正直に話すことはただの自己満足なのかもしれない。 でも、自分の気持ちに嘘をつくことは、もうできなかった。 「謝ってすむようなことじゃないってわかってる。でも、ごめん……なさい」 俊一さんは最後までわたしの話を聞いてくれた。 それだけでありがたかった。 ここに来るまでは、話なんか聞いてくれないだろうと覚悟していた。 殴られても何をされても仕方がないと……。 「本当にごめんなさい」 わたしは、下を向いたまま壊れたオルゴールみたいにそう繰りかえした。 彼は黙ったままゆっくり立ちあがると、わたしの前に坐った。 殴られる、そう思っておもわず身構えた。 けれど、彼はわたしの手を取った。 あの日、プロポーズされたときと同じように、そっと優しく握ってくる。 どうして……? 意外な反応に思わず顔を上げると、俊一さんはわたしの顔を見つめて、それから口を開いた。「その、安西とかいうやつにたぶらかされたんだろう? ぼくが……許すって言ったら、やり直せる? 気持ちの整理がつくまで結婚を延期したっていい」 怒りを抑えた静かな口調でそんなことまで言ってくれる。 どうしてそんなに優しくしてくれるのだろう。 でも、わたしは首を横に振りつづけた。 かたくなな態度を取るわたしを見て、俊一さんの声のトーンが一段高くなる。
家についたときには、もう日付が変わっていた。 玄関のドアを閉めたとたん、これまで経験したことのない疲れに襲われた。 泥のなかで、もがいているように身体が重い。 何もせずに、一刻も早く眠りたい。 でもまだやらなければならないことがある。 わたしは俊一さんにメールを打った。 話したいことがあるから、明日、どうしても会いたいと。************ 「最近、様子がおかしいとは……思ってたよ。結婚に不安を感じてるのかなって。でも、まさか、そんな……」 他に好きな男がいるって、どういうことだよ……そう言って、俊一さんは血がにじむほど唇をかみしめた。 関節が白くなるほどこぶしを握っているのも見える。 わたしの理不尽な言葉に必死で耐えているのがわかる。 俊一さんの苦痛が伝わってくるだけに、いたたまれない気持ちになる。 その気持ちを押して、わたしは包み隠さずにすべてを話した。 婚約してすぐ、安西さんに出会って好きになってしまったこと。 何度も思いなおそうとしたけど無理だったこと。 彼の写真のモデルをしたこと。 そして昨日、彼と一夜を共にしたこと。 彼とはもう二度と会うつもりはないこと。 そして…… 結婚の約束を白紙に戻してほしいことを。
ジープがホテルの駐車場に吸い込まれていく。 もう、迷いは一切なかった。 部屋に入るなり、ふたりともコートを脱ぎすて、歩きながら口づけを交わした。 ベッドの置かれた部屋に入るなり、安西さんはせわしなくわたしのセーターとスカートを脱がせた。 おたがいに焦がれていた。 しおれた花が水を欲するようにおたがいを欲していた。 一刻も早く、彼の体温をじかに感じたかった。 そうしないと命が尽きてしまいそうだった。 安西さんは自分の服も剥ぎとると、手早く自分の分身に覆いをかけ、わたしの下着に手をかけて引き抜いた。 真上に彼の顔があった。目を見かわした瞬間、彼がいっきにわたしの中に入ってきた。 それほど、ふたりとも切羽詰まっていた。 「ああ……」 同時に声を上げた。それは快楽というより安堵感に近いものだった。 こうしてふたりが繋がることはとても自然なことなんだと思えた。 月が満ちては欠けるような、水が上から下へと流れるような、ごく自然なことと。 溶けあってしまいそうだ。このまま溶けてふたりを隔てる境界がすべて無くなってしまえばいいのに。 「あ、やの……すきだよ」 「あ……んざい……さ……」 嵐のように激しい交合の末に、ふたりで同時に果てた。 しばらくそのままふたりで横たわったいた。 心が満たされて、わたしは幸せの絶頂にいた。 幸福すぎて、いっそ怖かった。「おれ、あの日さ、ふたりで星を見に行ったとき、すごくわくわくして、めちゃくちゃ楽しかったんだ」 わたしの髪を撫でながら、安西さんは言った。「えっ?」 「この子といると、なんでこんなに気持ちが安らぐのかなって思ってた」「安西さん……」 「今もそう。こうして話をしたり、触れたりするごとにどんどん好きになる」 わたしを自分のほうに向かせ、額を合わせてきた。「もう、文乃を離したくない。ずっとそばにいてほしい」 わたしもあなたのそばにいたい。 想いは同じ。 でも、そう答えることはできなかった。 わたしは彼の胸に顔を埋めて、その気持ちに答えたふりをした。
それが真っ当な答えであることはよく分かっていた。 たしかに、これまでだって、俊一さんを心のなかでいやというほど裏切っていた。 でも、実際に行動に移すことは、まるで次元の違う話だ。 たとえ心でどう思っていようとも、わたしに婚約者がいる事実は変わらない。 安西さんに会ってからのわたしは、ずっと目隠しをして崖っぷちを歩いているようなものだった。 堕ちてしまえばもう二度と後戻りはできない。 俊一さんと紗加さんの顔が何度も脳裏をよぎる。 ふたりに顔向けできないことをするつもりなの。 もうひとりのわたしがさらに追い打ちをかける。 でも、口から飛びだした言葉は、とうてい抑えきれない本心だった。「わたしも……同じです。安西さんと離れたくない」 「あやの……」 わたしの答えを聞いて、安西さんはわたしのほうに向いた。「好きで、好きでずっと苦しかった。なんども諦めようとしたけど無理でした。あの日の紗加さんと安西さんを見たときには、嫉妬で身も心も焼き尽くされてしまいそうで、つらくて……」 彼の、黒曜石のように美しい瞳が大きく見開かれた。 そうか。 わたしは崖っぷちを歩いていたわけじゃない。 安西さんとはじめて会った日。 この瞳に心を奪われたあの時。 とっくに深い谷底まで転がり堕ちていたんだ。 戻ることなんて、はじめから不可能だったんだ。 その後は言葉にならなかった。 彼の唇がわたしの唇に重なった。 噛みつくように激しいキス。 心のたががはずれ、想いが溢れだした。「お願い、わたしを攫(さら)ってください……」 息が苦しくなるほどの狂おしい口づけに翻弄されながら、うわ言のように彼の耳元でそうささやいていた。
「安西さ……ん?」 そのまま、何も言わない。 「安西さん……」 沈黙に耐えかねて、もう一度彼の名を呼んだ。 「くそっ! あの男の言った通りだ。おれは最低の、どうしようもない男だよ」 彼は突然吐き捨てるようにそう言った。 それから私の手をさらに強く握りしめた。「きみが……文乃が欲しい」 文乃。 はじめて名前を呼び捨てにされて、身体の一番深いところがビクっと脈うった。「文乃には大事な人がいるのに、きみを不実な裏切り者なんかにしたくないのに、それなのに……、このまま、別れるなんて、どうしても耐えられない。今日で、おしまいだなんて……」 でも、紗加さんは……と言おうとして、気づいた。 わたしにだって俊一さんがいる。 同じことだ。 「それでも、おれはどうしても文乃と一緒にいたい。信じてもらえないかもしれないけど、こんなに人を好きになったのは、生まれてはじめてなんだ……」 彼もわたしのことを想ってくれているの? それもこんなにも熱く。 けっして報われることのない望みだと思っていたのに。でも…… 手を振り切らなきゃ! 頭のなかでもうひとりのわたしがヒステリックに声を張りあげた。 あなたの気持ちに応えられないって、そう言わなければだめ、と。
安西さんも疲れたのだろうか、口数がいつもより少ない。 わたしがシートベルトを締めたのを横目で見て、「じゃあ、出すよ」と言ったあとは黙ってしまった。 話しかけなきゃ、と思ったけれど、何ひとつ、言葉は浮かんでこない。 終わってしまった。 もうこれで安西さんとは一緒にいられないのだと、頭に浮かんでくるのはそれだけ。 すこし眠気を感じて目をつぶった。 でも、まだ撮影の興奮から覚めていないせいか、いくら立っても眠りは訪れない。 渋滞にかかることもなく、1時間ほどでわたしのアパートに到着した。 「着いたよ」 そう言った安西さんの声にいつもの軽い調子は影をひそめ、それどころかこわばっているように聞こえた。 どうしたのだろうかと思いながらもわたしは別れの言葉を口にしていた。「ありがとうございました。今日はお疲れ様でした」 言いたいのはそんなことじゃない。 けれど喉元まで出かかっているそれらを、わたしは必死で飲みこんだ。 ぐずぐずと車に乗っていれば口から飛びだしてしまいそうだった。 あなたが……誰よりも好きです。 もっと、そばにいたい…… 思いを吹っ切るように、ドアの取っ手に手をかけた。 そのとき、彼がわたしの右手を掴んだ。 驚いて彼のほうを見ると、もう片方の手をハンドルに乗せて、じっと前を見つめている。