して飛んできたのよ。彼の心にはまだ清水さんがいるのよ」

「清水さんがいなくなってからも、新井さんは清水さんの研究所に鍵をかけて、毎日欠かさず掃除して、誰も中に入れなかったのよ。新井さんはこんなに一途なんだから。それに、男性の方から復縁を切り出すなんて、ちゃんとその気持ちを受け止めてあげなきゃ」

……

口々に真司との復縁を勧めながら、内心ではこの状況を面白がっている元同僚たち。私は彼らを一瞥し、目の前でよりを戻そうと言ってくる真司に視線を向けた。

なんだか不思議な気持ちになった。

彼らは、まるで示し合わせたかのように記憶喪失にでもなったのかしら。昔、真司が私にした仕打ちをすっかり忘れているようだった。でも、それ以上に不思議だったのは、8年も経ってから真司がプロポーズしに来たことだ。

私がいなくなった後、真司はすぐに後輩の谷口美咲(たにぐち みさき)と結婚するものだとばかり思っていた。

まさか、二人がまだ一緒になっていなかったなんて。

まあ、もう私には関係のないことだ。この数年で新しい家庭を築いたことはもちろん、そうでなかったとしても、私は彼にすっかり失望してしまったから。

私は期待に満ちた真司の顔をちらりと見て、微笑んだ。「あなたがまだ私との結婚を考えてくれていたなんて光栄だわ。でも、結婚はだめよ。

もう何年も前のことだし、あなたのことなんて、すっかり忘れていたから」

私の言葉が終わると同時に、周りがざわついた。

真司は信じられないといった目で私を見つめ、しばらくして、震える唇で「そんなはずない」と呟いた。

周りの人たちも同じ反応で、ひそひそ話をした後、私がまだ意地を張っているだけだと勝手に決めつけたようだ。

そこへ、真司の後輩である美咲がやって来た。美咲は真司の背中をなだめるように優しく叩くと、私に向かって微笑みかけた。「優里(ゆり)さん、前のことで怒っているのは分かっている。でも、仕事は仕事、恋愛は恋愛だわ。ごっちゃにしちゃダメよ」

美咲の言葉に、私は思わず吹き出してしまいそうになった。

8年前、真司も全く同じことを言っていたからだ。

大学院を卒業したばかりの頃、私と真司は同じ研究開発会社に応募した。結果は、私がトップで合格し、真司はわずかの差で不合格だった。

すっかり落ち込んでしまった真司。その姿を見ているのが辛くて、私は会社にこう伝えた。「もし真司を採用しないなら、私も内定を辞退します」と。

会社側は私を手放したくなかったのだろう。それに、真司の成績も採用するには十分だったこともあり、最終的には特別措置として二人とも採用されることになった。

その後、真司は監査部に異動になった。研究所での規則違反などを監督する部署で、ある意味、私たちの上司のような立場だった。

最初、真司は喜んでいた。でもある日、真司は頬杖をついて、悩ましげにこう言った。「お前は俺の彼女だろ?もしお前がルールを破ったら、俺は見逃すべきか、それとも正直に記録すべきか?

お前を見逃せば、職務怠慢になる。でも、正直に記録してお前が減給されたり、怒られたりするのを見るのも辛い。俺たちの関係に影響が出そうで、心配なんだ」

真司が真剣に悩んでいるのがおかしくて、私は笑ってしまった。真司を困らせるようなことはしないから大丈夫だと伝えたけど、それでも彼は不安そうだった。

そこで、私たちは約束を交わした。

仕事とプライベートはきっちり分ける。絶対に公私混同はしない、と。

最初は、二人ともその約束をきちんと守っていた。でもある日、ご飯を食べている時に、真司が美咲の履歴書を私に押し付けてきた。

真司はわざとらしく目をぱちぱちさせながら言った。「お前の部署、今年の採用枠がまだ一人空いてるんだろ?ちょうど、こっちに優秀な後輩がいるから推薦するよ。礼には及ばない。お前の悩みを軽くしてやっただけだからな」

普段は私の仕事になんて全く興味を示さない真司が、部署の欠員の話をするなんて。しかも、採用枠が一人空いていることまで知っている。

不審に思って美咲の成績を調べてみると、7科目中5科目が不合格という散々なものだった。

私はためらうことなく、その推薦を断った。

「仕事で冗談はやめて。この人の経歴じゃ、採用基準に全然達してないわ」

でも、真司は引き下がらなかった。「座学が苦手なだけで、頭は良いんだ。とにかく採用して、一度チャンスをあげてみてくれよ」

そんな無責任なことはできないと伝えると、真司は口を曲げて言った。

「でもこの人は、俺を何度も助けてくれたんだ。前にバスケで怪我した時もそうだ。お前はチケットが取れなくて来られなかったけど、この人が薬を買ってきて世話してくれた。俺の彼女として、感謝の気持ちはないのか?」

真司が不機嫌になっているのは分かっていた。でも、私は少し考えた後、はっきりと彼に言った。

「この人には、今度時間を作ってお礼に食事でもご馳走するわ。でも、仕事は別。会社の採用規定に合わない人を、コネで入社させるなんてことはできない。

それに、私たちは公私混同しないって約束したでしょ?」

真司はカッとなって、箸をテーブルに叩きつけ、勢いよく立ち上がった。「ルールなんて建前だろ。優里、お前はどうしてそんなに頭が固いんだ?

それに、この人を一人雇ったくらいで会社が潰れるわけでもない。なんで一度チャンスをあげようと思わないんだ?

最後にもう一回だけ聞く。採用するのか、しないのか?」

真司の怒った顔を見ると、心臓がバクバクして、不安でたまらなくなった。

でも結局、私は、「採用は……できない」と答えた。

私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、真司はテーブルクロスを掴んで力いっぱい引っぱった。

スープや料理が飛び散り、お皿は床で粉々になった。

陶器の破片が頬をかすめて、生温かい血が流れるのを感じた。でも真司はそれを見てもいないふりで、私を睨みつけると、そのまま出て行ってしまった。

真司があんなに激しく怒ったのは、それが初めてだった。

あの日、どんなに怖い思いをしながら部屋を片付けたか、もう覚えていない。私が悪かったのかもしれない、謝ろうか、などと考えていると、真司は何事もなかったかのように鼻歌まじりで帰宅した。

私の顔を見るなり、真司は優しい声で説明し始めた。「ごめんな、優里。最近仕事のストレスがすごくて、つい感情的になっちゃった。怖かっただろ?」

真司が折れてくれたことで、張り詰めていた私の心もようやく落ち着いた。

あの日の私の言い方は、少しきつすぎたのかもしれないと、反省し始めた。

真司の部署では近々昇進のチャンスがある。彼だって上を目指したいだろうから、ストレスが溜まるのも仕方がない。

私がもっと理解してあげるべきだったんだ。

真司の仕事のストレスを発散させて、二人きりの時間も過ごせるように、私はわざわざ休日の旅行まで計画した。

これで一件落着で、真司も諦めてくれたと思っていたのに。まさかそのすぐ後に、美咲が私の部署に入って来るとは思ってもみなかった。
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