เข้าสู่ระบบ空がうっすらと濁った灰色をしていた。十月に入ってからというもの、東京の朝はすっかり肌寒くなってきたが、今朝の曇り空は、それ以上にどこか気怠さを含んでいた。
「……あ、あの人……また」
出社のタイムカードを切るよりも先に、晴臣の視線は自然とガラス扉の向こうに吸い寄せられた。
岡田佑樹。営業二課に異動してきたばかりの新しい課長。大阪支社での実績はあるらしいが、ここではまだ「何をしている人なのか」も判然としない存在で、だがひとつだけ確かなのは、そのだらしなさだ。
今日も変わらず、寝癖を散らした髪に、しわの寄ったシャツ、そして決定的にズレたネクタイ。その先にあるコンビニのビニール袋とコーヒーの紙カップが、彼の「社会人らしさ」にとどめを刺していた。
ゆるい足取りでフロアに入ってきた岡田は、晴臣に軽く顎をしゃくって挨拶をした。
「おはようさん」
「……おはようございます」
ごく自然に返したが、声に微かな諦めが滲んでしまった気がした。
それでも、晴臣は鞄を置いてから席につき、資料に目を通す。八時五十五分。定例の朝会議まであと五分。岡田もようやく自席に腰を落とし、コーヒーの蓋を静かに開けた。
彼のその隣、数席離れたところから、晴臣は無意識に視線を向けていた。
ネクタイの結び目が、また右に傾いている。シャツのボタンは、たぶん気づいていないのだろう、下から二番目だけ微かに浮いている。その下の鎖骨のあたりが、うっすらと見えた。
会議の開始を告げるチャイムが鳴る。
社内会議室。営業二課の定例ミーティングは、木曜の朝に行われる。部員全員が揃う中で、今週の進捗と来週の展望を確認し合う、社内では比較的重要な時間帯だった。
晴臣は前に出て、プロジェクターに繋いだノートPCを操作する。
「それでは、今週の進捗を報告いたします。まず、A社との件ですが……」
声は落ち着いていた。緊張感のある内容でも、晴臣の話し方には安定がある。言葉を噛むこともなく、要点を押さえた説明に、部員たちの頷きが続く。
だが、岡田はというと、手元のノートに視線を落としたまま、ほとんど何も反応を見せなかった。シャーペンの先が紙の上を擦る音だけが、わずかに聞こえる。
「……」
晴臣は話しながらも、その様子が視界の隅に入り続けていた。
——この人、ちゃんと聞いてるんだろうか。
課長であるにもかかわらず、一切の口出しをせず、ただペンを走らせるふりをしているようにしか見えない。だが時折、ふとこちらの方に目をやっている気配もある。完全に関心がないわけではないのかもしれない。
「以上です。資料は追って、共有フォルダにアップいたします」
報告を締めて席に戻ると、すぐに別の部員が次の議題を話し始めた。岡田は相変わらず何も言わず、紙コップのコーヒーに口をつけるだけだった。口元が緩く開いて、眠気をごまかすような小さなあくびがこぼれる。
その無防備な様子に、晴臣の眉がわずかに寄った。
…何なんだ、この人は。
言いたいことはいくつもある。だがそれを口にした瞬間、何かが崩れてしまいそうで言えない。彼の態度は、どうにも“人の隙”を見透かしてくるような妙な柔らかさがあって、怒ることさえも無意味に思えてくる。
会議が終わり、椅子の軋む音が連鎖的に起きた。ざわざわと社員が会議室を出ていく中、晴臣は一瞬、岡田の側を通り過ぎるときに足を止めた。
「……ネクタイ、また曲がってますよ」
それは、誰にも聞こえないくらいの小さな声だった。だが岡田はその言葉にちゃんと反応した。
ゆっくりと顔を上げて、晴臣を見た。
そして、口元にあの飄々とした笑みを浮かべた。
「おおきに」
言われた側が、どう返していいのかわからなくなるような、間の抜けた、けれどどこか艶っぽい微笑だった。
その笑みの下で、ネクタイの結び目がだらしなく斜めになっていた。晴臣は一瞬だけその首筋に目を奪われる。浅く開いたシャツの襟元。あの肌は、柔らかそうで、触れたらきっと温かいのだろうと、そんなことを考えてしまった。
「……いえ、別に」
言い残して晴臣は会議室を出た。扉の外で一度、深く息を吐いた。
胸の内で、何かがざらりと動く。
あの人のネクタイが曲がっているたびに、どうしてこんなにも気になってしまうのか、自分でもわからない。
整っていないものを、整えたくなるのは、ただの性分なのだろうか。それともーー
スマートに片付けたはずの心が、だらしない誰かのせいで、少しずつ崩されていく。
そんな気がしていた。
雨の音は、途切れることなく窓を叩いていた。細かく規則的なその音は、まるで遠い記憶の断片を呼び起こすように、静かに部屋の隅々へと染み渡っていく。時計の針は深夜を越えていたが、岡田の部屋には眠気の気配すらなかった。ただ、沈黙だけが、長く、深く、そこにあった。晴臣は、まだ岡田の隣に座っていた。ソファの端と端を使っていたはずの距離は、気づけばぴたりと寄り添っていた。互いの肩がわずかに触れ合うその距離。体温が交差するたび、息の仕方さえも静かに変わっていく。岡田はずっと黙っていた。晴臣の手を握ったまま、ゆっくりと、言葉を選んでいた。小さな呼吸の合間に、肩が少しだけ動く。やがて岡田は、晴臣の肩へとそっと手を伸ばした。躊躇いがちに触れたその手は、ほんのわずかに震えていたが、それでも確かに触れていた。「…俺も、好きなんや」岡田の声は低く、かすれていた。けれど、その一言には迷いがなかった。過去に縛られてきた自分を、今、ほんの少しだけ前に進ませるような…そんな勇気が滲んでいた。「…あんたのこと、ほんまに、好きや」その言葉に、晴臣は何も答えなかった。ただ、肩に置かれた岡田の手に、自分の指をそっと重ねた。それは会話でも約束でもなかった。ただそこに、静かに触れるという選択だった。触れられた岡田の指が、ほんの少しだけ、強く晴臣の手を握り返す。ふたりの手のひらに伝わる温度は、熱すぎず、冷たすぎず、ただ優しくそこにあった。過去の傷も、恐れも、不安も、その一瞬だけはすべて静まっていた。外では、まだ雨が降り続いている。窓を叩く雨粒の音が、ゆっくりとしたリズムを刻み、室内の静けさに柔らかく溶け込んでいた。まるでふたりを包み込むように、どこまでも穏やかに。岡田は、まっすぐ前を見つめたまま、ぽつりと呟いた。「俺な…たぶん、これからも臆病なままやと思う。過去のことも、きっと完全には割り切れへんし、自信なんてすぐには持たれへん」「…」「でも、それでも&he
岡田はソファに沈むように身を投げ出し、背もたれに頭を預けていた。吐く息は浅く、胸の奥に残る熱が抜けきらずにいる。言葉をぶつけ合ったあとの空白が、部屋の空気にじっとりと沈殿していた。さっきまでの雨は弱まり、窓の向こうでは水の粒が静かにガラスを滑り落ちていく。けれど、外の世界が静かになればなるほど、室内の音がいやに耳に残った。時計の秒針が一秒ごとに空気を割って、はっきりと響く。岡田は手のひらで顔を覆い、そのまましばらく動かなかった。肩はほんのわずかに揺れていたが、それが呼吸の乱れなのか、感情の波なのかは分からなかった。ただ、その姿には、男の弱さと脆さが凝縮されていた。晴臣は何も言わず、そっと岡田の隣に腰を下ろした。ソファのクッションがわずかに沈む。距離は触れられそうで触れない、けれど逃げられないほどには近い。そのまま、何秒か、あるいは何分か、ふたりは何も言わなかった。沈黙が会話の続きを催促するように、部屋にじんわりと広がっていた。「…俺」晴臣の声が、深く低く、部屋の空気に溶けた。「課長の過去ごと、好きです」岡田の肩がわずかに揺れた。顔を覆っていた手がゆっくりと降りていき、岡田は無言のまま視線を前に落とした。涙の跡が頬に一筋残っている。けれどその表情には、もう拒絶の色はなかった。「お前、ほんまにアホやな…」そう呟いた岡田の声は、掠れていた。喉が乾いているような、かすかに震える響きだった。「なんでそんな、丸ごと好きになんねん」「好きになった人の一部だけ好きなんて、俺にはできません」晴臣は横を向いた。「だって、それじゃ“人”じゃなくて、理想しか愛せないじゃないですか」岡田は、言葉の意味を噛みしめるように目を伏せた。「俺、前にも言いましたけど…あんたを抱いた責任を取りたいだけじゃないんです」晴臣の声は、決して強くはなかった。けれど、それはまっすぐに岡田の胸の奥へ届いた。「俺があ
給湯器の低い唸りが、沈黙の部屋にぼんやりと響いていた。窓の外では、まだ雨が細く降り続いている。空気はぬるく湿って、梅雨の夜特有の重たさを含んでいた。リビングのソファには岡田が、対するようにダイニングテーブルの椅子に晴臣が腰を下ろしている。互いの距離は、まるで踏み込めない境界線のように、不自然にあいたままだった。岡田は煙草を咥えようとして、けれど途中で思い直したのか、ライターを握ったまま手を膝に置いた。その拳がわずかに震えていた。「…だからな」沈黙を破った岡田の声は低く、掠れていた。「俺は、お前を幸せにする資格なんてあらへんのや」「資格?」晴臣の声が、それにすぐ返る。「そんなもの、誰が決めるんですか」「決まってる。俺自身や」晴臣は顔を上げた。湿った空気に息を吸い込み、少しの間、言葉を選ぶように唇を閉じる。「またそれですか。逃げる言い訳に、自分を下げるのは」「ちゃう、逃げてへん。俺はただ…分かってんねん。俺と一緒におっても、お前は損するだけやって」「損得で人を好きになるわけじゃないです」岡田の顔がぴくりと動いた。「…お前は若い。まだなんぼでも可能性ある。もっとええ男も、ええ人生もある。こんな冴えへん課長の隣で止まるな」「止まってるのは課長の方です」返ってきたその言葉は、刃物のように鋭く静かだった。岡田は口を開きかけたが、何も言えずに俯いた。こめかみを押さえるように片手を額にやり、もう片方の手の拳は膝の上で震え続けていた。膝に力が入り、テーブルの上にぽたりと一滴、水が落ちる。さっきまで髪に残っていた雨のしずく。それが晴臣には、岡田の涙のように見えた。「…なんで、そんなに俺に食らいついてくんねん」岡田がぽつりとこぼした。「傷つくのが怖ないんか。俺はお前に痛い思いさせるかもしれんのに」「それでもいいと思えるほど、好きなんです」その言葉に岡
街灯の明かりが滲むほどの、濡れた空気だった。午後十時を回ったばかりの夜、会社帰りの人々が通り過ぎていく中で、晴臣はただひとり、動かずに立っていた。スーツの肩には水滴がいくつも浮かび、髪は額に張りついている。雨は容赦なく降り続き、背広の生地を重く染めていたが、彼は傘を持たなかった。ポケットに手を入れるでもなく、スマートフォンを取り出すこともせず、ただマンションの入り口に身じろぎもせず立ち尽くしていた。湿ったアスファルトから立ち上る匂いが鼻を刺す。遠くで車のクラクションが鳴ったが、晴臣の目は、ただエントランスの奥をまっすぐに見据えていた。ようやく足音が聞こえたのは、日付が変わる少し前のことだった。マンションの角を曲がったその人影を、晴臣はすぐに見分けた。岡田だった。駅からの帰り道、肩を少しすぼめて歩いてくるその姿は、いつもと同じようにスーツのジャケットがよれていた。ネクタイは緩められ、革靴の音はどこか疲れた調子で、急ぐ様子もないまま雨に濡れながら近づいてくる。だが、玄関前に立つ晴臣に気づいた瞬間、岡田の足が止まった。「…は?」声にならないつぶやきが、唇から零れた。傘も差さず、ずぶ濡れのまま彼を見上げる晴臣の姿に、岡田は明らかに面食らった表情を浮かべた。慌てたように鞄から折りたたみ傘を取り出しかけて、けれど途中でその動きを止める。「おま…なんで、こんなとこで…」声が、どこか揺れていた。晴臣は、なにも言わなかった。ただ視線を逸らさず、じっと岡田を見ていた。額に張りついた前髪の下、睫毛には雨粒がいくつも残っている。その瞳は冷たくもなく、ただ静かで、どこまでも真っ直ぐだった。岡田は眉をひそめ、困ったように笑う。「何してんねん…風邪ひくで。アホちゃうか」近づいてきた彼は、自分の傘を差し出そうとするが、そこで指がわずかに震えているのに気づいた。晴臣の前に立った瞬間、その震えは少し大きくなった。「傘くらい…持って来いや…」
夜風が吹き抜けるたびに、街の色が少しずつ滲んで見えた。電車を降りた晴臣は、駅前の歩道を歩きながら、ポケットの中の指先を握りしめていた。スーツの上着では風を防ぎきれず、肌の奥にまで冷たさが染みてくる。ひと駅分、ふたりで並んで帰るはずだった道。あの給湯室の会話のあと、岡田は何も言わず背を向けて歩き出し、晴臣も追うことはできなかった。黙ったままエレベーターに乗った岡田の背中を、遠くから見ているしかなかった自分が、今も胸の奥で引っかかっていた。足は自然に、職場近くの小さなコンビニへ向かっていた。理由はなかった。何かが欲しかったわけでもない。ただ、何かをするふりをしていたかっただけだった。自動ドアが開くと、店内の暖かさが一瞬で頬を撫でた。明るすぎる蛍光灯と、静かに流れる店内音楽。誰もいない時間帯のせいか、店員はレジ奥で何かを仕分けていた。晴臣はコーヒーの冷蔵棚の前に立ち、手を伸ばす。指先が缶の金属に触れる。ひんやりとした冷たさが、今の気持ちと重なった。棚から取り出した缶をそのまま持ってレジに向かい、無言で会計を済ませる。外に出ると、風が一層冷たくなっていた。自販機の横にある木のベンチは、雨の名残を吸い込んで、どこか暗く沈んでいる。その脇に立ち、缶を開けた。プルタブの開く音が、思ったよりも乾いて響いた。ひと口飲むと、甘さが喉に絡んだ。いつもなら仕事の合間に飲んでいる味のはずなのに、今夜はただ、胸の奥を鈍く刺激するだけだった。ポケットに入れていたもう一方の手が、無意識に傘の取っ手を探して空振りする。そうだ、と小さく思う。傘は岡田に預けたままだった。それがなんだ、と自分に言い聞かせる。返してもらう必要はない。そんなもの、ただの荷物だ。けれど、岡田がその傘を今、どこに置いているのか。ちゃんと家まで持って帰ったのか。そんなことばかりが頭に浮かんで、捨てられていたらどうしよう、なんてくだらない想像すらしてしまう。缶を持つ指先に、じわりと冷たさが滲む。ひと口、またひ
残業時間が終わっても、オフィスの空気はまだ動いていた。プリンターの熱と、蛍光灯の白が、夜の帳を忘れさせている。人の気配はまばらで、カーペットの上を歩く音さえ、やけに響いた。晴臣は、自分の机の前で立ち尽くしていた。モニターには、保存を促すポップアップが点滅している。指先がマウスに触れたまま動かない。視線の先、少し離れたデスクで岡田が書類を鞄にしまっているのが見えた。その仕草はいつも通りだった。無造作にまとめた資料、緩んだネクタイ。けれど晴臣には、それが別人のように感じられた。同じ空間にいても、手を伸ばしても届かない場所に立っているようだった。岡田が出口の方へ歩き出す。晴臣は、その背に声をかけた。「…課長、ちょっといいですか」岡田が振り向く。少し驚いたように目を細め、笑みを浮かべた。「なんや、真面目な顔して。説教か?」「そうじゃないです。…話がしたくて」「話?」「はい。少しだけでいいので」岡田は一瞬、逡巡した。けれど晴臣の表情に冗談の余地がないことを悟ったのか、小さく息を吐いて頷いた。「わかった。…給湯室でええか。ここやと人の目あるしな」二人は並んで給湯室へ向かった。夜のオフィスは広すぎるほど静かで、廊下の先にある蛍光灯の明かりが遠く見えた。足音が重なり、すぐにずれていく。そのわずかなずれが、晴臣の胸に痛く響いた。給湯室のドアを閉めると、世界の音が消えた。代わりに、給湯器のモーターが低く唸る音が、一定のリズムで流れ続けている。二人の息遣いだけが、その音に交ざっていた。岡田が壁際にもたれた。腕を組み、いつもの軽い調子で言う。「で、話って?」晴臣は少し唇を噛んだ。言葉を選ぶ時間を稼ごうとしたが、選べるほど冷静ではなかった。「課長、俺…