LOGIN昔から父は厳しい人間だった。いつも完璧を求められて、褒めてもらった記憶はない。
私のことを簡単に認めてくれないことも、嫌というほど知っている。けれど陽向が秘書を妊娠させた件は、もう私だけの問題ではない。南雲グループの名誉を傷つける醜聞だ。
陽向のことを知れば、父は私の側に立ってくれるはずだ。実家へ向かう車の中で、私はまだ愚かにもほんの少しだけ期待していた。
しかし、私は間違っていた。リビングのソファに座る実父・南雲厳一郎(げんいちろう)は、私の報告を聞き終えるなり手にしていた本を乱暴に机に叩きつけた。
「実にくだらない! 婚約破棄など私は絶対に認めないからな!」
「くだらない……? 彼は、二週間後に私との挙式を控えながら、自分の秘書との間に子どもまで作ったのですよ。南雲家の婿養子になる男が外で不貞を働き、おまけに妊娠させていたなんて、我がグループの泥を塗る行為です。南雲のブランド価値を失墜させることに繋がると思いますが……!!」
淡々と言い返す私が面白くないのか、父の歪んだ顔は怒りでみるみるうちに赤黒く染まっていった。
「黙れ!やっと後継者が見つかったと思ったのに……そもそも、陽向君の心を掴めなかったお前に責任があるとは思わないのか。男の遊びの一つや二つをいちいち根に持つなんて……これだからお前は……!」
「遊びの一つや二つ?妊娠までしてその言い方はないのではないですか?それに、南雲グループの後継者なら私がなるって再三……」
「黙れ、身の程を知れ!!」
リビングの重苦しい空気を切り裂くような父の鋭い怒号が響き渡った。 あまりの圧に言葉が喉に張り付く。父は冷酷に目を細め、私という存在そのものを値踏みするように見下した。
「後継者は代々、男がなるものだと決まっている。女のお前には最初から無理だと何度言ったら分かるんだ。どれだけ夜遅くまで働き、いくら数字を出そうがお前の努力など所詮は女の浅知恵。評価されるのも、お前が『女』だからだ。そんなことも分からないから、お前は陽向君に飽きられたんじゃないのか」
南雲グループの一人娘として、幼い頃から父の跡を継ぐことを夢見てきた。 しかし、「女だから」という理由だけで、どれだけ実績を上げても父から一度も認めてもらったことはなかった。挙句の果てに、三年前に陽向を後継者とするために結婚を命じて、それ以降、私が立てた事業計画は、すべて陽向の実績として処理された。
父は今、私の努力のすべてを「女の浅知恵」と切り捨て、浮気をされた原因は私にあると言い放ったのだ。父は最初から私の成すことを「所詮、女だから」と考え評価する気もなかったのだ。
「いいか、お前の役目は南雲家を私の代で終わらせないための、優秀な男を南雲家に迎え入れるただの器にすぎないんだ。それなのに、その唯一の役目すら果たせないなんて、まったく……実に愚かで哀れだな。黙ってすべてを受け入れるくらいの器量の大きさもないのか」
――愚かで哀れ。 実の父親から投げつけられたあまりにも残酷な侮辱の言葉。
しかし、私の心は不思議なほどに冷え切っていた。 頬を殴られるよりも深く私のプライドは抉られている。けれど、だからこそこの男に対する情も、失望すらも、今この瞬間に綺麗さっぱり消え失せた。
(父として尊敬していた時期もあるけれど、これが本音なのね……私は、ただの『器』?馬鹿にするのもいいかげんにしてよ)
私が軽蔑をこめて冷酷な視線を父に向けた、その時だった。リビングの扉が開き、二人の人物が中に入ってきた。
「失礼します。お義父様、突然すみません」
「夜分遅くにお騒がせして申し訳ありません……」
顔を上げると何故かさっきまでホテルで祝杯を挙げていたはずの陽向と結愛がいる。
(なんでホテルにいるはずの二人がここにいるの?……それにもう夜十一時よ?こんな時間に会長の家に訪ねてくるなんてどうかしている……)
「おお、よく来たな。……陽向君も来てもらってすまなかった」
不審に思う私とは違い、先程まで激高していた父はそんな様子など一切見せずに二人を歓迎している。
「いえ、とんでもない。ただ、英玲奈がホテルのレストランに乱入して大声で話しかけてきたんです。仕事の打ち合わせだと言っても聞かず、他の客もいるというのに周囲の迷惑も考えられないなんて……お義父様、英玲奈は僕や周りの人間の言うことは全く聞きません。ですので、お義父様から英玲奈に言ってほしくて……」
もうすぐ私と結婚するとはいえ、今はまだ陽向とは赤の他人だ。まだ義理の親でもない婚約者の父親に向かって、この男は自分の非を顧みずに私を異常者扱いするなんて……
「……何を言っているの?そもそも自分たちが何をしたか分かって言っているの?」
いくら父でもここまで私の事を侮辱されたら陽向に怒り狂うだろう。もしかしたら父の方から陽向の本性を知って見限るかもしれない。しかし、そんな期待はすぐに裏切られることとなった。
「……英玲奈、いいかげんにしろ!」
父の怒号が私の言葉を遮りこの場を支配する。なぜ陽向ではなく怒号の矛先が私なのか、訳が分からず思考はしばらく停止したままだった。
「陽向君は裏切ったのではない。お前に見切りをつけて結愛を選んだんだ。……お前は捨てられたんだよ」
「どういうこと……何を言っているの?」
父は結愛の肩を優しく抱き寄せると、私に向かって最悪の真実を告げた。
「紹介しよう。結愛は、お前の妹であり私の実の娘だ」
陽向side何の具体策も打たないまま月日だけが過ぎ、新規事業部は日を追うごとに恐ろしい勢いで赤字を垂れ流し続けていた。だが、惨状はそれだけに留まらなかった。急激な円安の波と原価高騰の波及は、新規事業部だけでなく海外からの素材調達に依存していた南雲グループの他部門にもじわじわと広がり始めていたのだ。今の南雲には英玲奈のようにリスク管理を行い、調整や指揮を取ることができるほど力を持つ人間は不在だった。決算の数字が固まるにつれ、社内には重苦しい空気が立ち込めている。 南雲グループ全体が、初となる巨額の赤字へと転落しそうなのだ。「陽向君……!これは一体どういうことだ! 新規事業でグループを牽引するどころか、全社的な赤字に陥るなんて……! 役員たちや株主になんと言い訳をすればいいんだ!」あれほど俺を褒め称えていたにも関わらず、社長室で義父である厳一郎が顔を真っ赤にして怒声を上げている。俺は、役員会議で何度も言ってきた言葉を呪文のように繰り返す。「社長、お言葉ですが、今回の赤字は歴史的な円安という世界的な社会情勢が原因です。他社も同様に苦しんでいる以上、一概に解決策を取れるものではありません」「言い訳を聞いているんじゃない!南雲は新規事業の失敗で他
陽向side「南雲副社長、例の二期目における為替対策を含めた事業計画書ですが……提出の期限を過ぎておりますが、進捗状況についてお聞かせ願いたいのですが」副社長室で書類に判を押していた俺の元にベテラン役員が強気の姿勢で俺に歩み寄ってくる。この前の役員会議で皆の前で恥を書かせたあの役員だ。「分かっている……。私は南雲グループ全体の指揮を執っていて多忙を極めているんだよ。現場の経営判断というものは、拙速に行うべきではない。為替の動向や市場のデータを慎重に見極めているところだ」「……慎重に、ですか。ですが原価の高騰は待ってくれませんよ」「そんなこと言われなくても承知している。出来たら連絡するからそれまでは何も言うな」そう言って追い払ったものの、俺は内心冷や汗でヒヤヒヤしていた。 言い訳をして時間を稼いでいたものの、当然ながら俺の頭の中に解決策など一つも浮かんでいない。為替リスクヘッジ? サプライチェーンの再構築? 専門用語を聞くだけで頭が痛くなる。(クソッ……! なんで俺がこんな苦労をしなきゃいけないんだ。英玲奈みたいに勝手に動いてくれる奴さえいれば、こんなことにはならなかったのに&hel
陽向side部下である新規事業部の部長に丸投げして無理やり作らせた二期目の事業計画書。あの役員会議での醜態から一か月が過ぎ、「これでなんとか形にはなった」と俺は胸を撫で下ろしていた。 だが、そんな俺を嘲笑うかのように次々と悪夢が襲いかかる。わずか二か月の間に、為替相場は一気に1ドルあたり20円も暴騰したのだ。英玲奈がこの新規事業を立ち上げた当初には想定されていなかった歴史的な為替の激動だった。為替変動の影響というものは恐ろしい。 製品の売上や契約自体が消えるわけではないが、海外から調達している部材の輸入原価だけが、タイムラグなくダイレクトに響いてくる。製品を日本で取り扱っている我々は、契約を履行すればするほど、原価率が圧迫されて会社の手元に残る利益が削り取られていくのだ。そして、まだ事業を開始して歴が浅いこの部門は、原価率上昇に耐えられるだけの利益のプールなど何もなかった。このままの状況が続けば、新規事業部は期待の事業から一転して負債を生みだすお荷物事業として冷ややかな視線を浴びることだろう。世界情勢が原因で、俺のせいではないが、赤字事業を指揮するなんてイメージが悪い。「——というわけで、南雲副社長」緊急で開催された役員会議の場で、役員が冷ややかな目線を俺に向けて放った。
陽向side「事業計画書の事なんだが、事業の責任者は君だ。それに君は私以上に現場サイドの管理職や社員の声を把握できる立場にある。君には期待しているからこそ、この二期目の事業計画書の作成は君に任せたい。これは君にとっても、大きな成長の機会になるはずだ」数日後、再び俺の元に訪ねてきた事業部長に対して、包み込むような笑みを浮かべて語りかけた。「ありがとうございます。……ですが副社長、我々現場のデータだけでは、経営層としての判断基準や市場の将来予測までは……」「大丈夫、君ならできるさ」不安げに言い淀む事業部長の肩をポンと叩き、「俺は、部下の挑戦を応援したいんだ。上がってきた計画書は俺が確認するから、まずは思い切って作ってみてほしい。これが評価されれば、君の出世にも大きく影響するだろう。期待しているよ」「……はぁ。承知いたしました。全力を尽くします」事業部長はどこか納得のいかない様子ながらも、深く頭を下げて部屋を出ていく。その姿を冷めた目で見送っていた。(フッ……単純な男だ。『期待している』と一言添えるだけで簡単に仕事を引き受けてくれる。英玲奈がいなくても、こうやって
陽向side結愛が男の子を出産した翌月、株主総会の決議案が無事可決され、義父からの『出産祝い』として、俺と結愛への株式譲渡の割合が大幅に引き上げられた。これにより、南雲家における俺の立場と発言権は一気に強まっていったのだった。新規事業もうまくいっており、社内でも高評価を得ている。このままいけば、新たに『会長』というポジションを作って義父には勇退してもらい、俺が社長に昇格して実質的な経営権を手に入れ、名実ともにトップへ君臨する――すべては順調な『はず』だった。事業開始から一年が経過し、定期役員会議が終わった直後の出来事だった。 新規事業部の事業部長がどこか不安げで落ち着かない表情を浮かべて副社長室を訪ねてきた。「南雲副社長、お忙しいところ恐縮です。来期の事業計画についてですが、具体的な内容のすり合わせを行いたいのですが……」「すり合わせ? すり合わせも何も、事業開始時に作成した事業計画書があるだろう。何か問題でも発生したのなら都度対処して、それ以外は計画書の通りに進めればいいじゃないか」面倒くさそうに手を振る俺に対し、事業部長は困惑したように眉をひそめた。「それが……英玲奈元専務が策定されていた計画書にある『フェーズ1・導入ロードマップ』は、今月で全て完了する予定となっております。そのため、来月からは事業を本格的に拡大させ、自走を図る『フェーズ2・二期目運用』へと突入いたします。ですが……手元の計画書では、フェーズ2は年単位の数値のみが記載されており、具
陽向side「陽向、副社長になって仕事が忙しいでしょ?急な陣痛があっても、大事な会議や出張で駆けつけられない可能性もあるかもしれない。産まれた時に陽向がいないのは寂しいから、計画分娩にして、その日は側にいて欲しいの……」妊娠八か月になった頃、結愛がそう言って病院からもらってきた『計画分娩・無痛分娩』のパンフレットを俺に差し出してきた。保険適用外の処置らしく、控えめだがご丁寧にしっかりと値段が書かれている。正直、その額に驚いたが相場なんて分からない。それに出産は、人生の一大イベントだ。子どもが元気に産まれてくるなら、結愛の好きなように産めばいい。それにお腹の子は男の子のようだし、義父も快く了承してくれるだろう。保険適用外だろうが、念願の男の子が産まれるのなら誤差の範囲だ。そして、そんなこと聞かなくても了承するのにわざわざパンプレットをもらってきて、少し甘えるような声でねだる結愛も可愛かった。「分かった。その日は一日、結愛の側にいるよ。出産方法についても結愛が望むようにすればいいよ」「陽向、ありがとう。私、この子と陽向のためにも出産頑張るね」嬉しそうにギュッと思いっきり抱き着いてくる結愛。胸よりも大きく前に出たお腹が俺のへそに当たる。妊娠のことはよく分からない俺は、水の入った風船をお腹の中に入れているようなイメージで、そんなに強く抱き着いたら、圧がかかってバチ