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第7話

Author: ラフな子犬
目を覚ますと、医師が同情に満ちた眼差しで見下ろしていた。

「栞さん、怪我のことですが……警察に通報しますか?」

警察?そんなことをして何になる?

もういい。これ以上、彼らに恥を晒されるのは御免だ。

彼女は静かに首を横に振った。

医師は小さく溜息をついた。

「ビザと航空券の手配は完了しました。出発は明後日です。

それから、あなたがこの街にいたという記録データは、すべて消去しました」

栞の口元に、微かな笑みが浮かぶ。

これほど長い間苦しんで、ようやく訪れた唯一の朗報だった。

よかった。やっと解放されるのだ。

翌日、栞が退院して自宅に戻ると、リビングから楽しげな話し声が聞こえてきた。ドアを開けると、五人が食卓を囲んで談笑している。

秋彦が美月にスープをよそい、他の男たちもプレゼントを見せ合っていた。

栞の姿を認めた瞬間、場の空気が凍りついた。

「よくもぬけぬけと帰ってこれたな。美月をオークション会場に置き去りにしておいて」雅人が冷ややかな視線を向ける。

栞は言い訳する気力もなく、無言で寝室へと向かった。

背後で蓮が「悪いことをした自覚もないのかよ」と毒づくのが聞こえた。

部屋に入った栞は、荷造りを始めた。

かつて宝物だった写真やプレゼントを、迷うことなくゴミ箱へと放り込んでいく。

手元に残したのは、亡き父とのツーショット写真だけだ。

この家で唯一、心から栞を愛してくれた人。

だが半年前に心臓発作で他界してしまった。

雅人や秋彦たちの態度が豹変したのは、父が亡くなってからのことだった。

写真の中の優しさに満ちた父の顔を指でなぞり、栞は鼻の奥がツンとするのを感じた。

「栞、荷造りなんてしてどこへ行くんだ?」いつの間にか秋彦が入ってきていた。彼はゴミ箱の中身を見て、眉をひそめて彼女を見た。「どうして全部捨てるんだ?」

ゴミ箱の中には、二人の思い出の写真が捨てられている。彼は得体の知れない不快感を覚えた。

「古い物だから、もういらないの」

汚れてしまった人間も、一緒に捨てるのだ。

栞は手を休めずに冷たく答えた。

秋彦の胸に不安がよぎる。彼女がただ拗ねているだけだと思いたい彼は、優しく言い聞かせようとした。

「栞、分かってるよ。最近、美月の妊娠にかかりきりで、君を疎かにしていた。

だが、僕の妻は君だけだ。だから、そんな風に拗ねるのはやめてくれないか?」

妻?

栞は心の中で冷ややかに笑った。よくもまあ、顔色一つ変えずにそんな嘘がつけるものだ。彼女は何も答えず、再びしゃがみ込んで片付けを続けた。

その時、スーツケースの隙間から見えた書類に、秋彦の目が留まった。

【癌診断書】の文字の一部が見えている。

「これは何だ?」

彼が手を伸ばした瞬間、栞の心臓が早鐘を打った。

出発を目前にして、余計な波風を立てたくない。

「秋彦さん、ウェディングドレスの試着に付き合ってくれるんでしょ?」タイミングよく美月がドア口に現れ、秋彦は手を引っ込めた。

「ああ、すぐ行くよ」彼は愛おしげに美月を見た。

「お姉ちゃんも一緒に行きましょう?」美月が怯えたように誘う。

「行かないわ」栞は即座に拒絶した。

美月の瞳がたちまち潤む。

「お姉ちゃん、そんなに私のことが嫌いなの?」

泣き声を聞きつけた雅人が階段を上がってきた。

「栞、また美月を泣かせたのか!

美月が好意で誘っているのに、どうして断るんだ!」

栞が口を開く間もなく、雅人は彼女の腕を掴み、強引に引きずっていった。

車内では、雅人がハンドルを握りしめ、顎を強張らせていた。彼が激怒しているサインだ。

だが今の栞には、以前のように彼をなだめる気力などない。突然、内臓を雑巾絞りにされるような激痛が襲った。彼女はポケットから鎮痛剤を取り出し、大量の錠剤を一気に飲み込んだ。

「何を飲んだ?」雅人が不審げに尋ねる。

「ラムネよ」栞は短く答え、目を閉じた。

車内の空気が重く澱む。

あまりに冷淡な栞の態度に、雅人の怒りは沸点に達しようとしていた。

ドレスショップに到着すると、予想通り、美月は着替えの手伝いを栞に要求した。

更衣室で二人きりになった途端、美月はあのか弱い仮面を脱ぎ捨てた。

「お姉ちゃん、みんなが私に尽くしてくれるのを見て、悔しくてたまらないでしょ?」彼女は鏡の前でポーズを取りながら嘲笑う。

「でも仕方ないのよ。何事も早い者勝ちなんだから。いくら血の繋がった娘でも、愛されなきゃ意味がないの」

栞が無反応なのを見て、美月の目には憎悪の色が濃くなった。

「私はあんたの旦那も、お兄ちゃんも奪った。次は、あんた自身をこの世から消してあげる!」

ようやく栞が反応を示した。

美月に教えてやりたかった。そんな手間をかけなくても、私は明日ここから消えるのだと。

だが彼女が口を開く前に、美月は彼女の手を引いて更衣室を出た。二人は螺旋階段の上に立つ。

下から男たちの歓声が上がった。

「美月、綺麗だ!」

「当日が楽しみだな、世界一美しい花嫁だよ!」

彼らの賛美を聞きながら、美月は栞の耳元に顔を寄せ、悪魔のように囁いた。

「お姉ちゃん、知ってる?……実はね、私、妊娠なんてしてないの」

栞は目を見開いた。

「秋彦さんに早く結婚してほしくて、嘘ついただけ」

嫌な予感がした。栞は後ずさりしようとしたが、美月がその手首を掴んで離さない。

「ただ私は……彼らに……お姉ちゃんを追い出してほしかっただけなの」

言い終えると、彼女は栞に向かってにっこりと甘く微笑んだ。

次の瞬間、美月は栞の手を掴んだまま、自ら階段へと身を投げ出した。

「きゃああっ――!」

「美月!!」

「栞、なんてことをするんだ!!」

下で見上げていた四人の目には、栞が美月を突き落としたようにしか見えなかった。彼らは狂気じみた形相で駆け寄った。

「美月、しっかりしろ!」雅人が震える手で彼女を抱き起こす。

「お兄ちゃん、お腹が痛い……

私の赤ちゃん……赤ちゃんが……」

美月はうわごとのように呟き、気を失った。

「急げ!病院だ!」秋彦が狂ったように叫び、四人は大慌てで美月を運び出す。

呆然と立ち尽くす栞の腕を、蓮が乱暴に掴み上げた。その瞳は氷のように冷え切っていた。

「来い。もし美月に何かあったら、君も生きて帰れると思うなよ!」
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