Masuk「あ、まだいたの」 壱馬さんの口から紡がれたのは、旧友に対するものとは到底思えない冷たくて棘のある言葉だった。 「まだって」 雄大さんは大げさに肩を竦め、傷ついたような素振りをしてみせたけれど、その口調には微塵も悲しそうな響きは含まれていなかった。むしろ、壱馬さんのその冷たい反応をどこかで面白がっているような、そんな底意地の悪さが透けて見える。 「…初めて見た」 無意識のうちに、私の唇から微かな声が零れ落ちていた。 「え?」 私の小さな呟きを拾い上げたのは、雄大さんだった。彼は壱馬さんの肩越しに私の顔を覗き込もうと、少しだけ首を傾げて小馬鹿にするような声を出した。 「壱馬さんのそんな顔、初めて見ました」いつも私に向けてくれる、あの甘くて優しい笑顔も、少し不器用で照れくさそうに笑う時の顔も、大事な話をする時の真剣な眼差しも、壱馬さんの顔なら全部知っているつもりでいた。けれど、今、雄大さんに向けられているその横顔は、完全に私の知らないものだった。 「俺にはつれないんだよねぇ〜」 雄大さんはわざとらしく溜息をつき、ひどく間の抜けた声でそう言った。まるで壱馬さんの冷酷な態度が今に始まったことではないとでも言うように。 「お前がしつこく引っ付いてくるからだろ」 「なんだとー!」 雄大さんは両手を振り上げ、子供のように声を荒げて抗議してみせた。 「…ふふっ」 私は思わず小さく吹き出してしまった。緊張の糸がほんの一瞬だけ緩み、張り詰めていた空気が抜けたような気がした。壱馬さんと雄大さんの、子供っぽくて不器用な関係性がなんだか微笑ましくて、笑みをこぼしてしまった。 「あ、笑った顔も可愛いね」 私の微かな笑い声を逃さず聞きつけた雄大さんが、パッとこちらへ顔を向けた。
「そうだなぁ、こんな話を婚約者にしていいのか分からないけど…」 雄大さんはわざとらしく顎に手を当てて、勿体ぶるように視線を宙に泳がせた。 その態度は、これから語られるであろう壱馬さんの過去のエピソードが、私の想像をはるかに超える凄まじいものであることを予感させる。 少女漫画のような光景を頭に思い描きながら、私はゴクリと息を飲んだ。 「教えてください」 すると雄大さんは肩をすくめ、ニヤリと口角を吊り上げた。 「それはそれはモテ─────」 彼が言葉を口にしたその瞬間、聞き慣れた低い声が鋭く切り裂いた。 「モテてないよ」 ハッとして声のした方へ勢いよく顔を向けると、私たちが歩いていた道の数メートル先に、壱馬さんが立っていた。 数歩の距離を大股で縮め、あっという間に私の目の前までやってくると、まるで私の無事を確かめるように、頭から爪先までを素早く見下ろす。 「壱馬さん!」 壱馬さんは私の肩を抱き寄せるようにして雄大さんから私を引き離すと、雄大さんが持っていた私のエコバッグを無言で奪い取るようにして受け取った。 「ちょっと今いい所だったのに!」 雄大さんが、自分が語ろうとしていた最高の見せ場を台無しにされた子供のように、大げさに両手を広げて抗議の声を上げた。 「花澄に余計なこと言わないで」 普段、私に対して決してこんなに冷たい声音を使うことのない壱馬さんが、露骨に不機嫌な態度を隠そうともしない。 「私が聞きたいってお願いしたんです」 私が必死に庇うように言うと、壱馬さんは少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、短くため息をついた。けれど、すぐにいつもの穏やかな、私だけに向ける優しい顔へと戻る。 彼の手が私の頭にそっと伸びてきて、髪を乱さないように優しく撫でてくれた。 「俺の学生時代の話なんて、聞いても面白くないよ」 少し困ったような、照れくさいようなトーンで甘く囁いた。その声には先ほどの冷たさは微塵もなく、ただ私への深い愛情だけが滲み出ていた。 「でも、なかなかそういう話は聞けないので」 私が少しすねたように言うと、壱馬さんは目を丸くして私を見つめ、ふわりと柔らかく微笑んだ。 「気になるなら、俺がいくらでも教えてあげるよ」 壱馬さんは私の頬にそっと手を添え、親指で優しく撫でながら、落ち着いた声で
「気を使わせてしまってすみません」自分の口から出た言葉は、照れ隠しと謙遜が入り交じって少しだけ上擦っていた。彼の口から飛び出した可愛いや健気でいい子なんていう身に余る褒め言葉に、私は顔から火が出そうになるのを必死に堪えていた。 親友の顔を立てるために精一杯の良いところを探して褒めてくれているだけなのだろう。 「本心なのに〜」私の生真面目すぎる反応を面白がるように目を細めた。 「壱馬さんとはどこでお会いになったんですか?」私はこれ以上の照れ隠しに耐えきれなくなり、彼の意識を私自身から逸らすために、少し早口で新たな質問を投げかけた。壱馬さんは普段から自分のことを多く語るタイプではないから、交友関係についてあまり詳しく知らない。だからこそ、壱馬さんの過去を知る人物との会話は、たまらなく心が躍るものだった。 「同じ高校でね」高校時代からということは、彼らはもう十年以上の付き合いになるということになる。それほど長い間、壱馬さんの傍にいて彼の成長を見守り、彼のすべてを知っている人物なのだと思うと、なんだかひどく感慨深い気持ちになった。 「そんな前から…」 私の素直な感嘆の漏れる声に、彼は自慢げに頷いてみせた。高校時代にはどんな顔をして笑い、どんな風に友達と過ごしていたのだろうか。ほんの少しだけ羨ましいという感情が芽生える。 「まぁ、俺がしつこく付きまとった感じではあるけど」その言葉が彼の口から出た瞬間、ドクンと心臓がひときわ大きく跳ねた。単なる自虐的な冗談として口にした言葉なのだろうけれど、今の私が最も敏感になっているそのフレーズは、嫌でも私をつけ回すあの不気味な黒い帽子の男を連想させた。私は震えそうになる声を必死に抑え込み、努めて明るい声で会話を繋ごうとした。 「壱馬さんの、学生時代の話聞いてみたいです」制服を着ていた頃の彼は一体どんな少年だったのだろう。授業中に居眠りをしたり、放課後に友達と他愛
「スーパーの帰りですか?」 彼がそう言って歩き出した途端、私の手元からふっと重みが消えた。驚いて横を向くと、彼が私の持っていたエコバッグの持ち手を、自然な動作でひょいとすくい上げていた。 見ず知らずの男性に自分の生活感丸出しの買い物袋を持たせるなんて、いくら壱馬さんの友人だとはいえ申し訳なさすぎる。 「そうで…あ、そこまでしていただかなくても」 私が慌ててバッグを取り返そうと手を伸ばしたにもかかわらず、彼は歩くペースを全く落とすことなく、むしろ私を先導するように一歩前を歩き始めた。 「いいからいいから」 気安くて親しげな口調で笑い飛ばされてしまい、私は伸ばしかけていた手をゆっくりと下ろした。これ以上は、かえって彼のせっかくの厚意を無下にしてしまう気がした。 「ありがとうございます」 私がペコリと頭を下げてお礼を言うと、彼はニコリと微笑んでみせた。 私は時折チラチラと彼の方を窺いながら歩幅を合わせた。すると、不意に彼が思い出したように顔を向け、とても興味深そうな、少し悪戯っぽい響きを含んだ声で問いかけてきた。 「家での壱馬ってどんな感じなんですか?」 私の脳裏には、ソファでくつろぎながらコーヒーを飲む壱馬さんの姿や、私の作った手料理を美味しいよと笑顔で食べてくれる彼の温かい表情が浮かんできた。 自然と頬が緩んでしまうのを止められなかった。 私は隠しきれない愛情を声に乗せて、彼との幸せな日常を象徴する一番真っ直ぐな言葉を返すことにした。 「すごく優しいです」 隣を歩いていた彼の足取りが一瞬だけピタリと止まった。私は驚いて彼の方を振り返る。 彼の顔には、心底意外そうな、もっと言えば少し呆れたような表情が浮かんでいた。 「優しい?あいつが?」 彼のそ
男に会いそうでスーパーに行く回数を三日に一回にした。 あの気味が悪い黒い帽子の男に遭遇する確率を少しでも減らすため、私は毎日の日課だった夕飯の買い出しを極力控えるようにした。それでも、外出する前は必ず窓のカーテンの隙間から外の様子を窺うという徹底ぶりだった。周囲をキョロキョロと見回し、足早に歩を進めながら、どうか今日は誰にも後をつけられませんようにと心の中で何度も神様に祈る。けれど、スーパーからの帰り道、背中にベッタリと張り付くようなあの特有の視線と、一定のリズムでついてくる足音が、今日も私の背後から聞こえてきた。 「また…」 時間をずらし、行く曜日もランダムに変えているのに。このストーカーは私に危害を加えようと飛びかかってくるわけでもなく、ただ一定の距離を保って黙々と背後を歩いてくる。その得体の知れない気味の悪さに、胃の奥がギュウッと雑巾のように絞り上げられる感覚がした。その時だった。 「…え、」 背後から聞こえる足音のリズムが、突然早くなった。これまでは私が立ち止まれば相手も立ち止まり、常に十メートルほどの安全圏のような距離を保っていたはずなのに。靴底がアスファルトを叩く硬い音が一つ、また一つと確実に私の背中へと迫ってきて、かつてないほどの巨大な危険を肌で感じ取った。思考がパニックに陥りそうになるのを必死に抑え込み、私は前だけを向いて歩くスピードを限界まで引き上げた。このまま追いつかれたら、人気の少ないこの路地裏で何をされるかわからない。焦燥感に駆られ、右側の角へ逃げ込むように身を翻したその瞬間だった。 「あっ…」 ドンッという鈍い衝撃と共に、私の体は壁のような硬い何かに激しくぶつかった。あまりの焦りで、角の向こう側から人が歩いてきていることに全く気づけなかった。 「あ、すみません。前見てなくて、大丈夫ですか?」目の前には私を支えるように腕を伸ばした、見知らぬ男性が困ったような
壱馬さんとちゃんと両思いになって、私も幸せになりたいって思えるようになったのに。「角を三回…」角を三回曲がって同じ道に戻っても後ろにその人がいたら、それは偶然ではなく意図的な追跡だと、テレビの防犯番組で目にしたことがあった。 まさか自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかったけれど、背中を撫でるような嫌な気配がどうしても拭えない。 私は冷や汗が滲む手をきつく握り締めながら、努めて自然を装い、けれど確実に歩くペースを早めた。 心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っている。 一回…二回…三回…。 元のブロックをぐるりと一周する形になった。それでも、振り返るまでもなく背後にそれは張り付いていた。 「…ストーカー」 私はコンビニの看板を見つけるなり、その明るい店内へと駆け込んだ。 自動ドアの電子音が鳴り、店員さんの「いらっしゃいませ」という声を聞いて、ようやく少しだけ息ができるようになる。 雑誌コーナーの影に身を潜めながら、ガラス越しに外の様子を窺った。 道路の向かい側、電柱の影に目深に黒い帽子を被った男が立っているのが見える。じっとこちらを観察しているような不気味な佇まいに、全身の鳥肌が立った。 数分後、男は諦めたように踵を返し消えていった。 その姿が完全に見えなくなった瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れ、私は陳列棚の横で力なく膝から崩れ落ちてしまった。 「怖かっ…」 声に出そうとした恐怖の感情は、喉の奥で詰まって涙と一緒に飲み込んだ。 スマートフォンの画面を開き、震える指で壱馬さんの連絡先を表示させる。 発信ボタンを押す直前で、私はピタリと動きを止めた。仕事で疲れている彼に、電話をして心配をかけてしまっていいのだろうか。 きっと今日だけのこ
「壱馬さん?」背後から抱きしめられている感覚に、思わず声が漏れた。包み込むような温もりが背中に広がって、心臓が落ち着かなくなる。料理をしている最中なのに、意識は包丁ではなく彼の体温に奪われていた。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が早まるのを自覚しながらも、振りほどく勇気は出なかった。「ん?」壱馬さんの返事は軽く、まるで何も気にしていないようだった。私の困惑を理解していないのか、それとも分かった上で甘えているのか。「動きずらいです…」必死
「相変わらず優しいんですね」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。優しいと言われることは、決して悪いことではない。けれど私にとっては、それは褒め言葉というよりも、自分の弱さを隠すための仮面のように感じられることが多かった。「自尊心が低いだけですよ」そう返した声は、少し硬くなっていた。優しさを否定するつもりはないけれど、それが自分の本質ではないと伝えたかった。「それは…あの時も、すみませんでした。ただの八つ当たりです」莉沙さんの声は震えていて、後悔が滲んでいた。
「明日は家でゆっくりしようね」壱馬さんの声は落ち着いていて、無理しなくていいと言ってくれているみたいだった。 その言葉に安心を覚えながらも、胸の奥に小さな罪悪感が芽生える。もし私が元気だったら、ドライブに行っていたはずなのに。そう思うと、壱馬さんの優しさに甘えてしまっている自分が少し情けなくなる。「ドライブ…」ほんの少しの未練を、抑えきれずに零してしまった。わがままを言いたいわけじゃない。むしろ、せっかく気遣ってくれているのに、未練を口にしてしまった自分が恥ずかしい。
「こんなに人のこと好きになったことないから、どうすればいいのか分からないんだよ」 壱馬さんの声は、少しだけ震えていた。 それは、怒りでも苛立ちでもなくて、戸惑いだった。不安だった。 そして、切実な想いだった。 「私は…いえ、なんでもないです」 言いかけた言葉を、飲み込んだ。 壱馬さんの気持ちに、どう応えればいいのか分からなかった。 「困らせてごめんね。花澄が振り向いてくれるま







