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7.商談は、静かに崩れていく

مؤلف: 中岡 始
last update تاريخ النشر: 2025-10-25 16:08:47

窓の外は青空だったが、会議室の空気はどこか淀んでいた。

午後一時過ぎ。B社・本社ビル六階の応接会議室。天井の照明が白々しく照らす中、晴臣はスーツの上着の袖口を指先でなぞりながら、正面に座る中年の男性に視線を向けていた。

「……では、こちらの条件変更について、ご説明させていただきます」

ゆっくりと、しかし明瞭に言葉を選んで口にする。

「従来の納期設定では、我が社としても品質管理の面でリスクが生じる可能性がありまして…そのため、今後は月末納品を翌月第1週まで延長いただければと」

斜め前に座るB社の営業部長、福永は無言のまま、分厚い資料の2ページ目に目を落とした。眼鏡の奥の目が動かない。静かすぎる。

晴臣は、少しだけ口元を引き締めた。

「もちろん、出荷スケジュールは極力調整しますが、安全性を最優先にしたいと考えております」

沈黙が続いた。福永が資料から顔を上げたのは、晴臣が次の言葉を探す前だった。

「要するに…うちに負担を寄せたい、ってことやないの?」

声のトーンは低いが、語尾の重さに、あからさまな不快がにじむ。

「いえ、決してそのような意図では…」

「けど、そう聞こえるで。納期延ばして、でも納品数は変えんといて、品質も上げる…って、そりゃええことばっかり言われとるわ」

パタンと資料が閉じられる音がした。思わず晴臣の喉が鳴る。冷房の風音が、やけに耳に刺さった。

「おっしゃる通り、こちらの都合ばかりにならぬよう、他条件についても再調整を…」

「そんなら、今ここで調整案出してもらわんと困るな」

福永の言葉がピシリと空間を切り裂いた。晴臣の脳内が一瞬だけ真っ白になる。

思考はある。理屈も詰めてある。だが、それを出すには「空気」が硬すぎた。もう一段、何かを砕かないと通らない。だが、何をどう砕けばいい…?

そのときだった。

「失礼しまーす。あれ?……ちょっと、お邪魔しましたかいな?」

軽いノックと共に、曖昧なイントネーションが室内に入ってきた。

「……岡田課長…?」

晴臣の目が一瞬だけ大きくなる。

岡田が、ゆるんだネクタイとコンビニ袋を片手に、ドアから顔を覗かせていた。表情はいつも通り気の抜けたような笑み。

「主任が朝忘れはった資料、持ってきたんですけど…もう使いました?」

「いえ、あの…」

晴臣が立ち上がりかけると、岡田が手を上げて制した。

「ええねん、置いときますわ。あ、それと…」

くるりと福永の方へ向き直る。急に笑顔が和らぎ、会釈する。

「いつもお世話になってます、東都商事の岡田です。大阪の方から来て、まだ日ぃ浅いんですけど」

「……ああ、いや、どうも」

福永が多少警戒しながらも返す。岡田はにこにこしながら、空いた椅子に腰を下ろした。

「主任、すんまへんな。こっちの件、わりと綿密に詰めてくれてたやんな?」

「え…あ、はい」

「あの、納期の話ですけどね。これな、実はB社さん側にも悪い話やないと思うんです」

口調は相変わらず緩やかで、語尾まで丸い。だが、その目は笑っていない。どこか、芯のようなものが宿っているように見えた。

「たとえばやけど…うちが今後、月頭納品に切り替えると、物流のピークとズレるから、B社さんの倉庫の受け入れもスムーズになりますよね?」

福永が少しだけ反応を見せた。

「……まあ、たしかに月末は混むな」

「それに、品質管理の件も、納期の余裕ができる分、製品の状態も安定しやすなる。クレーム率、今でも低いですけど、さらに下げられますし」

「……ふむ」

「ちゃーんと、主任が考え抜いてくれた案なんです。私も最初見たとき、ちょっと硬いなぁとは思いましたけどな。けど、理には叶ってるんですわ。信じてええと思いますよ」

一拍。空気がふっとゆるんだ。

福永が腕を組み直し、椅子に深く腰を沈める。顎に手を当てながら、ようやく笑いの気配を見せた。

「……おたく、口はうまいなぁ」

「いやいや、口がうまいだけで課長やってられたら苦労しまへんわ」

岡田が肩を竦める。福永がふっと鼻で笑った。

それを見ながら、晴臣は内心で言いようのないざわつきを覚えていた。

岡田が、ああして人と会話をまるく収めていく様は、どこか水面に石を落とすようなものだった。静かに広がる輪のように、場が自然と変わっていく。

そしてその合間、岡田の声色が不意に変わる瞬間があった。

「うちとしても、そちらに無理を強いる気は一切ないです。ただ、お互いが長く付き合うために、必要な見直しやと思てます」

少しだけ、声が低かった。腹の奥から出したような、説得力を持った声音だった。

それは、今までの彼からは想像できないような、別人のような響きを持っていた。

……なに、この人。

晴臣は、ただそれだけを思った。

気の抜けた関西弁と、気づけば掌で転がしているような話術。無防備に見える首筋と、たまに見せる真っ直ぐな目。

あのとき、会議室でネクタイが曲がっていた彼と、今ここで商談相手の心を解していく彼が、どうして同一人物なのか。感情と論理が、ぐらりと揺れた。

福永は資料を開き直し、表紙をトントンと揃えた。

「まあ、ええわ。ちょっと社内でも検討させてもらいます」

「ありがとうございます。主任と、また再調整して持ってきますんで」

そう言って、岡田は軽く頭を下げた。

会議室を出たあと、エレベーター前でふたりきりになった瞬間、晴臣は思わず問いかけた。

「どうして…ここに?」

「んー?主任があの顔する時は、大体空気詰まっとるって、隣で見とったら分かるねん」

「……俺、そんな顔してましたか?」

「うん。パッキパキに理屈並べとったわ。堅すぎて、相手が疲れてた」

「……」

岡田はそれ以上なにも言わず、エレベーターのボタンを押した。チンという音がして扉が開く。ふたりで中に乗り込み、扉が閉まるその直前、岡田が小さく呟いた。

「けど…ええ内容やったで。ちゃんと、考え抜かれてた」

その声が、先ほどの低い声色と同じだったことに、晴臣は気づいた。

エレベーターの中で、自分の鼓動がひときわ大きく聞こえる。

なんなんだ、この人は。本当に、ただのズボラな課長なのか。だとしたら、どうして…

扉が開いた瞬間、秋の冷たい風が頬を撫でた。

晴臣は、胸の内にうずまくざわめきが、まだ消えずに残っているのを感じていた。

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  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   33.明かりを消す、その手前で

    玄関のドアが開く音がした。夜の空気をまとった風が、わずかにリビングへ流れ込む。「ただいま」低く掠れた声が、部屋の静けさを優しく破った。晴臣はソファから立ち上がり、振り返る。「おかえりなさい」岡田は黒いコートを脱ぎながら、ゆっくりと息を吐いた。肩に積もった粉雪が、玄関の明かりの中で小さく光る。鞄を床に置くと、ほっとしたように眉を緩めた。「寒かったですか」「めっちゃ寒い。あっち、雪ひどかったで」声に疲労の色はあったが、どこか安心した響きも混じっていた。晴臣は玄関へ歩み寄り、岡田の手からコートを受け取る。冷え切った生地が掌に触れた瞬間、身体の奥にまで冬の冷たさが入り込んでくるようだった。「お風呂、湧いてます」「おお、助かるわ。やっぱり家が一番やな」岡田は笑って靴を脱ぎ、スリッパに足を入れた。その音が、暮らしの音に戻っていく。湯気と光の混ざった浴室の扉が閉まると、晴臣はキッチンに残るコップを片付けた。お湯を出して洗う手元に、静かな水音が響く。外ではまだ雪が降っているらしく、窓の向こうは淡く白い。やがて、風呂場から水の音が止んだ。岡田が上がり、髪を拭きながら廊下を歩いてくる。パジャマに着替えた彼の顔は、湯上がりでほんのり赤い。「お前も風呂、入っとけよ」「はい。すぐ行きます」晴臣は短く答え、洗面所へ向かった。洗面台の上には、歯ブラシが二本並んでいる。白と青。柄の部分がわずかに触れ合って立っていた。鏡に映る自分の顔を見て、晴臣は小さく息を吐く。湯気で曇る鏡を手でぬぐうと、背後の扉が開く音がした。「一緒に磨こか」岡田の声。振り向くと、彼がタオルで髪を押さえながら立っていた。「課長、もう磨いたんじゃ」「まだや。お前が来るの待っとった」そう言って岡田は、洗面台の横に並んだ。ふたりの肩が

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   32.不在のなかのぬくもり

    外の風が細かく鳴っていた。窓ガラスの向こうで、粉のような雪が斜めに降り、街灯の光を受けてゆっくりと舞っている。冬の夜は、音を吸い込むように静かだった。晴臣は、ソファの端に腰を下ろしていた。テレビはつけていない。時計の針の音が、部屋の奥から一定の間隔で響いている。テーブルの上には、岡田のマグカップがひとつ置かれていた。白地に、青い線が一本入っただけのシンプルなカップ。岡田がコンビニの景品でもらってきたものだ。昼間、岡田は出張に出た。「明日の夜には帰る」と言って、鞄を肩にかけて出ていった。駅まで送ろうとしたが、「ええよ、寒いし」と断られた。その言葉に頷きながらも、晴臣の中にはわずかな空洞が残った。午後までは平気だった。洗濯をして、掃除をして、スーパーで食材を買い足した。いつもと同じことをしているはずなのに、部屋の空気がどこか違っていた。いつもなら、洗濯機が止まる頃に岡田の声がする。「干しとくでー」と言いながら、勝手にベランダに出ていく音。そんな音が、今日はない。晴臣はハンガーに白いシャツをかけながら、無意識にその音を探していた。空気が動かない。風も、声も、温度も。ただ、シャツの布が指に擦れる音だけが、静寂の中に滲んでいく。ベランダに出ると、外の空気は鋭く冷たかった。干した洗濯物の隙間から見える夜空には、灰色の雲が漂っている。雪は降っているのか止んでいるのか、わからないほど静かだ。遠くで電車の通る音がかすかに響き、やがて消える。「……寒いな」誰に言うでもなく呟く。その声が自分の耳に届くまでの間に、やけに時間がかかったように思えた。部屋に戻り、湯を沸かす。ケトルの中で泡が立ち始める音が、やけに大きく感じる。湯気が立ちのぼり、鼻先をかすめる。いつもなら、この湯で岡田のコーヒーを淹れる。カップを二つ出して、ひとつはミルクを少し多めにして。けれど

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   31.息をするように、好きだと思う

    箸の先から、湯気が細くのぼっていた。照明の光を受けて、まるで空気の中に線を描くように揺れる。白い湯気と、醤油の香り、煮物の温かい匂いが部屋の中に満ちていた。岡田は、テーブルの端に肘をつきながら、ゆっくりとご飯を噛んでいた。晴臣は向かい側で、味噌汁をすくいながら静かに箸を動かす。テレビは消してあった。小さな時計の秒針の音だけが、部屋の奥で一定のリズムを刻んでいる。どちらも、あまり多くを話さない夕食だった。だが、それは気まずさではなく、心地の良い沈黙だった。二人の間に漂う空気は、やわらかく、温度を持っていた。「今日のこれ、出汁変えたやろ」岡田が箸を止め、煮物の皿を見下ろした。晴臣は少し顔を上げる。「はい。昆布の量を少し減らして、代わりに鰹を多めにしました」「やっぱりな。いつもより香りが軽い思たわ」岡田の声は、湯気と一緒に緩やかに溶けていく。彼は茶碗を手に取り、ゆっくりと白米を口に運んだ。ご飯の粒が箸に残り、それを親指で落とす動作が妙に丁寧だった。「課長」「ん?」「このあと、風呂、先にどうぞ」「ええわ。お前先に入れ」「じゃあ、あとで」短いやりとりのあと、再び静けさが戻る。聞こえるのは、箸が皿に触れる小さな音だけ。冬の夜の静かな空気が、窓の外から流れ込んでくる。晴臣は箸を置き、水を口に含んだ。グラスの表面についた水滴が、指先にひやりと伝わる。その冷たさが、なぜか心地よかった。岡田がゆっくりと、背もたれに体を預ける。その動作とともに、空気が少しだけ動いた。ふと、彼の目が晴臣の手元を見ているのに気づく。「……お前と暮らして、俺、変わったな思うわ」その言葉は、食卓の上にぽとりと落ちた。晴臣は思わず箸を止め、顔を上げた。「え?」岡田はすぐに続けなかった。

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   30.小さなすれ違いの午後

    外はもう暗く、窓の外を流れる車のヘッドライトが、壁に淡い光の帯を描いていた。電子レンジの静かな唸りが止まり、部屋に沈黙が戻る。晴臣は菜箸を持ったまま、時計を見上げた。秒針の音がひときわ大きく響く。七時半を過ぎていた。岡田からのメッセージは、さっき届いた一行だけだった。「あと30分で帰る」その文字を何度も見返しても、やはりそれ以上の言葉はなかった。たった一行。それだけで十分だと、頭ではわかっている。だが、心の奥ではなにか小さな波紋が広がっていた。テーブルには夕食の準備が整っている。煮魚、味噌汁、ほうれん草のお浸し、そして小鉢の冷奴。湯気がゆっくり立ち上り、照明の光に混ざって揺れている。料理は温かいのに、部屋の空気はどこか冷えていた。晴臣は箸を置き、椅子に腰を下ろす。テレビはつけていない。時計の音と、外の遠い車の走行音だけが響く。いつの間にか、こうして“待つ”時間に慣れていた。高校時代も、大学の頃も、誰かを待つのが苦手だった。待っている間に心がざわつく。「遅い」という苛立ちと、「来ないかもしれない」という不安が同じ形で押し寄せてくる。けれど今は、待つという行為がどこか穏やかなものに変わっていた。岡田は必ず帰ってくる。遅くなっても、疲れていても、ちゃんとこの部屋に戻ってくる。その確信があるからこそ、時計を見つめながら過ごす時間も、どこか柔らかい。しかし、その柔らかさの裏側で、言葉にならない小さな痛みが動いていた。食卓に並んだ二人分の茶碗。湯気が少しずつ薄くなっていくのを見ていると、誰かの分を待ち続けることの“静かな寂しさ”が胸の奥で鳴った。レンジをもう一度使うか迷いながら、晴臣は箸をそっと持ち上げた。少し冷めた味噌汁の表面に、光が淡く反射する。一口だけ飲み、舌の上に残る塩気と出汁の味を感じながら、ため息をひとつ落とした。玄関の鍵が回る音が

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   29.輪郭のやわらぎ

    冬の朝の空気は、まるで透明な膜のように張りつめていた。吐く息が白く曇り、頬にあたる風は細い針のように冷たい。駅のホームに立つ人々の肩が、同じ方向に少しずつ傾いている。どこかのビルの屋上から、鳩が数羽、低く円を描いて飛んだ。晴臣は手袋を外し、スマートフォンの画面で時間を確認した。八時十二分。いつもと変わらない時間。変わらない電車。変わらない通勤。けれど、彼の中では、ほんの少しだけ何かが違っていた。電車が到着し、ドアが開く。暖かい空気が流れ込み、車内の人いきれと混ざり合う。晴臣は鞄を持ち直し、奥のほうに進んだ。吊り革をつかみ、窓際に立つ。ガラスに薄く映る自分の顔が、外の景色と重なって揺れた。列車が動き出す。ゆるやかな振動が足元から伝わる。窓の外には、白い吐息のような曇り空が広がり、ビルの間を縫うように朝日が差し込んでいる。車内の照明が淡く光り、背後で新聞をめくる音と、イヤホンから漏れる小さな音楽が交じり合う。昨日と同じ朝だ。しかし、彼の思考の奥では、どこか柔らかい波が静かに広がっていた。毎朝、岡田より少し早く起きる。コーヒーを淹れていると、寝室のドアが軋んで、あの掠れた声が聞こえる。「もう朝?」寝癖の髪をかき上げながら、半分だけボタンを留めたシャツで、ぼんやりと立っている姿。初めて見たときは、その無防備さに少し戸惑った。だが今では、それも朝の一部になっていた。岡田の癖は数えきれない。靴下を片方だけしか洗濯機に入れない。食後に必ず「ふー」とため息をつく。読みかけの新聞は折らずにテーブルに置く。そのひとつひとつを、以前の自分ならきっと気にしただろう。だらしない、整理ができていない、そう感じていたはずだ。けれど今は違う。その小さな“欠け”が、この部屋に、暮らしに、どこか温度を与えている。電車がトンネルに入る。一瞬、光が途切れ、ガラスに自分の顔がくっきり映る。その顔は、どこか穏やかだった。眉間にあった皺が消えている。頬の力も抜けている。岡田と暮ら

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   28.寄り添う音、重なる朝

    カーテンの隙間から差し込む冬の光が、白い壁を静かに照らしていた。目覚ましが鳴る前に、晴臣はゆっくりと目を開けた。外の空気は張りつめていて、窓の外には細い雲が流れている。部屋の奥で寝息を立てる岡田の気配が、微かに聞こえた。一定のリズムを刻むその呼吸が、冬の朝の静寂にとけ込んでいる。布団から抜け出すと、床の冷たさが足の裏に伝わる。キッチンのスイッチを入れ、湯を沸かす。コンロの青い火が揺れ、その前で晴臣は背筋を伸ばした。窓際に置かれた観葉植物の葉に、淡い光が反射する。外では誰かの掃き掃除の音が遠くに響いていた。ケトルの中で湯が鳴り始めると、コーヒーの粉に湯を落とす。ふわりと立ちのぼる香りが、部屋の冷気をやわらげた。湯気の向こう、ベランダのドアの向こうに干しかけの白いシャツが揺れている。まだ湿り気を帯びたそれが、光を受けてやわらかく透けて見えた。晴臣はそのままキッチンの壁にもたれ、マグカップを両手で包む。静かだ。時計の秒針と、洗濯機の回転音だけが響いていた。どこかで小鳥の声もする。休日の朝は、時間が遅く流れているようだった。後ろで寝室のドアが軋んだ。「…もうコーヒー?」掠れた声に振り向くと、岡田が寝癖のまま、シャツのボタンを半分だけ留めて立っていた。髪は右側に跳ね、目元はまだ眠そうだ。「淹れました。飲みます?」晴臣がそう言うと、岡田は小さくあくびをして、首を回した。「飲む…ありがと。昨日、夜更かししすぎたわ」声に少し笑みが混じる。晴臣は黙ってカップを差し出した。岡田はそれを受け取り、ソファに腰を下ろした。湯気の向こうで、彼の横顔が曖昧に霞む。「洗濯、回してくれたんか」「はい。昨日出してたやつ、溜まってたので」「助かるわ。お前、ほんまに主婦みたいやな」からかうような調子だったが、晴臣は反応せず、窓際に視線を戻した。ベランダのシャツが風に揺れる。「課長、今日寒いですね」「せやな。冬やからな。…でも日差しはええ感じや」岡田がマグカップを傾け、熱そうに口を

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   59.沈黙のあとに残るもの

    岡田はソファに沈むように身を投げ出し、背もたれに頭を預けていた。吐く息は浅く、胸の奥に残る熱が抜けきらずにいる。言葉をぶつけ合ったあとの空白が、部屋の空気にじっとりと沈殿していた。さっきまでの雨は弱まり、窓の向こうでは水の粒が静かにガラスを滑り落ちていく。けれど、外の世界が静かになればなるほど、室内の音がいやに耳に残った。時計の秒針が一秒ごとに空気を割って、はっきりと響く。岡田は手のひらで顔を覆い、そのまましばらく動かなかった。肩はほんのわずかに揺れていたが、それが呼吸の乱れなのか、感情の波なのかは分からなかった。ただ、その姿には、男の弱さ

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   58.ぶつかる声、こぼれる真実

    給湯器の低い唸りが、沈黙の部屋にぼんやりと響いていた。窓の外では、まだ雨が細く降り続いている。空気はぬるく湿って、梅雨の夜特有の重たさを含んでいた。リビングのソファには岡田が、対するようにダイニングテーブルの椅子に晴臣が腰を下ろしている。互いの距離は、まるで踏み込めない境界線のように、不自然にあいたままだった。岡田は煙草を咥えようとして、けれど途中で思い直したのか、ライターを握ったまま手を膝に置いた。その拳がわずかに震えていた。「…だからな」沈黙を破った岡田の声は低く、掠れていた。「俺は、お前を

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   56.夜のコンビニ前、ポケットの中の片想い

    夜風が吹き抜けるたびに、街の色が少しずつ滲んで見えた。電車を降りた晴臣は、駅前の歩道を歩きながら、ポケットの中の指先を握りしめていた。スーツの上着では風を防ぎきれず、肌の奥にまで冷たさが染みてくる。ひと駅分、ふたりで並んで帰るはずだった道。あの給湯室の会話のあと、岡田は何も言わず背を向けて歩き出し、晴臣も追うことはできなかった。黙ったままエレベーターに乗った岡田の背中を、遠くから見ているしかなかった自分が、今も胸の奥で引っかかっていた。足は自然に、職場近くの小さなコンビニへ向かっていた。理由はなかった。何かが

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   42.雨が止んでも、濡れていた

    オフィスビルの自動ドアが開いた瞬間、外気が足元を這うように入り込んできた。湿った空気と、わずかに残る雨の匂い。午後の雨はすでに止んでいたが、空にはまだ雲が重たく漂っていた。舗道の上には、細かな水たまりが不規則に並び、車道を走る車のタイヤが水飛沫をあげている。晴臣は、ビルのエントランスに立ち尽くしていた。視線の先には、ひとり、傘も差さずに歩いていく日高の背中がある。スーツの肩口はすでにじんわりと濡れており、髪の先が首筋に貼りついていた。それでも彼は気にする様子もなく、歩幅を一定に保ったまま、背筋をまっすぐに伸ば

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