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10.課長のくせに、ちょっとずるい

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-26 16:11:25

午後六時を少し過ぎたオフィスには、キーボードを叩く音と、書類を束ねる紙の擦れる音が断続的に響いていた。

東都商事・営業二課。定時を過ぎても席に残っている社員はまばらで、誰もがそれぞれのペースで仕事の仕上げに取りかかっている。エアコンの風音がかすかに耳に届く程度の静けさのなか、晴臣はパソコンの画面を睨みながら、手元の資料を一枚めくった。

外はすでに陽が落ち、窓の外には夜景が広がっていた。街灯とビルの灯りがガラスに反射し、自分の顔と重なる。

斜め後ろの席から、ふと軽口まじりの声が聞こえた。

「いやー、岡田課長って、なんだかんだで仕事できるんすね」

「わかる。最初見たときは絶対やばいやつやと思ったけど、昨日のクロージングとか、めちゃスムーズやったし」

「たぶん、手抜いてるようで要所は押さえてんだよな」

こそこそとした声ではあったが、内容は明確だった。晴臣はマウスを持った手を止め、無意識に耳をそちらに傾けた。

そのとき、自分の胸の奥が、わずかにきしむような感覚を覚えた。

…それ、俺の方が、先に知ってた。

そう、誰に向けるでもなく、心の中で呟いた。

岡田佑樹は、ずるいほどに「力を隠す」人間だ。

何も考えていないような間延びした口調。シャツの襟元がずれていても気にせず、コンビニ袋をぶら下げて現れる。スリッパのまま会議室に入ってくる日もあった。あらゆる“だらしなさ”を隠そうともしないくせに、その裏で、仕事の核心だけはしっかりと握っている。

昨日の商談で空気を和らげたのも、今日のプレゼンで要所を押さえたのも、決して偶然ではない。

「課長、あの後またB社に連絡入れたみたいっすよ。なんか、納期調整も前向きらしいっす」

「え、マジ?やっぱやるじゃん、あの人」

笑い声が小さく起きる。

晴臣は、それに微笑むことも、苦笑することもなく、ただ背筋を伸ばして席を立った。

手元の書類をファイルに挟み、プリンターのある棚へと向かう。歩く先に、岡田の席があるのが視界の隅に入ってきた。

岡田は、デスクに肘をついて画面を見ながら、ペンを唇に当てていた。例によってネクタイは少し斜めになっていて、シャツのボタンもひとつ外れている。

声をかけようとしたそのとき、岡田のほうから先に顔を上げた。

「主任、ちょうどええとこ。ここの帳票、調整入れたの、あんたやろ?」

「ああ、はい。先週のデータとの差が出てたので」

岡田は目を細めた。

「よう気づいたなあ。助かったわ。…ほんま、頼りにしてるで」

その言い方に、変な重みはなかった。ただ、言葉の端々に、ごく自然に“信頼”が滲んでいた。

その瞬間、晴臣の胸に、何かがふっと芽吹いたような気がした。

その人が無防備に言葉を投げてくるからこそ、余計にそれを受け止めてしまう。警戒も、演出も、何もない。まっすぐにそう言われて、返す言葉が見つからなかった。

岡田は、また軽く笑った。

「主任、よう見てるなあ。ほんま感心する」

「……課長のやり方が、わかってきただけですよ」

「そう?どんなふうに?」

「ちゃんとやると、すごいじゃないですか」

その言葉に、岡田は「はは」と笑い、椅子にもたれかかった。

「んー、やるときはやるんよ?けどなあ…誰かがおってくれたほうが、やりやすいなあ」

「……」

その言葉は、冗談に紛れていた。

けれど、それを笑い飛ばすには、あまりにも“素”に聞こえた。

その場にいるのが自分だからこそ出た言葉なのか、それとも誰にでも言うのか、それはわからない。だが、あの低く抑えた声色と、視線の流し方に、どこか“甘え”のようなものが滲んでいた。

晴臣はふと、視線を岡田のネクタイに落とした。

やはり、今日も少しだけ曲がっている。

その曲がりは、彼の“余白”のように思えた。完璧じゃない。だからこそ、隣で見ていたくなる。

「……また曲がってますよ」

ぼそりと、いつものように呟いた。

岡田は首を傾げて笑う。

「せやろ?今日もなおしといてくれる?」

「……今日は、いいです」

「なんや、そっけないなあ」

「自分で、直してください」

そう言いながらも、晴臣の声はどこか柔らかかった。

自分でもわかっている。最初は、ただの“気になる人”だった。

でも今は違う。この人のそばにいることが、だんだん自然になってきている。

まだそれが何なのか、正確にはわからない。ただ、岡田が見せる小さな隙や、本音の匂いを感じるたびに、そこを埋めたくなるような衝動が湧いてくる。

支えたい、なんて、そんな綺麗な言葉じゃない。

ただ――手を伸ばしたい。

たったそれだけの、衝動だった。

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