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第6話

Author: 流れ星
絨毯の上で毛づくろいをしていた子猫が、芽依の帰宅に気づくと、勢いよく駆け寄ってきて身体をすり寄せてきた。

胸の奥がふっと温かくなり、芽依はふいに思い出した。智也がまだ歩きもおぼつかない頃、彼女が帰ってくるたびに、よちよち歩きで、あるいは這うようにして駆け寄り、幼い舌足らずな声で「抱っこ」とせがんできた日のことを。

やがて智也が少し大きくなり、物心がつくと、彼女の姿を見るなり「怪我してない?」と気遣い、さらに人前では誇らしげにこう言った――「うちのママは悪い人を捕まえるんだ、ヒーローなんだぞ!」

――なのに、今は?

芽依は小さく首を振り、それ以上考えるのをやめた。そして子猫を抱き上げ、ぽつりとつぶやいた。「残念だけど、もう行かなきゃ。この家にはね、あなたを可愛がってくれる人はいないの……早く新しい飼い主を探さないとね」

そう決めると、すぐに子猫を抱えて家を出た。近くのペットショップを片っ端から回ったが、どこも首を横に振るばかりだった。

「うちは商売でやってますから、引き取りはできません。公益の動物保護団体をあたってみては?」

そこで芽依は、警備局の総務担当である田中さんが猫を飼っていることを思い出した。連絡を取り、芽依は子猫を彼の家に届けた。

田中の家を出るとすぐに、圭介から電話がかかってきた。

「今日は村上院長の七十歳の誕生日だ。時間あるか?」

村上院長は、圭介の医学の道をほぼ一から見守ってきた恩師であり、二人の結婚式で証人も務めてくれた人物だった。そんな人の祝い事を断る理由などなかった。

寿宴は盛大に催されていた。

芽依が着いたとき、圭介父子と美咲はすでに入口で待っていた。三人は色合いをそろえた服を着て、まるで本当の家族のように並んでおり、その中で芽依だけが他人のように見えた。

村上院長の挨拶が終わると、宴席が始まり、皆が箸を進めた。

ただ一人、圭介だけはほとんど口にせず、ひたすら美咲の世話に心を砕いていた。

料理を取り分け、魚の骨を抜き、海老の殻を剥く……

智也までが、小さな手で飲み物を注ぎ、紙ナプキンを差し出していた。

向かいに座っていた若い女性が、うらやましそうに声を上げた。「圭介先輩も息子さんも、奥さんを本当に大事にしてますね!私も将来、先輩みたいにこんなふうに気遣ってくれる夫を見つけたいです!」

一瞬、空気が凍りついた。

若い女性の隣にいた人が、慌てて笑いながら口を挟んだ。「圭介の右隣にいるのが本当の奥さんだよ。芽依さん、こちらは後輩の美月。まだ入って二ヶ月で、会ったことなかったんだって。気にしないでね」

「大丈夫です、気にしてませんから」

芽依が微笑んでそう答えた瞬間、圭介の手が海老を剥く動きを止めた。胸の奥に、じわりと怒りが湧く――美咲を自分の妻と勘違いしているのに、彼女は「大丈夫」だと?

圭介が顔を向けると、芽依は冷たく彼を見つめていた。何か言おうと口を開きかけたが、芽依はすでに視線を外していた。まるで先ほどのあの目線が幻だったかのように。

本来、美咲の皿に置くはずだった海老を、圭介はわざわざ芽依の皿に入れた。

芽依は海老が好きだが、自分で殻を剥くのは嫌いだった。以前は、圭介が剥いた海老を差し出すと、彼女は心から嬉しそうに笑い、ぱくぱくと平らげていた。

そんな記憶を胸に、圭介は期待を込めて芽依を見た。だが返ってきたのは「ありがとう」という一言と、皿の上から海老を取り除き、卓上に置く冷たい仕草だった。

圭介が何か言いかけたところで、隣の美咲が箸を置き、場を和ませるように口を開いた。「私は芽依の妹の美咲です。圭介とも家族なんですよ」

その一言で、かえって場は重くなった。周囲の視線には、圭介と美咲への軽蔑がにじむ。

「なんだ、ただの義妹か。あまりにも親しげだからてっきり……」

美月が言いかけたところで、口に唐揚げを押し込まれた。他の人たちはすかさずグラスを手に取る。「ほらほら、料理にばっか手をつけてないで、乾杯しましょう」

お酒が入ると、再び場はにぎやかになった。普段はお酒を口にしない圭介も何杯か飲まされ、芽依も断りきれずに一杯だけ口にした。

二人ともお酒を飲んでいたし、美咲はもともと運転できない。

そこで、ちょうど知り合いが車で来ていたので、一緒に乗せてもらうことになった。

芽依は気を利かせて助手席に座り、後ろの席を圭介父子と美咲に譲った。

圭介はお酒で頭がぼんやりしていたが、それでも違和感を覚えていた。芽依が、意図的に距離を置こうとしているのを感じ取ったからだ。

問いかけようとした瞬間――大きな衝撃音とともに車が横転した。天地が逆さまになり、圭介は咄嗟に真ん中にいた智也を抱きかかえた。

どれほど時間が経ったのか分からない。腕の激痛で、芽依はうっすらと意識を取り戻した。

ぐしゃりと潰れた車内に閉じ込められたまま、彼女は自分と同じ側に座っていた美咲もまた身動きが取れないのを見た。

圭介は必死に車を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。智也は美咲のそばにしゃがみ込み、泣きながら彼女に声をかけ、運転していた中島看護師も何とか助けようと手を尽くしていた。

芽依が目を開けたのに気づくと、圭介はほっとした表情で声を張り上げた。「芽依、落ち着け!もうすぐ救援が来るからな!」

その言葉通り、救助隊はすぐに到着し、続いて救急車もやって来た。

専門の道具で車体が切り開かれ、芽依と美咲は引きずり出された。

しかし、医療スタッフは困った表情で告げた。「救急車が足りなくて、今来ているのは一台だけです。もう一台は手配中です。圭介先生、どちらを先に病院に運びますか?」

「おばちゃんが先!」

智也が叫んだが、子どもの言葉に誰も耳を貸さず、全員の視線が圭介に集まった。

圭介は血の気の引いた芽依を見て、胸を締め付けられる思いがした。「もちろん救うのは……」

その時、美咲が泣き叫んだ。「圭介、怖いよ……頭が痛い……私、死んじゃうの?

まだ死にたくない、まだこんなに若いのに!

やっと少し幸せになれたのに……」

圭介の視線が、芽依と美咲の間を揺れ動く。芽依の腕は血を流し続けており、早く止血しなければ危険だ。だが、美咲が訴える頭痛は、もしや脳内出血かもしれない……

同乗していた医師も判断に迷っていた。どちらを優先すべきか、見た目だけでは分からなかった。

「圭介先生、早く決めてください!今は時間との勝負です!」

圭介は、今回迷わず口を開いた。

「美咲を先に!」

その瞬間、周囲の知り合いたちは驚きの表情を浮かべた。まさか彼が妻を置いて義妹を優先するとは、誰も予想していなかったのだ。

ただ一人、智也だけが「よかった!」と声を上げ、美咲のもとへ駆け寄った。

芽依は驚きもしなかった。圭介が美咲を優先するのは、これが初めてではない。積もり積もった失望の果てに、もはや驚く余地はなかった。

圭介は「君たちは美咲を病院へ。俺は芽依の止血をする」と言い、救急車から消毒液とガーゼを取り出した。

だが、美咲は担架の上から圭介の腕をつかんだ。「圭介……怖い……一緒に来てくれる?」

圭介は眉をひそめたが、やがて消毒液とガーゼを中島看護師に渡し、芽依を振り返った。「芽依、君は姉なんだから妹に譲ってやれ。美咲は小さい頃から君の代わりに苦労してきた。体だって君より弱いんだ。もう少しだけ我慢してくれ。救急車はすぐ来る。腕の怪我は中島看護師が手当てしてくれる。

「これで最後だ。これからは二人でちゃんと暮らそう」

――この「姉なんだから譲れ」という言葉ほど、芽依が嫌うものはなかった。

この言葉のせいで、彼女の大切なもののほとんどを奪われたのだ。

しかも、美咲とは血のつながりすらないのに。

芽依はかすかに唇を上げ、震える声で告げた。「圭介……もう『これから』なんてないわ」

彼女の声は、美咲のさらに大きな叫び声にかき消されてしまった。圭介はただ振り返って芽依を見つめ、その目には「今、何て言ったの?」というような疑問が浮かんでいた。

視界が暗く揺れ、血の気が引いていく。芽依が最後に見た光景は、圭介と智也が順に救急車へ乗り込む後ろ姿だった。
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