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第112話

Author: 雪八千
首都では、名門同士の政略結婚や家同士の結びつきによって利益を拡大するのは、昔からの常だった。高瀬家と藤原家、弘樹と綾の婚姻は、その最たる例だ。

だが、水沢家と遠野家――雨音の実家は少し違っていた。両家は長年の友人関係にあり、互いの信頼の上で「将来は子どもたちを結婚させよう」と約束を交わした。それは、まだ子どもたちが生まれる前に取り交わされた「許嫁」の約束だった。

遠野家の一人娘である雨音は、成長してから水沢家の二人の息子――兄の海斗(かいと)と弟の友也――のどちらかを選んで結婚できる立場にあった。

当時、誰もが「きっと雨音は、年の近い海斗と結ばれるのだろう」と思っていた。だがその予想は、海斗が突然の事故で下半身不随になったことで崩れ去る。多くの者が、遠野家と水沢家の婚約はもう破談になるに違いないと噂した。

しかし実際のところ――雨音と海斗は、ただの友人関係に過ぎなかった。彼女が本当に心を寄せていたのは、弟の友也だったのだ。

だからこそ、友也が当時の彼女、山口こころ(やまぐち こころ)と深く愛し合っていると知ったとき、雨音は自ら婚約を取り消し、両家の約束などなかったことにしようと決意した。

――けれど、運命は思いがけない形で巡り出す。

「水沢家によると、友也と山口さんは性格の不一致で別れたって。しかも、山口さんは友也が用意した別れの慰謝料を受け取って、家族と一緒に海外へ渡り、もう帰るつもりもないらしい。

正直、この展開は怪しいと思った。でも……若い頃の恋なんて、熱く燃えても、あっという間に冷めてしまうこともある――そう思って、深く考えなかった。それどころか、少しだけ……嬉しかった。

それからのことは、玲ちゃんも知ってると思う。

私は勇気を出して、友也と結婚することを選んだ。彼となら、少しずつでも心を通わせていけるかもしれないって、そう信じて。

けれど、友也はずっと私を避けてきた。結婚してからの二年間、一度だって優しくされたことなんてなかった。

最初はね……自分が三歳年上で、彼は姉さん気質の女が苦手なんだろうって思ってた。それに、政略結婚なんて彼には重荷だったでしょうし……

でも今日、やっと本当の理由がわかった。当時の別れは――全部、嘘だったんだ」

雨音の声は震え、涙を流した。

「友也と山口さんは、そもそも別れていなかった。あの二人は今もお
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