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第11話

Author: 雪八千
「ええ、すべて済ませております」

受話器の向こうから、洋太の声が響いた。

「高瀬さんのお怪我ですが、大事ないとのことでした。お預かりした薬で応急処置も済ませましたし……先ほど雨音さんもホテルに到着されました。ただ……」

言い淀む洋太の声に、秀一は無言で耳を傾ける。

「その……私、また余計なことを口走ってしまいまして」

洋太はおずおずと続けた。

彼は「ホテルの支配人」を名乗っているが、実際は秀一の直属の秘書である。昔から思ったことを率直に口に出してしまうタイプで、半月前から「修行」の名目でホテル勤務に回されていた。

玲は、そんな彼が長年秀一のそばで見てきた唯一特別扱いされた女性だった。

だからこそ洋太は、彼女こそ秀一の想い人だと信じ込み、余計な世話を焼いた――玲は「藤原家の未来の奥様」にふさわしいと、ホテルであれこれ持ち上げてしまったのだ。

だが今になって考えると、自分は大きな勘違いをしていたのではないか、そんな不安が胸をよぎる。

「社長は俺を信用して、高瀬さんの対応を任せてくださったのに……まったく口の利き方がなってなくて。本当にすみません!

……次はもう、アフリカ支社に飛ばしてください!」

情けなく言い切る洋太に、秀一は低く目を伏せ、しばらく沈黙した。

その沈黙の意味を測りかねて、洋太はおずおずと己の推測を口にする。

「……もしかしてですが、最初から私のおしゃべり癖を計算して、高瀬さんの対応を任せてくださったのですか?」

この推測があっていれば、自分の行動は間違ってなかったことになる。

洋太は目を見開いた。

――まさか、これも藤原家の当主らしい計略の一環なのか!?

だが秀一の声は氷のように冷たかった。

「俺の考えを、そんなに知りたいのか?」

「いえっ!滅相もないです!」

洋太は慌てて全力で否定し、話題をすり替える。

「えっと、そういえば……医師から連絡がありました。高瀬さんの体調はずいぶん回復したそうですが、今後もホテルで療養を続けさせましょうか?」

「……ああ」

秀一の声は淡々として、感情の起伏はない。

洋太が逡巡していると、次の瞬間、電話はぷつりと切れた。

一方そのころ――

ホテルの静かな一室で、玲は雨音に抱きしめられ、ようやく涙を解き放っていた。

弘樹の前では一滴も流さなかった涙。彼に弱みを見せれば、さらに容赦なく傷つけられるだろう。

秀一の前でも泣かなかった。彼の善意を無駄にしたくなかったし、彼にまで自分の負の感情を背負わせたくなかった。

でも、雨音の前では、もう何も気にせず崩れていい。

胸の奥に押し込めていた痛みは、堰を切ったように溢れ、玲を呑み込んだ。

しかし目は腫れ、声はかすれても、心の痛みは薄れない。

それは当然だ。

弘樹が綾を選び、自分を裏切ったと知ったとき、玲は冷静を装った。弘樹との写真を削除したときだって、迷いはなかった。だが、弘樹の不誠実を悟り、彼の優しい笑顔の裏にある冷酷さを理解したときから、玲の心と体は無数の刃で切り裂かれたも同然だった。

その刃を握らせたのは、かつての自分自身だったのだから、なおさら残酷だ。

雨音は涙を拭う玲の頬を何度も撫で、指先が赤くなるほどの熱に息を呑む。

その目には憤りが滲んでいた。

「……あの男、最低ね」

怒りを押し殺した雨音の声が響く。

「三年間もあなたを都合よく利用しておいて、今は堂々と婚約だなんて……

しかも婚約者を庇うために、あなたを平気で傷つけるなんてありえないわ!

もっとも、玲ちゃんは大人しいから、あいつがやり放題だったのよ!」

綾は藤原家の令嬢。対して玲は、高瀬家の後妻が連れてきた「余所者の娘」にすぎない。

だからこそ弘樹は、綾の機嫌を損ねるよりも、文句ひとつ言わない玲を痛めつける道を選んだ。

綾を喜ばせさえすれば、それが最善の選択だと信じて――

「あなたがどれだけ傷つこうが、甘い言葉を少し囁いて、『大人の事情』なんて言葉で煙に巻けば、何も言わずに受け入れるって高を括ってるのよ。

自分が反省の顔を見せれば、あなたはまた笑顔で迎えてくれる――あの男はそう信じ切ってるの。

いったいどこからそんな自信が湧くのか、本当に理解できないわ。あなたのプライドはどうでもいいってこと?」

雨音は怒りを押し殺した声で言葉を絞り出した。

「三年前、こっそり付き合おうって言い出した時から怪しいと思ってたのよ。……今さらだけど、別れて正解。

もしあいつとヨリを戻すなんて言い出したら――私が粗大ゴミの日に出してやるわ」

玲は思わずむせて、小さく笑った。泣き疲れた心が、ほんの少しだけ軽くなる。

「……今回のことで、もうよくわかった。あの人は、私を辱めただけじゃない。私たちが付き合っていた頃からずっと綾と浮気してた。

……もう、彼に縋る価値なんてない」

自分を大事にできない人間に、幸せを掴む資格はない――玲はそう痛感した。

こんなことになってもなお、この関係を断ち切ろうとしないのなら、玲は正真正銘「安売りの女」に成り下がってしまう。

だから過去に別れを告げ、自分を取り戻す。ボロボロでも、ここからは生まれ変われる。

その決意に、雨音は優しく頷き、玲の髪を撫でた。

だが彼女の瞳にはまだ怒りがくすぶっている。

「でも……このまま奴らが幸せそうに婚約なんて、絶対に許せない!あの二人、SNSで惚気ばかりしてるでしょ?ならいっそ、彼らの醜さを世間に晒してやればいいのよ!あなたを三年も騙してたクズ男も、その陰でほくそ笑む綾も、まとめて叩き落とせばいい!」

「ダメ」

玲は首を振る。

「そんなことをしたら……真実は暴けても、世間の矛先はきっと私に向くわ。

雨音ちゃんは私のために提案してくれたことはわかってるけど、あの三年の出来事を公開したら、傷つくのは結局私かもしれないから」

弘樹と綾は力も地位もある。下手をしたら、二人を怒らせ、玲のほうが潰されてもおかしくない。

無力な女性だけが責められる理不尽な現実を、玲はよく知っているのだ。

雨音も玲の言葉を理解し、自分は危うい提案をしていたと悟り、唇を噛む。

「……本当に不公平ね」

怒りと悔しさが入り混じった声が震える。

「あなたの三年を無駄にした男が、のうのうと祝福されるなんて。

玲ちゃん……美大で知り合ったとき、あなた、彫刻学科で主席卒業だったでしょ?

あまり目立って欲しくないっていう弘樹くんの一言だけで、あなたが教授の期待を裏切り、明るい未来を捨てるまで藤原家で仮面をかぶり続けた。そんなの、勿体無いすぎるわ」

その通りだ。これまでの三年間、玲は男女の関係に囚われず、思い存分己の才能を発揮できていたら、名を轟かせる芸術家になったに違いない。

玲は静かに息を吐いた。

「いいの、もう終わったことだから。三年も無駄にしたけど、その分はこれから取り返せばいい。それに、表立っての活動こそしてないけど、彫刻に触れてこなかったわけじゃないからね」

強い眼差しでそう言った玲に、雨音もようやく笑みを浮かべた。

「それはそうね……なら私がマネージャーになってあげる。二人で頑張ろう!」

「うん、ありがとう。でも……」

玲は眉を寄せる。

「そうなったら、あの二人がまた邪魔してくるかな?」

弘樹は婚約者として綾を選んだ、だが同時に玲を手元に置こうとした節もある。

もし彼が玲を諦めないなら、綾もきっと玲にちょっかいを出し続けるだろう。そうなれば、玲は仕事どころか、普通に暮らしていくことも困難になる。

「……そうね」

雨音はしばらく考え込んだ後、ふと顔を上げた。

「そういえば……藤原さんって、今、いい相手がいなくて困ってるよね?」
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