Share

第3話

Penulis: 雪八千
玲が階段を下りると、リビングには大勢の人が集まっていた。

その中心に立つ人物を目にした瞬間、彼女の足が止まる。

昨日、ニュースで見たばかりの顔だ。

「玲、やっと来たのね!」

真っ先に立ち上がったのは雪乃だった。彼女は強引に玲の腕を取り、少し責めるような声音で言う。

「家政婦に何度も呼ばせたのに……また寝坊でもしてたの?未来のお義姉さんを待たせるなんて、失礼にもほどがあるわよ」

そう――今日ここに突然現れたのは、他ならぬ藤原綾。昨日、弘樹が世間に公表したばかりの婚約者だ。

彼女は今日も、弘樹が記者会見で贈ったというガラスの靴を履いていた。

遠目には気高い白鳥のように見えるが、丸い瞳と可憐な顔立ちが、どこか幼さも残している。

その隣には淡い色のスーツに身を包み、金縁の眼鏡をかけた弘樹が座っている。その瞳がレンズの奥に隠れて感情は読みにくいが、雪乃が「未来のお義姉さん」と口にしても、彼は否定の言葉を挟まなかった。

するとすぐに、綾が照れくさそうに微笑んだ。

「雪乃さん、全然大丈夫ですよ。弘樹さんはさっきからずっと一緒にいてくれたんです。それだけで私は十分嬉しいですから」

柔らかな声でそう言ったかと思えば、次の瞬間には玲に視線を向ける。

「でも玲さん……どうしてこんなに遅れたの?私たち、ずいぶん待ったのよ」

さっきまでのはにかみとは一転して、遠慮のない口ぶりだった。

その対比に、周りの人々も思わず目を見張る。

――さすが藤原家の令嬢、という声が心の中で広がっていった。

玲は冷たい指先を握りしめ、笑みを作った。

「……遅れてすみません、藤原さん」

「謝るだけじゃ誠意が足りないんじゃないの?」

綾はすぐさま弘樹に向き直り、甘えるように言った。

「高瀬家は初めてだし、玲さんに案内してもらいたいわ」

そう言いながら立ち上がり、玲の腕を当然のように取る。

初めて高瀬家を訪ねた客人、しかも将来の奥様が望んでいるのだ。断る理由など誰にもない。

ただ、玲には無理があった。怪我を抱えた足では、屋敷中を歩き回ることなど到底できない。さっき階段を降りる時だって、玲は必死に表情を繕っていたが、歩き方のぎこちなさは隠しきれなかった。

綾が気づいていないのか、それとも気づいたうえでわざとそうしたのか、玲にはわからなかった。

断ろうと口を開くより早く、弘樹の声が響く。

「玲、綾がお願いしてるんだ。案内してやってくれ」

その声音は穏やかで、しかし逆らえない圧を帯びていた。

胸の奥に鋭い痛みが走る。どうして、そんなことが言えるの?

玲が弘樹に振り向いたときには、綾が歓声を上げていた。

「やった!ありがとう、弘樹さん!」

彼女は玲の手を強く引き、楽しげに庭へと駆け出す。

高瀬家の庭園は著名なデザイナーが手がけたもので、人工の池や岩組み、四季折々の植栽が広がり、ひと回りするだけでも三十分はかかる広さだ。

玲は数分歩いただけで、すでに額に汗を浮かべていた。

昨夜から疼き続けていた足は、すでに包帯の下で血が滲み、痛みは全身に広がっていく。

けれど綾は気づきもせず、ひたすら喋り続けた。

「玲さんって、お母様の再婚で高瀬家に来られたわよね?ちょっと気になってたんだけど、ご両親はどうして別れたの?」

「……父は、私が七歳のときに事故で亡くなりました。その後、母が茂さんと出会って、それから再婚したんです」

「そうなのね、じゃあ、ある意味災い転じて福となすって感じかな?」

綾はあっけらかんと言う。

「だってお父様は亡くなったけど、こんなに立派な家で育って、みんなに大事にされて。十分幸せじゃないの?

それにね、私なんて小さい頃から母に厳しく育てられて、やっと今は会社で部長を任されてるの。でも玲さんは……彫刻専攻なのに、卒業の後ろくに作品も出さずに、ギャラリーでボランティアしてるくらいでしょう?

そうそう、弘樹さんと出会ったのも、仕事でご一緒したのがきっかけなの。毎日肩を並べて頑張ってたから、惹かれあったのよ。

もし私が玲さんみたいに家にこもってたら、きっとこんなご縁なんてなかったと思うの」

綾がにやにやしながら話すと、玲の胸に、痛みとは別の熱がこみ上げた。

「……」

「玲さん、もしかして怒ってるの?」

綾はわざとらしく首をかしげ、玲を上から下まで眺め回す。

「大丈夫よ。あなた、実力はないけど顔は悪くないものね。うちの兄も、あなたには借りがあるんですって?」

――うちの兄。

綾は名前こそ出さなかったが、玲はあの人物のことを思い出す。

綾の兄、藤原秀一(ふじわら しゅういち)。

家の後ろ盾がなくても、常に頂点に立ち続ける冷徹な男。

彼と出会ったのは、弘樹と同じ幼少期だった。その頃、ほんの些細なきっかけで彼を助けたことがあり、それを彼はいまだに覚えているのだ。

玲にとって、あれは取るに足らない出来事で、恩を売る気もさらさらなく、むしろ一生口にしないと決めていた。

けれど綾は、彼女のことを徹底的に調べ上げたらしい。

玲は足を止め、綾に問いかける。

「……藤原さん、あなたはいったい何が言いたいんですか?」

「別に。ただ不思議に思っただけ。どうしてみんな、玲さんばかり大事にするのかなって」

綾は尖った声でそう言うと、突然しゃがみ込み、足元のガラスの靴を脱ぎ捨てた。

「もういいわ。私はここで水遊びがしたいから、あんたは戻っていいわよ」

まるで下僕を追い払うような調子で言うと、綾は池に歩み寄り、つま先で鯉を引き寄せようとした。

玲は黙ってその場に立ち尽くし、視線を芝生に転がる靴に落とす。きらめくクリスタルの輝きが、ひどく虚しく映った。

彼女はそれ以上振り返らず、足を引きずりながら屋敷の方へ歩き出した。綾とは、なるべく距離を取ったほうがいいと、彼女の勘がそう告げている。

部屋に戻った玲は、震える手で包帯を解いた。案の定、傷口は再び開き、真っ赤な血が布を染めていた。

目の前が暗くなりそうな痛みに耐え、何度も深呼吸しながら再度手当てをする。

だが、ようやく落ち着いたところでノックの音が響いた。

今度は雪乃の声だ。

「玲!大変よ、藤原さんのガラスの靴が盗まれたらしいの!すぐに降りてきて!」

……どういうこと?

呆然と立ち上がり、ドアを開ける。

「あのガラスの靴が?でも……どうして私に?」

雪乃は血相を変えて言った。

「どうしてって、あんたしかいないじゃない!

あの靴は弘樹さんが藤原さんに贈った大事なものなのよ。さっき庭を案内してたのはあんただけなのに、途中で勝手に切り上げて戻ってきたでしょう?そのあと靴がなくなったのよ!」

雪乃は声を荒げ、まるで犯人を前にしたように指を突きつけた。

「とにかく靴を返して!それから綾さんに頭を下げて謝りなさい!」
Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜   第405話

    玲は少し拗ねたように秀一を睨みつけた。そう言うなり、秀一の腕をすり抜けて、再び布団の中へ潜り込む。病院も、秀一の専属医師も――どちらも植物状態だった彼女、つまり佳苗に繋がっている。秀一が彼女の件についてすべて話してくれる前に、玲はどうしてもそれに触れたくなかった。そして、すっぽり布団に隠れた玲を見つめながら、秀一はそっと息を吐いた。表情が見えないぶん、余計に玲の気持ちが掴めない。ましてや、先ほどの自分の行動が少し度を越していた自覚はある。だからこそ、彼は軽く咳払いして、低く呟いた。「すまない、玲。でも……今日、君に言われたことがあまりに嬉しくて。つい、加減ができなくなった」その言葉に、玲はぱちぱちと瞬きをし、そっと布団の端から顔をのぞかせた。秀一の表情は、からりとした冗談ではなく、本当に申し訳なさそうだ。――今だ、と玲は思う。「じゃあ……これから三日間、私は休むからね」「それは却下」即答。そのうえ秀一は玲を抱き寄せ、そのまま柔らかい唇を奪ってきた。玲の思考は一瞬で真っ白になる。……本当に、この男は反省しているのだろうか。いや、しているのはたぶん間違いない。でも、ほんの一瞬だけだったかもしれない。……翌日。玲はというと、予想どおり太陽がしっかり昇り切った頃になって、ようやく重い体を起こした。ただ、秀一が用意してくれた薬は驚くほど効いた。昨夜の青紫の痕はすっかり薄れ、喉の痛みまでもかなり楽になっている。そんな状態に少し安堵しながらスマホを見ると、画面には弘樹からの不在着信がいくつも並んでいた。しかし、玲は数秒だけ見つめただけで、そのまま通知を閉じた。折り返す気はまったくない。昨夜、弘樹が何を言おうとしていたかは、玲に想像がつく。どうせ雪乃のことだ。以前の玲だったら、どんな状況でも弘樹の一言を欲しがっていた。彼だけが、人生で唯一の光のように思えていたからだ。けれど今は違う。もう、弘樹の言葉に縋る必要はない。雪乃の件にしても、玲は傷ついてなどいない。近いうちに雪乃は自分のやったことへの報いを受ける。そうなれば、すべては終わる。ただそれだけのことだ。そんなふうにスマホを置こうとしたその瞬間、不意に別の着信が入った。弘樹ではなく、久しぶりに連絡してきた俊彦だった。「玲、今日はアート展に行

  • そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜   第404話

    秀一は片手だけで玲をすっぽり布団からさらい出した。細かな背中が、まだ熱の残る秀一の胸に触れた瞬間――玲の脳裏には、ついさっきまで続いていた濃密な時間が鮮やかに蘇る。わずか三十分前、秀一はまさに今と同じように、玲を後ろから抱きしめ、柔らかいベッドに押し倒していた。押しては引き、休む間もなく攻め立てるその熱量に、玲は息が詰まりそうになりながらも、最後には強引に顔を向けられ、深いキスで溺れさせられた。そして、致命的なほどの眩暈と快感の頂まで連れていかれ、「やっと終わった」と思ったのも束の間。秀一の大きな手がまた身体の違う場所へ火をつけ、玲が息を整える暇もなく、次の波へ容赦なく連れていかれた。その結果、玲の身体はすっかり「警戒モード」になってしまっていた。だから今回も、秀一が抱き寄せた瞬間――玲は捕まえられた小動物のように手足をバタつかせ、必死に抵抗した。「や、やだ!もうやめて!秀一さん、これ以上したら、本当に怒るから!」たしかに、玲は昔、秀一に触れられたいと強く願っていた。でも、どんなご馳走だろうと、一口二口なら美味しいと感じるし、身体にもいい。けれど、食べ過ぎては話が違う。まして今回、玲は「食べる」側ではなく、「食べ尽くされる側」だったのだから――声が震えるのも当然だった。ところが秀一は、玲が怯えた理由をすぐに察したらしい。頭を撫でながらくすっと笑った。「誤解しないでくれ、薬を塗るだけだ。さっきは自分のことでいっぱいいっぱいで……首の怪我、まだきちんと手当してなかった」このことに関して、秀一は心底から申し訳ないと思った。何度か玲の首筋の赤みを見て、「やめないと」と思った瞬間はあったが、その甘い声を聞き、赤い唇がきゅっと噛まれると――彼の理性など、跡形もなく吹き飛んでしまう。秀一は洗った手に薬を取り、玲の小さな顎をそっと上げて、腫れた跡へ丁寧に塗り広げた。「この薬、君のために特別に調合してもらった。今夜ゆっくり休めば、かなり楽になるはずだ。でも……他に怪我はないかわからないから、病院には連絡してある。今から一緒に行こう。疲れているところ本当にすまないが、しばらくの辛抱だ。病院から帰ってきてから、一緒に寝てあげる」そう言って服を取ろうとしたとき、玲が秀一の腕をぎゅっと掴んだ。そして、きっぱり首を振る。「秀一

  • そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜   第403話

    「雪乃、これからはよほどの用事がない限り、もう私に電話してくるな。今夜は仮の拘留だが、玲が正式に告訴すれば、君はそのまま本格的に収監される。死刑に向けて、手続きを踏むだけだ。だから、司法の流れに従って――さっさと死んでくれ」茂は冷え切った声でそう言い放つと、そのまま電話を切ろうとした。ただの再婚相手である雪乃に伝えるべきことは言い尽くした。今後、連絡を取る理由もない。だが、その瞬間。これまで甘ったるく「あなた」と呼んでいた雪乃の声が、氷のように静かで冷たい響きに変わった。「茂さん。あなた、本気で私を見捨てるつもりなんですか?」茂は苛立ちを押しつぶすように、低く吐き捨てた。「今の話でまだわからないのか?雪乃、これ以上みっともない真似はよせ」「でも……私がどうやってあなたと結婚したか、忘れたとは言わせませんよ?」雪乃の口元がゆっくりと歪む。スマホをきつく握り締め、瞳には狂気の光を宿す。「ねえ茂さん。私が、あなたと紀子さんの関係を、秀一さんに話してもいいんですか?」「雪乃、それは無駄な脅しだ」茂の表情がわずかに固くなり、スマホを握る手に力がこもる。「数日前、私はもう秀一くんに話した。紀子とのことすべてをな」それを聞いても、雪乃の顔には焦りの欠片もない。むしろ――大声で笑い出したのだ。「へえ、話したんですね。でもあなたが話したのは、自分は彼女の元婚約者だったっていう前半だけでしょ?紀子さんが俊彦さんと結婚した後の話。あなたが紀子さんに何をしたのか、それもちゃんと秀一さんに伝えたんですか?そんなわけ、ないでしょ?」かつて秀一は気になっていた。地位が高く、己の利益を最優先にする茂は、学歴も出自も釣り合わず、さらにバツイチの雪乃と結婚した理由は何なのかと。それは、彼の実の母、紀子と関係しているとは、想像もつかないのだろう。今回、雪乃の罪が暴かれたのは、武という大事な目撃者がいたから。そして同様に、紀子の件では、雪乃の立場はまさに武と同じだった。だから、ことの全容を知っている雪乃は確信している。茂は秀一に真実を全て話すわけがない。もし話していれば――茂も刑務所に送られ、死刑を待つ身になるのだ。雪乃の話を聞き、茂の顔色が一気に青ざめ、氷のように固まった。平静を装おうとしても、もはや無理だった。「雪乃……それで

  • そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜   第402話

    茂は、画面に表示された見知らぬ番号を見た瞬間、雪乃が誰かからスマホを借りたのだと察した。だからこそ、これ以上彼女が騒ぎを起こさないよう、あえて電話に出たのだった。目をゆっくりと閉じ、茂は低く問いかける。「何の用だ?」「何の用って、そんな言い方しなくてもいいじゃないですか……!」受話器の向こうで、雪乃は拗ねたように言い返し、冷たい鉄格子をぎゅっと握りしめた。「今日、秀一さんと玲が仕組んで私の過去を暴いたこと……もう聞いてるでしょう?確かに当時、元夫と別れるために少し過激なやり方を取ってたけど、それも全部あなたのためだったんですよ!玲は今、私をすごく憎んでるし、秀一さんも彼女にそそのかされて、私を死刑にして償わせる気でいるんです。でも……私たちが結婚してまだ十三年でしょ?これからだって、ずっと一緒にいたいし、ずっとあなたを愛していたい……だからお願い、助けて……!」今、頼れるのは茂だけ。雪乃はそれを痛いほどわかっていた。だが、返ってきたのは、鼻から笑う声だった。「雪乃……私が電話に出なかった時点で、もう気づくべきだったんじゃないのか?君は私を愛してるかもしれないが、私は一度も君を愛したことはない。だから助ける理由もない」「……え?」雪乃の思考が、一瞬で固まった。「い、今なんて……?私、あなたと家のためにあれだけ尽くしてきたのよ?あなたも優しくしてくれてたじゃない……どうして、いまさら愛してないなんて……」茂は、秀一のように愛情を積極的に表現するタイプではなかった。それでも、十三年間の結婚生活の中で、確かに情のようなものを見せていた。家の切り盛りを任せきりの雪乃に、優しい言葉をかけてくれることもあった。だから雪乃は、高瀬家のためならと、すべてを捧げることができた。娘が弘樹に弄ばれていたあの三年間すら、茂のためだと自分に言い聞かせ、黙って耐えた。すべては――茂の「優しさ」に巧妙に操られていたから。だが今、茂は淡々と告げる。自分は一度も雪乃を愛したことがない、と。「雪乃。君が高瀬家のために働いてくれていた間は、わざわざ本音を言う必要がなかったんだ。住み込みの家政婦を雇えば、月に十五万から二十五万は払わなきゃいけないが、君なら――優しい言葉をひとつかけるだけで働いてくれるからな」主婦として家を支える女性は、家政

  • そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜   第401話

    玲は電話に出なかった。忙しいのかもしれないし、着信に気づいたが無視しているのかもしれない。弘樹は三度、四度と続けて電話をかけた。返ってくるのは、冷たい機械音声の「ただいま電話に出ることができません」だけだった。窓の外で白い月光が落ちている。弘樹の眉間は、その光の下で深く寄せられた。次の瞬間、彼はスマホの電源を切り、コートをつかむと、玲の元へ向かう決意を固めた。――今夜だけは、どうしても会わなければ。玲を、こんな地獄のような現実の中に一人で放り込むわけにはいかなかった。実の父は事故死ではなく殺された、しかもその犯人が実の母だった。そんな残酷すぎる真実を、玲だけに背負わせることなどできない。そう決意してドアに手を伸ばした瞬間、ドアは外側から押し開けられた。弘樹が一瞬、思考を止める。その視界に飛び込んできたのは、見慣れているはずなのに、どこか異様に恐ろしく見える顔――茂だった。「手は、もう治ったのか?」茂は細めた目で、包帯に覆われた弘樹の手をじっと見つめる。後頭部が強張るような緊張が走った。それでも弘樹は表情を動かさず、手を隠そうともしなかった。「……いえ、まだです。入院していても回復が遅くて。途中、何度も邪魔が入って休めなかったので、あと半月は必要だと」嘘ではない。綾のわがままに付き合わされ、さらに強引に身体の関係を求められたせいで、傷口が開いたのは一度や二度ではなかった。医者も本気で頭を抱えるほどだった。だが茂は、そんな事情などどうでもいいという様子で、薄く笑った。「弘樹。そんな苦し紛れの言い訳で、私が騙されると思ったか?君のことだ、綾を避けたいだけなら、いくらでも方法はあったはずだ。なのに自分を傷つけて、綾を怒らせ続けた。結局、私に利用されることを恐れたからだろう?」実の息子だからこそ、茂には確信があった。目的のためなら、他人だけでなく自分を犠牲にすることも厭わない。この点において、本当に自分とよく似ている。だが、弘樹が玲を愛するあまり、茂に利用されて玲を傷つけるくらいなら、自分の体を壊す道を選ぶとは――茂もそこまでは読んでいなかった。弘樹は何も言わない。ただ、痩せた顔には、こわばった表情が浮かぶ。その顔を見た瞬間、茂のわずかに残っていた忍耐がぷつりと切れた。雪乃の騒動でとうに苛立ち

  • そろそろ別れてくれ〜恋焦がれるエリート社長の三年間〜   第400話

    だからこそ、玲は何も知らないふりをしようと決めた。そして、秀一が植物状態だった女性のことを隠していた理由も、雪乃の件と同じように――悪意ではなく、ただ彼女のためを思ってのことだと信じようとした。かつて、あれほど勇気を振り絞って弘樹と決別できたのは、彼から完全に離れられるという確かな覚悟があったからだ。けれど秀一に対しては、その覚悟がない。だから待とうと思った。秀一が、自らあの女性のことを語るその日を。彼が、今日のように隠していた理由や胸の内を、自分にすべて話してくれる日を。玲は馬鹿ではない。雪乃の言葉が復讐心に満ちた、悪意の塊だということくらいわかる。不愉快にさせようと煽り散らした言葉を、そのまま丸ごと信じるほど単純ではなかった。むしろ玲は確信していた。秀一はあの女との関係には必ず裏がある。そして、ほぼ間違いなく――その女は、これまで何度も玲に絡んできた佳苗なのだろう、と。秀一が、あの狂気じみた歪んだ女を愛するはずがない。秀一の心の中にいるのは、自分だけだ。……ふと気づけば、空は夕闇に沈み始めていた。ただ、アート展の会場は相変わらず静かで、誰かが期待していたような混乱も起きなかった。だが――玲がRであること、そして雪乃が十三年前、夫を殺した真犯人であることは、高瀬家と藤原家に隠し通せるものではない。雪乃の醜聞が玲の輝く瞬間を汚すことを秀一が望まなくとも、高瀬家の女主人が連行された以上、当事者である高瀬家が知らないはずがない。そのため、たった一晩のうちに、この二つの重大情報は両家の家族グループを一気に震撼させた。俊彦は、玲がRだと知った時には誇らしさで胸を張りかけていた。だがその直後、綾がアート展で騒ぎを起こしたと聞き、怒り心頭。美穂を押しのけてでも綾に鞭の刑を課すつもりだった。しかし――雪乃に関する衝撃の情報が続けざまに飛び込むと、あの俊彦でさえ一瞬、体が固まった。綾の愚行が、妙に大したことのない出来事のように思えてしまうほどに。ところが当の綾は、その報せを聞いた瞬間、怯えは一瞬で吹き飛んだ。そして、まるで待ってましたとばかりに雪乃を揶揄し始めた。実の夫を殺したのだから、その夫と産んだ娘を可愛がるはずがない、と。そして、さらに暴走は続き、彼女は堂々とこう言い放った。邪悪な血は遺伝する。雪乃が夫を殺したの

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status