LOGIN星野悟と別れて二年、私の肺がんはついに末期に達した。 命尽きる間際、私は激痛に苦しむ体を引きずり、神居湖へやって来た。 付き合って999日記念日に、二人でここに来ようと約束した。 けれど結局、来たのは私だけだった。 先生から化学療法に戻るよう促す電話が、ひっきりなしにかかってきている。 私はマナーモードに切り替え、悟がくれたペンダントを湖のほとりに埋めた。 「星野悟、あなたを思い出すのは、これが最後よ。 たぶんもう、二度とこんな機会はないから」 言葉を言い終えた途端、鼻血が砂に滴り落ちた。 その背後から、三年もの間、ずっと想い続けた声が聞こえた。 「あの、すみません。写真を撮ってもらえませんか?」
View More私は呆然とした。悟は全身の力を振り絞り、私の体をその胸にきつく、きつく抱きしめた。彼は一言も発することができないほど泣きじゃくりながら、ただ、私の体から全ての病を絞り出すかのように、力強く抱きしめ続けた。その日から、悟は手元の仕事を片付けると、ほとんど毎日顔を見せるようになった。彼はもう、他の誰でもない。ただ、私の悟だった。時々、彼は私を連れて階下の庭園を散歩し、一緒にベンチに腰掛けて日向ぼっこをした。病床のそばに座り、私が昔大好きだった、他愛もないドラマを一緒に観てくれた。看護師に隠れて、私が食べたがっていた焼き鳥をこっそり持ってきてくれたこともあった。それが見つかられた時は、看護師に廊下の端から端まで追いかけ回されて怒られていた。けれど彼は何事もなかったかのように、耳を塞いで無表情に私の隣に座り、看護師が去ると、また焼き鳥を私に差し出すのだった。私は彼の手を握り、叱られている彼を見て笑った。まるで、別れる前の時間に戻ったかのようだった。でも、分かっていた。こんな時間は、もう長くはないのだと。次第に、ベッドから起き上がって歩く力さえ失っていった。痛み止めを食事のように飲んでも、錐で刺すような骨身に染みる痛みは抑えきれない。彼に車椅子に乗せてもらわなければ、この病床から一時的に離れることすらできなくなった。彼はいつも目を赤く腫らし、私の耳元で、何度も何度も私たちの未来を語って聞かせた。「絵里、元気になったら、オーロラを見に行こう。元気になったら、二人だけの店を開こう。焼き鳥屋もやめよう。大変だからな。元気になったら、結婚しよう!元気になったら……」私はいつも、無理に笑顔を作って、一つ一つ頷いて約束した。「うん……」でも、二人とも分かっていた。そんな日は、もう永遠に来ないということを……ある深夜。私は窓の外に浮かぶ冴え冴えとした月光を見つめ、ふと体を起こした。ベッドの脇でうたた寝をしていた悟が私に気づいて目を覚まし、眠たげな目をこすりながら尋ねてきた。「どうした、絵里?どこか具合でも悪いのか?」私は首を横に振り、静かに言った。「日の出が見たいの」彼は何かを予感したかのように、体が強張った。けれど何も問いただすことなく、ただ歯を食いしばり、真っ赤になった目で、
緩和ケア病棟?悟の頭の中が、雷に打たれたかのように真っ白になった。緩和ケアって?本当にがんなの……まさか。別れる前はあんなに元気だったじゃないか。毎日、店で誰よりも元気に飛び回っていたじゃないか。「ありえない!もう一度調べてくれ!同姓同名の別人じゃないのか?」看護師は少し苛立ったようにモニターを彼の方へ向ける。「ご自分で確認してください。水原絵里、肺がん末期、302号室です」悟は画面に映し出されたものを見つめ、世界そのものが崩れ落ちていくのを感じた。ふざけるな!よろめきながら302号室へと走り出す。道中、彼はただひたすら祈っていた。何かの間違いだ。同姓同名だ。ただの偶然なんだ!302号室のドアを、押し開けるまでは。彼が来る日も来る日も想い続けたその姿が、病床に昏々と横たわっていた。その顔色はまるで死人のように白く、生気がまったく感じられなかった。看護師が絵里の点滴を交換している最中で、闖入してきた彼を見て眉をひそめ、咎めるように言った。「もう少し静かになさってください。患者さんがお休みになれません」だが、悟にはその声がまるで聞こえていないかのようだった。狂ったようにベッドの枕元へ駆け寄ると、そこに置かれていた分厚いカルテの束をひっつかむ。一頁、また一頁と捲っていく指が、震えていた。診断日、二年前。肺がん、中期。二年前……それは、別れた時じゃないか。絵里が、理由も告げずに別れを切り出したのは、このせいだったのか!彼女はたった一人で二年もの間耐え抜き、文字通り、命を削って今まで生きてきたのだ。どれほど、痛かっただろう……そう思うと、悟の目頭がじわりと熱くなった。……目を開けると、悟の顔が私の目に飛び込んできた。これは、夢だろうか。でなければ、彼がこんなに優しい目つきで私を見つめているはずがない。「悟……」私は震える手を伸ばし、彼の名前を呼んだ。「ここにいる!絵里……俺はここにいる!」彼は焦るように私の手を握りしめると、その頬を私の手のひらに押し当てる。その目は真っ赤に充血していた。温かい頬に触れた瞬間、堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。ずっとずっと昔、私たちがまだ一緒にいた頃、彼はいつもこうして私に寄りかかってきた。「悟、このバカ
悟は、わざと腕時計を絵里の車に置いてきた。車で、栄養剤を譲り合っていた、まさにその時に。彼がそこまでして仕組んだのは、ただ、もう一度絵里と話すための口実が欲しかったからだ。母の言葉に同調したのは、いつも心にもないことだったのだと、どうか気にしないでくれと、そう伝えたかった。悟は苛立ち紛れに車を路肩に停めると、携帯を取り出し、絵里の番号を呼び出した。コール音は長く続いたが、誰も出ない。もう一度、かける。やはり、応答はない。強烈な不安が彼を捉えた。おかしい。何かがおかしい。たとえ家に着いていて、店の仕事がどんなに忙しくても、ここまで電話に出ないはずがない。まさか、事故でも……悟は弾かれたように腕時計の追跡システムを起動した。画面上には、小さな赤い点が点滅していた。そして、その点滅が示す場所は、病院だ。悟の血が、一瞬で凍りついた。病院?なぜ、病院にいるの?脳裏に、絵里の蒼白な顔が、不意に流れ落ちた鼻血が、そしてビタミン剤だと偽って大量に飲み下していた薬の姿が、次々と蘇る。あれほど体調が悪そうだった彼女を、自分は一人で帰したのだ。もし、万が一のことがあったら……その考えが、彼の呼吸を止めた。神居湖に来たその日、湖畔に佇む少女が絵里に似ている、と思ったからこそ、悟は声をかけた。本当に絵里だと分かった瞬間、死ぬほど嬉しかった。それなのに、理由も分からぬまま別れを告げられたことを思い出し、ついむくれて、あれほどの酷い言葉をぶつけてしまったのだ。そして、彼女を行かせてしまった。もし、自分のせいで彼女が気を散らし、事故に遭ったのだとしたら……そう考えただけで、冷や汗が噴き出し、心臓を掴まれるような恐怖に襲われた。「降りろ」高速道路の出口を抜けるなり、彼は奈央にそう告げた。奈央は呆然とする。「……何ですって?」「降りろと言っ……いや、もういい。お前がこの車で帰れ!」もはや体裁を繕う余裕など微塵もない。彼は車から飛び出すと、一台のタクシーを無理やり停め、病院へ向かって狂ったように飛ばさせた。道中、彼はひたすら心の中で祈り続けた。絵里、頼むから、無事でいてくれ。タクシーが停まるや否や、彼は病院の救急外来ホールに駆け込み、ナースステーションへと突進した。「すみま
その鮮やかな口紅を受け取り、鏡に向かって、丁寧に唇に引いていく。鏡に映る顔は、顔色が大変青白いことを除けば、以前と何も変わらないように見えた。私たちはトイレから出た。悟がすぐに駆け寄り、眉をひそめて私を見る。「どうした?やけに長かったじゃないか」その視線が、私の赤すぎる唇と、相変わらず青白い顔に落ちる。軽く舌打ちした。私がどう切り出そうか考えていると、奈央がごく自然に助け舟を出してくれた。「少し高山病みたい。さっきまでずっと吐いてたの。今はもう大丈夫よ」悟の声は、どこか責めるような響きを帯びていた。「高山病のくせに一人でこんな場所に来るなんて、まったく」言うが早いか、なんと私を押し退けるようにして運転席のドアを開け、硬い口調で言い放った。「後ろで休んでろ」その背中を見つめながら、私は力なく笑みを浮かべ、黙って後部座席に乗り込んだ。車は揺れ、私の痛みはまた激しくなり始める。彼らの前で注射を打つわけにはいかず、車内にあった強力な鎮痛剤の瓶を探り当て、数錠を水なしで飲み込んだ。しかし、悟はバックミラー越しに、私の動きをじっと見つめていた。「一体何を食ってるんだ」彼の目は、私を射抜くように冷たい。「車に置きっぱなしにしてまで飲むビタミン剤がどこにある?」問い詰められて、私は言葉に詰まる。言い訳が、思いつかない。すると、奈央が突然バッグから精巧な小瓶を取り出し、私の手に押し付けながら、悟を咎めるように笑った。「悟、大袈裟よ。女の子は体が弱いんだから、色々補わなくちゃ」彼女は私の方を向き直り、穏やかに言った。「水原さん、これ、星野おば様からいただいた最高級の栄養剤なの。体調が悪いなら、受け取って、この二日間、お世話になった私たちからのお礼だと思って」彼女は私を庇うと同時に、私と彼らが住む世界の違う人間なのだと、それとなく知らしめていた。その瓶を固く握りしめ、顔を引きつらせて笑う。「……ありがとう」車内は再び、息の詰まるような沈黙に支配された。ようやく目的地に到着した。これが、最後だ。車を降りた悟の横顔を、脳裏に焼き付けようと、ただじっと見つめた。ずっと、ずっと見つめていた。その視線が背中を焦がすように感じたのか、彼がわずかに身じろぎしたのを機に、私は目を逸らす。そ