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終曲、されど君はそこに

終曲、されど君はそこに

By:  今日こそ完結Completed
Language: Japanese
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星野悟と別れて二年、私の肺がんはついに末期に達した。 命尽きる間際、私は激痛に苦しむ体を引きずり、神居湖へやって来た。 付き合って999日記念日に、二人でここに来ようと約束した。 けれど結局、来たのは私だけだった。 先生から化学療法に戻るよう促す電話が、ひっきりなしにかかってきている。 私はマナーモードに切り替え、悟がくれたペンダントを湖のほとりに埋めた。 「星野悟、あなたを思い出すのは、これが最後よ。 たぶんもう、二度とこんな機会はないから」 言葉を言い終えた途端、鼻血が砂に滴り落ちた。 その背後から、三年もの間、ずっと想い続けた声が聞こえた。 「あの、すみません。写真を撮ってもらえませんか?」

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Chapter 1

第1話

星野悟(ほしの さとる)と別れて二年、私の肺がんはついに末期に達した。

命尽きる間際、私は激痛に苦しむ体を引きずり、神居湖へやって来た。

付き合って999日記念日に、二人でここに来ようと約束した。

けれど結局、来たのは私だけだった。

先生から化学療法に戻るよう促す電話が、ひっきりなしにかかってきている。

私はマナーモードに切り替え、悟がくれたペンダントを湖のほとりに埋めた。

「悟、あなたを思い出すのは、これが最後よ。

たぶんもう、二度とこんな機会はないから」

言葉を言い終えた途端、鼻血が砂に滴り落ちた。

その背後から、三年もの間、ずっと想い続けた声が聞こえた。

「あの、すみません。写真を撮ってもらえませんか?」

その瞬間、私の心臓がぴたりと止まった。

慌てて鼻血を拭い、振り返ると、そこに悟が立っていた。

私を見た途端、彼は驚きに目を見張った。

「悟、知り合いなの?」

彼の隣にいる女の子が、甘えるように腕に絡みつきながら、不思議そうに尋ねた。

悟はぎこちなく私の顔から視線を逸らすと、女の子をぐいと腕の中に抱き寄せた。

「いや、知らない」

その声は、まるで神居湖の風のように冷たく響いた。

二年間も付き合ったのに、知らない、か。

私は無理に作った苦笑を浮かべた。胸に鋭い痛みが走り、息もできないほどだった。

呆然としていると、悟が無理やりカメラを私の手に押し付けてきた。

「撮るのか撮らないのか、どっちだ。こっちは急いでるんだ」

その態度が良くないと思ったのか、隣の女の子が慌てて私に愛想笑いをしながら謝った。

「すみません、彼氏、こういう不愛想なところがあって」

彼女は悟の方を向くと、甘えるように、それでいて巧みに不満を匂わせながら言った。

「もう、悟ったら。おば様が、旅行で仲を深めてツーショットを送ってきなさいって言ってたでしょ?不機嫌なのはわかるけど、知らない人にそんな失礼な態度はダメじゃない?」

悟の母親の話題を出すと、彼女は再び私に向き直って言った。

「すみません、お金はちゃんと払いますから。写真お願いします」

しかし、悟は眉をひそめた。

「奈央、こいつにそんな長々と話す必要はない」

悟の言葉を聞いて、私の頭は真っ白になった。

そうか、彼女が酒井奈央(さかい なお)……

悟のお母さんが二年も前から認めていた、その理想の嫁。

あの時、私はめちゃくちゃにされた店の後片付けを終え、電話に出ていた悟を探しに行った。そして偶然聞いてしまったのだ、彼のお母さんの言葉を。

「星野家の未来の嫁はね、酒井奈央みたいな向上心のある子だけよ!

焼肉屋の女なんかに何ができるっていうの?悟に取り入ろうだなんて、本当に恥知らずね!」

そして悟は、長い沈黙の後、こう言った。

「わかったよ。母さんの言う通りにする。あなたたちが決めた相手と結婚するから」

まさか、こんなに早く、二人がゴールインするなんて。

全身が引き裂かれるような痛みに、立っているのもやっとだった。私はただ、夢遊病者のようにカメラを受け取った。

ファインダーの中、悟が奈央の肩を抱き、優しい眼差しを向けている。

そして奈央は彼の胸に寄り添い、幸せそうに微笑んでいた。

カシャ、とシャッターを切る。

涙が、何の兆候もなく視界をぼやかせた。

奈央はカメラを受け取ると満足げに写真を確認しており、私の異変には全く気づいていない。

だが、悟は私の隣まで歩み寄ると、声を潜めて言った。

「おい、その哀れな姿は誰に見せるための芝居だ?

なんだ、後悔したか?ゴミを捨てるみたいに俺を捨てた時は、ずいぶんと潔かったじゃないか」

私は涙をぐっと堪え、顔を上げて無理に笑みを作って彼を見つめた。

「考えすぎじゃないですか。

合わない関係を捨てただけのことでしょう。

星野さんと別れたこと、一度も後悔なんてしてません」

それを聞くと、悟の顔は一瞬にして青ざめた。まるで殴られたかのように。

「水原絵里(みずはら えり)、何様のつもりだ!お前みたいな女は、永遠に誰かの真心を得る資格なんてないぞ!」

彼はそう言い放つと荒々しく踵を返し、奈央の手を引いて大股で去って行った。

悟の影が遠く小さくなっていくのを見て、私はついに堪えきれず、苦笑を漏らした。

そうよ、手放したのは私。泣く資格なんて、あるわけないよね。

悟と別れたことは後悔していない。それに、もう後悔する機会すらないのだ。

だって、私はもうすぐ死ぬのだから。

震える手で鞄の中から肺がん用の鎮痛注射を取り出し、慣れた手つきで手首に突き刺す。

冷たい液体がゆっくりと体内に押し込まれていく。最後に、砂に埋もれたペンダントをちらりと見た。

そして注射器を捨て、車のエンジンをかけた。

しかし、車が神居湖の出入り口に差し掛かったところで、喧騒が聞こえてきた。

なんと、悟だった。

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第1話
星野悟(ほしの さとる)と別れて二年、私の肺がんはついに末期に達した。命尽きる間際、私は激痛に苦しむ体を引きずり、神居湖へやって来た。付き合って999日記念日に、二人でここに来ようと約束した。けれど結局、来たのは私だけだった。先生から化学療法に戻るよう促す電話が、ひっきりなしにかかってきている。私はマナーモードに切り替え、悟がくれたペンダントを湖のほとりに埋めた。「悟、あなたを思い出すのは、これが最後よ。たぶんもう、二度とこんな機会はないから」言葉を言い終えた途端、鼻血が砂に滴り落ちた。その背後から、三年もの間、ずっと想い続けた声が聞こえた。「あの、すみません。写真を撮ってもらえませんか?」その瞬間、私の心臓がぴたりと止まった。慌てて鼻血を拭い、振り返ると、そこに悟が立っていた。私を見た途端、彼は驚きに目を見張った。「悟、知り合いなの?」彼の隣にいる女の子が、甘えるように腕に絡みつきながら、不思議そうに尋ねた。悟はぎこちなく私の顔から視線を逸らすと、女の子をぐいと腕の中に抱き寄せた。「いや、知らない」その声は、まるで神居湖の風のように冷たく響いた。二年間も付き合ったのに、知らない、か。私は無理に作った苦笑を浮かべた。胸に鋭い痛みが走り、息もできないほどだった。呆然としていると、悟が無理やりカメラを私の手に押し付けてきた。「撮るのか撮らないのか、どっちだ。こっちは急いでるんだ」その態度が良くないと思ったのか、隣の女の子が慌てて私に愛想笑いをしながら謝った。「すみません、彼氏、こういう不愛想なところがあって」彼女は悟の方を向くと、甘えるように、それでいて巧みに不満を匂わせながら言った。「もう、悟ったら。おば様が、旅行で仲を深めてツーショットを送ってきなさいって言ってたでしょ?不機嫌なのはわかるけど、知らない人にそんな失礼な態度はダメじゃない?」悟の母親の話題を出すと、彼女は再び私に向き直って言った。「すみません、お金はちゃんと払いますから。写真お願いします」しかし、悟は眉をひそめた。「奈央、こいつにそんな長々と話す必要はない」悟の言葉を聞いて、私の頭は真っ白になった。そうか、彼女が酒井奈央(さかい なお)……悟のお母さんが二年も前から認めて
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第2話
「どうして俺たちを出してくれないんだ?」悟が冷ややかな表情で詰め寄るが、係員の態度は変わらなかった。「申し訳ありません、お客様。観光のピーク時期ですので、予約登録のない車両は一切出入り禁止となっております!」悟の顔が、恐ろしいほど曇った。その時、奈央が私の車に気づき、ぱっと目を輝かせて駆け寄ってきた。「すみません、またお邪魔してしまって、本当に申し訳ないです」彼女は私の車の窓を軽く叩き、申し訳なさそうな顔で言った。「悟のお母様が急にこの旅行を計画してくださったもので、慌てて家を出たため、事前に車の通行予約をするのを忘れてしまって。それで、ここから出られなくなってしまったんです。お車は登録済みのようですね。もしよろしければ……乗せていただけませんか?」私の心臓が水底に沈んでいくように、じわじわと溺れていく感覚に襲われた。悟が私を呼び止めたあの瞬間、実はひそかに喜んでいた。彼も少しは、私のために来てくれたのかもしれない、と。けれど結局、それはただお母さんの計画だった。あの999日目の約束を覚えていたのは、私だけなんだ。そして彼は、ただ偶然通りかかっただけ。ハンドルを固く、固く握りしめる。視線が、ちょうど少し離れた場所にいる悟と不意に交錯した。奈央が言葉を続ける。「私たちのホテルはすぐそこの桜庭なんです。どうかお願い……」桜庭。それは、まさしく私が予約したホテルだった。私は魔が差したように「いいですよ」と答えていた。奈央はすぐに感謝の笑みを浮かべ、後部座席に乗り込むと、悟に声をかけた。「悟、早く乗って」悟がこちらへ歩いてくる。その手は、助手席へと伸びていた。彼が二年間、ずっと座っていた場所。だが、その手がドアハンドルに触れる寸前、悟は不自然に動きを止め、奈央の隣へと窮屈そうに乗り込んだ。車内はひどく静まり返っていた。私は気まずさで後悔しきりだったが、悟が車内に置いてあった薬瓶に気づき、ふと口を開いた。「それは何だ?」あれは私の、強力な鎮痛剤。でも、悟に知られるわけにはいかない。私は言葉を濁して嘘をついた。「ビタミン剤です」「ずいぶん健康に気を使ってるんだな」彼はいつものように皮肉を言った。隣の奈央が彼を咎めた。「悟、どうして水原さんにそんな意地悪ばか
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第3話
奈央が彼の後ろに立ち、どこか気まずそうな表情を浮かべている。「水原さん、すみません。部屋の給湯器が壊れてしまって……こちらのバスルームをお借りしてもよろしいでしょうか?」私は本能的に断ろうとした。しかし悟は、まるで私の心を見透かしたかのように、フンと鼻で笑った。「どうした、水原さん。俺たちがこの部屋を汚すのが怖いのか?随分とケチだな。それとも、部屋に誰かさんを隠していて、会わせられないとでも?」彼の言葉に息が詰まり、私は勢いよくドアを引いて開けた。「お二人とも、ご自由にどうぞ」奈央がお風呂に入ると、部屋には私と悟二人だけが残された。シャワーの音だけが響き、気まずい沈黙が流れる。悟は私をじっと見つめてくる。その視線に、背筋に冷たいものが走った。ベランダへ逃げようとした、その時、彼の抑えた声が不意に響いた。「お前、いつまで逃げるつもりだ?」彼は一歩前に出ると、私の手を掴もうと腕を伸ばしてくる。注射痕を見られるのが怖くて、咄嗟に手を引っこめた。その手は空を切り、悟は一瞬呆然とする。次の瞬間、彼の目は真っ赤に充血し、さらに一歩踏み込むと、私を壁際に追い詰めて逃げ場を塞いだ。「電話にも出ない、LINEは未読のまま。いつまで俺から逃げる気だ?そんなに俺が怖いのか?なぜ急に別れを切り出した?プロジェクトが失敗したからって、俺が価値のない男になったとでも思ったのか?それとも、他に気になる男でもできたのか?教えて、何が気に食わなかったんだ。頼むから……」彼の声はひどく嗄れ、その瞳は熱っぽく潤んでいた。胸が張り裂けそうなほど痛む。でも、私に何が言えるというのだろう?がんになって、もうすぐ死ぬこと?彼の母親が私を「恥知らず」と罵っていたのを聞いたこと?それとも、彼が「あなたたちが決めた相手と結婚する」って、母親に約束してるのを聞いちゃったから?正直、それでいい。これ以上、彼の幸せを邪魔するわけにはいかないのだから。私は顔を背け、心にもない言葉を力なく繰り返した。「理由なんて、ないよ……ただ、合わないの」悟の呼吸が止まる。私を食い入るように見つめ、やがて不意に笑った。「……はっ、はは……そうかい。お前、よくも……やってくれたな!」彼は何かを決意したようにスマホを手に取
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第4話
悟がどうしたと口を開きかけた、その時。バスルームの扉が開いた。奈央がバスタオル一枚の姿で現れ、甘えた声で彼を呼ぶ。「悟、終わったわ。行きましょ」悟の足がその場に縫い付けられる。私は震える指で部屋のドアを指さし、歯を食いしばって言葉を絞り出した。「行きなさいよ。何をぼさっとしてるの?星野さん、彼女が呼んでるじゃない?そんなに彼女の言うことを聞かないなんて、まさか他の誰かさんのことを考えてるんじゃないでしょうね?そんな浮気じゃ、人に笑われるわよ」悟は複雑な表情で私を一瞥すると、やがて奈央を連れて出て行った。ドアが閉まった瞬間、私はもう堪えきれなくなり、トイレに駆け込むと洗面台に向かって大量の血を嘔吐した。カバンから鎮痛剤の注射器を探り当て、腕に滅茶苦茶に突き刺す。薬液が体内に押し込まれていく瞬間、鏡に映る血の気のない自分の顔を見て、不意に涙が溢れ出した。彼はまだ遠くへ行っていない。ほんの数メートルの、近い距離にいるのに。伝えたい。悟、すごく痛いの。もう、耐えられそうにない……抱きしめてほしい。たった一度でいいから。でも、できない。もう、そんなこと……朦朧とする意識の中、ドアの外から、悟がとても小さな、小さな声で私の名を呼んだような気がした。「……絵里」まったく……痛みで、幻聴まで聞こえるなんて。力なく笑った。次の瞬間、スマホが鳴った。電話が繋がるやいなや、主治医のもどかしさに満ちた怒声が浴びせられた。「水原絵里さん、死にたいのですか!なぜ電話に出ないのです?化学療法の期日はとっくに過ぎています。自分の命がそんなにどうでもいいのですか!?今すぐ戻ってきてください!」痛みで一言も発することができず、か細い呻き声しか漏らせない。その時だった。部屋のドアが、蹴破られた。悟がスマホをひったくる。相手も確かめず、電話の向こうにいる誰かに向かって怒鳴りつけた。「何が戻ってって?彼女は忙しい!他を当たれ」悟は電話を切ると、一歩、また一歩と私に迫り、私の手首を乱暴に掴んだ。その顔には薄ら笑いが浮かんでいる。「やるじゃないか、どうして俺をあっさり捨てられたのかと思えば、とっくに次の相手を見つけていたわけか。なんだ?新しい男はそんなに束縛が激しいのか?お前はそいつに怒鳴られて甘んじ
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第5話
私はありったけの力を振り絞り、平静を装って流れ落ちる鼻血を拭った。「のぼせただけ。ここ、乾燥してるから」「なら、腕のこの傷はどういうことだ?」腕を引っ込め、無理に落ち着き払った声で言う。「湖のほとりで、何かにちょっと刺されちゃって」悟は眉間に深く皺を寄せ、私の目をじっと見つめる。私の本心を探ろうとしているかのようだ。しばらくして、彼は私の手を離した。その声には苛立ちが滲んでいる。「まったく、いい大人なのに、どうしてそうそそっかしいんだ」彼は口を開きかけて、なおも何か言いたそうにしていたが、そこへ奈央がドアをノックした。「悟、ヘアゴム取ってくるのに時間かかりすぎじゃない?お母さんから電話してって言われてたでしょ、ちゃんと折り返してあげて」「わかってる」悟の顔に苛立ちがよぎったが、それでも電話をかけ直した。彼の母親の弾んだ声が、少し離れていても、私の耳にはっきりと届く。「悟、やっとわかってくれたのね。奈央は本当にいい子だって言ってたでしょ。昔のあの女とは大違い。全身から安っぽい油の煙の匂いがして、思い出すだけで吐き気がするわ!彼女には何の取り柄もないし、あなたの足手まといになるだけ!これから会っても、絶対に近づいちゃだめよ!」「母さん!」悟は顔をこわばらせ、バツが悪そうに私を一瞥すると、慌てて電話口に言った。「こっち、まだ用事があるから。じゃあな」電話を切ると、ぎこちなく口を開いた。「母さんは……そういう意味じゃない。気にするな」私は口の端を歪め、力なく笑って首を横に振る。「うん、わかってる」ずっとわかってる。悟の母親が二年前に、もうそう思っていたことを。悟は気まずさを紛らわそうと、別の話題を探して口を開きかけている。けれど、私はこれ以上この話を引き延ばしたくなかった。疲れすぎたし、痛みもひどすぎる。「大丈夫。全部、理解してるから」顔をドアに向け、そこに立つ奈央に言った。「酒井さん、星野さんが、明日もあなたたちを途中まで送って、車を取りに戻れるようにしてほしいって、同意したから。早く帰って休んで」「絵里!俺は……」悟が焦った顔で、何かを言い募ろうとする。私は視線を上げ、淡々と彼を見つめた。「何?まだここに残るつもり?お母さんに、あなたの恋をもっと心配さ
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第6話
「悟!」奈央がとっさに彼を引き留め、トイレの標識を指さした。「そこ、女子トイレよ。私が見てくるわ」悟は心乱れた様子で頷いた。私は洗面台に突っ伏し、ごぼりと一口、鮮血を吐き出す。手の中のティッシュが真っ赤に染まった。それを力なくゴミ箱に捨て、口元の血の筋を水で洗い流す。「本当に長くないみたいね」不意に、背後から奈央の声がした。私ははっとする。鏡の中の彼女は、ゴミ箱の中の目に刺さるような赤色を見つめていた。その顔には、複雑な憐れみが浮かんでいる。「あなたが悟の元カノだってこと、知ってるわ。初めて会った時から、わかってた。昨日、知らないふりをしたのは演技よ」私は何も言わず、ただ黙って彼女を見つめ返した。「悟の母親からあなたの話を聞いたわ。彼女があなたを見下しているのは、あなたが人の弱みにつけ込んだからだ、とね。何年か前、悟がプロジェクトに失敗して、役員会から責任を追及されてた時があったの。気分転換に外に出たものの、携帯も財布も持っていなくて、低血糖で倒れそうになった時、偶然あなたの店の前にたどり着いた。彼はそれまで挫折なんて経験したことがなかった。そんな、一番惨めな時にあなたが串焼きをご馳走したから、あなたに心を奪われてしまったのよ。彼はプライドを捨ててまで、無料であなたの店を手伝って、ウェイターみたいなことまでした。おば様、すごく怒ってたわ。悟は財閥の跡継ぎなのよ、普段のあなたなら、彼に会う資格すらない。あなたたち、相応しくないの」彼女は私の隣に歩み寄り、声を低くした。「悟の世界から、跡形もなく消えてほしい。もう私たちの邪魔をしないで」嫌だ、そんなことを……私は固く拳を握りしめたが、その言葉を口にすることはなかった。悟が四十度の熱を出して意識を失った時、大雨の中、彼を病院に運び、五日間つきっきりで看病して、回復を見守ったのは私だ。悟が同業者から報復を受けた時、身を挺して椅子を振り回し、三度も来た連中を追い払ったのは私だ。最後の連中が来た時、鉄パイプが彼の後頭部めがけて振り下ろされたのを、身代わりになって受け止めたのも、私だ。背中に叩きつけられたその一撃で、私は半月も寝込んだ。今でも、雨が降ると鈍い痛みが走る。でも、私はもう死ぬのだ。こんな話、今さら口にする必要はない。
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第7話
その鮮やかな口紅を受け取り、鏡に向かって、丁寧に唇に引いていく。鏡に映る顔は、顔色が大変青白いことを除けば、以前と何も変わらないように見えた。私たちはトイレから出た。悟がすぐに駆け寄り、眉をひそめて私を見る。「どうした?やけに長かったじゃないか」その視線が、私の赤すぎる唇と、相変わらず青白い顔に落ちる。軽く舌打ちした。私がどう切り出そうか考えていると、奈央がごく自然に助け舟を出してくれた。「少し高山病みたい。さっきまでずっと吐いてたの。今はもう大丈夫よ」悟の声は、どこか責めるような響きを帯びていた。「高山病のくせに一人でこんな場所に来るなんて、まったく」言うが早いか、なんと私を押し退けるようにして運転席のドアを開け、硬い口調で言い放った。「後ろで休んでろ」その背中を見つめながら、私は力なく笑みを浮かべ、黙って後部座席に乗り込んだ。車は揺れ、私の痛みはまた激しくなり始める。彼らの前で注射を打つわけにはいかず、車内にあった強力な鎮痛剤の瓶を探り当て、数錠を水なしで飲み込んだ。しかし、悟はバックミラー越しに、私の動きをじっと見つめていた。「一体何を食ってるんだ」彼の目は、私を射抜くように冷たい。「車に置きっぱなしにしてまで飲むビタミン剤がどこにある?」問い詰められて、私は言葉に詰まる。言い訳が、思いつかない。すると、奈央が突然バッグから精巧な小瓶を取り出し、私の手に押し付けながら、悟を咎めるように笑った。「悟、大袈裟よ。女の子は体が弱いんだから、色々補わなくちゃ」彼女は私の方を向き直り、穏やかに言った。「水原さん、これ、星野おば様からいただいた最高級の栄養剤なの。体調が悪いなら、受け取って、この二日間、お世話になった私たちからのお礼だと思って」彼女は私を庇うと同時に、私と彼らが住む世界の違う人間なのだと、それとなく知らしめていた。その瓶を固く握りしめ、顔を引きつらせて笑う。「……ありがとう」車内は再び、息の詰まるような沈黙に支配された。ようやく目的地に到着した。これが、最後だ。車を降りた悟の横顔を、脳裏に焼き付けようと、ただじっと見つめた。ずっと、ずっと見つめていた。その視線が背中を焦がすように感じたのか、彼がわずかに身じろぎしたのを機に、私は目を逸らす。そ
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第8話
悟は、わざと腕時計を絵里の車に置いてきた。車で、栄養剤を譲り合っていた、まさにその時に。彼がそこまでして仕組んだのは、ただ、もう一度絵里と話すための口実が欲しかったからだ。母の言葉に同調したのは、いつも心にもないことだったのだと、どうか気にしないでくれと、そう伝えたかった。悟は苛立ち紛れに車を路肩に停めると、携帯を取り出し、絵里の番号を呼び出した。コール音は長く続いたが、誰も出ない。もう一度、かける。やはり、応答はない。強烈な不安が彼を捉えた。おかしい。何かがおかしい。たとえ家に着いていて、店の仕事がどんなに忙しくても、ここまで電話に出ないはずがない。まさか、事故でも……悟は弾かれたように腕時計の追跡システムを起動した。画面上には、小さな赤い点が点滅していた。そして、その点滅が示す場所は、病院だ。悟の血が、一瞬で凍りついた。病院?なぜ、病院にいるの?脳裏に、絵里の蒼白な顔が、不意に流れ落ちた鼻血が、そしてビタミン剤だと偽って大量に飲み下していた薬の姿が、次々と蘇る。あれほど体調が悪そうだった彼女を、自分は一人で帰したのだ。もし、万が一のことがあったら……その考えが、彼の呼吸を止めた。神居湖に来たその日、湖畔に佇む少女が絵里に似ている、と思ったからこそ、悟は声をかけた。本当に絵里だと分かった瞬間、死ぬほど嬉しかった。それなのに、理由も分からぬまま別れを告げられたことを思い出し、ついむくれて、あれほどの酷い言葉をぶつけてしまったのだ。そして、彼女を行かせてしまった。もし、自分のせいで彼女が気を散らし、事故に遭ったのだとしたら……そう考えただけで、冷や汗が噴き出し、心臓を掴まれるような恐怖に襲われた。「降りろ」高速道路の出口を抜けるなり、彼は奈央にそう告げた。奈央は呆然とする。「……何ですって?」「降りろと言っ……いや、もういい。お前がこの車で帰れ!」もはや体裁を繕う余裕など微塵もない。彼は車から飛び出すと、一台のタクシーを無理やり停め、病院へ向かって狂ったように飛ばさせた。道中、彼はひたすら心の中で祈り続けた。絵里、頼むから、無事でいてくれ。タクシーが停まるや否や、彼は病院の救急外来ホールに駆け込み、ナースステーションへと突進した。「すみま
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第9話
緩和ケア病棟?悟の頭の中が、雷に打たれたかのように真っ白になった。緩和ケアって?本当にがんなの……まさか。別れる前はあんなに元気だったじゃないか。毎日、店で誰よりも元気に飛び回っていたじゃないか。「ありえない!もう一度調べてくれ!同姓同名の別人じゃないのか?」看護師は少し苛立ったようにモニターを彼の方へ向ける。「ご自分で確認してください。水原絵里、肺がん末期、302号室です」悟は画面に映し出されたものを見つめ、世界そのものが崩れ落ちていくのを感じた。ふざけるな!よろめきながら302号室へと走り出す。道中、彼はただひたすら祈っていた。何かの間違いだ。同姓同名だ。ただの偶然なんだ!302号室のドアを、押し開けるまでは。彼が来る日も来る日も想い続けたその姿が、病床に昏々と横たわっていた。その顔色はまるで死人のように白く、生気がまったく感じられなかった。看護師が絵里の点滴を交換している最中で、闖入してきた彼を見て眉をひそめ、咎めるように言った。「もう少し静かになさってください。患者さんがお休みになれません」だが、悟にはその声がまるで聞こえていないかのようだった。狂ったようにベッドの枕元へ駆け寄ると、そこに置かれていた分厚いカルテの束をひっつかむ。一頁、また一頁と捲っていく指が、震えていた。診断日、二年前。肺がん、中期。二年前……それは、別れた時じゃないか。絵里が、理由も告げずに別れを切り出したのは、このせいだったのか!彼女はたった一人で二年もの間耐え抜き、文字通り、命を削って今まで生きてきたのだ。どれほど、痛かっただろう……そう思うと、悟の目頭がじわりと熱くなった。……目を開けると、悟の顔が私の目に飛び込んできた。これは、夢だろうか。でなければ、彼がこんなに優しい目つきで私を見つめているはずがない。「悟……」私は震える手を伸ばし、彼の名前を呼んだ。「ここにいる!絵里……俺はここにいる!」彼は焦るように私の手を握りしめると、その頬を私の手のひらに押し当てる。その目は真っ赤に充血していた。温かい頬に触れた瞬間、堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。ずっとずっと昔、私たちがまだ一緒にいた頃、彼はいつもこうして私に寄りかかってきた。「悟、このバカ
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第10話
私は呆然とした。悟は全身の力を振り絞り、私の体をその胸にきつく、きつく抱きしめた。彼は一言も発することができないほど泣きじゃくりながら、ただ、私の体から全ての病を絞り出すかのように、力強く抱きしめ続けた。その日から、悟は手元の仕事を片付けると、ほとんど毎日顔を見せるようになった。彼はもう、他の誰でもない。ただ、私の悟だった。時々、彼は私を連れて階下の庭園を散歩し、一緒にベンチに腰掛けて日向ぼっこをした。病床のそばに座り、私が昔大好きだった、他愛もないドラマを一緒に観てくれた。看護師に隠れて、私が食べたがっていた焼き鳥をこっそり持ってきてくれたこともあった。それが見つかられた時は、看護師に廊下の端から端まで追いかけ回されて怒られていた。けれど彼は何事もなかったかのように、耳を塞いで無表情に私の隣に座り、看護師が去ると、また焼き鳥を私に差し出すのだった。私は彼の手を握り、叱られている彼を見て笑った。まるで、別れる前の時間に戻ったかのようだった。でも、分かっていた。こんな時間は、もう長くはないのだと。次第に、ベッドから起き上がって歩く力さえ失っていった。痛み止めを食事のように飲んでも、錐で刺すような骨身に染みる痛みは抑えきれない。彼に車椅子に乗せてもらわなければ、この病床から一時的に離れることすらできなくなった。彼はいつも目を赤く腫らし、私の耳元で、何度も何度も私たちの未来を語って聞かせた。「絵里、元気になったら、オーロラを見に行こう。元気になったら、二人だけの店を開こう。焼き鳥屋もやめよう。大変だからな。元気になったら、結婚しよう!元気になったら……」私はいつも、無理に笑顔を作って、一つ一つ頷いて約束した。「うん……」でも、二人とも分かっていた。そんな日は、もう永遠に来ないということを……ある深夜。私は窓の外に浮かぶ冴え冴えとした月光を見つめ、ふと体を起こした。ベッドの脇でうたた寝をしていた悟が私に気づいて目を覚まし、眠たげな目をこすりながら尋ねてきた。「どうした、絵里?どこか具合でも悪いのか?」私は首を横に振り、静かに言った。「日の出が見たいの」彼は何かを予感したかのように、体が強張った。けれど何も問いただすことなく、ただ歯を食いしばり、真っ赤になった目で、
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