LOGIN橋の中央付近が、限界に近づいているのがわかった。
コンクリートに走るひび割れが、どんどん広がっていく。欄干の一部は、すでに川に落ちていた。
影の狼たちが、そのひび割れを踏み越えて走るたび、橋全体がゆらゆらと揺れる。
「……やば」
思わず声が漏れる。
向こう側にいる警官たちも、危険を感じたのか、一時的に引き下がっていた。
その隙に、私は橋のたもとまであと数メートル、というところまで辿り着いていた。
「ナギ!」
また、名前を呼ばれる。
振り返ると、カミヤが、橋の真ん中でこちらを見ていた。
狼の姿のまま。血まみれのはずなのに、銀色の光がそれを全部覆い隠して、まるで月の化身みたいに見えた。
「行け!」
彼が、叫ぶ。
「ここで止まったら、全部意味ねえ!」
「でも——!」
涙が、視界をぼやけさせる。
「一緒に——」
「無理だ!」
少女の足先が、ぎりぎりのところで地面を探す。 靴の底が、小石を蹴った。 からん、と、頼りない音が闇に吸い込まれていく。 落ちる。 このままだと、落ちる。 分かっていたのに、俺の体は、その一瞬、動かなかった。 殺し合いには慣れているくせに。 人間を、死から引き戻す距離感は、いまだに掴めない。 ほんのわずかな間。 それでも、崖縁にいる人間には致命的になり得る間。 少女は、ふっと目を閉じた。 まぶたの裏側に、何が浮かんでいたのか。 俺には見えない。 けれど、その表情は、あまりにも静かだった。「――ここでなら、誰にも見つからずに消えられるかな……」 自分に言い聞かせるような声。 祈りとも、呪いともつかない響きが、夜気の中に溶けていく。 その静けさが――逆に、何かを刺激したのかもしれない。 人間の本能か。 それとも、俺の中にいまだ残っている獣の本能か。 脳裏のどこかが、甲高い警鐘を鳴らした。 ――ダメだ。 言葉にならない警告が、背骨を走る。 足が、勝手に前へ出た。 伸ばした手が、宙を切る。 あと一歩、遅い。 その時だった。 静まり返った山道を、別の音が切り裂いた。 ドオオオオオオッ!! 爆音。 耳が痛くなるほどの、エンジンの咆哮。 直管マフラーの、品のない暴力的な音。 トンネルの向こう側から、光が飛び出してくる。 いくつも。 ばらばらに揺れながら、こちらへ近づいてくるヘッドライト。 その眩しさに、少女のまぶたがびくりと震えた。
トンネルの入口が見えたとき、もう一つ――想定外のものが見えた。 ガードレールの外側に、影。 細い。 折れそうなくらい、細い。 少女が、夜風にさらされるように、ガードレールの向こうに立っていた。 肩までの髪が、月明かりを吸い込んで、灰色に見える。 制服のスカートが風に揺れて、膝のあたりでかすかに震えている。 こんな時間に女子高生。 こんな場所で女子高生。「……はぁ」 ため息が、勝手に出た。 よりによって、今夜か。 とはいえ、見なかったふりをするほど、俺は人間嫌いでもない。 そういうふうに生きようとした時期も、昔はあったが、結局――目の前に「落ちるもの」があれば、手を伸ばさずにはいられない。 どれだけ、めんどうでも。 原付のスピードを落としながら、視線を少女に向ける。 その横顔は、月光に削り出されたみたいに白かった。 頬に血の気がまるでない。 目は、遠くの何かを見るように、焦点があやふやだ。 あの目を、俺は知ってる。 何百年も前から、いろんな顔で、いろんな時代の人間たちがしてきた目だ。 諦めと、疲れと、期待されることへの恐怖。 そして――かすかな、解放への憧れ。 原付を彼女の少し手前で停めると、エンジン音が、静寂を切り裂いた。 少女が、ゆっくりとこちらを振り向く。 その瞳は、思ったよりも若かった。 若いくせに、老けていた。 十六、七。 なのに、三十年は生きてきたみたいな沈んだ色をしている。 ガードレールの外側。足元は、すぐ下りの斜面だ。 踏み外せば、夜の山にそのまま飲まれていくだろう。 俺はハンドルから手を離し、ヘルメットを脱いだ。
原付のエンジンが、坂を上がるたびに情けない悲鳴を上げる。 深夜零時を少し回った頃だった。 月齢は十日。満月にはほど遠いが、山の稜線をなぞるように、白く薄い月光が差している。 山道は、街灯もまばらだった。 アスファルトはところどころひび割れて、路肩の雑草がそこから侵食している。 ガードレールは錆びつき、曲がりくねった道の向こうは、闇しかない。 こういう道には慣れている。 俺の旅は、だいたい人があまり通らない場所を選んで続いていくからだ。 風が頬を切る。 夏の終わりかけの夜は、さほど寒くはないはずなのに、体温とは別の冷たさだけが肌に残る。 ふと、胸ポケットを指先で確かめた。 薄くなったタバコの箱と、折りたたまれた小さなメモ用紙。 それから、こすれて色あせた小さな御守り。 ――思い出すのは、あの橋と、落ちていく月の光。 前輪が小さな段差を踏み、ハンドルがかすかに揺れた。 意識を前に戻す。「んだよ……」 坂がきつくなる。 原付のエンジン音が、不吉なくらい高くなった、その時だった。 プシュッ。 気の抜けたような音とともに、後輪あたりから鈍い衝撃が伝わってくる。 次の瞬間、重さのバランスが崩れた。「……チッ」 反射的にクラッチを切り、ブレーキをかけて停車する。 脇に寄せ、スタンドを立てると、夜の静寂が一気に押し寄せてきた。 虫の声。 遠く、見えない沢を流れる水の音。 それ以外は、何もない。 携帯を取り出してみるが、案の定、電波は圏外だった。「運がねぇにもほどがある」 独り言を零して、しゃがみ込む。 後輪に手を当てると、
朝の海は、夜の顔とはまるで別人だった。 昇りかけた太陽が、海の表面を金色に塗っていく。さっきまで冷たかった潮風も、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。 原付のエンジン音が、静かな国道に小さく響く。 前にカミヤ。後ろに私。「落ちんなよ」「落ちないよ」 彼の背中に腕を回して、しっかりとしがみつく。 ジャケット越しに伝わってくる体温は、人間と変わらない。でも、その奥に潜んでいる「何か」を、私はもう知ってしまっている。 風が、髪を後ろに流す。 潮の匂いと、ガソリンの匂いと、カミヤの匂い。 全部まとめて、胸いっぱいに吸い込んだ。「ねえ、カミヤ」 エンジン音に負けないように、少し声を張る。「ん」「最初に会った時、私のことどう思った?」「路地で囲まれてた時か」「うん」「面倒くせえ女だなって思った」「失礼」「事実だろ」「でも、助けてくれた」「見なかったことにするには、目の前の光景が目立ちすぎてた」「そういう言い方、ほんとズルい」 背中越しに軽く拳で叩くと、彼は苦笑した。「逆に、お前はどう思った」「え?」「俺のこと」「それ聞く?」「聞く」「ずるい」「さっきからずっとずるいって言われてるな、俺」「自覚して」 少しの沈黙。 風が、二人の間をすり抜けていく。「……最初はね」 私は、空を見上げた。「また変な男に絡まれたって思った」「ひでえな」「だって、路地の入口でこっちじっと見てたし」「あれは様子を見てたって言うんだよ」「結果助けてくれたから、許す」「上から目線だな」「ナンバーワンキャストだからね」
同じ頃——。 別の倉庫街の一角で、複数のライトが一斉に点いた。「動くぞ!」 久我山警部の声が飛ぶ。 黒い防弾ベストを纏った警官たちが、一斉に走り出した。盾を持った者、破壊用のツールを持った者、銃を構えた者。「対象倉庫、突入!」 破壊用のハンマーが、固いシャッターを叩き、鍵の周辺を歪める。 同時に、別ルートから特殊部隊が忍び込む。 倉庫の中では、複数の人影が動揺していた。 白い粉の入った袋。怪しいラベルの瓶。パレットに積まれた段ボール。 その中央で、電話を耳に押し当てている男が一人。 賀茂玄悟。 ふくよかな体つき。金の縁の眼鏡。笑うと歯茎が見える——はずの口は今、ひどく強張っていた。「どういうことだ、堂前。何が——」 その言葉が終わる前に、倉庫の扉が破られた。「警察だ! 動くな!」 怒号と共に、ライトの光が一斉に差し込む。「くそっ——!」 堂前が叫び、スタンガンを掴んで一人に飛びかかろうとする。 だが、その前に背後から押さえつけられた。「堂前恒一、覚醒剤取締法違反の容疑で——」 矢代もまた、隅で震えていたところを、すぐに見つかった。「や、やめてくれ、俺は、俺は——!」「売人矢代恒一、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕する!」 叫び声と金属の音が混ざる。 久我山警部は、その混沌の中で、ただ一人冷静に周囲を見回していた。「薬物の押収! 帳簿と電子機器の確保急げ! 証拠はここに全部あるはずだ!」 その目には、かつて部下を薬で失った男の、執念にも似た光が宿っていた。 ——ほどなくして。 サイレンの光が、別の倉庫街にも差し込んだ。「……終わったのか」 三門巡査部長が、静かな足取りで歩いてくる。 そこにはもう、黒い影の狼たちの姿はなかった。 夜の闇に溶け、最初
その時。 足元の影が、爆ぜた。『——待たせたな、主人!』 闇から、黒い狼が飛び出した。 一匹。二匹。三匹。四匹。五匹。 全身が黒い毛に覆われ、目だけが赤く光っている。だが、その赤は、怒りではなく、意志の色だ。 クロが、先頭で吠えた。『やっと暴れられる!』「遅ぇぞ」 カミヤが、口の端で笑う。「主が呼ばんからだろうが!」 クロが、時雨に飛びかかる。 時雨は、咄嗟に後退する。 銀の刃が閃き、クロの輪郭を切り裂いた。だが、影でできた身体は、形を崩しながらも再び収束する。「……影を操る、か」 時雨が、僅かに目を見開いた。「聞いていた。だが、実際に見るのは初めてだ」「油断したな」 カミヤは、ゆっくりと立ち上がる。 切り裂かれた腱が、満月の光と影狼たちの存在に刺激されるように、じわじわと再生を早めていく。 満月は、彼にとって「毒」であり、「薬」でもあった。「——行け」 カミヤの一声で、五匹の影狼が一斉に動いた。 一匹が正面から。二匹が左右から。残り二匹は、足元と背後から。 時雨は、退いた。 退きながらも、攻撃の手は緩めない。 足元に飛びかかってきた一匹の影狼の前足を、銀の刃で切り裂き、その反動で脇腹を斬りつける。 影が、裂ける。 だが、消えない。『ガウッ!』 別の一匹が、時雨の手首に噛みついた。 ナイフを握っている方の手首だ。 影でできた牙は、獲物を前にして質量を持った凶器へと変わる。 肉を裂き、骨を軋ませる、明確な物理攻撃。「ぐっ……!」 一瞬、ナイフの動きが止まる。 その隙に、クロが背後から跳びかかった。







