９．手が、少しだけ触れた

昼過ぎの会議室には、静かな冷気が漂っていた。

本社九階、使われていないミーティングルーム。壁際に置かれた長机の上にはノートパソコンとプリントアウトされた資料、ミネラルウォーターのボトルが一本だけ転がっている。蛍光灯の白い光が、整然と並んだ文字の上に規則正しく落ちていた。

晴臣と岡田は、その一枚のモニターを挟んで、隣り合って座っていた。

「ここの数字、最新のデータに差し替えてあります」

晴臣は、画面の左下に表示されたグラフの棒を指さした。昨日まとめた収益率の推移に、今朝の更新分が追加されている。

岡田はそれを覗き込むように身を乗り出し、頷いた。

「うん、ええんちゃうかな。こっちのページとの整合も取れてるし」

「……よかったです」

会議室の空調が低く唸る音だけが、ふたりの間を満たしていた。資料のチェックは順調で、進行にも滞りはない。だが、そのわりには、空気に不思議な緊張が漂っていた。

問題は、距離だった。

晴臣の左肩と、岡田の右肩が、あと数センチで触れ合いそうな距離。座面を調整することもできたが、それをするには、なぜか妙な意識が働いた。

画面をスクロールしようと、晴臣がマウスに手を伸ばした、そのときだった。

「……っ」

岡田の指先と、晴臣の手の甲が、わずかに触れた。

ほんの一瞬。指の腹が、かすかに沈む感触。

熱というより、柔らかさだった。紙をめくるような軽さで、それでいて確かに、相手の温度がそこにあった。

音もなく、ふたりは動きを止めた。

岡田がマウスを持っていた手をすっと引いた。晴臣はそのまま、触れた手を机の上に残したまま、モニターに視線を戻した。だが、もはや画面の文字は頭に入ってこない。

たったそれだけの接触だったのに、手の甲に残った感触は、微かに痺れているようだった。

岡田はすぐには何も言わなかった。

ややあってから、ぽつりと呟いた。

「……なあ、こういうの、苦手なん？」

「……なんの話ですか」

一瞬だけ空いた沈黙を、晴臣の声が断ち切った。だが、その声は普段よりもわずかに硬かった。

岡田は、それに気づいていないふりをしたのか、本当に気づかなかったのか、視線を画面に戻したまま、口元だけで笑った。

「いや…あんま、距離詰まるん、得意ちゃうんかな思て」

「別に、仕事で必要なら詰めます」

「はは、そらそうやな」

岡田はまた一口、ペットボトルの水を口に運んだ。喉仏が静かに動いた。

晴臣は、こめかみのあたりで自分の脈が微かに跳ねているのを感じた。自分でも、なぜここまで神経が反応しているのかわからなかった。

何もなかった。ほんの一瞬、手が触れただけだ。よくあることだ。よくあるはず、なのに。

「……すみません、スクロール、お願いします」

声が乾いていた。

岡田が「おう」と短く返し、代わりにマウスを動かした。

画面がスライドし、次のページへと移る。今度は社内のリソース配分の図表。そこには特に引っかかる点もなく、晴臣はそれに対して短く頷いた。

「ここも、このままでいいと思います」

「うん。てか、やっぱり主任は細かいとこよう見てるなあ。こういうとこ、俺には無理やわ」

「岡田課長こそ、さすがでした。昨日のB社、あの空気を変えられる人、なかなかいません」

そう言った瞬間、岡田がちらりと晴臣を見た。

その目は、どこか穏やかで、けれど底の方に小さな鋭さが光った。

「…誉めたら、なにか奢らされそうやな」

「そういうつもりじゃ」

「わかってるて」

岡田は、そう言いながら笑った。だがその笑みの裏に、ふっと何かが隠れた気がした。

沈黙が落ちた。だが、不快なものではなかった。ただ、音のないところに、触れてはいけないものがふわりと浮かんでいるような、そんな空気。

晴臣は、無意識に手の甲を左手で覆った。さっき触れた場所。もう温度は消えているはずなのに、まだそこだけ、皮膚が違う感触を持っているようだった。

「……あの」

声を出しかけて、やめた。

何を言おうとしたのか、自分でも定かでなかった。ただ、岡田の横顔が、ほんの少しだけ真剣に見えたこと。それが頭から離れなかった。

岡田がマウスを操作しながら、ぽつりと呟いた。

「触れるのって、怖いことやと思う？」

晴臣は答えなかった。

いや、答えられなかった。

答えてしまえば、何かが変わってしまう気がしたから。

空調の風が、ふたりの間を抜けていった。触れた手の感触も、その問いかけの温度も、静かに空気の中に溶けていった。