ログイン
「ごめん……俺のせいで、俺たちの子は助からなかった」晃は床に額がつくほど深く頭を下げた。「本当にごめん、瑞希。俺は最低だった……もう一度だけ、やり直す機会をくれないか。今度こそ、お前をちゃんと大事にするから」夕日が病室に差し込み、ひざまずく晃を照らしていた。その姿を見ているうちに、初めて彼と言葉を交わした日のことがふとよみがえった。あの日も、晃は病室のベッドにいた。明るく振る舞ってはいたけれど、その目はもう何もかも諦めているように見えた。晃は私の手を取り、穏やかな声で言った。「中川先生、無理しなくていいですよ。治らなくても、先生のせいじゃありませんから」あの頃の私は、海外での医療支援を終えて帰国したばかりだった。まだ若く、自信だけは誰にも負けないつもりでいた。私は笑って言い切った。「いいえ、必ず治します。私に任せてください」けれど、晃の心臓病は想像していた以上に厄介だった。何度も容体が急変し、検査値にも異常が続いた。そのたびに、本当に手術を成功させられるのか、自信が揺らいでいった。私自身も心が折れそうになっていた頃、死を覚悟していたはずの晃が、くだらない冗談を言って私を笑わせてくれた。夕日に照らされた晃の笑顔を見た瞬間、この人を絶対に死なせたくないと思った。私はもう一度気持ちを立て直し、手術に臨んだ。そして、手術は無事に終わった。晃が意識を取り戻した日、私たちは強く抱き合った。あの頃の私たちは、これからもずっと支え合っていけると信じていた。二人で魚の群れを見に海へ出かけ、冬にはスキーにも行った。神社では、これからも二人で元気に過ごせるよう願った。私は本気で、この人とならずっと一緒にいられると思っていた。「でも今、あなたを見ると、あのときのことしか浮かばない。私たちの子が苦しんでいたのに、あなたは何もせずに見ていた。そんなあなたを、今さらどうやって許せばいいの?晃……私、本気であなたとずっと一緒にいたかったんだよ」けれど、いつからか私たちは少しずつ噛み合わなくなっていった。見知らぬ女の影がちらつくようになり、喧嘩を重ねるたび、何年かけて築いてきたものが少しずつ崩れていった。どうしても耐えられなくなった日、私は以前二人で訪れた地元の神社へ、一人で向かった。
背中に激痛が走った瞬間、朋美は、以前瑞希に言われた言葉を思い出した。「颯太って、父さんに似て意外と冷たいところがあるの。好きなのは分かるけど、結婚はもう少し考えて」瑞希が、颯太との結婚を急ぐ自分を止めようとした理由も、今になってようやく分かった。「それでも颯太を選ぶなら、私は止めない。でも、これだけは覚えておいて。何があっても私は朋美の味方。相手が颯太でも、それは変わらないから」けれど当時の朋美には、それが自分を心配しての言葉だとは思えず、ただ結婚に反対されているようにしか聞こえなかった。親に捨てられ、施設で育った自分では、中川家に釣り合わないと思われているのだと。一度芽生えた疑いは消えず、朋美は少しずつ瑞希から離れていった。気づいたときには、もう引き返せないところまで来ていた。床に倒れ込んだ朋美は、背中の痛みに顔を歪めた。けれど、それ以上につらかったのは、瑞希の気持ちを踏みにじり、裏切ってしまったことだった。今さら謝ったところで、もう遅い。朋美はようやく、自分がどれほど瑞希を傷つけたのか思い知った。リビングが再び静まり返るなか、真由は晃のほうを振り返った。「晃、話を聞いて……」だが、さっきまでそこにいたはずの晃は、もういなかった。不安に駆られた真由は颯太を押しのけ、玄関へ駆け出した。ところが、玄関先で警察官たちと鉢合わせした。「傷害事件の通報を受けて来ました。被害者は暴行を受けたあとに流産したとのことで、当時の映像も提出されています」警察官が示したタブレットには、私が床に押さえつけられ、暴行を受ける様子が映っていた。家の防犯カメラに、その一部始終が残っていたのだ。「北村真由さん、中川颯太さん、中川朋美さんですね。署で詳しい事情を伺います。ご同行ください」三人は言葉を失った。まさか私が本当に警察へ通報するとは、思ってもいなかったのだろう。朋美と颯太も、これでもう私には許してもらえないと悟ったのだろう。三人はそのまま、警察官に連れられていった。……まさか、晃がこんなに早く私を見つけるとは思わなかった。青凪総合医療センターの201号室で休んでいると、病室のドアが開いた。入ってきたのは晃だった。ベッドの上の私を見るなり、晃はその場で立ち止まった。何か言お
「なあ、あの子、本当に晃さんの子なのか?真由、頼む。本当のことを言ってくれ」「だから何?私たちはとっくに終わってるでしょ。あの夜のことがあったからって、私と晃の間に入ってこないで」「親子鑑定をしたんだ。あの子は俺の子だった。俺はお前のために姉ちゃんまで裏切ったのに、今度は俺の子まで諦めろっていうのか?俺たち、6年も一緒にいただろ。頼む、真由。あの子まで俺から奪わないでくれ……」このやり取りだけで、二人がただの友人ではなかったことは十分に分かった。映像の最後には、颯太が真由の腕をつかみ、廊下の突き当たりにある備品庫へ強引に連れ込む姿が映っていた。二人とも、病室に残された赤ちゃんの泣き声すら耳に入っていなかった。泣き続けた赤ちゃんは呼吸が乱れ、危険な状態に陥っていた。たまたま通りかかった看護師が異変に気づき、すぐに処置をしたからこそ、どうにか助かったのだ。「颯太、真由……嘘だよね?これ、作り物なんだよね?」朋美はモニターの縁を両手でつかみ、声を震わせた。「答えてよ!瑞希が私を恨んで、でっち上げた映像なんでしょ!?」だが、颯太は口ごもるばかりで、否定の言葉を口にできなかった。まさか、あの場面まで防犯カメラに映っているとは思ってもいなかったのだ。しばらく黙り込んだあと、颯太はかすれた声で答えた。「……ごめん、朋美。作り物じゃないんだ」朋美の手が、ゆっくりとモニターから離れた。真由ははっとして颯太を振り返った。「なんで認めるのよ!黙ってればよかったでしょ!」取り乱した真由は、颯太の胸を何度も叩いた。颯太はしばらく黙って受けていたが、やがて真由の手首をつかんだ。「もうやめろ、真由!俺はお前のために、姉ちゃんまで裏切った。もうこれ以上、お前をかばうことはできない!」そう言うと、颯太は真由との過去をすべて打ち明けた。颯太と真由は、大学時代からの親友などではなかった。二人は大学時代に付き合い始め、6年間、恋人同士だった。だが、家柄が釣り合わないという理由で、真由の家族は二人の交際を認めなかった。そのうち4年間は、周囲に隠れて交際を続けていた。やがて颯太は大手法律事務所への入所が決まり、真由へのプロポーズを考えるようになった。ところがその矢先、真由は1000万円を手切れ金とし
【氏名:中川瑞希 妊娠週数:5週相当 診断名:流産】晃は、その一行から目を離せなかった。顔から血の気が引き、足元がふらついた。「姉ちゃん、妊娠してたのか……じゃあ、床にあった血は……」颯太も横から書類をのぞき込み、さっと青ざめた。その言葉を聞いた朋美も、その場に凍りついた。床に残った血の跡へ目を落とした途端、朋美の手が震え始めた。さっき自分が、何の罪もない赤ちゃんを殺してしまったのだと、ようやく気づいたのだろう。しかも、その赤ちゃんを失ったのは、親友であり、義姉でもある私だった。「わ、私もあのときは頭が真っ白で……赤ちゃんがいなくなったって聞いたら、誰だって冷静でいられないでしょ……」朋美は自分に言い聞かせるように続けた。「それに、妊娠してたなら、どうして黙ってたの?瑞希は医者なんだから、自分の体のことくらい分かってたはずでしょ。こんなことになるなんておかしいよ。この書類だって、私たちを騙すために作ったのかもしれないじゃない!」赤ちゃんの話が出た途端、真由は後ろめたそうに颯太をちらりと見た。そして、ぎこちなくうなずいた。「そうよ。中川先生は医者なんだから、自分の体のことなら気づいてたはずでしょ。とにかく今は、病院へ行って中川先生の様子を見よう」皆がリビングを出ようとした隙に、真由はそっとテーブルのUSBメモリへ手を伸ばした。だが、ようやく我に返った晃は、その動きを見逃さなかった。晃は以前、心停止を起こし、除細動を受けて一命を取り留めたことがある。あの処置が体に大きな負担をかけることは、晃も知っていた。床に残った血と診断書を前にして、さすがに嘘だとは思えなかったのだろう。それに晃は、私が何をされても黙って泣き寝入りするような人間ではないことも知っていた。あれだけ疑われ、傷つけられた私が、このまま何もしないはずがない。テーブルのUSBメモリを見て、ようやくその意味に気づいたのだろう。次の瞬間、晃は真由より先にUSBメモリをつかみ、パソコンに差し込んだ。「晃、やめて!」真由は顔色を変え、慌てて奪い返そうとした。だが、もう遅かった。颯太も何かを察したのか、これまで見たこともないほど取り乱した。「晃さん、それは見ないで!」USBメモリの中には、動画が1本だけ入っ
翌日、家を売りに出したと知った晃が、慌てて帰ってきた。晃は荷造りをしていた私の腕をつかみ、無理やり立たせた。「瑞希、どういうつもりだ?俺たちの家を勝手に売るなんて、正気か?」押し殺していた感情が、ついに一気にあふれ出した。私は思わず鼻で笑い、晃の頬を思いきり平手で打った。家?よくもまだ、そんな言葉を口にできたものだ。「私をずっと騙して、そんなに楽しかった?」叩かれた晃は怒らなかった。いつもの喧嘩のあとと同じように、自分から声を和らげた。「これで少しは気が済んだか?騙してたことは悪かった。でも、俺たちは7年も一緒にいたんだ。こんなふうに、はい終わりってわけにはいかないだろ。俺の命はお前に救ってもらったんだ。そんなお前を、本気で捨てるわけないだろ」これ以上、白々しい言葉を聞きたくなくて、私はその場を離れようとした。けれど晃はすぐに回り込んで行く手を塞ぎ、逃がすまいと強く抱きしめた。「真由は、うちの会社の前副社長の娘なんだ。父親が亡くなる前に、あの子のことを頼むって言い残したんだよ。俺が最低だった。真由と関係を持ったことは認める……何度も別れようとした。でも、真由は分離不安がひどくて、別れ話を出すたびに自分を傷つけようとしたんだ。あんな姿を見たら、突き放せなかった」晃は私を抱く腕に力を込め、耳元で縋るように囁いた。「瑞希、俺は一度だって、お前と別れるつもりなんかなかった。お前も真由も、俺にとって大事なんだ。どっちかを傷つけるなんて、俺にはできない。だから、このことは知らなかったことにしてくれないか?俺たちは今までどおりでいよう。お前のことも今までと変わらず大事にするし、何一つ不自由させない。だから、な?」あまりの身勝手さに吐き気がして、返す言葉もなかった。晃はそれを、私が折れたのだと都合よく受け取ったらしい。私を抱いていた腕をほどくと、何事もなかったかのようにキッチンへ向かった。「今日はまだ何も食べてないだろ?お前の好きなものでも作ってやるよ」ところが、晃がキッチンに入った瞬間、玄関からドンッと大きな音がした。次の瞬間、颯太が玄関のドアを蹴り開けて飛び込んできた。何が起きたのか理解するより早く、朋美が駆け寄ってきて、私の頬を力いっぱい平手打ちした。「瑞希!真由の子どもを
真由がすすり泣く中、朋美は怒りに任せて私の腕をつかみ、そのまま二階の一室へ引っ張っていった。そこはかつて、私と晃が二人きりで過ごしていた部屋だった。病院から近かったので、手術を終えて疲れ切っているときは、晃がいつも私をここへ連れてきて、ひと息つかせてくれた。忙しくなると食事を忘れてしまう私のために、簡単につまめるものを作り、弁当バッグに入れて用意しておいてくれた。私の首の調子が悪いと知ると、わざわざマッサージチェアまで用意してくれた……そんな何気ない優しさを、私は愛だと信じていた。けれど今、そこは赤ん坊のための部屋に変わっていた。ベビーベッドやおむつ替え台、子どものおもちゃが、部屋のあちこちに置かれていた。「晃さんが本当に愛してるのは真由だけ。瑞希に抱いてたのは愛情なんかじゃない。心臓病を治してもらった恩を、愛だと勘違いしてただけなんだよ」私は言葉を失った。「どういう意味?」朋美は何も答えず、憐れむように私を見ただけだった。そして、壁の前に下ろされていたプロジェクタースクリーンを巻き上げた。その裏から現れたのは、壁いっぱいに貼られた写真だった。どの写真にも、晃と真由が二人で写っていた。スキーを楽しむ二人。湖のほとりで夕日を眺める二人。小舟で水路を巡る二人……「二人は3年前から付き合ってたの。去年の瑞希の誕生日も、晃さんは出張なんかしてなかった。私と颯太も、新婚旅行に行ってたわけじゃない」朋美は私のそばまで来ると、壁の中央に飾られた結婚写真を指さした。「みんなでフランスに行って、二人の結婚式に出たの。私たちも二人を祝福した。あの病院での騒ぎだって、晃さんが仕組んだの。真由が晃さんの妻だと知ったら、瑞希がちゃんと治療してくれなくなるかもしれないと思ったから。だから、今まで隠してたの」目の前の朋美が、まるで別人に見えた。こんな言葉が、どうして彼女の口から出てくるのか、どうしても理解できなかった。ついこの間、朋美と颯太の結婚式では、朋美がたった一人のブライズメイドだった私にブーケを手渡し、「瑞希も本当に愛する人と結婚して、ずっと幸せでいてね」と祝ってくれた。晃にも、もし私を裏切ったら絶対に許さないとまで言っていた。なのに今は、真由に手を貸し、私の幸せを奪う側に回っている。その