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第1章・第3話:「あんたしか、いないから」

作者: 銀狐
last update 公開日: 2026-05-16 06:07:10

「……は?」

「な、なんだよ、これ……」

 背後の男たちが、慌ててポケットから何かを取り出そうとした。たぶん、さっき黒川が見せたようなナイフか、それ以上のもの。

 だけど、彼らが武器を抜くより早く。

「殺すな」

 フードの男が、短く言った。

 それだけで、狼たちの耳が、ぴくりと一斉に動く。

「骨は折っていい。深くは、噛むな。血もあんまり出すな」

「——は?」

 狼たちが、同時に動いた。

 真っ黒な影が、風より速く、黒川たちに飛びかかる。牙が閃く。けれど、それは皮膚を裂かず、そのすぐ手前で止まる。

 代わりに、体当たりのような一撃が、男たちを容赦なく吹き飛ばした。

「ぐっ——!」

 黒川の身体が、駐車場の隅のフェンスに叩きつけられる。金属がきしむ音。彼は、苦悶の声をあげて、ずり落ちた。

「腕が——ッ!」

 別の男が、地面を転がりながら叫ぶ。狼の前足が、その背中を押さえつける。体重だけで、息ができなくなっているのがわかった。

 それでも——。

 血は、一滴も流れていなかった。

 骨が砕ける鈍い音が、夜気の中に響くたび、私の背筋がひゅっと強張る。目を逸らしたくなる。でも、見てしまう。

 狼たちは、楽しんでいるわけでも、怒っているわけでもなく、ただ淡々と「仕事」をこなしているようだった。

 私は、呆然と立ち尽くしていた。

 目の前で起きていることが、現実だなんて、にわかには信じられなくて。

 フードの男が、こちらを一瞥する。

「……見なかったことにしろ」

 無表情のまま、そう告げられた。

 その瞬間。

 胸の奥で、何かが決壊した。

「……やだ」

 自分でも、驚くほどはっきりした声が出た。

 彼の眉が、わずかに動く。

「は?」

「見たし。見ちゃったし。無理だし」

 言いながら、足が震えているのがわかる。それでも、止まらなかった。

「ていうか、助けてくれたら、黙ってる!」

「はあ?」

「助けてくれなかったら、警察行く! さっきの全部、言う!」

 こんなわけのわからない人外じみた存在を、警察がどこまで信じるかなんてわからない。でも、そう言うしかなかった。

 だって——。

「私、家にも帰れないし、ここにいたら、この人たちにまた捕まるし。だから、あんたが責任取ってよ!」

 自分でも何を言っているのかわからない。

 でも、言葉はもう止まってくれなかった。

「飛び降りても死なないくせに、人助けくらいできないわけ? 狼とか呼び出してボコボコにするくせに、女子高生ひとり守れないわけ? 意味わかんない!」

 駐車場のどこかで、誰かが呻いた。「じょ、女子高生……」とかいう情けない裏返った声。

 どうでもよかった。

 フードの男は、呆気にとられたように、私を見ていた。

 狼たちが、主人の反応を伺うように一瞬だけ動きを止める。けれど、黒川たちのうめき声が再び大きくなると、彼らはまた淡々と押さえつけに戻った。

 夜の空気が、湿って、熱くて、重い。

 汗と、血の匂いになりかけたものと、アスファルトの焦げた匂い。

 そんな中で、私は、彼から目を逸らさなかった。

「た、頼むから……。助けてよ」

 最後の一言は、ほとんど、泣き声だった。

 フードの下で、男の薄い唇がわずかに動く。

「……なんで」

「え?」

「なんで、俺なんだよ」

 静かな問い。

「他を当たれ。俺は、お前に関わる気は——」

「だって、あんたしか、いないから」

 息が詰まるような静寂。

 こんなセリフ、漫画やドラマの中だけだと思っていた。実際に口から出てきた自分の言葉に、私自身が一番驚いている。

 でも、それが、たぶん、本当の気持ちで。

 さっきまで「誰も助けてくれない」って絶望していたこの世界で、唯一、私を「この場」から救ってくれた存在は、目の前の彼だけだったから。

 彼は、ゆっくりと息を吐いた。

 夜風が、彼のフードを少しだけめくる。髪は黒くて、少し長い。うなじのあたりにかけて、綺麗な曲線を描いている。

「……めんどくせぇ」

 ぼそっと、そんな言葉が漏れた。

 その瞬間、足元の影から立ち上がっていた狼たちが、一斉に身体をしならせる。黒川たちを押さえつけたまま、口を閉じる。

 彼は、面倒そうに首を回してから、私のほうに歩いてきた。

 コツ、コツ、とスニーカーの足音が近づく。

 距離が縮まるにつれて、彼の匂いがわかった。夜風と、鉄と、ほんの少しだけ、血のような——でも嫌な感じではない、生暖かい匂い。

「名前は?」

「……ナギ」

「名字」

「城ヶ崎……城ヶ崎凪」

「城ヶ崎ナギ」

 彼は、私の肩を片手で掴んだ。黒川とは違って、その手は思ったよりも熱くて、大きかった。

 熱が、皮膚から骨の奥にまで伝わる気がして、心臓がドクンと跳ねる。

「俺の名前は、狼谷。カミヤだ」

「カミ、ヤ……」

 人間の名前のはずなのに、「狼」の字が頭に浮かぶ。

 彼は、うっすらと笑ったような、笑っていないような、曖昧な表情をした。

「見たこと、黙ってる代わりに——」

 そこで、言葉を切る。

「お前のトラブルに、巻き込まれてやる」

「……ほんとに?」

「いちいち確認させんな。嫌なら、今この場で置いてく」

「嫌じゃない!」

 即答だった。

 自分でもびっくりするくらい、迷いがなかった。

 狼谷は、肩に置いた手を離し、駐車場の隅に停めてあった黒い原付のほうへと向かった。さっきまで、そこに誰かがいたような気がするが、もう人影はない。

 鍵を回すと、エンジンが静かに唸る。

「乗れ」

「え、でも——」

「つべこべ言ってる暇はねえだろ。こいつら、完全に黙らせたわけじゃねえ」

 彼が顎で示した先では、黒い狼たちが、まだうめき声を上げる男たちを押さえていた。意識はある。目はぎらぎらとこちらを睨んでいる。

 このままここにいたら、どうなるか。想像するまでもない。

 私は、慌てて原付の後ろに跨った。トートバッグを肩から前に抱え込む。

「落ちんなよ」

 狼谷が、短く言って、アクセルをひねる。

 咄嗟に、私は彼のパーカーの裾を掴んだ。握った感触は、思ったよりもしっかりしていて、安心するような、余計にドキドキするような、不思議な気持ち。

「しっかり掴めって。落ちたら洒落になんねぇからな」

「……うん」

 おずおずと、私は、裾から腰のあたりに手を移した。そこは、硬い筋肉と、薄い布の感触。

 背中越しに、彼の体温が、やけにはっきりと伝わってきた。

「行くぞ」

 原付が前に飛び出す。

 夜の風が、顔に叩きつけられる。さっきまで、逃げ場のない暗闇に押し潰されそうだったのに、今は——。

 夏の夜の匂いが、胸いっぱいに広がった。

 信号の赤と青と黄色の光が、流れるように視界を横切る。ビルのネオンが、遠ざかっていく。

 後ろを振り向く余裕はない。でも、なんとなくわかった。

 さっきまでいた駐車場と、狼たちと、私を捕まえようとした男たちと——そして、さっきの私自身とは、もう、戻れない場所になったんだって。

「ねえ、狼谷」

 原付のエンジン音に負けないように、声を張る。

「なんだ」

「ありがとう!」

 数秒の沈黙。

 それから、小さく舌打ちする音。

「礼は、全部片付いてからにしろ」

 彼の言葉はそっけないのに、背中越しの体温は、少しだけ、さっきよりも近く感じた。

 夏の夜風が、二人の間をすり抜けていく。

 こうして、私と人狼(カミサマ)の、逃避行の夏が始まった。

 ——そのときの私は、まだ知らなかった。

 この夏の終わりに、彼を失うことを。

 そして、その後もずっと、私の影に、小さな狼が寄り添って歩くようになることを。

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