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6.ぬるい朝と、冷えた会議室

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-24 15:50:45

空がうっすらと濁った灰色をしていた。十月に入ってからというもの、東京の朝はすっかり肌寒くなってきたが、今朝の曇り空は、それ以上にどこか気怠さを含んでいた。

「……あ、あの人……また」

出社のタイムカードを切るよりも先に、晴臣の視線は自然とガラス扉の向こうに吸い寄せられた。

岡田佑樹。営業二課に異動してきたばかりの新しい課長。大阪支社での実績はあるらしいが、ここではまだ「何をしている人なのか」も判然としない存在で、だがひとつだけ確かなのは、そのだらしなさだ。

今日も変わらず、寝癖を散らした髪に、しわの寄ったシャツ、そして決定的にズレたネクタイ。その先にあるコンビニのビニール袋とコーヒーの紙カップが、彼の「社会人らしさ」にとどめを刺していた。

ゆるい足取りでフロアに入ってきた岡田は、晴臣に軽く顎をしゃくって挨拶をした。

「おはようさん」

「……おはようございます」

ごく自然に返したが、声に微かな諦めが滲んでしまった気がした。

それでも、晴臣は鞄を置いてから席につき、資料に目を通す。八時五十五分。定例の朝会議まであと五分。岡田もようやく自席に腰を落とし、コーヒーの蓋を静かに開けた。

彼のその隣、数席離れたところから、晴臣は無意識に視線を向けていた。

ネクタイの結び目が、また右に傾いている。シャツのボタンは、たぶん気づいていないのだろう、下から二番目だけ微かに浮いている。その下の鎖骨のあたりが、うっすらと見えた。

会議の開始を告げるチャイムが鳴る。

社内会議室。営業二課の定例ミーティングは、木曜の朝に行われる。部員全員が揃う中で、今週の進捗と来週の展望を確認し合う、社内では比較的重要な時間帯だった。

晴臣は前に出て、プロジェクターに繋いだノートPCを操作する。

「それでは、今週の進捗を報告いたします。まず、A社との件ですが……」

声は落ち着いていた。緊張感のある内容でも、晴臣の話し方には安定がある。言葉を噛むこともなく、要点を押さえた説明に、部員たちの頷きが続く。

だが、岡田はというと、手元のノートに視線を落としたまま、ほとんど何も反応を見せなかった。シャーペンの先が紙の上を擦る音だけが、わずかに聞こえる。

「……」

晴臣は話しながらも、その様子が視界の隅に入り続けていた。

——この人、ちゃんと聞いてるんだろうか。

課長であるにもかかわらず、一切の口出しをせず、ただペンを走らせるふりをしているようにしか見えない。だが時折、ふとこちらの方に目をやっている気配もある。完全に関心がないわけではないのかもしれない。

「以上です。資料は追って、共有フォルダにアップいたします」

報告を締めて席に戻ると、すぐに別の部員が次の議題を話し始めた。岡田は相変わらず何も言わず、紙コップのコーヒーに口をつけるだけだった。口元が緩く開いて、眠気をごまかすような小さなあくびがこぼれる。

その無防備な様子に、晴臣の眉がわずかに寄った。

…何なんだ、この人は。

言いたいことはいくつもある。だがそれを口にした瞬間、何かが崩れてしまいそうで言えない。彼の態度は、どうにも“人の隙”を見透かしてくるような妙な柔らかさがあって、怒ることさえも無意味に思えてくる。

会議が終わり、椅子の軋む音が連鎖的に起きた。ざわざわと社員が会議室を出ていく中、晴臣は一瞬、岡田の側を通り過ぎるときに足を止めた。

「……ネクタイ、また曲がってますよ」

それは、誰にも聞こえないくらいの小さな声だった。だが岡田はその言葉にちゃんと反応した。

ゆっくりと顔を上げて、晴臣を見た。

そして、口元にあの飄々とした笑みを浮かべた。

「おおきに」

言われた側が、どう返していいのかわからなくなるような、間の抜けた、けれどどこか艶っぽい微笑だった。

その笑みの下で、ネクタイの結び目がだらしなく斜めになっていた。晴臣は一瞬だけその首筋に目を奪われる。浅く開いたシャツの襟元。あの肌は、柔らかそうで、触れたらきっと温かいのだろうと、そんなことを考えてしまった。

「……いえ、別に」

言い残して晴臣は会議室を出た。扉の外で一度、深く息を吐いた。

胸の内で、何かがざらりと動く。

あの人のネクタイが曲がっているたびに、どうしてこんなにも気になってしまうのか、自分でもわからない。

整っていないものを、整えたくなるのは、ただの性分なのだろうか。それともーー

スマートに片付けたはずの心が、だらしない誰かのせいで、少しずつ崩されていく。

そんな気がしていた。

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