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第10話

Author: 苺タルト
颯真は短く「分かった」と応え、胸ポケットに忍ばせた一枚の写真を指先で軽く押さえた。込み上げる感情を無理やり押し込め、制帽を深く被り直すと、踵を返して歩み出た。

――取調室。

ガラス越しに見える美桜は、狂ったように机の角を叩きつけていたが、颯真が入ってくるとその動きが止まった。彼をじっと見上げ、口元に冷たい笑みを浮かべる。

「へえ、警察の制服も似合うじゃない」

颯真は答えず、すぐに背を向けた。その背に、彼女の声が絡みつく。

「あんた、私の両親がどこにいるか知りたくない?」

足が止まる。美桜はすかさず続けた。

「颯真。あんたが私と一緒にいてくれるなら、私があの二人の死体を差し出してあげる。そうすれば、あんたは本当の意味で仇を討てる」

瞳孔が細く絞られる。言葉よりも早く、美桜は口角を歪めてにやりと笑った。

「私が冷酷だと思う?親さえ殺す女だって?」

指先で机の縁をなぞり、ゆっくりと続ける。

「でもね、あの二人にとって、私はただの金づるだった。十歳で売春に駆り立てられ、薬の運び屋をやらされた。十七で急に金が転がり込んだら、上流の娘に仕立て上げられ、人脈作りの駒にされた。

だから、国外へ逃げたときは、もう戻らないつもりだった。でも……あんたに出会ってしまったの」

美桜の声が熱を帯びる。

「ただの一目で、心が決まった。あんたとなら残ってもいいって。本気で思えた。

私にはたくさんの男がいた。でも、本気で愛したのはあんただけ」

潤んだ瞳が縋るように彼を捉える。

「だから……お願い。あんたも私を愛してよ。そう言ってくれれば、あの二人を誘き出してあげる」

沈黙が取調室を支配する。

美桜は唇を噛み、鉄の味を感じても、返事は訪れない。

やがて、笑い声と共に涙が零れ落ちた。

「結局……やっぱり久遠澪奈なのね。あの女は死んだのよ!死んだんだって!」

颯真の声は冷ややかに響く。

「俺と澪奈の絆は、お前には分からない」

それだけを残し、背を向けて出て行った。

背後で机と椅子が倒れる轟音と、美桜の絶叫が響いたが、彼は振り返らなかった。

――廊下。

鷲尾が険しい顔で駆け寄ってくる。

「颯真、動きがあった!奴らが闇市場で高額のお前の首を買っている」

声を落とし、提案する。

「早瀬美桜の要求を一度飲むふりをして、そこから罠にかけるのはどうだ?」

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