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5.初日が終わって、ネクタイはまだ曲がっていた

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-24 15:50:14

ビルの照明は徐々にその白さを際立たせ始めていた。窓の外には茜色が滲み、街のビル群の端が、沈みゆく夕陽に照らされて輪郭を浮かべていた。午後六時を少し回った頃。営業二課のフロアには、すでに数人の社員しか残っていなかった。

牧野晴臣のデスクには、まだ積み上がった書類が数センチほどの厚みで残されていた。得意先の契約更新に向けた資料整理と、社内報告用の文書修正。日中には進められなかった分の業務が、ひとつずつ彼の手元で処理されていく。

彼の左隣の席──岡田佑樹のデスクは、すでに空だった。椅子が少し引かれたままになっていて、そこにあったはずのコーヒーカップももう片付けられている。

晴臣は手元の文書に目を落としつつ、パソコンのキーボードを手早く打った。議事案のドラフトファイルを添付して、課内メーリングリストに送信予約をかける。内容を二度見して、ミスがないかを確認し、指先をわずかに止めたときだった。

「先帰るわ。お疲れさん」

背後から聞こえた声に、晴臣はゆっくりと顔を上げた。

岡田が、ロビーへ続く通路の手前に立っていた。ジャケットのボタンは留めず、肩から掛けたカバンが少し斜めになっている。昼間よりは多少まともに見えるものの、ネクタイの結び目はやはり曲がっていた。夕暮れの光を背にしたその姿は、どこか頼りなく、しかし妙に目を惹いた。

晴臣は立ち上がりもせず、椅子に座ったまま声を返した。

「明日の朝会、議事案送っておきます」

岡田はふと立ち止まり、振り返った。

その動作に合わせて、窓の外から差し込む斜陽が彼の頬に淡く影を落とした。無造作に整えられた髪と、ゆるい笑み。胸元のネクタイはやはり左右非対称で、結び目がわずかに上を向いていた。

晴臣は、ほんの一瞬、口を開きかけた。

「課長、ネク…」

だがその言葉は途中で喉奥に消えた。

言うべきかどうか、判断がつかなかったわけではない。ただ、今日一日で幾度となくそのネクタイに目を留めてきた自分自身が、今更それを指摘することに、理由のない躊躇を覚えた。

岡田は何も言わず、再び背を向けた。

革靴の音が遠ざかる。自動ドアが開閉する際の短い電子音とともに、彼の姿はガラス越しのロビーに移り、やがて外の街灯の下に消えていった。

晴臣はその背中を見送りながら、再び視線を窓の外へと向けた。西の空にはまだ赤みが残っており、その光が斜めに差し込んで、床に長く影を落としている。

ガラスに映る自分の姿は、いつもと変わらないはずだった。だが胸の奥には、言葉にできないわずかなノイズがあった。

不完全なネクタイ。頼りなさそうな背中。けれど、時折見せる有能さと、言葉の端々に滲む不意打ちのような本音。岡田佑樹という人間は、全体像が掴めそうでいて、どこか決定的な部分が欠けている。だからこそ、見るたびに気になってしまう。

書類のページをめくる手が、ふと止まった。

晴臣は自分でも意識しないまま、再び椅子に背を預け、目を細めた。あの人のネクタイは、どうしてあんなにも整わないのか。簡単なようで、なぜか直せないまま終わる。その様子が、奇妙に心に残る。

(あの人のネクタイは、やっぱり今日も曲がったままだった。なのに、なぜかそれが妙に気になって仕方なかった)

そんな思いだけが、静かに胸の奥に残った。

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