LOGIN少なくとも、秀一には一言伝えておくべきだ。でなければ、彼が帰ってきて自分がいないと気づいたら、心配してしまう。玲はスマホを取り出し、秀一に連絡してから留置場へ入ろうと決めた。しかしその瞬間、暗闇の奥から、黒い影が月明かりを裂くように飛び出してきた。一瞬だけ見えたその袖口には、夢で見たものとまるで同じ、赤黒い液体がべったりとついている。背筋を冷たいものが這い上がる。そして次の瞬間、玲の身体は頭より先に動き、気づけばその影を追っていた。距離を保ちつつ、足音を殺しながら。だが、走りながらも冷静さは失っていない。――さすがに、ひとりでどうにかできる相手じゃない。彼が誰なのか、なぜ留置場から逃げるように出てきたのか、中で何をしたのか。どれもわからない。けれど、危険な人物であることだけは間違いなかった。玲は震える指で、急いで秀一宛にメッセージを打つ。【秀一さん、私はいま留置場の駐車場にいます。怪しい人を見つけました。すぐ来てください。私は身を隠して待ちます。できる限り自分の身は守ります】素早く文字を打ち終え、送信しようと親指を動かした――その瞬間。濃厚な鉄の匂いを帯びた布が、不意に彼女の口と鼻を覆った。玲は本能的に抵抗した。息を吸ったのは、ほんの一瞬の油断。だが、それで十分だった。振り返ると、先ほど遠くにいたはずの影が、いつの間にかすぐ背後に立っていた。次の瞬間、玲の意識は闇に呑まれた。手から滑り落ちたスマホが、乾いた音を立てて地面に転がる。メッセージが送信されたかどうかもわからないまま。……ふわふわと漂うような暗闇の中、玲は夢とも現実ともつかない深い闇に沈んでいた。だが今回は――血まみれなのは、彼女自身だった。恐怖が胸を抉る。玲は必死にもがき、重たい瞼をこじ開ける。視界がじわりと焦点を結ぶと、自分が車の後部座席に横たえられているのがわかった。身体は鉛のように動かず、喉は焼けるように痛くて声も出ない。前方、運転席には例の黒い影が座り、電話をかけながら車を走らせていた。「……はい、ボス。ご指示の仕事は全部終わりました。でもまさかこんな時間に、あの高瀬玲って女が来るとは思いませんでしたけどね」男の声は苛立ちを含んでいるが、電話の相手には異様に丁寧だ。「ご安心ください。とっくに薬は嗅がせました。幻覚剤です
雪乃は、秀一が自ら留置場へ送られたはずだ。それなのに、なぜ今、彼女は家の玄関先に立っている?どうして、自分の前に現れた?玲の顔色は一気に青ざめた。怒りと恐怖がないまぜになり、数歩早足で近づいて、背を向けている雪乃の肩を掴み、強引に振り向かせようとした。だが――彼女に触れた瞬間、冷たく、ねっとりとした感触が指先から一気に全身に駆け上がった。視界にはどす黒い赤が広がり、鼻腔には鉄の匂いが刺さり、耳元では血が滴り落ちる音がする。そして。雪乃がこちらへ顔を向けた瞬間――玲の脳裏に焼き付いたのは、顔に刻まれた無数の傷、そして首元に深々と走る致命的な切り傷だった。五十を過ぎても皺の一つすらなかったあの首に、骨まで見えるほど深い傷が刻まれている。断ち切れた動脈から、血がまるで噴水のように噴き出し続けている。どうして……こんな姿に……そもそも、なぜ雪乃がここに……?「玲……玲……今すぐ来て……藤原家の秘密を……どうしても……話さなきゃいけないことが……」雪乃は苦痛にゆがんだ顔で繰り返し訴え、血に染まった手を助けを乞うように玲へ伸ばしてくる。「や、やめて……触らないで!」玲は叫び声をあげ、激しい恐怖に押されるように目を見開いた。その瞬間、視界にあったすべてがふっと煙のように消える。――夢、だった。玲は肩で息をしながら、ようやく意識を取り戻した。そして、眠る前にあった出来事が一気に蘇る。海斗と雨音のもとを離れたあと、玲は秀一と一緒に家に戻った。あまりに眠くて食事もほとんど喉を通らず、何度もあくびをする玲に、秀一本当はもっと食べさせたかったが、もう限界だと悟り、箸を置いて一緒に部屋へ戻り、玲を抱き寄せたまま添い寝した。なのに。玲はとんでもない悪夢を見てしまった。胸元を押さえながら目を凝らしたが、隣にいたはずの秀一の姿がない。ひとりで乱れる呼吸を整え、汗を拭い、そして――決意した。雪乃に会いに行かなければ。本当は、朝になってから行くつもりだった。だがあの夢の中の雪乃の言葉が、どうしようもなく胸に引っかかった。藤原家の秘密。あれは単なる夢に出てきた話なのに、どうしても無視できなかった。特に、血まみれの雪乃を思い出すと、まさか、本当に何かが起きるのではと思った。玲はもう待っていられなかった。秀一にも、誰
だが──だからといって友也は引くつもりなどない。秀一と話したあの日から、友也はすでに腹をくくっていた。好きな相手に好かれていなくてもいい。以前のように気後れしたり引き下がったりするのはやめて、真正面からぶつかっていくべきだ、と。玲と同じように、雨音だって、もしかしたら自分を「脇役」から引き上げてくれるかもしれない。そんな希望が胸のどこかで膨らんでいた。もちろん雨音は、友也のそんな考えを知るよしもない。そして彼がまた海斗を皮肉るようなことを言い始めたので、最近ずっと体調の悪い海斗のことが気になった雨音は、慌てて友也の口を塞ぎにかかった。「もうやめて!海斗くんはあなたのお兄さんなんだから、言い方に気をつけてよ!」「俺は十分気をつけてるよ……」友也は不満げにぼそりとつぶやいた。自分が海斗を突っつくと、雨音はすぐ止めようとする。そのたび胸がちくりと痛む――やっぱり雨音は海斗が好きなんだ。そう思わずにはいられない。だが、ここで引き下がるほど彼は甘くはない。「俺と兄さんが話すのが嫌なら、一緒に帰ろう。秀一も玲さんを連れて行ったし、俺たちも家に帰る時間だ」「ちょっと待って、海斗くんはどうするの?」雨音は混乱しつつ問い返した。そして気づく。友也の「一緒に帰る」という提案を、すんなり受け入れたことに。当然、そのことに友也も気づいた。「よし、じゃあ帰ろう」言うが早いか彼は雨音をひょいと抱え上げ、自分の車へとずかずか歩いていく。「待って!急に何?海斗くんにまだ挨拶してないけど?友也っ、このばかっ!」抵抗する雨音をそのまま車に押し込みながら、「大丈夫大丈夫、兄さんには運転手がついてるから、問題なし!」と、まるで聞く耳を持たない。雨音が怒って「ばか」と言おうが、「あほ」と言おうが、友也はまったく気にしない。どう呼ばれようと、自分のことを呼んでるならそれでいい。運転席に滑り込み、アクセルを踏み込むと、車は勢いよく走り去った。人の仲を引き裂いて自分が入り込む──意外と悪くない。秀一がこれに夢中になるのもわかる……とさえ思ってしまう。しかし。車が遠ざかっていくのを、ただ見送ることしかできない海斗の瞳は、真っ赤に滲んでいた。立ち上がろうにも身体は言うことをきかず、悔しさが込み上げる。運転手は声をかけるべきか迷って
ギィッ!サファイアブルーのスポーツカーが、雨音と海斗の目の前で急停止した。玲と秀一を見送りながら、「あの二人、今夜こそちゃんと話し合えるといいけど」なんて考えていた雨音は、突然の出来事に心臓が跳ね上がった。だが、声をあげる暇もなく、車のドアが勢いよく開き、端正な顔立ちにどこか挑発的な雰囲気をまとった友也が、全速力で飛び出してきた。そして勢いのまま雨音と海斗の間に割り込む。「ハニー、お疲れ、迎えに来たよ!」「……は?」空気が一瞬、凍りついた。雨音は息を呑んだまま固まる。今、なんて呼ばれたの?ハニー?結婚してもうすぐ三年になるが、友也が彼女を「雨音」以外で呼んだことなんて一度もない。よりによって外で、しかも海斗の前で急に変な呼び方で呼ぶなんて!よく知っている相手の前でこそ、とんでもなく恥ずかしい。そしてそれ以上に、どうしていいかわからない混乱が一気に押し寄せる。「友也!何言ってるの?頭おかしいわけ?」「え?どこが?俺たちは夫婦なんだから、別にいいだろ?それとも『ママ』って呼んでほしい?」雨音が入院中に一度図太さを身につけてから、友也はその方向に遠慮なく加速していた。むしろ開き直りが勢いづいている。「『ママ』がいいなら、それでもいいよ?うちの両親はそんなふうに呼び合わなかったけど、俺は別に構わないし」友也の両親といえば、あの二人は雨音に嘘をつき、友也と政略結婚させたが、そのせいで二人は三年間も誤解し、すれ違い続けた。真相が明らかになったとき、雨音は水沢家と絶縁し、友也も家族との関係を断った。そんな背景があるのに、友也は軽々しく言ってのける。対して雨音は、恥ずかしさに耐えられなかった。「友也、ふざけないで!」「まあ、そうだよね。今それを言うのは、ちょっと気が早かったかも」そう言いながら、なぜか友也は耳まで真っ赤に染まり、軽く咳払いする。声もほんの少し震えていた。「……でも、俺たちの子どもが生まれたら、その時はママって自然に呼ぶようになるだろ?」「……」ま、待って。どうして急に子どもの話になるの?雨音は目を大きく見開き、言い返したいのに喉が熱くて声にならない。結局、真っ赤になった顔をそむけるしかできなかった。だがその微笑ましい空気とは正反対に、すぐそばで聞いていた海斗の表情は瞬く間
玲は思わず肩を震わせた。だが、ちょうどその瞬間、どこか見覚えのある黒い車が反対側のスペースに止まった。次の瞬間、ドアが開き、端正な顔立ちに圧倒的な存在感をまとった男が姿を現す。彫刻のように整った長身はひと目で周囲を飲み込み、鋭い黒い瞳が放つ威圧だけで場の空気が一変した。玲がさっきまで味わっていた、血の気が引くような恐怖は嘘のように消えていた。横目で海斗を見ると、その表情はもうすっかり落ち着いている。そして次の瞬間、玲の細い腰は、秀一の大きな手にそっと包まれた。秀一は、玲にとって何よりも心強い盾だ。彼は玲を守るように抱き寄せ、静かに問いかける。「さっき、何かあった?顔色があまりよくない」「い、いえ……何も」玲は唇をかすかに噛み、隣の雨音にちらりと視線を向ける。雨音は海斗への罪悪感でまだ揺れている。そんな彼女の心情を察し、玲はあえて何も言わず、ただ首を振って秀一に微笑んだ。「ちょっと眠くてぼんやりしてただけです。それより……どうして急に?」「仕事が片付いて……会いたくなった。だから来た」低く落ち着いた声で、秀一はそう答える。秀一にとって玲は、荒れた心を静めてくれる唯一の存在だ。さっき辛い話を聞かされ、胸の奥がかき乱され……どうしようもなく、玲の側に戻りたいと思った。彼女だけが、そのざわつく心を落ち着かせてくれる。もちろん、秀一は、玲が疲れていることもちゃんと覚えていた。そっと頭を撫でながら言う。「家に帰って休もう。今日はゆっくり寝かせてあげる。もう無理はさせない」すぐ隣で雨音も頷く。「藤原さんがいれば安心ですね。それと……ここ数日の玲ちゃんのこと、どうかお願いします。明日は少し遅れて来ても大丈夫だから」雨音は、心から玲に休んでほしいと思っていた。そして同時に──秀一がまだ佳苗について話していないことも忘れていない。だから、玲の背中をそっと押し、秀一の胸元へ促す。その仕草には「そろそろちゃんと話し合おう」という、言葉にしないメッセージが込められていた。二人の間に隠し事が残れば、後で確実に問題になるからだ。玲は雨音の気遣いに気づいていた。本当は秀一と一緒に帰りたい。雨音に手間をかけずに済むのなら、それが一番だ。……ただ、ここで自分だけ帰ってしまったら。雨音と海斗が二人きりになる。さっきの海斗の、あのどこか危
「……海斗くん?」車のドアが開いた瞬間、長い髪を肩に落とし、上品な佇まいで車椅子に座る男性――海斗の姿が現れ、玲と雨音は思わず目を見張った。三人が最後に顔を合わせたのは、もう半月以上前のことだ。当時、雨音は友也と激しく口論を繰り返していて、兄である海斗はその仲裁も兼ねて、何度も雨音のもとへ足を運んでいた。ただ、二人は昔のように、ただの「友人関係」ではないので、雨音は余計な誤解を避けるため、「もう来ないでほしい」と一度だけ強く釘を刺していた。そして海斗はその言葉を守り、それ以来ぱったり姿を見せなかったのだ。だからこそ、突然の再会に雨音の心臓は一瞬きゅっと縮んだ。だが彼女はすぐに笑顔を作り、いつも通り明るく声をかける。「海斗くん、どうしたの?こんな時間に。玲ちゃんと帰るところだったんだけど」海斗は静かに車椅子を操作して降りてくる。運転手から受け取った花束を抱え、柔らかく微笑んだ。「今日は、あえて遅い時間を狙って来たんだ。初日は人が多くてね。僕が動くと何かと迷惑をかける気がしたから、落ち着いてから改めて来たかったんだよ。雨音、今回のアート展、本当におめでとう。海外での評価まで一気に掴んだね」そして視線を玲に向け、優しく続ける。「それに玲さん。君がRだなんて、本当に驚いた。雨音と君は……やっぱり相性がいいんだね。仕事でもこんなふうに支え合えるなんて」海斗はいつものように穏やかで、誠実で、誰に対しても気持ちよく寄り添う。その物腰に、空気までやわらぐ。玲は昔から思っていた。――人付き合いの才能に関して、兄の海斗が弟の分まで持って生まれてきたのではないのか。だから弟の友也は、あんなに騒がしくて鈍いのだ、と。もちろん今、それを口に出す場面ではない。玲は丁寧に礼を述べた。「海斗さん、わざわざありがとうございます。ここまで来るの、大変だったでしょう」雨音も花束を抱えながら、心配そうに顔をのぞきこむ。「そうだよ、今日、なんか顔色よくないよ?体調は大丈夫?お医者さんに診てもらった?」海斗は静かに首を振った。「平気だよ。これも脊椎を痛めた後遺症でね、体の機能が少し弱くなってしまっただけで……ここ半月ほどは、持病も悪化してほとんど動けなかったんだけど、やっと今日になって、少し楽になったから、出かけたんだ」長年、病人とし