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4.放っておけるほど、無害じゃなかった

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-24 15:49:57

夕方のオフィスには、日中のざわめきがすっかり落ち着いた静けさが満ちていた。窓際のブラインド越しに射す西日が、デスクの上に淡い陰影を落とし、コピー用紙の白がやわらかく色づいている。天井の蛍光灯がまだ点いたままなのが、時間の移ろいを少しだけ鈍くさせていた。

牧野晴臣の手元には、B社からの返品処理に関する書類が広がっていた。受領書と出荷明細、倉庫伝票に照らし合わせるように視線を走らせながら、右手はスマートフォンを握っている。通話先はB社の購買担当。トーンを抑えた交渉口調で、トラブルの経緯を説明していた。

「型番違いが原因だとしても、御社側の注文書に誤記があったことは確認済みです。こちらとしては再納品の責任を負う形になりますが、送料についてはそちらとの折半を…」

声の調子は冷静だった。だが書類のページをめくる指先には、かすかに力がこもっていた。

そのときだった。

「牧野くん」

すぐ隣から呼びかける声がして、晴臣は視線をわずかにだけ逸らした。岡田佑樹が、手に一枚の資料を持って立っていた。

無言で差し出されたそれは、B社との取引履歴のコピーだった。手書きの赤ペンで、いくつかの項目に印がつけられている。中でも一か所、型番の変更履歴が丁寧に丸で囲まれていた。

「それ、B社の型番ミスやわ。去年から変わってる。これが新しいやつ」

電話を持ったまま、晴臣は書類を受け取った。指先が岡田の手に一瞬だけ触れそうになり、けれど、その寸前で互いにわずかに引いた。紙を挟んだままの距離感。ほんの、数センチの隔たり。

晴臣は何も言わずに書類に目を通した。赤ペンの筆跡は意外なほど整っていて、無造作ではあるが、必要な箇所だけを的確に拾っている。几帳面というより、情報を絞り込む力がある。そんな印象だった。

「……見てたんですか?」

晴臣は電話を切ったあと、静かに尋ねた。

岡田は首を傾げ、ゆるい笑みを浮かべる。

「見てたというか……見てまうんよな、あんたのこと」

言葉がふわりと宙に漂い、オフィスの静けさの中に沈んだ。

その声はいつもより、ほんの少しだけ低く響いた。

晴臣は何かを返しかけたが、喉元で止めた。言葉にならない感情が、口の内で滲んだだけだった。どう返せばいいのか分からない。岡田の言葉が冗談なのか、それとも何か別の意味を含んでいるのか、その境界が見えなかった。

岡田は肩をすくめ、軽く笑った。

「まあ、主任さんおらんかったら、俺詰んでるけどな」

冗談めかしたその一言に、空気が少し緩む。だが晴臣の目線は、なおも岡田の手元に落ちていた。書類を指し示した指先は細く、長く、関節のあたりに小さなペンのインクがついていた。普段のだらしなさとは裏腹に、その手元は妙に真面目で、仕事に触れているときだけ別人のように静かだった。

(放っておけるほど、無害じゃない)

晴臣は、自分の胸に浮かんだ言葉に小さく目を細めた。

岡田は、のんびりしていて、雑で、朝には弱く、ネクタイをまともに締められない。なのに、いざというときには必要な情報を的確に拾い、部下のサポートに回るだけの観察力がある。気がつけば、視線を向けられていたという感覚さえ、いつの間にか自然に思えてきている。

「ありがとうございます。助かりました」

ようやく言葉にして返すと、岡田は「なんや、珍しいな」と言って目を細めた。

「牧野くんに素直に礼言われるの、初めてかも」

「必要なときは言いますよ」

「ほんまかいな。素直やないなあ」

また笑う。冗談のように、軽口のように聞こえるのに、その笑いの奥には微かに寂しさが滲んでいた。

晴臣は無意識に視線を逸らした。

書類の上に落ちた西日の線が、岡田の手の甲を斜めに照らしていた。そこに浮かぶ血管の色、ペン跡、そしてどこか頼りなさをまとった影。それらがひとつに混ざって、胸の奥に妙な感情だけが残った。

言葉にできない何かが、静かに、確かに根を張り始めていた。

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  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   10.課長のくせに、ちょっとずるい

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  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   9.手が、少しだけ触れた

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