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結婚式まで、あと二週間。
朝、結婚式のスピーチをする人へのお礼の品をカタログを見ながら吟味していると、その姿を見た陽向は「英玲奈は本当に真面目だな」と目を細めて笑っていた。陽向も私と同じ気持ちでいる。そう思っていたのに……夜になって、彼はホテルで別の女のためにシャンパンを開けていた。
「英玲奈(えれな)様、あちらのお席に行ってはなりません!」
煌びやかな夜景が見渡せるホテルの最上階レストラン。ホテルのスタッフが青ざめた顔で私を必死に止めようとしている。その手を振り払い、ハイヒールの音をカツカツと冷徹に響かせながら近づいていく。
(やっぱりここにいたのね……)
婚約者の城之内陽向(じょうのうちひなた)と秘書の橘結愛(たちばなゆあ)が楽しそうに笑っている。二人とも目の前の相手に夢中で私の存在に気づいていないようだ。
陽向がこの店で一番高価なシャンパンを掲げたウエイターに目配せをすると、 スポンッ、とコルクの抜けた音が響き、黄金の泡がグラスの中で湧き上がっていた。
「妊娠おめでとう。結愛に子どもが出来たなんて嬉しいよ」
「陽向、ありがとう。お腹の子、あなたに似てくれたらいいな……」
「そんなことないさ。結愛に似たって絶対に可愛らしい子になる」
結愛が愛おしそうにお腹を撫でると、陽向も目を細めて嬉しそうに微笑んでいる。幸せに満ちた二人とは対照的に、あまりの衝撃に心が急速に凍っていく。
(……今、子どもって言ったわよね?それに、互いに似ればいいって……浮気だけじゃなく子どもまで作ったの?)
「……でも陽向、本当に結婚しちゃうの?いつも陽向のことを支えているのは誰だと思っているのよ?」
不機嫌そうに呟く結愛に、陽向は『拗ねている姿も可愛いよ』とでも言うように結愛の手をそっと握った。
「分かっている。僕の心にいるのは結愛だけだ。いつも支えてくれてありがとう」
今、確かに陽向は『結愛』の名前を口にした。
(支えてくれてありがとう?あなたの社内での地位を上げるために、私がどれだけ尽くしてきたと思っているのよ?今まで何度もあなたの代わりに事業計画を立てて商談をまとめたのに、実績はすべて横取りしていったじゃない……それに結愛って、なんで秘書のことを下の名前で呼んでいるのよ……!)
陽向は、かつて私にも同じような優しい言葉をくれた。
三年前、彼が初めて大きな案件を取った日、誰もいない会議室で私を強く抱きしめた。
「英玲奈、今の僕があるのは英玲奈のおかげだ。英玲奈がいたから、僕は絶対に忘れない」
あの時の彼の手は温かく、声も本物に聞こえた。けれど今、その手は別の女の手に優しく重ねられている。
これ以上の戯言なんて時間の無駄だ。雰囲気をぶち壊すように低く落ち着いた声をかけた。
「……なんだか楽しそうね、こんなところで何をしているのかしら?」
「英玲奈……っ!? なぜここに……」
結愛は驚きで目を見開いていたが、陽向は一瞬動揺したもののすぐにいつもの表情に戻すと、呆れたようにため息をついた。
「今は仕事中だ。邪魔をしないでくれ。……君は仕事とプライベートの区別もつかないのか?」
「仕事?」
「ああ、そうだ。彼女は僕の秘書だ。秘書と食事をして何が悪い。君だって橋本君と食事くらいするだろう」
「ええ、するわ。でも、こんな恋人同士が来るような場所に二人で来たりしないし、ましてやこんな高級なシャンパンを開けたりもしない。それでもまだ仕事と言い張るつもり?」
陽向に詰め寄っていると、結愛は小さく悲鳴を上げてわざとらしく陽向の腕にしがみついた。
「ねえ、なんで英玲奈さんがここにいるの?怖いわ」
「……すまない。実は、英玲奈は常日頃から僕のことを監視しているんだ。そうやって僕を縛り付けていないと気が済まないみたいで……でも、君のことは僕が守るから安心してくれ」
秘書と浮気しているだけでなく私に問題があるような言い方をするなんて……怒りで全身が震える。こんなにも非道で馬鹿な男だなんて思わなかった。
「私が監視?嘘を言わないで!それに、さっきから、結愛、結愛、結愛って名前で呼んで、どういう関係なのよ。とても上司と部下の関係には見えないわ」
「……何を言っている、聞き間違いだ。耳も悪くなったのか?それとも妄想癖でもあって、自分を悲劇のヒロインか何かと勘違いしているようだな。言いがかりもいいかげんにしてくれ」
「英玲奈さん、何か勘違いされていませんか?私たちは今日仕事の打ち合わせでここに来ました。シャンパンも私の記念日だと知った城之内役員の計らいで注文してくださりました。城之内役員は私の事をいつも気遣ってくれるとても優しい人です。……それは、婚約者であるあなたもご存知なのでは?」
結愛は、取り繕った笑顔でクレーマーの対応でもしているかのように私に話しかけてくる。丁寧な言葉遣いだが、自分がいかに愛されているか見せつけているのだ。
「記念日……?そう、あなた妊娠したのよね。お互いに似た子どもになるといいとか言って嬉しそうにしていたのものね。あなたたちの会話は、すべて聞かせてもらったわ。もちろん、父にも報告する……このことを父が知ったらなんと言うかしら?」
その言葉に陽向と結愛はピクリと眉をあげて顔をひきつらせた。結愛の口角は上がっているが笑顔は崩れ、陽向は目を泳がせて動揺を露わにしている。
「ウエイター、彼女は部外者だ。すぐさま外につまみ出してくれっ!!!」
「すみません……彼女、精神的に不安定で思い込んだら暴走が止まらないんです……物を投げたり暴れ出したりすることもあって……」
「……っ!誰がそんなこと……」
「申し訳ございません、他のお客様のご迷惑にもなりますのでお引き取りを……」
陽向の指示で、すぐに数人のスタッフがすぐさま私を取り囲む。腕を引かれてその場を去る私に周囲の客からの好奇と冷笑の視線が突き刺さっている。 腕を掴まれながら、私が一度だけ振り返ると、陽向と結愛は勝ち誇ったような笑みを浮かべてシャンパングラスを合わせていた。
(……人を悪者に仕立て上げておいてシャンパンを楽しんでいるというの?……乾杯でも何でもすればいいわ。婚約は絶対に破談よ!!)
エントランスを出て待機させていた車に乗り込むと、専属運転手の加藤がバックミラー越しに息を呑んだ。
「加藤、すぐに実家へ向かってお父様にすべてを報告して婚約を破棄してやるんだからっ……」
「かしこまりました。……ですが英玲奈様、旦那様がすんなりと婚約破棄を認めるとは思えません……」
「ええ、分かっている……でも、黙ってなんかいられないもの」
走り出した車から見える夜景をぼんやりと眺めていた。陽向と一緒にいた三年間を思い出す。陽向は、私にも常日頃から感謝の言葉を口にしてきた。だから私も、自分が影になり陽の当たらない目立たぬ場所で一人奮闘することになっても耐え抜いてきたのだ。
(馬鹿みたい……結局、陽向は自分のために尽くしてくれる女性が欲しかっただけで、私でなくても誰でも良かったのね……)
背もたれに頭を預けて腕で目元を隠す。泣いている姿なんて加藤にも見られたくなかった。
悲しくて泣いているのではない。自分が喉から欲しかった次期後継者という立場を、あんな男に取られること。そして、実績作りのためのお膳立てをすべてさせられてきたことに対して悔しさがこみ上げたのだ。
「英玲奈様……大丈夫ですか?」
「……ええ、平気よ。結婚式が執り行われる前になんとしても破談にさせるわ。陽向がごねてきたら、結愛の両親にもこの事実を伝えて訴えてやるんだから」
タブレットを開き、社員情報のデータベースから橘結愛の情報を検索する。秘書課の名簿一覧から橘結愛の名前をタップして経歴や履歴書を見ようとしたその時だった。
『権限がないため、閲覧できません』
南雲グループ会長の娘であり幹部の私には、海外買収案件の極秘資料でさえ閲覧権限があり、組織の全権限が付与されているはずだ。こんな画面、今まで一度も見たことがない。
それなのに、ただの秘書の履歴書すら見ることができないなんて、誰かが細工をしているとしか思えない。そして、それが出来るのは、一人だけだ。
「お父様……どうして?」
陽向side何の具体策も打たないまま月日だけが過ぎ、新規事業部は日を追うごとに恐ろしい勢いで赤字を垂れ流し続けていた。だが、惨状はそれだけに留まらなかった。急激な円安の波と原価高騰の波及は、新規事業部だけでなく海外からの素材調達に依存していた南雲グループの他部門にもじわじわと広がり始めていたのだ。今の南雲には英玲奈のようにリスク管理を行い、調整や指揮を取ることができるほど力を持つ人間は不在だった。決算の数字が固まるにつれ、社内には重苦しい空気が立ち込めている。 南雲グループ全体が、初となる巨額の赤字へと転落しそうなのだ。「陽向君……!これは一体どういうことだ! 新規事業でグループを牽引するどころか、全社的な赤字に陥るなんて……! 役員たちや株主になんと言い訳をすればいいんだ!」あれほど俺を褒め称えていたにも関わらず、社長室で義父である厳一郎が顔を真っ赤にして怒声を上げている。俺は、役員会議で何度も言ってきた言葉を呪文のように繰り返す。「社長、お言葉ですが、今回の赤字は歴史的な円安という世界的な社会情勢が原因です。他社も同様に苦しんでいる以上、一概に解決策を取れるものではありません」「言い訳を聞いているんじゃない!南雲は新規事業の失敗で他
陽向side「南雲副社長、例の二期目における為替対策を含めた事業計画書ですが……提出の期限を過ぎておりますが、進捗状況についてお聞かせ願いたいのですが」副社長室で書類に判を押していた俺の元にベテラン役員が強気の姿勢で俺に歩み寄ってくる。この前の役員会議で皆の前で恥を書かせたあの役員だ。「分かっている……。私は南雲グループ全体の指揮を執っていて多忙を極めているんだよ。現場の経営判断というものは、拙速に行うべきではない。為替の動向や市場のデータを慎重に見極めているところだ」「……慎重に、ですか。ですが原価の高騰は待ってくれませんよ」「そんなこと言われなくても承知している。出来たら連絡するからそれまでは何も言うな」そう言って追い払ったものの、俺は内心冷や汗でヒヤヒヤしていた。 言い訳をして時間を稼いでいたものの、当然ながら俺の頭の中に解決策など一つも浮かんでいない。為替リスクヘッジ? サプライチェーンの再構築? 専門用語を聞くだけで頭が痛くなる。(クソッ……! なんで俺がこんな苦労をしなきゃいけないんだ。英玲奈みたいに勝手に動いてくれる奴さえいれば、こんなことにはならなかったのに&hel
陽向side部下である新規事業部の部長に丸投げして無理やり作らせた二期目の事業計画書。あの役員会議での醜態から一か月が過ぎ、「これでなんとか形にはなった」と俺は胸を撫で下ろしていた。 だが、そんな俺を嘲笑うかのように次々と悪夢が襲いかかる。わずか二か月の間に、為替相場は一気に1ドルあたり20円も暴騰したのだ。英玲奈がこの新規事業を立ち上げた当初には想定されていなかった歴史的な為替の激動だった。為替変動の影響というものは恐ろしい。 製品の売上や契約自体が消えるわけではないが、海外から調達している部材の輸入原価だけが、タイムラグなくダイレクトに響いてくる。製品を日本で取り扱っている我々は、契約を履行すればするほど、原価率が圧迫されて会社の手元に残る利益が削り取られていくのだ。そして、まだ事業を開始して歴が浅いこの部門は、原価率上昇に耐えられるだけの利益のプールなど何もなかった。このままの状況が続けば、新規事業部は期待の事業から一転して負債を生みだすお荷物事業として冷ややかな視線を浴びることだろう。世界情勢が原因で、俺のせいではないが、赤字事業を指揮するなんてイメージが悪い。「——というわけで、南雲副社長」緊急で開催された役員会議の場で、役員が冷ややかな目線を俺に向けて放った。
陽向side「事業計画書の事なんだが、事業の責任者は君だ。それに君は私以上に現場サイドの管理職や社員の声を把握できる立場にある。君には期待しているからこそ、この二期目の事業計画書の作成は君に任せたい。これは君にとっても、大きな成長の機会になるはずだ」数日後、再び俺の元に訪ねてきた事業部長に対して、包み込むような笑みを浮かべて語りかけた。「ありがとうございます。……ですが副社長、我々現場のデータだけでは、経営層としての判断基準や市場の将来予測までは……」「大丈夫、君ならできるさ」不安げに言い淀む事業部長の肩をポンと叩き、「俺は、部下の挑戦を応援したいんだ。上がってきた計画書は俺が確認するから、まずは思い切って作ってみてほしい。これが評価されれば、君の出世にも大きく影響するだろう。期待しているよ」「……はぁ。承知いたしました。全力を尽くします」事業部長はどこか納得のいかない様子ながらも、深く頭を下げて部屋を出ていく。その姿を冷めた目で見送っていた。(フッ……単純な男だ。『期待している』と一言添えるだけで簡単に仕事を引き受けてくれる。英玲奈がいなくても、こうやって
陽向side結愛が男の子を出産した翌月、株主総会の決議案が無事可決され、義父からの『出産祝い』として、俺と結愛への株式譲渡の割合が大幅に引き上げられた。これにより、南雲家における俺の立場と発言権は一気に強まっていったのだった。新規事業もうまくいっており、社内でも高評価を得ている。このままいけば、新たに『会長』というポジションを作って義父には勇退してもらい、俺が社長に昇格して実質的な経営権を手に入れ、名実ともにトップへ君臨する――すべては順調な『はず』だった。事業開始から一年が経過し、定期役員会議が終わった直後の出来事だった。 新規事業部の事業部長がどこか不安げで落ち着かない表情を浮かべて副社長室を訪ねてきた。「南雲副社長、お忙しいところ恐縮です。来期の事業計画についてですが、具体的な内容のすり合わせを行いたいのですが……」「すり合わせ? すり合わせも何も、事業開始時に作成した事業計画書があるだろう。何か問題でも発生したのなら都度対処して、それ以外は計画書の通りに進めればいいじゃないか」面倒くさそうに手を振る俺に対し、事業部長は困惑したように眉をひそめた。「それが……英玲奈元専務が策定されていた計画書にある『フェーズ1・導入ロードマップ』は、今月で全て完了する予定となっております。そのため、来月からは事業を本格的に拡大させ、自走を図る『フェーズ2・二期目運用』へと突入いたします。ですが……手元の計画書では、フェーズ2は年単位の数値のみが記載されており、具
陽向side「陽向、副社長になって仕事が忙しいでしょ?急な陣痛があっても、大事な会議や出張で駆けつけられない可能性もあるかもしれない。産まれた時に陽向がいないのは寂しいから、計画分娩にして、その日は側にいて欲しいの……」妊娠八か月になった頃、結愛がそう言って病院からもらってきた『計画分娩・無痛分娩』のパンフレットを俺に差し出してきた。保険適用外の処置らしく、控えめだがご丁寧にしっかりと値段が書かれている。正直、その額に驚いたが相場なんて分からない。それに出産は、人生の一大イベントだ。子どもが元気に産まれてくるなら、結愛の好きなように産めばいい。それにお腹の子は男の子のようだし、義父も快く了承してくれるだろう。保険適用外だろうが、念願の男の子が産まれるのなら誤差の範囲だ。そして、そんなこと聞かなくても了承するのにわざわざパンプレットをもらってきて、少し甘えるような声でねだる結愛も可愛かった。「分かった。その日は一日、結愛の側にいるよ。出産方法についても結愛が望むようにすればいいよ」「陽向、ありがとう。私、この子と陽向のためにも出産頑張るね」嬉しそうにギュッと思いっきり抱き着いてくる結愛。胸よりも大きく前に出たお腹が俺のへそに当たる。妊娠のことはよく分からない俺は、水の入った風船をお腹の中に入れているようなイメージで、そんなに強く抱き着いたら、圧がかかってバチ







