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第155話

Author: Hayama
last update publish date: 2026-05-16 17:00:00

「樹から、よく話を聞いてたんだ」

「樹が?」

かすれた、自分でも驚くほど間抜けな声が出た。喉がカラカラに乾いていて、言葉がそれ以上続かない。壱馬さんは私のそんな反応を予想していたのか、それとも見たくなかったのか、ふっと短く自嘲するような吐息を漏らした。

「彼女が可愛いとか、そういう惚気ばっかりだけど」

私が樹と別れたのは大学時代だったから、壱馬さんは樹と同じ大学だったのだろうか。仕事仲間と言っていたから、今でもつるむことがあるのだろう。

あの頃の樹は、私のことをそんな風に誰かに話してくれていたんだ。キラキラと輝いていた記憶の欠片が、鮮やかな色彩を伴って脳裏にフラッシュバックする。

幸せだった記憶を突きつけられるのは、別れの事実を突きつけられるよりも何倍も苦しい。

「樹がそんなことを」

辛うじて絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。

前髪が視界を遮ってくれることに、少しだけ安堵する。

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