LOGIN窓の外は青空だったが、会議室の空気はどこか淀んでいた。
午後一時過ぎ。B社・本社ビル六階の応接会議室。天井の照明が白々しく照らす中、晴臣はスーツの上着の袖口を指先でなぞりながら、正面に座る中年の男性に視線を向けていた。
「……では、こちらの条件変更について、ご説明させていただきます」
ゆっくりと、しかし明瞭に言葉を選んで口にする。
「従来の納期設定では、我が社としても品質管理の面でリスクが生じる可能性がありまして…そのため、今後は月末納品を翌月第1週まで延長いただければと」
斜め前に座るB社の営業部長、福永は無言のまま、分厚い資料の2ページ目に目を落とした。眼鏡の奥の目が動かない。静かすぎる。
晴臣は、少しだけ口元を引き締めた。
「もちろん、出荷スケジュールは極力調整しますが、安全性を最優先にしたいと考えております」
沈黙が続いた。福永が資料から顔を上げたのは、晴臣が次の言葉を探す前だった。
「要するに…うちに負担を寄せたい、ってことやないの?」
声のトーンは低いが、語尾の重さに、あからさまな不快がにじむ。
「いえ、決してそのような意図では…」
「けど、そう聞こえるで。納期延ばして、でも納品数は変えんといて、品質も上げる…って、そりゃええことばっかり言われとるわ」
パタンと資料が閉じられる音がした。思わず晴臣の喉が鳴る。冷房の風音が、やけに耳に刺さった。
「おっしゃる通り、こちらの都合ばかりにならぬよう、他条件についても再調整を…」
「そんなら、今ここで調整案出してもらわんと困るな」
福永の言葉がピシリと空間を切り裂いた。晴臣の脳内が一瞬だけ真っ白になる。
思考はある。理屈も詰めてある。だが、それを出すには「空気」が硬すぎた。もう一段、何かを砕かないと通らない。だが、何をどう砕けばいい…?
そのときだった。
「失礼しまーす。あれ?……ちょっと、お邪魔しましたかいな?」
軽いノックと共に、曖昧なイントネーションが室内に入ってきた。
「……岡田課長…?」
晴臣の目が一瞬だけ大きくなる。
岡田が、ゆるんだネクタイとコンビニ袋を片手に、ドアから顔を覗かせていた。表情はいつも通り気の抜けたような笑み。
「主任が朝忘れはった資料、持ってきたんですけど…もう使いました?」
「いえ、あの…」
晴臣が立ち上がりかけると、岡田が手を上げて制した。
「ええねん、置いときますわ。あ、それと…」
くるりと福永の方へ向き直る。急に笑顔が和らぎ、会釈する。
「いつもお世話になってます、東都商事の岡田です。大阪の方から来て、まだ日ぃ浅いんですけど」
「……ああ、いや、どうも」
福永が多少警戒しながらも返す。岡田はにこにこしながら、空いた椅子に腰を下ろした。
「主任、すんまへんな。こっちの件、わりと綿密に詰めてくれてたやんな?」
「え…あ、はい」
「あの、納期の話ですけどね。これな、実はB社さん側にも悪い話やないと思うんです」
口調は相変わらず緩やかで、語尾まで丸い。だが、その目は笑っていない。どこか、芯のようなものが宿っているように見えた。
「たとえばやけど…うちが今後、月頭納品に切り替えると、物流のピークとズレるから、B社さんの倉庫の受け入れもスムーズになりますよね?」
福永が少しだけ反応を見せた。
「……まあ、たしかに月末は混むな」
「それに、品質管理の件も、納期の余裕ができる分、製品の状態も安定しやすなる。クレーム率、今でも低いですけど、さらに下げられますし」
「……ふむ」
「ちゃーんと、主任が考え抜いてくれた案なんです。私も最初見たとき、ちょっと硬いなぁとは思いましたけどな。けど、理には叶ってるんですわ。信じてええと思いますよ」
一拍。空気がふっとゆるんだ。
福永が腕を組み直し、椅子に深く腰を沈める。顎に手を当てながら、ようやく笑いの気配を見せた。
「……おたく、口はうまいなぁ」
「いやいや、口がうまいだけで課長やってられたら苦労しまへんわ」
岡田が肩を竦める。福永がふっと鼻で笑った。
それを見ながら、晴臣は内心で言いようのないざわつきを覚えていた。
岡田が、ああして人と会話をまるく収めていく様は、どこか水面に石を落とすようなものだった。静かに広がる輪のように、場が自然と変わっていく。
そしてその合間、岡田の声色が不意に変わる瞬間があった。
「うちとしても、そちらに無理を強いる気は一切ないです。ただ、お互いが長く付き合うために、必要な見直しやと思てます」
少しだけ、声が低かった。腹の奥から出したような、説得力を持った声音だった。
それは、今までの彼からは想像できないような、別人のような響きを持っていた。
……なに、この人。
晴臣は、ただそれだけを思った。
気の抜けた関西弁と、気づけば掌で転がしているような話術。無防備に見える首筋と、たまに見せる真っ直ぐな目。
あのとき、会議室でネクタイが曲がっていた彼と、今ここで商談相手の心を解していく彼が、どうして同一人物なのか。感情と論理が、ぐらりと揺れた。
福永は資料を開き直し、表紙をトントンと揃えた。
「まあ、ええわ。ちょっと社内でも検討させてもらいます」
「ありがとうございます。主任と、また再調整して持ってきますんで」
そう言って、岡田は軽く頭を下げた。
会議室を出たあと、エレベーター前でふたりきりになった瞬間、晴臣は思わず問いかけた。
「どうして…ここに?」
「んー?主任があの顔する時は、大体空気詰まっとるって、隣で見とったら分かるねん」
「……俺、そんな顔してましたか?」
「うん。パッキパキに理屈並べとったわ。堅すぎて、相手が疲れてた」
「……」
岡田はそれ以上なにも言わず、エレベーターのボタンを押した。チンという音がして扉が開く。ふたりで中に乗り込み、扉が閉まるその直前、岡田が小さく呟いた。
「けど…ええ内容やったで。ちゃんと、考え抜かれてた」
その声が、先ほどの低い声色と同じだったことに、晴臣は気づいた。
エレベーターの中で、自分の鼓動がひときわ大きく聞こえる。
なんなんだ、この人は。本当に、ただのズボラな課長なのか。だとしたら、どうして…
扉が開いた瞬間、秋の冷たい風が頬を撫でた。
晴臣は、胸の内にうずまくざわめきが、まだ消えずに残っているのを感じていた。
雨の音は、途切れることなく窓を叩いていた。細かく規則的なその音は、まるで遠い記憶の断片を呼び起こすように、静かに部屋の隅々へと染み渡っていく。時計の針は深夜を越えていたが、岡田の部屋には眠気の気配すらなかった。ただ、沈黙だけが、長く、深く、そこにあった。晴臣は、まだ岡田の隣に座っていた。ソファの端と端を使っていたはずの距離は、気づけばぴたりと寄り添っていた。互いの肩がわずかに触れ合うその距離。体温が交差するたび、息の仕方さえも静かに変わっていく。岡田はずっと黙っていた。晴臣の手を握ったまま、ゆっくりと、言葉を選んでいた。小さな呼吸の合間に、肩が少しだけ動く。やがて岡田は、晴臣の肩へとそっと手を伸ばした。躊躇いがちに触れたその手は、ほんのわずかに震えていたが、それでも確かに触れていた。「…俺も、好きなんや」岡田の声は低く、かすれていた。けれど、その一言には迷いがなかった。過去に縛られてきた自分を、今、ほんの少しだけ前に進ませるような…そんな勇気が滲んでいた。「…あんたのこと、ほんまに、好きや」その言葉に、晴臣は何も答えなかった。ただ、肩に置かれた岡田の手に、自分の指をそっと重ねた。それは会話でも約束でもなかった。ただそこに、静かに触れるという選択だった。触れられた岡田の指が、ほんの少しだけ、強く晴臣の手を握り返す。ふたりの手のひらに伝わる温度は、熱すぎず、冷たすぎず、ただ優しくそこにあった。過去の傷も、恐れも、不安も、その一瞬だけはすべて静まっていた。外では、まだ雨が降り続いている。窓を叩く雨粒の音が、ゆっくりとしたリズムを刻み、室内の静けさに柔らかく溶け込んでいた。まるでふたりを包み込むように、どこまでも穏やかに。岡田は、まっすぐ前を見つめたまま、ぽつりと呟いた。「俺な…たぶん、これからも臆病なままやと思う。過去のことも、きっと完全には割り切れへんし、自信なんてすぐには持たれへん」「…」「でも、それでも&he
岡田はソファに沈むように身を投げ出し、背もたれに頭を預けていた。吐く息は浅く、胸の奥に残る熱が抜けきらずにいる。言葉をぶつけ合ったあとの空白が、部屋の空気にじっとりと沈殿していた。さっきまでの雨は弱まり、窓の向こうでは水の粒が静かにガラスを滑り落ちていく。けれど、外の世界が静かになればなるほど、室内の音がいやに耳に残った。時計の秒針が一秒ごとに空気を割って、はっきりと響く。岡田は手のひらで顔を覆い、そのまましばらく動かなかった。肩はほんのわずかに揺れていたが、それが呼吸の乱れなのか、感情の波なのかは分からなかった。ただ、その姿には、男の弱さと脆さが凝縮されていた。晴臣は何も言わず、そっと岡田の隣に腰を下ろした。ソファのクッションがわずかに沈む。距離は触れられそうで触れない、けれど逃げられないほどには近い。そのまま、何秒か、あるいは何分か、ふたりは何も言わなかった。沈黙が会話の続きを催促するように、部屋にじんわりと広がっていた。「…俺」晴臣の声が、深く低く、部屋の空気に溶けた。「課長の過去ごと、好きです」岡田の肩がわずかに揺れた。顔を覆っていた手がゆっくりと降りていき、岡田は無言のまま視線を前に落とした。涙の跡が頬に一筋残っている。けれどその表情には、もう拒絶の色はなかった。「お前、ほんまにアホやな…」そう呟いた岡田の声は、掠れていた。喉が乾いているような、かすかに震える響きだった。「なんでそんな、丸ごと好きになんねん」「好きになった人の一部だけ好きなんて、俺にはできません」晴臣は横を向いた。「だって、それじゃ“人”じゃなくて、理想しか愛せないじゃないですか」岡田は、言葉の意味を噛みしめるように目を伏せた。「俺、前にも言いましたけど…あんたを抱いた責任を取りたいだけじゃないんです」晴臣の声は、決して強くはなかった。けれど、それはまっすぐに岡田の胸の奥へ届いた。「俺があ
給湯器の低い唸りが、沈黙の部屋にぼんやりと響いていた。窓の外では、まだ雨が細く降り続いている。空気はぬるく湿って、梅雨の夜特有の重たさを含んでいた。リビングのソファには岡田が、対するようにダイニングテーブルの椅子に晴臣が腰を下ろしている。互いの距離は、まるで踏み込めない境界線のように、不自然にあいたままだった。岡田は煙草を咥えようとして、けれど途中で思い直したのか、ライターを握ったまま手を膝に置いた。その拳がわずかに震えていた。「…だからな」沈黙を破った岡田の声は低く、掠れていた。「俺は、お前を幸せにする資格なんてあらへんのや」「資格?」晴臣の声が、それにすぐ返る。「そんなもの、誰が決めるんですか」「決まってる。俺自身や」晴臣は顔を上げた。湿った空気に息を吸い込み、少しの間、言葉を選ぶように唇を閉じる。「またそれですか。逃げる言い訳に、自分を下げるのは」「ちゃう、逃げてへん。俺はただ…分かってんねん。俺と一緒におっても、お前は損するだけやって」「損得で人を好きになるわけじゃないです」岡田の顔がぴくりと動いた。「…お前は若い。まだなんぼでも可能性ある。もっとええ男も、ええ人生もある。こんな冴えへん課長の隣で止まるな」「止まってるのは課長の方です」返ってきたその言葉は、刃物のように鋭く静かだった。岡田は口を開きかけたが、何も言えずに俯いた。こめかみを押さえるように片手を額にやり、もう片方の手の拳は膝の上で震え続けていた。膝に力が入り、テーブルの上にぽたりと一滴、水が落ちる。さっきまで髪に残っていた雨のしずく。それが晴臣には、岡田の涙のように見えた。「…なんで、そんなに俺に食らいついてくんねん」岡田がぽつりとこぼした。「傷つくのが怖ないんか。俺はお前に痛い思いさせるかもしれんのに」「それでもいいと思えるほど、好きなんです」その言葉に岡
街灯の明かりが滲むほどの、濡れた空気だった。午後十時を回ったばかりの夜、会社帰りの人々が通り過ぎていく中で、晴臣はただひとり、動かずに立っていた。スーツの肩には水滴がいくつも浮かび、髪は額に張りついている。雨は容赦なく降り続き、背広の生地を重く染めていたが、彼は傘を持たなかった。ポケットに手を入れるでもなく、スマートフォンを取り出すこともせず、ただマンションの入り口に身じろぎもせず立ち尽くしていた。湿ったアスファルトから立ち上る匂いが鼻を刺す。遠くで車のクラクションが鳴ったが、晴臣の目は、ただエントランスの奥をまっすぐに見据えていた。ようやく足音が聞こえたのは、日付が変わる少し前のことだった。マンションの角を曲がったその人影を、晴臣はすぐに見分けた。岡田だった。駅からの帰り道、肩を少しすぼめて歩いてくるその姿は、いつもと同じようにスーツのジャケットがよれていた。ネクタイは緩められ、革靴の音はどこか疲れた調子で、急ぐ様子もないまま雨に濡れながら近づいてくる。だが、玄関前に立つ晴臣に気づいた瞬間、岡田の足が止まった。「…は?」声にならないつぶやきが、唇から零れた。傘も差さず、ずぶ濡れのまま彼を見上げる晴臣の姿に、岡田は明らかに面食らった表情を浮かべた。慌てたように鞄から折りたたみ傘を取り出しかけて、けれど途中でその動きを止める。「おま…なんで、こんなとこで…」声が、どこか揺れていた。晴臣は、なにも言わなかった。ただ視線を逸らさず、じっと岡田を見ていた。額に張りついた前髪の下、睫毛には雨粒がいくつも残っている。その瞳は冷たくもなく、ただ静かで、どこまでも真っ直ぐだった。岡田は眉をひそめ、困ったように笑う。「何してんねん…風邪ひくで。アホちゃうか」近づいてきた彼は、自分の傘を差し出そうとするが、そこで指がわずかに震えているのに気づいた。晴臣の前に立った瞬間、その震えは少し大きくなった。「傘くらい…持って来いや…」
夜風が吹き抜けるたびに、街の色が少しずつ滲んで見えた。電車を降りた晴臣は、駅前の歩道を歩きながら、ポケットの中の指先を握りしめていた。スーツの上着では風を防ぎきれず、肌の奥にまで冷たさが染みてくる。ひと駅分、ふたりで並んで帰るはずだった道。あの給湯室の会話のあと、岡田は何も言わず背を向けて歩き出し、晴臣も追うことはできなかった。黙ったままエレベーターに乗った岡田の背中を、遠くから見ているしかなかった自分が、今も胸の奥で引っかかっていた。足は自然に、職場近くの小さなコンビニへ向かっていた。理由はなかった。何かが欲しかったわけでもない。ただ、何かをするふりをしていたかっただけだった。自動ドアが開くと、店内の暖かさが一瞬で頬を撫でた。明るすぎる蛍光灯と、静かに流れる店内音楽。誰もいない時間帯のせいか、店員はレジ奥で何かを仕分けていた。晴臣はコーヒーの冷蔵棚の前に立ち、手を伸ばす。指先が缶の金属に触れる。ひんやりとした冷たさが、今の気持ちと重なった。棚から取り出した缶をそのまま持ってレジに向かい、無言で会計を済ませる。外に出ると、風が一層冷たくなっていた。自販機の横にある木のベンチは、雨の名残を吸い込んで、どこか暗く沈んでいる。その脇に立ち、缶を開けた。プルタブの開く音が、思ったよりも乾いて響いた。ひと口飲むと、甘さが喉に絡んだ。いつもなら仕事の合間に飲んでいる味のはずなのに、今夜はただ、胸の奥を鈍く刺激するだけだった。ポケットに入れていたもう一方の手が、無意識に傘の取っ手を探して空振りする。そうだ、と小さく思う。傘は岡田に預けたままだった。それがなんだ、と自分に言い聞かせる。返してもらう必要はない。そんなもの、ただの荷物だ。けれど、岡田がその傘を今、どこに置いているのか。ちゃんと家まで持って帰ったのか。そんなことばかりが頭に浮かんで、捨てられていたらどうしよう、なんてくだらない想像すらしてしまう。缶を持つ指先に、じわりと冷たさが滲む。ひと口、またひ
残業時間が終わっても、オフィスの空気はまだ動いていた。プリンターの熱と、蛍光灯の白が、夜の帳を忘れさせている。人の気配はまばらで、カーペットの上を歩く音さえ、やけに響いた。晴臣は、自分の机の前で立ち尽くしていた。モニターには、保存を促すポップアップが点滅している。指先がマウスに触れたまま動かない。視線の先、少し離れたデスクで岡田が書類を鞄にしまっているのが見えた。その仕草はいつも通りだった。無造作にまとめた資料、緩んだネクタイ。けれど晴臣には、それが別人のように感じられた。同じ空間にいても、手を伸ばしても届かない場所に立っているようだった。岡田が出口の方へ歩き出す。晴臣は、その背に声をかけた。「…課長、ちょっといいですか」岡田が振り向く。少し驚いたように目を細め、笑みを浮かべた。「なんや、真面目な顔して。説教か?」「そうじゃないです。…話がしたくて」「話?」「はい。少しだけでいいので」岡田は一瞬、逡巡した。けれど晴臣の表情に冗談の余地がないことを悟ったのか、小さく息を吐いて頷いた。「わかった。…給湯室でええか。ここやと人の目あるしな」二人は並んで給湯室へ向かった。夜のオフィスは広すぎるほど静かで、廊下の先にある蛍光灯の明かりが遠く見えた。足音が重なり、すぐにずれていく。そのわずかなずれが、晴臣の胸に痛く響いた。給湯室のドアを閉めると、世界の音が消えた。代わりに、給湯器のモーターが低く唸る音が、一定のリズムで流れ続けている。二人の息遣いだけが、その音に交ざっていた。岡田が壁際にもたれた。腕を組み、いつもの軽い調子で言う。「で、話って?」晴臣は少し唇を噛んだ。言葉を選ぶ時間を稼ごうとしたが、選べるほど冷静ではなかった。「課長、俺…