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愛の失明~薄情への復讐~

愛の失明~薄情への復讐~

By:  小路千万Completed
Language: Japanese
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五年前、夫の一時の身勝手な行動で、私は息子と視力の両方を失いかけた。 五年後、思いがけない出来事がきっかけで、失明していた目が奇跡的に回復した。 嬉しい知らせを夫と息子に伝えようと、弾むような胸を躍らせて家に駆け込んだのに、目に飛び込んできたのは、夫が息子のピアノの先生を抱き寄せる姿だった。 夫はピアノの先生の頬を撫でながら言った。 「やはり君がいい。もうあの目の不自由な者への気遣いという偽りを生きるのは、うんざりだ。この五年間は、俺にとって牢獄のようなものだ」 息子もピアノの先生の胸に飛び込み、こう言った。 「白野先生がママだったらよかったのにな。そうしたら、目の不自由なママのことで笑われることもなかったのに」 玄関に立った私は、頭のてっぺんから足の先まで、一瞬で凍りつくような冷たさに襲われた。 スマホを取り出し、仲睦まじい「親子三人」の姿を、こっそりと写真に収めた。そして、一つの番号に電話をかけた。 「先生、以前おっしゃっていたフランスへの研修の件、引き受けさせていただきます」

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Chapter 1

第1話

五年前、夫の一時の身勝手な行動で、私は息子を失いかけるとともに、視力も失いかけた。

五年後、思いがけない出来事がきっかけで、失明していた目が奇跡的に回復した。

嬉しい知らせを夫と息子に伝えようと、弾むような胸を躍らせて家に駆け込んだのに、目に飛び込んできたのは、夫が息子のピアノの先生を抱き寄せる姿だった。

夫はピアノの先生の頬を撫でながら言った。

「やはり君がいい。もうあの目の不自由な者への気遣いという偽りの生活を送るのは、うんざりだ。この五年間は、俺にとって牢獄のようなものだ」

息子もピアノの先生の胸に飛び込み、こう言った。

「白野先生がママだったらよかったのにな。そうしたら、目の不自由なママのことで笑われることもなかったのに」

玄関に立った私は、頭のてっぺんから足の先まで、一瞬で凍りつくような冷たさに襲われた。

スマホを取り出し、仲睦まじい「親子三人」の姿を、こっそりと写真に収めた。そして、一つの番号に電話をかけた。

「先生、以前おっしゃっていたフランスへの研修の件、引き受けさせていただきます」

……

部屋の中から聞こえてくる会話を耳にしながら、私の心はまるで刃物で少しずつ切り裂かれていくようだ。

ほんの一分前まで、今日はこの五年間で一番幸せな日になるはずだった。

なぜなら、私は視力を取り戻したのだから。

闇しかなかった世界から、再び光を取り戻した。

どんな言葉にしても、この胸に広がる感動と高鳴りには収まりきらない。

――それは、五年ぶりに見る白洲隆介(しらす りゅうすけ)が白野茜(しらの あかね)を抱きしめているのを目にするまでは。

我が家のソファで、彼らはまるで誰もいないかのようにキスを交わした。すぐそばでテレビを見ている息子の存在は、完全に無視している。

この瞬間、盲目だった頃のほうがましだと思った。

隆介と息子が、まさかこんな軽蔑した口調で私のことを語る日が来るなんて、夢にも思わなかった。

隆介と茜がますます親密になっていく様子に、私は思わず飛び込んで二人の下劣な行為を止めようとした。

だがその時、息子が突然大きな声で「パパ、水が飲みたい!」と叫び、二人の次の動きを遮った。

隆介はしぶしぶ立ち上がり、息子に水を注いだ。

息子は一口啜ると、ごく自然に茜の胸に飛び込んだ。

「先生、もう一週間も来てないんだよ。ねえ、僕のママになってくれない?」

茜は何も答えず、ただ微笑みながら隆介に視線を送った。

隆介はその意味を察し、抱き寄せた腕に力を込めた。「もうすぐだよ。何といっても、彼女とは一応夫婦だったんだ。来月、彼女の誕生日が終わったら離婚を切り出すつもりだ。その時には、君が健太の新しいママになれる」

「わあ、僕、新しいママができるんだ!」

健太(けんた)は嬉しそうに笑いながら、リビングの中をぴょんぴょんと跳ね回っていた。

その傍らで、隆介と茜は寄り添うようにして彼を見つめている。

微笑みを浮かべながら、まるで本当の家族三人のようだ。

ドアの外に立ち尽くした私は、虚ろな目でスマホの画面を通して、彼らをただ見つめている。

まるで他人の幸せを盗み見る、後ろめたい泥棒のように。

彼らはもう忘れてしまったのだろうか。私があの盲目の女になったのは、彼らを救うためだったということを。

五年前、隆介の会社は大きなプロジェクトの契約を取れた。

その日、彼は得意がって大量に酒を飲んでいた。

帰るとき、私は代行を呼ぼうと電話を取り出したが、彼は首を振って断った。

ホテルから家まで近いし、ほんの数分の距離だから大丈夫だと言って、私を引っ張るようにして車に乗り込んだ。

その後、家の前に差しかかったとき、彼はアクセルを踏み込み、地下駐車場の石の車止めにぶつかった。

混乱の中で、私はただチャイルドシートに座っていた息子の健太をかばうことしかできなかった。

翌日目を覚ますと、視界は真っ暗だった。

医者によると、脳内の血腫が視神経を圧迫したために失明したのだという。

手術は非常に危険で、少しでも操作を誤れば二度と目が見えなくなる可能性が高いと言われた。

むしろ放っておけば、血腫がいつか自然に消えるかもしれないとも言われた。

そのいつかが、一ヶ月後なのか、一年後なのか、それとも一生なのかは誰にもわからない。

当時、隆介は深い罪悪感に苛まれていた。

私の前にひざまずき、これからは自分の目が私の目になると誓った。
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松坂 美枝
松坂 美枝
このクズ男は自分のせいで障害を負った妻を頼ってくれないからって疎ましがって浮気して離婚するつもりだったんだよね?クソガキも浮気相手に懐いてさ なのにその前に主人公に復讐されて目も治ったと知らされたからって復縁求めるとかふざけすぎだよね 色々と自業自得だったわ
2025-12-07 09:29:34
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ノンスケ
ノンスケ
夫の浮気、息子の裏切り、視力が戻った途端に突きつけられた現実。そして夫は妻を疎ましがり離婚の準備をしていた。そんなの誰が思う通りにさせてやるか!ってなって当たり前。後から気づく夫の劣等感、本当に薄っぺらい。妻の生き方がかっこいい!
2025-12-07 21:14:07
1
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第1話
五年前、夫の一時の身勝手な行動で、私は息子を失いかけるとともに、視力も失いかけた。五年後、思いがけない出来事がきっかけで、失明していた目が奇跡的に回復した。嬉しい知らせを夫と息子に伝えようと、弾むような胸を躍らせて家に駆け込んだのに、目に飛び込んできたのは、夫が息子のピアノの先生を抱き寄せる姿だった。夫はピアノの先生の頬を撫でながら言った。「やはり君がいい。もうあの目の不自由な者への気遣いという偽りの生活を送るのは、うんざりだ。この五年間は、俺にとって牢獄のようなものだ」息子もピアノの先生の胸に飛び込み、こう言った。「白野先生がママだったらよかったのにな。そうしたら、目の不自由なママのことで笑われることもなかったのに」玄関に立った私は、頭のてっぺんから足の先まで、一瞬で凍りつくような冷たさに襲われた。スマホを取り出し、仲睦まじい「親子三人」の姿を、こっそりと写真に収めた。そして、一つの番号に電話をかけた。「先生、以前おっしゃっていたフランスへの研修の件、引き受けさせていただきます」……部屋の中から聞こえてくる会話を耳にしながら、私の心はまるで刃物で少しずつ切り裂かれていくようだ。ほんの一分前まで、今日はこの五年間で一番幸せな日になるはずだった。なぜなら、私は視力を取り戻したのだから。闇しかなかった世界から、再び光を取り戻した。どんな言葉にしても、この胸に広がる感動と高鳴りには収まりきらない。――それは、五年ぶりに見る白洲隆介(しらす りゅうすけ)が白野茜(しらの あかね)を抱きしめているのを目にするまでは。我が家のソファで、彼らはまるで誰もいないかのようにキスを交わした。すぐそばでテレビを見ている息子の存在は、完全に無視している。この瞬間、盲目だった頃のほうがましだと思った。隆介と息子が、まさかこんな軽蔑した口調で私のことを語る日が来るなんて、夢にも思わなかった。隆介と茜がますます親密になっていく様子に、私は思わず飛び込んで二人の下劣な行為を止めようとした。だがその時、息子が突然大きな声で「パパ、水が飲みたい!」と叫び、二人の次の動きを遮った。隆介はしぶしぶ立ち上がり、息子に水を注いだ。息子は一口啜ると、ごく自然に茜の胸に飛び込んだ。「先生、もう一週間も来てないんだよ。ね
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第2話
隆介は毎朝、私を起こし、身の回りの世話をこと細かにしてくれた。顔を洗うのも、トイレへ行くのも、そして髪を洗い、体を洗い、ドライヤーで髪を整えてくれることさえも、すべて彼が支えてくれた。彼は本当に細やかに私のことを気遣ってくれていた。だから私は、彼の愛を疑ったことなんて一度もなかった。この五年間、苦しんでいたのは私だけじゃなく、隆介も同じ気持ちでいるのだと思っていた。だから、視力が戻った瞬間、真っ先にこの嬉しさを彼に伝えたくてたまらなかった。けれど――見えなかったこの五年、彼にとってはただの苦痛でしかなかった。彼は私を目の見えない女と呼び、厄介者として扱っていた。そして、私たちの生活を牢獄にたとえていたのだ。世の中とは実に皮肉なものだ。それでも、引き裂かれるような思いでスマホを取り出し、録音を始めた。この録音で、後で隆介に思い知らせてやろう。……どうして私にそんな仕打ちをしたのか、絶対に問い詰めてやると、心に誓った。……その時、背後からメイドの声が聞こえてきた。「奥さま、こんなところでどうされたんですか?いつお帰りになったんですか?」突然の声に、部屋の中がざわつく。私は茜が慌てて言うのを聞いた。「やばい、もう気づかれたんじゃないの?」隆介も少し動揺しているようだったが、すぐに落ち着いた声で彼女をなだめた。「大丈夫だ。もし気づいてたら、とっくに騒ぎになってるさ。忘れたのか、あいつは目が見えないんだぞ?」彼は相変わらず冷静で、私の前に現れた時、動揺の色は微塵もなかった。「帰ってきたのか?外に出るとき、どうして誰も連れて行かなかったんだ?もし何かあったらどうする?」その声はいつもと同じく穏やかで優しかった。もしも、彼の顔に浮かぶ冷たい無関心が見えなければの話だが。そうか、彼は最初から私を馬鹿にして、うまくごまかしてきただけなんだ。私は皮肉に口元を引き上げた。この五年間、私が失ったのは視力だけではなかった。現実から目を閉ざしていたのは、むしろ私の心の方だ。私は答えず、ふいに茜の方を向いた。「白野先生、どうして急にいらしたんですか?」茜は驚いて思わず声を上げた。「奥さま、どうして私がいるってわかったんですか?」隆介も健太も緊張したように私を見つめ、まるで何かを探ろうとして
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第3話
茜が頬を真っ赤に染めてキスをして、隆介に優しく玄関まで送られていくのをこの目で見届けた。もう耐えきれなくて、皮肉な笑みが零れた。この数年、私は本当に笑い話みたいに生きてきたんだな。その夜、体調が悪いと口実を作って、早めに自分の部屋へ戻った。ベッドに横たわる私は、身体中に鉛を詰め込まれたように重く、考えるべきではないと分かっていながらも、自虐的に、さっきの光景を頭の中で何度も再生してしまった。ふと、そばに置いていたスマホが鳴った。先生から、研修の資料が届いたのだ。視力を失う前、私は国内でも有名な画家のもとで学んでいた。先生は私の才能を認めてくれていた。卒業して間もなく、私の絵は画展に出品されるまでになっていた。しかし、あの事故がすべてを狂わせてしまった。もう目が見えないのに、どうやって絵が描けようか。一時は落ち込んで、自暴自棄にもなった。どうしてこんなことが自分に起こるのかと。そんな私を支えてくれたのは、先生だった。先生は言った。「たとえ目が見えなくなっても、たとえ一からやり直すことになっても、自分の道を諦めてはいけない」と。先生は私に点字の勉強を勧め、もう一度筆を取るよう励ましてくれた。そして、私が視力を取り戻したと知ると、海外での研修の話まで繋いでくれた。予定では、あと一か月で私は海外へ旅立つことになっている。でもその前に、隆介にサプライズを用意するつもりだ。……あの日から、私は研修の準備にすべての時間と心を注ぎ込んだ。人は一度忙しくなると、時間はあっという間に過ぎていき、他のことを考える余裕もなくなる。茜が来るようになってから、私はもうリビングに姿を見せなくなった。家のスペースをすべて空けて、彼らに譲ったのだ。ただ、隅に設置したカメラだけが、私の目の代わりに静かにその光景を見つめていた。そのレンズ越しに、隆介と茜が人目もはばからずキスを交わし、親密に寄り添う姿が映っていた。私が「うっかり」と階下に降りていくたびに、健太はわざと私を別の場所へ誘導する。二人のために場を取り繕うように。そんな寛容な態度が、茜をどんどん図々しくさせていった。ある日、私がいない隙に、彼女はわざと私のクローゼットの服を着ていた。帰宅した私の前に、首筋に無数のキスマークをたたえた彼女が
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第4話
たとえ自分に「もう諦めるべきだ」と言い聞かせても、この瞬間、心の奥まで一気に冷えきってしまった。手にしていた白杖が階段にぶつかり、カン、と音を立てる。リビングに響いていた話し声が、ぴたりと止んだ。隆介がこちらへ歩み寄ってきた。なぜか、彼の顔にはわずかな緊張が浮かんでいる。「葵、どうした?大丈夫か?」私は冷たく口元を引き上げた。「平気よ。ちょっと階段を降りるときに足元を誤って、ぶつけちゃっただけ」彼は私を支えようと手を伸ばしたが、私は身をかわし、自分で白杖をつきながらダイニングテーブルへ向かった。隆介は以前、食事の時にはいつも、片手で雑誌をぱらぱらとめくっているか、あるいは切れ目なく続く電話対応に追われているかのどちらかだった。この家では、私だけがいつも彼と健太にくどくどと、あれもこれも忘れないようにと注意していた。今では私も口を開く気になれず、部屋の中には妙な静けさが広がった。健太が驚いたように何度も私を見つめ、隆介も何度か眉をひそめた。けれど、彼は結局何も言わなかった。翌日、二人はいつもと同じように出かけていった。またしても、私はこのがらんとした家にひとり取り残された。この機会に、私は自分の荷物をひとつひとつ整理し始めた。出ていくと決めた以上、未練なんて残さない。この家とは、もう一切関わりたくない。夢中で片づけをしているときに、健太の先生から電話がかかってきた。「三島(みしま)さん、今日は健太くんの小学校初めての保護者会ですが、ご主人と一緒に参加されますか?」口を開いたけれど、声が出なかった。健太は一度も私に、保護者会のことなんて話してくれたことがない。隆介も同様だった。結局、母親の私だけが、その知らせを一番最後に知った。私はその場を取り繕ってやり過ごしたが、夜、先生のSNSに投稿された保護者会の動画をふと目にした。画面の中の隆介はスーツをびしっと着こなし、その隣にはブランドのシルクドレスを身にまとった茜が立っていた。二人はまるで絵に描いたようにお似合いで、誰一人として、彼らが本当の夫婦じゃないなんて疑わなかった。その二人の間に立つ健太も、誇らしげに胸を張っていた。幼い声でみんなに紹介する――これが僕のパパとママだ、と。私は、自分がきっと悲しくなると思っ
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第5話
アシスタントが隆介に出番を促しに来たとき、彼は既にやや苛立っていた。このところ葵(あおい)の誕生日パーティーの準備に時間がかかりきりで、茜をほったらかしにしていることはわかっていた。たまに甘えてくるくらいなら可愛いものだが、いつまでも拗ねられては、さすがに付き合っていられない。彼の人生で、唯一根気強く接してきた女は葵だけだ。葵のことを思い出すと、なぜだか胸の奥がざわつく。自分の知らない何かが起きているような、不穏な気配がする。その制御できない感覚に、彼は少し戸惑いを覚えた。もしかしたら、最近葵が自分に冷たくなったせいかもしれない。実は、出会った頃から葵は常に冷静で、しっかり自分を保つ女性だと分かっていた。かつて、隆介は葵の自立した姿を心から高く評価していた。むしろ、彼女に深く惹かれていたと言っていい。だが次第に、彼は葵があまりにも自立しすぎだと感じ始めた。まるで、自分がいなくても彼女の日々は何の支障もなく続いていけるようだった。たとえ視力を失っても、彼女はそのすべての痛みを胸の奥にしまっておいた。彼女を打ち倒せるものなど何一つないかのように見えた。必要とされていないというこの感覚が、彼に深い挫折感を抱かせた。だからこそ、葵とは正反対の茜に出会ったとき、彼はあっという間に心を奪われた。茜が子猫のように彼の胸に寄りすがると、彼は何でもできるような気がした。刺激を求めて、茜がわざと葵の目の前で彼に甘えたとき、隆介は避けようともしなかった。そして、胸の奥で黒い思いがよぎった。もし葵が視力を失っていなかったなら、この光景を見て、ほかの女たちのように狂っただろうか、と。彼がどんなにひどい行動を取っても、葵は相変わらず冷静に彼を見つめていた。まるで何もかも、彼女にとってはどうでもいいことのように。隆介は怒り狂ったこともあった。だが頭が冷えたあと、ふと思い出したのだ。葵はもう目が見えない。彼女には、彼の怒りも、悔しさも、もう届かない。そう考えるうちに、隆介の中で葵への感情はだんだんと嫌悪に変わっていった。――もう、葵のことを愛してはいないのかもしれない。けれど、彼女の瞳に宿るあの冷たさを思い出すたび、胸の奥が何かにつかえたように苦しくなる。どうしようもなく、居心地が悪かった。
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第6話
これだけ時間があれば、見るべきものはすべて見えてしまったはずだ。周囲の人々は皆、奇異な目で彼を見つめ、茜はすでに顔を覆ったまま、どこかへ逃げ出していた。隆介はそんなことに構っていられず、考えるより先に葵へ電話をかけた。通話がつながった瞬間、彼は息を荒げて怒鳴った。「葵、どうしてこんなことをしたんだ!」葵の声は相変わらず落ち着いていて、むしろどこか笑みすら含んでいた。「隆介、私、視力が回復したの。全部、見えてたわ」頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。彼が意味を問いただそうとしたそのとき、電話の向こうから搭乗案内のアナウンスが流れてきた。隆介の胸に、突如として言いようのない不安が込み上げた。震える声で、彼は問いかけた。「葵、今どこにいるんだ?どこへ行くつもりなんだ?」プツッ——しかし、彼は答えを聞く前に電話を切られてしまった。……キャンパスでの生活は、久しぶりに心の安らぎを感じさせてくれた。私はすぐにこの場所に溶け込み、陽射しの降り注ぐ教室で授業を受け、新しい友人もできた。以前は目が不自由だったせいで、人に迷惑をかけたくなくて、ほとんど外出しなかった。その結果、私は自分を五年間も閉じ込めてしまい、隆介に嫌われ、健太に軽蔑される妻であり母になっていた。でも、もうすべては過ぎたことだ。その日、いつものように授業を終えたところで、先輩から突然電話がかかってきた。「葵、君の兄さんの子どもが見つかったよ」唇が震え、しばらくしてようやく声が出た。「どこにいるの?」両親は、私が十歳のときに事故で亡くなった。幼いころから、私は兄に育てられた。兄は私より十三歳年上だ。私を育てるために、私が大学二年になるまで結婚を先延ばしにして、ようやく義姉と一緒になった。けれど、神様はそんな兄に少しも優しくしてはくれなかった。姪が二歳のとき、兄は任務中に犯人の銃弾を受け、その場で息を引き取った。兄が私を大事にしてくれた分、義姉はずっと私にわだかまりを抱いていた。その後、彼女は姪を連れて海外へ行き、私との連絡を絶った。私が海外に来た理由の大きな一つは、彼女たちの行方を探すためだった。先輩が送ってくれたアドレスに辿り着くと、施設の隅で身を縮めている三島七海(みしま ななみ)の姿が見
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第7話
彼女には、ただただもっと優しくしてあげたい。一緒に絵本を見たり、体を洗ってあげたり、寝る前の物語を読んであげたりしていた。そんな日々が、静かに積み重なっていった。七海は本当にいい子で、私が根気よく接していくうちに、少しずつ心を開いてくれた。私が料理をしていると、いつも台所の入り口に立って、じっとこちらを見つめている。そして私が振り返ると、ほんのり柔らかい笑顔を見せてくれるのだ。そのたびに、胸の奥がじんわりと温かく、くすぐったくなる。もっと彼女に優しくしようと思ってしまう。その日も、私はいつもと同じように、彼女に物語を語って聞かせた。薄暗い灯りの下、七海はおとなしく布団にくるまり、瞳には私への信頼が宿っている。どういうわけか、その瞬間、ふと健太のことを思い出した。今、七海にしていること――それは、かつて健太にもしていたことだった。あの頃の彼は、私に対してただひたすら苛立っていた。彼は、私が目が見えないからアニメの内容が分からないと思い込んでいた。お風呂に入れてあげる時も、いつもお湯をこぼしてしまう。そして、寝る前に、物語を読み聞かせる時でさえ、点字で読むので、いつもたどたどしくなってしまう。彼は疎ましげに私を拒み、使用人に付き添わせて、私の側にいることさえも厭うそぶりを見せた。やがて茜が現れると、彼はますます私の顔を見ようとしなくなった。過去の記憶が心の奥を引きずり回し、思考がそこに絡め取られていたとき――ふと、掌にあたたかさを感じた。顔を下げると、七海の小さな手が私の手の上に重なっていた。彼女の声はふんわりと柔らかい。「おばさん、これからは私のママになってくれる?」大きな瞳がまっすぐに私を見つめている。その中には限りない期待が宿り、まるで私だけが彼女の世界のすべてであるかのようだった。その瞬間、胸の奥がふわっと暖かくなった。いつの間にか流れていた涙をぬぐい、笑って言った。「うん」……このまま穏やかに日々が続いていくのだと思っていた。けれどその日、七海を連れて買い物から帰ってきたときのことだった。車を降りた瞬間、家の前に立っている二人の思いがけない人物が目に入った。久しく会っていなかった隆介が、健太を連れて突然私の前に現れたのだ。隆介はずいぶん痩せて
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第8話
私は冷ややかに口角をわずかに引き上げた。「人違いよ。私はあなたのママじゃない」健太の頬を涙が次々と伝い落ち、全身を震わせながら泣き出した。「ママ、僕のこともう忘れたの?僕、健太だよ……」隆介の顔色も真っ青になった。「葵、俺が悪かった。君が俺を恨むのは当然だ。でも健太はまだ小さいんだ。そこまで冷たくすることないだろ?」しかし、私の心は微塵も揺るがなかった。ただ、滑稽だとしか思えない。私は冷笑して言った。「隆介、よくそんなことが言えるわね。目の見えない女を彼の母親にしたくないって言ったのはあなたでしょ?もう新しい『ママ』を用意してたくせに、忘れたの?」隆介の唇が震え、何か言おうとしたその時、家のドアを中から開けた。玄関に立っていた先輩は、目の前の光景をまったく予想しておらず、その場で呆然と立ち尽くした。突然、七海が勢いよく駆け出し、隆介と健太を指さして叫んだ。「パパ、彼らがママと私をいじめたの!」その突発的な一言に、場の空気が一瞬で凍りついた。隆介の体がぐらりと揺れ、握りしめた拳には青筋が浮かび上がった。しばらくして、彼は目を赤くしながら私に問いかけた。「葵、あいつは誰なんだ?」……私は何も説明せず、そのまま彼の横を通り過ぎて中へ入った。夜になると、外の空気は一気に冷え込んだ。隆介は玄関先に立ち尽くしたまま、健太もその隣で身をすくめ、どうしても離れようとしない。健太は頑なにこちらの方を見つめ、ときおり小さな手で顔をぬぐっていた。外の様子を見ながら、先輩はため息をついた。「説明してやったほうがいいんじゃないか?」以前、七海を実質的に引き取るために、やむを得ず一旦、先輩の戸籍に登録した。あくまで一時しのぎのつもりだったが、それでも先輩は七海をとても大事にしてくれた。私が学業で忙しいときは、時間を作ってよく面倒を見てくれたものだ。幼少期に父親の庇護を感じたことがなかったからであろうか、七海は次第に、先輩を実の父として受け入れ始めていた。私は少し笑って言った。「説明する必要なんてないわ。あの人とはもうとっくに終わったの」出ていく前に、私は彼のもとに離婚届を残してきた。もう彼とは、何の関係もない。さっとカーテンを引いて、外に立つ二人を遮った。あの夜、彼らがい
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第9話
しかしその夜のことだった。一陣の乱暴なノックの音で、私は深い眠りから叩き起こされた。ドアを開ければ、そこには健太を抱えた隆介が立ち、焦りと不安の表情を浮かべて私を見つめている。「葵、健太の具合が悪いんだ」……健太は高熱を出し、意識を失っていた。私たちはすぐに病院へと運び込んだ。幸い処置が間に合い、すぐに意識を取り戻した。やつれた顔の健太が私の手を握りしめ、離そうとしない。「ママ、まだ怒ってるの?僕、もう悪いことしないから……傍にいてくれない?」そのとき、もう一方の腕が小さく引っ張られた。「ママ、いつおうちに帰るの?」隣に立つ七海は、眠気で今にも目を閉じそうなのに、それでも必死に私を見上げていた。まるで、少しでも目を閉じたら私が消えてしまうとでも思っているようだ。私は微かに口元を緩めて言った。「ママがすぐにおうちに連れて帰るからね」私は健太の手をそっと振りほどき、足を踏み出そうとした瞬間、彼がわっと泣き出した。病床から身を起こし、私を引き留めようと手を伸ばした。「ママ、ごめんなさい。僕を置いていかないで……」「人違いよ。私はあなたのママじゃないの。すぐに新しいママができるよ」私は一瞬だけ足を止めたが、胸を引き裂くような泣き声を背中に受けて、七海の手を引いて病室を後にした。けれど、少し歩いたところで、隆介が私の前に立ちはだかった。「葵、七海が君の兄さんの娘だってことはもう知ってる。調べもした。あの男はただの先輩なんだろ?君……ほかの誰かを好きになったわけじゃないんだよな?だからさ、もう一度やり直そう!今までのことは全部水に流して、これからは七海と健太と一緒に、みんなで穏やかに暮らしていこう」私は勢いよく彼の手を振りほどき、嘲るように笑った。「隆介、あんたと茜が私の目前でやったあの汚らしいこと、まさか全部忘れたというのか?よくもまあそんな口がきけるわね」隆介は一瞬、硬直し、唇を何度か震わせたあと、やっとの思いで声を絞り出した。「自分の犯した罪は許されないってわかってる……だけどな、あれは君が一度も俺を頼って来なかったからだ。君はいつも強すぎて、一人でなんでもできちゃって、俺なんて全然必要ないみたいに振る舞うから……だから俺は、茜のような女に惑わされちまったんだ」彼の声は卑屈で、
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第10話
隆介もさすがに面目を失ったと思ったのか、それ以来、茜を遠ざけるようになった。だが茜はあきらめなかった。会社にまで押しかけて「妊娠した」と騒ぎ立て、彼に責任を取れと迫ったのだ。その頃、隆介は本当に彼女を家に迎え入れた。だがやがて気づいた――その子は自分の子ではない。実は茜は隆介のほかにも元カレとの関係を続けており、その結果、妊娠してしまったのだ。けれど彼女は隆介が与える贅沢な暮らしにすっかり慣れきっており、彼を縛り留めるために、その子を隆介の子供だと偽るしかなかった。当然、隆介は激怒した。弁護士を立て、茜にこれまで贈ったすべての贈り物を返せと要求した。二人の騒動は収拾がつかない大騒動となり、周囲の人々は面白がって好奇の目で見ていた。友人は少し躊躇い、続けた。「この前、追い詰められた茜が、隆介を脅すために健太くんを拉致したらしいよ。警察がすぐに救出に向かったおかげで、健太くんは怖い思いをしただけで、大事には至らなかったそうだ」私は軽くうなずいた。「そう。彼のことなんてもう関係ないわ。彼は白洲家の人、私は三島。今後は彼とは縁もゆかりもないんだから」私は静かに電話を切り、膝の上でうつ伏せに眠っている七海の髪をそっと撫でた。私の手の動きを感じ取ったのか、彼女は小さく身じろぎし、「ママ……」と寝言のように呟いた。思わず頬に微笑みが浮かんだ。そう――私は彼女の母親だ。これから先、彼女は私の唯一の子なのだから。私と七海の生活は、再び静けさを取り戻してきた。そんなふうに日々が過ぎていき、あっという間に一年が経ち、私の研修も終わりを迎えた。帰国の日、先輩が空港まで見送りに来てくれた。彼は七海の頭を軽く撫で、笑いながら私に尋ねた。「今後、また来る?」私も笑って答えた。「わからないわ。もう来ないかもしれないし、すぐにまた来るかもしれない」自分の未来に、もう制限を設けるつもりはない。ただ、七海を連れて兄に会いに行くべきだと思った。それに、隆介とのことにも、そろそろ決着をつけなければならない。たぶん、この一年の私の冷たさが、隆介にいろんなことを考えさせたのだろう。再び離婚を切り出したとき、彼はついに、静かにうなずいた。まるで償うかのように、彼は自分の財産の大部分を私に分け与えた。離婚の日
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