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第12話

Author: 雪八千
「困ってるわけじゃなくて、ただ継母と駆け引きをしてるというか……」

昨夜、涙に濡れながら雨音に一部始終を話したとき、玲はホテルの支配人、つまり洋太が口にした言葉までうっかりそのまま伝えてしまった。

だが実際、秀一は「相手がいなくて困ってる」ではなく、ただまだ心から結婚したいと思える女性がいないだけだ。

彼に妻ができれば、あの偽善的な継母もこれ以上、妙な縁談話を持ち込んでくることはできない。

どちらにせよ、秀一にはまだ付き合ってる相手がいない。雨音の目には、その事実だけ映っていた。

「藤原さんには恋人がいない。それってつまり、恋人募集中ってことだよね?しかも今回は玲ちゃんのためにあれだけ動いてくれて、それでも足りないから、さらに借りを返そうとしてる。そういうことでしょ?」

「……う、うん」

玲は言葉を詰まらせた。胸騒ぎのような嫌な予感が、彼女の中に広がっていく。

「雨音ちゃん、まさか……」

「そう、そのまさか!」

雨音は玲の両頬をぐいっと挟み込み、瞳をギラリと光らせた。

「玲ちゃん、今すぐ藤原さんに電話して、付き合ってくださいってお願いして。それで借りをチャラにしてもらえばいいのよ!」

玲が弘樹との関係を断ち切った後、また何をされるかわからないという不安を抱えていることを、雨音はよくわかっていた。

そして秀一もまた、継母の差し金を退けるため、表向きのパートナーを必要としている。

「よく考えたら、これって願ってもない話じゃない!

例えるなら、眠いときに枕が飛んできたみたいなもんよ。今寝なきゃいつ寝るっていうの?」

「……」

雨音の豪快な例えに、玲は何も言えず絶句した。

――「藤原さんと寝る」なんて、そう易々と口にしていい言葉じゃないはず。しかも彼は弘樹よりもはるかに影響力を持つ存在だ。自分がそんな立場に見合うわけがない。

玲は慌てて視線を逸らし、自嘲気味に呟いた。

「雨音ちゃん……あなた今、だいぶ危ないわよ。その言葉、なかったことにするからね」

「だめ!私、本気なんだから!」

雨音は諦めず、玲の耳元でささやく。

「玲ちゃん、弘樹のくだらない言葉に縛られて、自分を安売りするのはもうやめなさい。あなたは十分優秀よ。藤原さんがここまで動いてくれたのは、それだけ認めてる証拠。

自分を信じて、一歩踏み出してみなさいよ……それに、あの綾がずっといい気になってるの、我慢ならないでしょ?」

玲はまつげを伏せ、何も答えなかった。

彼女の胸の奥には秀一と「釣り合わない」という現実が重くのしかかる。弘樹のせいだけじゃない。ただ、事実として彼と自分はまったく別の世界に生きているのだ。

そして、どんなに玲が望まなくても、今回の件で勝ち誇った綾が、これからますます調子に乗ることは目に見えていた。

……

翌朝。

「藤原秀一!出てこい、このクソ男!!!」

朝の光がビル街を照らし始めたばかりの時間。

藤原グループの本社ビルに、耳をつんざくような怒鳴り声が響き渡った。

だが、その騒ぎもトップフロアの重厚なドアを隔てれば、まるで蚊の鳴き声のようなものだった。

秀一は平然と朝の役員会議を続け、眉一つ動かさない。

一時間後、役員たちが耐えきれずに退出し、外の声も落ち着いた頃、秀一が手を振った。すると、外で喉を枯らすまで叫び続けた綾が、弘樹の支えを借りてふらつきながら入ってきた。

「秀一っ!」

綾は顔を真っ赤にし、息を切らしながら叫ぶ。

「なんで私を一時間も放置したの!?聞こえてたでしょ?わざと無視したの?」

昨日、秀一に玲を連れていかれた後の苛立ちをぶつけるように、綾は弘樹の許可を得て、ゴルフクラブで玲の部屋をめちゃくちゃにした。

引き出しの奥にしまわれていた、玲が大切にしていた小さな人形――それも叩き割り、踏みつけ、写真までネットに上げてやったのだ。

その写真は必ず玲の目に止まるし、彼女はきっと悲しむだろうと、綾は想像しながらにやついていた。

そして今朝もその余韻に浸りながら、弘樹という「一日限りの秘書」を連れて、会社でも惚気しようと出社したのだが――

次の瞬間、地獄が待っていた。

部長の肩書きを突然剥奪され、手掛けていた大きなプロジェクトも取り上げられた。

怒り狂った綾は、迷わず秀一のオフィスに押し入り……いや、押し入ろうとしたが、結局一時間、外で締め出された挙句ようやく通されたのだった。

「なんで私の役職もプロジェクトも、全部取り上げたの?私は藤原家の娘よ!お父さんの命令でこの会社に入ったんだから、今すぐ撤回しなさい!」

「ふん、くだらないな」

低く冷たい笑い声が部屋に響いた。

秀一はゆったりとした動作で視線を上げ、まるで虫けらでも見るような無感情な瞳で綾を射抜く。

「君、何様のつもりだ?」

一語一語が鋭く、空気が一瞬で凍りつく。弘樹も、顔を強張らせて視線を動かした。

綾の顔は青ざめ、それでも必死に強がる。

「秀一……な、なんなの、その口の聞き方!?調子に乗ってると――」

「調子に乗ってるのは君だ」

秀一は目の前の書類を無造作に床へ投げた。

「藤原グループと高瀬グループの共同プロジェクトを君に任せて一年、進捗は三割にも届かず。君の勤務日数は百日以下。挙句の果てに会社の経費を六度も申請、総額六千四百万。その八割以上は私的流用」

鋭い声が室内に響くたび、綾の顔色は悪くなる。

「君の肩書きは、君の母親が泣きついて掴み取っただけのものだ。こんなことをした以上、お父さんは責任を追及しないとでも?

経費の不正使用だけで、君は十年間刑務所で反省すべきだ」

「……っ!」

綾の足が震え、弘樹がいなければ崩れ落ちていただろう。

自分は藤原家のお嬢様。少し油を売っても、会社のお金を使っても、大したことないと思っていた。なんでいきなり刑務所行きになったのか、見当もつかないのだ。

それに、これほど分厚い証拠は一日で集められるようなものじゃない。秀一はずっと前から、自分の不正を把握していたのだ。

しかし、なぜ一年間も放置していた?なぜこのタイミングで、自分の罪を問おうとした?

しばらく考え、その答えにたどり着いた瞬間、綾の顔が引きつった。

「ま、まさか……玲のためにこんなことを?答えて秀一、全部、あの女のためなんでしょ?」
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