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第7話

Author: 流れ星
芽依が再び目を覚ますと、鼻をつく消毒液の匂いが、ここが病院であることを知らせていた。

病室のドアが開き、圭介が弁当箱を手にして立っていた。目が合った瞬間、圭介は嬉しそうに声を上げた。「芽依、目が覚めたんだな! どこか具合の悪いところはないか?」

彼の目は真っ赤に充血し、顎には青い無精髭が生えていた。髪は乱れ、服もあの日のままでシワだらけ、体にぴったりと貼りついている。潔癖症の彼が、こんな姿で人前に出るなんて普段ならあり得ないことだ。

芽依は彼を見たくなくて、顔をそむけて目を閉じた。

怒っているわけではなかった。ただ、深い絶望と力の抜けた諦めがそこにあった。

かつて愛し合っていた二人が、どうしてこんな関係になってしまったのか。

芽依は、いくら考えても答えを見つけることができなかった。なぜ途中から現れた美咲が、あっさりと圭介と智也を奪ったのか。

理解できなかったが、ただ一つ悟ったことがあった。――奪われるということは、最初から自分のものではなかったということ。ならば、なぜ自分をこんなにも苦しめる必要があるのだろう。

もう考えたくもないし、欲しくもない。

圭介は、彼女の目に浮かんだ拒絶の表情を見なかったふりをして、黙々と弁当箱を開け、勝手に話し続けた。「二日間も眠っていたんだ。今日目を覚ますと思って、お粥を作ってきたんだ」

「腕に切り傷があったから、腕のいい医者に縫ってもらった。抜糸したら皮膚科にも診てもらって、できるだけ痕が残らないようしてもらおう。他は大したことない。しっかり休めば大丈夫だよ」

「なあ、あの日何があったか分かるか?野良猫がいきなり飛び出してきて、中島看護師がびっくりしたんだ。免許を取ったばかりの初心者だから、慌ててハンドルを切って……それで車が転がり落ちたんだ。幸い斜面は高くなかったから、もし高かったら……」

その言葉は、突然開いた病室のドアによって遮られた。

「圭介、美咲が泣きながら頭がひどく痛いって言ってるんだ。お前は専門家だろ、ちょっと診てやってくれ!」

駆け込んできたのは、芽依と美咲の父だった。美咲が怪我をしたと聞き、夜通しで駆けつけたらしい。

「お義父さん、病院に運ばれたとき診たけど、美咲は軽い脳震盪です。安静にしていれば大丈夫ですよ」

続けて、圭介が眉をひそめて言った。「それより、お義父さん……芽依も怪我して
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