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第3話

Author: ちびっこパンチ
智也とはもう、話すことなんて何もない。

会社に入ると、入り口の警備員からロビーの受付の人、忙しそうに行き交う社員まで、みんな私に気づくとすぐに立ち止まって挨拶をしてくれる。

これは、智也がわざわざそう決めたこと。会社の服務規程にも書かれているほどだ。

というのも昔、彼の会社に行ったときに社員から意地悪をされたことがあったから。

あの頃はまだ付き合い始めたばかりで、毎日がすごく幸せだった。彼のためなら何だってできる、本気でそう思っていた。

彼は仕事が忙しくなると食事を抜きがちだった。だから私は料理を覚えて、毎日お昼にお弁当を届けに行ったのだ。

初めて会社に行った日、受付の人は私のことを知らなかった。アポもなかったし、私の服装がみすぼらしかったから、いきなり嫌味を言われた。

「また玉の輿狙い?自分のつましい姿、見えてないのかしら。うちの社長の目に留まるなんて、まさか思ってないでしょうね」

その様子を、ちょうどエレベーターから降りてきた智也が見ていた。いつもは穏やかな彼が一瞬でカッとなり、私に暴言を吐いた受付の人を思いっきり平手打ちした。

「俺の女を、お前なんかがとやかく言うな!」

この一件で、智也には「キレやすい社長」っていうレッテルが貼られて、会社の株価も下がり続けた。

でも、彼はそんなこと全く気にしていなかった。ただひたすら私のことだけを考えてくれていた。「何よりも、君の気持ちが一番大事なんだ」って。

この出来事の後、智也は知り合い全員に私のことを紹介して回った。

会社のロビーにある大きなモニターには、毎日決まった時間に私の写真が映し出された。智也はさらに、長谷川グループの社員が誰でも、私を見たらすぐに挨拶するようにと命令までしたんだ。

たとえ智也と私が並んで歩いていても、挨拶はまず私から、と。

でも、そんな風に私のことを愛してくれたはずの男が、浮気をした。

会議室の前に着いて、私はドアを軽くノックした。

ガラス張りの壁の向こうから智也が私に気づいた。彼は手を挙げて会議を中断させると、すぐに立ち上がって足早に私の方へ向かってきた。

書類を渡すと、智也は私の額にキスをした。

「由理恵、君がいてくれて本当によかった」

私は淡々と返事をして、その場を離れようと背を向けた。

でも智也は私の手を引き止め、優しくなでた。そのとき突然、彼の顔が青ざめた。

「由理恵、俺が作った指輪、してないの?」

あの指輪はとっくに引き出しの奥にしまってある。もらった日に一度だけはめたけど、すぐ外しちゃったんだ。

「家に置いてきちゃった。帰ったらつけるね」

その言葉を聞いて、智也はほっと大きく息をついた。

「よかった、由理恵。あの指輪、気に入らなかったのかと思ったよ」

会議室の中から、智也と仲のいい部長がドアをコンコンと叩いた。そして、彼をからかうように、声を出さずに口を動かした。

[愛妻家さん、みんな待ってますよ]

それを見て、私は智也が何か言う前に、さっさと背を向けて歩き出した。

後ろから、彼が何か言いかける声が聞こえたけど、私は足を止めなかった。

その場を離れるとき、周りの人たちが私を羨ましそうに見ていた。

「社長は、本当に奥さんを大事にされてますよね。学生のころからのお付き合いで、結婚するまで色々大変だったって聞きましたよ!」

「ええ、それに長谷川家は最初、二人の結婚に大反対だったんでしょう?社長が結婚できないなら死ぬって言って、何度も病院に運ばれたって、あの時はすごく大騒ぎでしたよね!」

「旦那さんはお金持ちだし、あんなに愛されてるなんて、本当に幸せ者ですね」

幸せ者、なのかな。

みんなのひそひそ話を聞きながら、私は思わず乾いた笑いを浮かべてしまった。

みんなが羨むのは、智也の私への愛。彼が揺らがずに私を選んだこと。そして、私のために全てを捨てる覚悟さえあること。

でも、それも全部、過去の話。

車に乗ろうとしたとき、ふと、智也の上着を羽織ったままだったことに気づいた。

さっき、私の服装が薄着なのを気にして、会うなり彼自身の上着を肩にかけてくれた。

少し考えて、私は会社に引き返すことにした。

今日は寒いし、智也も会社に着替えを置いていないはずだから。

会社の入り口に差しかかったとき、遠くに、楓が智也の腕を組んで、親しげに歩いているのが見えた。
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