LOGIN例えるなら、それは氷山のよう――水面に出ているのはほんの一角で、一見穏やかのように見えても、水面の下には底知れない危うさが潜んでいて、向かってくる船をいつでも沈没させられる。いまの玲の様子は、まさにそんな状態だった。とはいえ、それも無理はない。佳苗の件は、誰が見ても厄介そのものなのだ。「……あの女、前はただの危ない人にしか見えなかったけどさ。でも、彼女の家族が、藤原さんが一番つらかった時期に命を助けたっていうのも事実でしょ?それを思うと……なかなか打ち明けられないのも、ちょっと分かる気がするんだよね」雨音は、ゆっくり言葉を選びながら続けた。「たぶん藤原さん、ずっとタイミングを見計らってたんだと思う。あなたを大事にしてるの、私でもわかるし……嫌なことをゴミみたいに、いきなり全部ぶつけてくるなんて絶対したくなかったんじゃないかな。それに佳苗って、玲に会ったら、絶対ろくでもないことを言うと思うから、藤原さんも、事前に話をして、ちゃんと暴走させないようにしないと」雨音は、秀一の最終的な考えまでは読み取れない。だが、どんな形であれ、佳苗を警察に突き出さなくても、せめてすべてを玲に正直に伝えるすべきだと感じていた。それこそ誠実というものだ。玲も、それには同意している。秀一は本当にそうしてくれるかどうかはわからない。けれど――「秀一さんは、理不尽なことをするような人じゃないわ。愛してるって言ってくれたのなら、私が納得できる答えを出してくれるはず」雨音は力強く頷く。「そうだよ。愛してるなら、相手がどんなことで傷つくかなんて、わかってなきゃおかしいし……」そう言いながらも、ふと心配がにじむ。「でも玲ちゃん……正直、さっきの話って、ちょっと自分に言い聞かせてるように聞こなくもないよ」玲が言う「秀一は自分を愛してる」という言葉は、誰かに説明するというより――自分の心をつなぎ止めるために繰り返しているように感じたのだ。玲は小さく息を呑み、しばらく黙ってから俯いた。長いまつ毛が影を落とす。「……雨音ちゃんの言うとおりよ。この二日間、ずっと彼を信じようって自分に言い聞かせてた。本当は落ち着いてるわけじゃないの。むしろ、必死なんだと思う」雨音は少し躊躇いながら、しかし正面から問いかけた。「じゃあ、もしも……よ?もし藤
綾にとって、弘樹以外の人間は、取るに足らない存在だった。烏山佳苗――秀一のそばにいた彼女についても同じだ。綾は彼女の存在を知ってはいたし、佳苗から届いた奇妙なメッセージも目にしていた。だが、心に留めたりしなかった。佳苗の連絡があったとき、ちょうど玲を潰すための計画が進行中で、綾には他人の思惑に付き合う余裕などどこにもなかったのだ。そして今、綾の話を聞くうちに、美穂は目眩を覚えるほどだった。できることなら、娘の頭の中に本当に脳みそが入っているのか、直接確かめてみたい。確かに、佳苗ひとりでは玲を追い詰めることなどできない。だが、佳苗を上手く利用するという選択肢を美穂は思いついていた。五年も眠っていた佳苗には、知らないことが山ほどある。そこを美穂が補ってやれば――玲どころか、秀一を巻き込むことも不可能ではない。「いいわ、綾。佳苗の件はもう気にしなくていい。あとは私が動くから。怪我が治るまで時間がかかるし、弘樹さんにも連絡したくないなら、少しの間おとなしく休みなさい。また様子を見に来るわ」美穂は珍しく穏やかな笑みを浮かべ、優しい母の顔になる。そして、部屋を出ると同時に、彼女はすっと表情を引き締め、スマホを操作し始めた。――すぐに、いい返事がくると信じて。……その頃、玲は藤原家で起きている騒動など知るよしもなかった。二日目のアート展は依然として来場者が途切れず、賑やかだ。会場に到着した玲は、雨音の補佐にしばらく回り、昼前になってようやく休憩室で二人そろって食事をとる。昨日雪乃の罪が暴かれて捕まった頃、雨音はちょうどいなかったので、その件について詳しく聞くつもりでいた。だが口を開くより早く、玲がそれよりずっと衝撃的な話をしてきた。「……ちょっと待って。この間会ったあの佳苗って女――私たち二人とも怪我をさせて、金目当ての詐欺女だって思ってた佳苗が……藤原さんの『植物状態だった友人』ってこと?要するに――藤原さんは、女の人を男だって嘘をついたって?」雨音は息継ぎも忘れて、早口のまま一気にまくし立てた。そのまま椅子に崩れ落ちるように座り込み、呆然と呟く。「……嘘でしょ、玲ちゃん。あなたは昨日、本当地獄を見たね……」これほどの出来事が、一日に一つでも起きれば、十分衝撃的だった。だが玲は、たった一日で三つも乗り越
もし綾がアート展であんな騒ぎを起こさなければ、美穂が藤原家でまた玲と顔を合わせ、散々嫌味を聞かされることもなかっただろう。そして綾自身も、部屋にこもってじっと耐えられるタイプではない。まして今は全身が痛み、目つきまで炎のようにギラついている。「お母さん、今更私に八つ当たりしたって無駄でしょ?あの場で言うこと聞かなかったのは、玲がRだなんて思わなかったからよ!普通あんなの、誰だって予想できないじゃない!それに、今日玲に会っちゃダメって言ったのもお母さんでしょ?お母さんが止めなかったら、痛くても下に降りて、あの女に一発食らわせてやるつもりだった!顔を引っかいてやれば、Rだろうが何だろうが、もう人前に出られなくなるのに!」綾は手を振り回して怒鳴り散らすが、目の奥にはどこか寂しさが滲んでいた。昨日、俊彦に厳しく罰されたからというもの、ずっと弘樹に連絡を取り続けていた。せめて見舞いに来てほしかったからだ。だが電話をかけても、返ってくるのは「通話中です」の無機質な音ばかり。誰と話しているのか確信は持てないが……綾には、ほぼわかっていた。どうせまた玲と連絡を取っているのだ。そう考えるほどに、怒りの火は美穂以上に燃え上がった。だが娘の荒れた物言いを聞くほど、美穂は逆に頭痛がひどくなる。そしてついに、ベッド脇のスマホを彼女の胸元に押しつけた。「うるさいわよ、いい加減黙って!まったくほんと自分が情けない、こんなにバカに育てた覚えはないのに!いい?今、お父さんは下にいるの。しかも玲のことを前よりずっと評価してる。こんな時に、あんたが掴みかかったり喚いたりしたら……お父さんが黙って見てるとでも思う?結局、自分で自分の首を絞めるだけよ!時間があるなら、弘樹さんに電話しなさい。最近彼、あんたに冷たいでしょ?でも今、彼だけがあんたが巻き返すチャンスなの。絶対離しちゃダメだからね!」「私だって離したくないわよ!でも……あの人が電話に出ないの!」綾は悲しみと悔しさで声を震わせた。弘樹から「愛していない」と突き放されたことなど、怖くてとても美穂には言えない。そして、考えれば考えるほど胸が苦しくなり、綾はスマホを払いのけ、顔を布団に埋める。その拍子に、スマホは床に落ち、画面が勝手に開いてメッセージ一覧が表示された。美穂は拾おうと身を屈めたが
玲は俊彦をまっすぐ見つめ、迷いなく話を続けた。「お義父さん。私の一番愛した人が、身近な人に殺されました。その二人は私の人生とって、どちらも大事で切り離せない存在です。けど……だからといって優柔不断になり、一番愛した人を傷つけた相手を見逃すことなんてできません。父はずっと私を守ってくれました。命の最後まで、私のことを思いながら必死に生きようとしてくれました。そんな人が――私の母に、あんな残酷な形で命を奪われた。もし私が、犯人は母だからという理由だけで彼女を許してしまったら……十三年ものあいだ苦しみ続けた父に顔向けできません。いつかあの世で父に会ったとき、私、胸を張ることもできません」――だから玲は、産んでくれた恩がある母親相手に、自ら手を下すことはしない。けれど彼女を法廷へ引き渡し、正当な裁きを受けさせること。それだけは、もう揺らがなかった。俊彦は玲の言葉を聞き、眉間の影がさらに濃くなった。しばらく沈黙したのち、低く問う。「玲……さっきの言葉は、秀一のためでもあるんだな?」「ええ」玲は正直に答えた。嘘をつく気もなかった。さっき俊彦の言う「最も愛した人」と「身近な人」――それが紀子と美穂を指していることに、玲は気づいていた。十三年前の真相について、秀一がどう向き合うつもりなのか、まだわからない。だが俊彦には、少しだけ心の準備をしておいてほしかった。――いざ俊彦が選択を迫られたとき、判断を誤って秀一を傷つけたりしないように。だが俊彦には、迷いなど最初からなかったようだ。「十三年前の件をどうするか――私の考えは最初から変わっていない。さっきお前に聞いたのは、ただお前の気持ちを知りたかっただけだ。秀一のために、私を諭す必要はないよ」「諭すなんて……義理の娘の私に、そんな恐れ多いことはできません」玲は力なく笑い、肩をすくめた。「もし用がないなら、私はこれで失礼します」このあと雨音と会う予定があり、アート展の準備も残っている。これ以上長居はできなかった。俊彦は深く頷き、玲を見送る。玲が玄関へ向かおうとしたその時――背後から、少し含みのある俊彦の声が届いた。「玲……私と秀一の母親は、互いに愛していたわけじゃなかった。あの結婚には嘘も、不信も、いろいろあった。だけど――お前と秀一は違う。二人には、ずっと幸せで
俊彦は話を本筋に戻し、玲へ高瀬家の意向を伝えた。「そうだ。昨日、お母さんが秀一に連れられて警察署へ行っただろ?その夜、高瀬家から連絡があったんだ。お母さんは本来、高瀬家の女主人だっていうのに……まさか、茂さんと結婚するために、あんな残酷なことまでしたなんて、誰も想像していなかったらしい。だから真相が明らかになった今、彼らは言ってきた。お前が父親のために母親を裁くなら、全面的に支持すると。これからお母さんをどう扱うかは、お前の自由だ。もしお前が『極刑にしてほしい』と望んだとしても、高瀬家は一切口を挟まない。ましてや、お母さんのために弁護士をつけるつもりもないそうだ」つまり、高瀬家は雪乃を完全に切り捨てた、ということだ。ただ――それは玲にとって、少し意外だった。もちろん、高瀬家や茂が雪乃に情をかけるなど、玲は初めから期待していない。十三年間高瀬家で暮らす中で、恋愛には鈍い自覚があっても、茂と雪乃の関係だけははっきり理解していた。茂は雪乃を愛していない。むしろ、ずっと見下していた。そんな関係なのだから、今回のような事態で、茂が自分の利益を差し置いて雪乃を助けようとするはずがない。だが、引っかかるのは別の点――以前、雪乃自身が堂々と言い切っていたのだ。「茂は必ず彼女を警察から無事に連れ戻してくれる」と。雪乃という人間は、佳苗のように不安定で妄想に走るタイプでも、綾のように虚勢で自分を飾るタイプでもない。彼女が「茂は絶対に助けてくれる」と信じ切っていたのなら、それなりの根拠があったはずだ。なのに今、高瀬家は玲に「好きに処分していい」とまで言ってきた。どう考えても、話が合わない。玲は眉を寄せ、俊彦へ問い返した。「お義父さん……その話、本当に高瀬家――じゃなくて、茂さんが直接あなたに伝えたんですか?」「そうだ。事件が明るみに出てすぐ、茂さんから電話があった」俊彦は玲の声の微妙な変化に気づき、逆に尋ね返す。「どうした?茂さんの言葉に何か不審な点があったか?まさか……茂さんにお母さんを助けてほしいと思っているのか?」「いえ、もちろん違います……」玲は首を振り、慎重に言葉を選んだ。「ただ、うまく説明できなくて……とりあえず明日、留置場へ行って本人と直接話してみます」高瀬家が彼女を切り捨てたことを、彼女自身が知ってい
美穂の表情からは、笑みらしきものが跡形もなく消えていた。玲が最後に口にしたあの言葉――それははっきりと美穂に向けて「真相は埋められないし、あなたも逃げられない」と告げたのと同じだった。それだけではない。「身近の人間に裏切られる」という言い方も、結局、美穂と紀子のことを仄めかすものだった。かつては親友同士だった二人だが、紀子がうつ病で苦しんでいた時期に、美穂は俊彦を奪った――そのことは首都中の誰もが知っている。今でも「代表的な裏切り劇」として語り継がれているほどだ。だから、美穂が玲の家庭の事情を嘲笑えば、玲は美穂の過去を刺す。結果、美穂は玲に勝てたどころか、逆に言葉の刃を浴びて傷口が広がるばかりだった。本当は、今すぐにでも玲を指差して声を荒げたい。藤原家の女主人として、玲を追い出すことだってできる――そう思いたかった。だが今の藤原家は、美穂の思いどおりには動かない。玲の立場も、もう美穂が侮辱できるものではなかった。そして何より、美穂を縛っている最大の理由は、ソファに静かに腰掛けている俊彦の存在だ。十三年前の出来事や紀子のことも含め、美穂は俊彦の前では常に慎重でいなければならない。玲の何気ない一言で感情が爆発してしまえば、それはまるで自分から「後ろ暗い過去があります」と白状するようなものだ。だから、美穂は奥歯が砕けそうなほど強く噛みしめ、俊彦の視線を意識しながら、無理に笑顔をつくった。「玲さん、何を言ってるの?私はただ、あなたが心配なだけなのに、こんなに長く言い返すなんて……雪乃さんのことで落ち込んでないなら、安心したわ。あ、綾の薬の時間ね。そろそろ様子を見てくるわ」逃げるように口実を作り、すぐ席を立つ。これ以上玲と話していたら、うっかり余計なことを口にしかねない。美穂がいなくなると、部屋の空気がふっと軽くなった。玲はわずかに口元をほころばせ――その瞬間、俊彦の視線と正面からぶつかった。俊彦はさきほどまで黙って様子を見ていた。しかし美穂が去るや、低い声で問う。「……さっき、なぜあんな言い方をした?まさか秀一が、十三年前の誘拐事件で何か新しい証拠を掴んだのか?それで美穂を揺さぶった?」俊彦は秀一が裏で調べを進めていることは知っている。だが、秀一は調査の状況を決して俊彦に明かさない。そのため、いま何がわかってい