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第5話

Author: AONO YUBAE
病院には泊まりたくなかった。

麻酔が抜けるのを待って退院したものの、身体にはまだ十分に力が戻っていなかった。

それでも何とか正面玄関までたどり着くと、少し離れたところで時也と灯里が言い争っているのが見えた。

灯里の足元には大きなスーツケースが置かれ、時也がその持ち手を離すまいと強くつかんでいる。

二人とも目に涙を浮かべていた。

「どこへ行くつもりだ。勝手に出ていくな」

「あの夜、私がわざとあなたの部屋に入ったこと、もう知ってるんでしょ?だったら、これ以上そばにはいられないよ。許してほしいなんて言わない。だから玲奈を大切にして。悠真のことも、ちゃんとお願い」

そう言ってスーツケースを取り返そうとした灯里を、時也はそのまま腕の中へ引き寄せた。

「もういい。あの夜、相手がお前じゃなくても、きっと同じことになってた。それに……相手がお前だったと分かって、むしろほっとした」

そこまで聞けば、もう何も言う気にはなれなかった。

まるで悲劇の恋人同士のように抱き合う二人を見ていると、あまりの光景に思わず乾いた笑いが漏れた。

その声に気づき、二人が同時にこちらを見る。

「玲奈!」

灯里は慌てて時也の腕から離れ、私のところへ駆け寄ってきた。

「違うの。玲奈が思ってるような――」

伸ばされた手を見た瞬間、胃の奥から吐き気が込み上げた。

反射的に振り払うと、灯里は足をもつれさせ、その場に転んでしまう。

「灯里!」

時也がすぐに駆け寄り、身体を支えた。

「大丈夫か?」

灯里が頷いても安心できないのか、時也は怪我がないか確かめてから、庇うように自分の後ろへ立たせた。

「灯里は悠真のところへ戻ってろ。ここは俺に任せろ」

灯里は何度もこちらを振り返りながら、病棟へ戻っていった。

私が一人で手術を受けていた数時間のあいだに、二人の距離はさらに縮まっていたらしい。

午後に病室で見たときよりも、ずっと親密に見えた。

時也は灯里の姿が見えなくなってから、ようやく私へ向き直った。

「近くで話さないか?」

「ここじゃ駄目なの?」

時也は周囲を気にするように見回し、声を落とした。

「悠真はまだ入院してるし、灯里もしばらくここに通わないといけない。余計な噂を立てられたくないんだ」

灯里のことを気遣っているのだと、すぐに分かった。

かつての時也は、どんな些細なことでも私を気にかけ、いつも私を優先してくれた。

帰りが遅くなれば迎えに来てくれたし、道を歩くときは決まって車道側に立ってくれた。

仕事で面倒な相手に困っていれば、何も言わなくてもさりげなく助けてくれた。

そんな優しさが今は、すべて灯里へ向けられている。

私は何も言わず、時也と一緒に近くのカフェへ入った。

席に着くなり、時也は慣れた様子で店員に注文する。

「アイスアメリカーノを。砂糖なしで、エスプレッソをワンショット追加してください」

以前の私が、いつも頼んでいたものだった。

飲み物が運ばれてくると、時也が先に口を開いた。

「さっきの話、聞いてたのか?」

私は答えなかった。

それでも時也は、少し迷ったあとで話を続ける。

「実は、あの夜より前から……仕事で顔を合わせるうちに、灯里のことを意識するようになってた」

その一言で、これまで見えなかったものが一気につながった。

灯里がなかなか仕事を見つけられず困っていた頃、時也の会社で雇ってもらえないかと頼んだのは私だった。

二人を仕事で引き合わせたのも、他でもない私だ。

まさか自分のしたことが、こんな形で返ってくるなんて。

しばらく黙っていた私を見て、時也は手つかずのカップへ目を向けた。

「飲まないのか?前は好きだっただろ」

私はカップを見つめたまま答えた。

「前はね。今はもう好きじゃない」

かつては何時間話しても足りなかった相手なのに、今は向かい合っていても、何を話せばいいのか分からない。

長い沈黙のあと、時也が腕時計を確認した。

そして、意を決したように私を見る。

「玲奈。頼むから、俺と灯里に1か月だけ時間をくれ」

時也が私に「頼む」と口にしたのは、それが初めてだった。

「1か月経ったら灯里とは離婚する。そのあとで玲奈と結婚する。結婚式だって、今度こそちゃんとやる」

私は何も答えなかった。

時也も返事を待つことなく席を立ち、そのまま会計へ向かう。

会計を済ませた時也は、店を出る前にショーケースの前で足を止め、灯里の好物であるティラミスまで包んでもらっていた。

私が昔好きだったコーヒーを覚えていてくれたところで、今となっては何の意味もない。

時也は同じように、灯里の好きなものもちゃんと覚えているのだから。

それに、手術を終えたばかりの身体には、冷たいコーヒーなんてとても受けつけそうになかった。

時也への気持ちも、同じだった。

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